−Nancy_Thompson−  
 
ナンシーは一睡もできなかった。  
アレックスがパトカーで二人を自宅に送り届けている間もずっと泣き続けて、涙が枯れるという表現は真実なのだと知った。  
家に帰ると、ベッドにもぐりこんで、今ある現実を忘れたかったが、  
感情の昂ぶりがそれを許さず、また、眠りについて考えると、ティナの告白――鉤爪の女が思い出された。  
ティナは本当に鉤爪の女に殺されたのだろうか?  
鉤爪の女と初めて遭ったのは、いつだったか。今は十月の半ばで、ちょうど一ヶ月ほど前になる。  
追い掛け回され、不思議な力で服を脱がされ裸にされた。二回目、三回目も裸にされて、汚い言葉を浴びせられて目が覚めた。  
ナンシーは回想を続ける。記憶が正しければ、四回目から変わってきた。  
同様に裸にされた後、爪をちらつかされ、自慰を強要された。  
五回目、六回目も同じく。鉤爪の女に見られながら、自慰を続けて、六回目は絶頂に達したところで目が覚めた。  
七回目、思い出したくないが、鉤爪の女に、指で愛撫され、恥ずべきことに、強いオーガズムを迎えてしまった。  
今まで、自分の指で、迎えていたものよりも。  
四回目までは夢の中にいることに気づかなかったが、五回目からは、鉤爪の女を見た時、まただ、と分かっていた。  
夢の中で、これは夢なのだ、と自覚することもできた。  
問題は――ナンシーは虚ろな眼で溜息をついた。内容がエスカレートしていることだ。まるで、ポルノ小説のように。  
ナンシーはベッドから本棚を眺めて、並んでいる小説の何冊かのタイトルを黙読して、机の引き出しに目をやった。  
ナンシーの本の趣味は、もっぱらクラシックスだ。  
ルイス・キャロル、シェイクスピア、ヘッセ、スタンダール、モリエール……etc。  
ハーレークイーンを何冊か読んだけれど、どうも甘ったる過ぎて、自分には合わないと感じていた。  
新刊はファンタジー、怪奇小説がお気に入り。  
お小遣いを溜めて買ったジョージ・R・R・マーティン(これはティナにも一冊貸した)や  
スティーブン・キング、ミヒャエル・エンデ、ディーン・R・クーンツ……etc、と言ったところ。  
ポルノを読んでみようと思ったきっかけは、ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」である。  
性描写は殊更取り立てて言うこともないけれど、淡々と描かれたラブ・ストーリーが、或種奇妙な感動を与えた。  
もっとも、主人公のコンスタンスが戦争で不随となった夫を捨てて、  
性欲を満たされない寂しさから不倫を続けたのは、ナンシーにとっていささか不満だった。  
物語としてはあまり好きになれなかったのだが、中性的な文体に縁った透明感が印象に残る不思議な小説だった。  
なんだか宇宙人みたいな人だ、ロレンスにさらなる興味を抱き、随筆「ポルノと猥褻」にも一応目を通した。  
そして、ポルノ小説の実態を、どっぷり浸からないにしても、扉の隙間からちょっとばかり覗いてみたくなった。  
 
学校の帰り、ティナと別れた後、馴染みの本屋を通り過ぎ、商店街の裏路地にひっそり建っている二階建ての古本屋に入った。  
重い扉を押した途端に、じめじめした空気が肌にまとわりついて、黴の臭いがぷうんと鼻をついた。  
薄暗い店内を奥へ進むと、椅子に座ったアジア系の禿げ頭の店主がカウンターに肘をついて読書に耽っている。  
彼はナンシーを一瞥して、また本に目を落とした。  
大丈夫かしら、首を傾げつつ、部屋を三つに区切っている歪んだ本棚に沿って一周ぐるりと回った。  
どうやら自分以外、他に誰もいないようだ。少し戻って、隅の階段を登ると、狭い部屋に出た。  
ピンクや黄色や紫や、一階とは百八十度異なった、なんともけばけばしい光景が広がる。  
いぶかしんで壁を覗き込むと、十五センチ四方の無修正のヌード写真――金髪のドイツ人と思しき女が  
紫色の背景にガーターベルトをつけて悩ましげなポーズをとっているものや、  
アジア系の長い黒髪の女が真っ赤な紐で全身を奇妙な結びによって縛られているものなどが全面埋め尽くすように張られていた。  
物言わぬ彼女らの視線があちらこちらに飛び交い、その一つとナンシーの目が合った。  
階段をかけ降りたナンシーを、店主がまた一瞥して、にやりと笑った。  
二階にはまだナンシーがその存在を知らないバイブレーターやピンクローターやボンテージ、  
その他もっとアブノーマルなものが、ガラス張りの棚に置かれていたのだが、それらを確認する余裕がナンシーにあるはずもない。  
早く買って帰ろう、そう自分に言い聞かせ「サドマニア」だの「ブラッディ・タンポン」だの  
それらしきタイトルが並んでいる棚から、二冊みつくろってカウンターに持って行った。  
「五冊で一ドル値引きするよ」  
会話を交わしたくなかったので、あと三冊をタイトルも見ずに引っ張り出して、カウンターの上に重ねた。  
手下げ鞄に詰め込んで家に帰ってから、これは恥ずかしいことではない、  
ただの実験であり知的好奇心なのだ、呪文のように言い聞かせて、  
夜通しページをめくったのだが、その内の四冊はひどく期待外れだった。  
まるでスイッチを押せば簡単に股を開いて喘ぎ声や卑猥な言葉を口走ってくれる――マッドサイエンティストが造った  
性欲ロボットみたいな女の子が出てきて、お決まりの展開が延々と続く、退屈極まりない代物だった。  
そしてふつふつと怒りが湧いてきた。性認識の誤り、消費されて行くキャラクターに対する義憤のようなものだ。  
誰がこんな血の通っていない女を書いているのかしら。こんなの読んで男の子はマスターベーションするのかしら。  
女を自分の好きにしたいと思っていて、自己満足にひたって、  
もっと大切なことに目を向けないで、想像力が欠如してるんじゃないかしら。  
グレンはそんな風に歪んだ視線で私を見ていないはずよ、と信じていたが、二段ベッドの上から呼びかけられた時、  
ナンシーはグレンも男の子なのだと否応なしに知ることになり、グレンは97%の男から95%の男になった。  
しかし、現在のナンシーにとって、いくらかの不満はあるにせよ、グレンが100%に近い男なのは事実だ。  
 
半年ほど前のことだ。クラスメイトのトリッシュら四、五人が集まって、ナンシーの脇で、ぺちゃくちゃやっていた。  
「彼氏の前じゃ、大好きなんて、言うけど、みんな妥協してんのよ。自分が想像する100%の男なんていないんだもの」  
「そうかなあ、私は妥協なんてしたくないけど」  
「でもって、たどり着く先はプロムで一緒に踊る相手もいないのよ」  
「あら、私は今彼氏いるから。お生憎さま」  
「志が低いのよ」  
「まあまあ」  
「もっとこうならいいのに……とは思うよね」  
分かる分かる、と声が挙がった。  
「この人でもいいかあって、なっちゃうのよね」  
ふうん、とナンシーは思った。確かにそうかもしれない。ロッドと一緒にいる時にグレンがどこか朴念仁に見えたことはある。  
でも、妥協なんて考えたこともなかったし、グレン以外の男の子を好きになったこともないから、イマイチぴんと来なかった。  
ナンシーはティナとランチをぱくついた昼下がりに訊いてみた。  
ハイスクールの中央広場は四方の入り口を除いて植え込みにぐるりと囲まれていて、  
二人は煉瓦作りの花壇を背にしてベンチに腰掛けていた。  
「ロッドのこと、もっとこうだったらいいのにって、思ったことある?」  
ティナはアップル・ジュース、70%果汁、200mlの小さなパックを左手に持って、右手の人差し指でちょんちょんとストローを刺しながら言った。  
「なんでまた」  
「うーん、ちょっと、聞いてみたくなって」  
ティナは少し首を後ろに倒し、ストローを唇で挟んで、ふいと目を上向けて――女のナンシーから見ても、  
ティナの稀に見せるそういった仕草は100%に可愛かった。  
男の子はこれでティナの虜になっちゃうんだろうな、と思った――ジュースをゆっくり吸い始めた。  
初め、ティナは、なんとなしに考えているように見えた。ストローを濃い乳色の液体がゆっくり登っていき、喉が持ち上がって沈んだ。  
しかし、次第に唇がぎゅっと締まり、パックを握った手が震え、肩の筋肉が盛り上がり、何処を見ているのか分からないような眼になって、  
眉間に皺を寄せ始めてはどんどん深くなり、しまいには国語の教科書に掲載されている文豪マーク・トウェインのような苦虫顔になった。  
ナンシーは、何だかティナ・グレイという一個の複雑な小宇宙において  
銀河系規模の壮大な戦いが繰り広げられているような気がして、邪魔するまいと黙っていた。  
全部飲み干して、ぺらぺらにへこんだパックを左手で握り潰したところで、ティナは唇をストローから離した。  
「んなことしょっちゅうよ。慣れ、慣れ。こいつ一生治んないわって思えば、なんだって大丈夫よ」  
ふうん、とナンシーは思った。ナンシーの少し呆けた顔を見て、ティナは笑った。  
「ナンシーこそ、グレンを見て、思ったりしない?ないか。彼、スーパーマンだしね」  
「そうかしら。私にとってはグレンって凄く身近な存在よ。子供の頃から一緒だったんだもん」  
「『身近な存在よ。一緒だったんだもん』はー、いいなあ、グレンに聞かせてやりたいわね。  
 『そうだよ。僕にとってもナンシーは身近な存在だよ』って真顔でいいそうな気がするけど」  
「もう、からかわないで」  
ナンシーはティナがあまり羨ましがっているように思えなかった。  
さらにはティナとロッドが性的な部分のみならず精神的な部分でも自分達より先を行っているように思えた。  
「でも、ナンシー。グレン・ランツって言ったら今やプレイ・サーヴィルのヒーローなのよ。  
 そこんとこ分かってる?他の子に取られないように注意しなきゃ」  
「またそれ?グレンは浮気なんてしないわ」  
「さあどうだか。聖人君子のグレンくんだって男なんだから。ったく、ほんとに、男ってのはね。あ、やっぱやめとく」  
 
成長期を迎えた少年少女の何人かが、さなぎを捨てて蝶に生まれ変わるかのごとく  
劇的な変化を遂げるように、ナンシーはここ何年かで急速に成長した。  
太めのはっきりした黒眉、少し横に大きかった鼻が、年月を経て落ち着きと強さを顕すようになった眼によって、  
しっとりした意志の強さと純真な少女らしさを複合させた、素晴らしいチャームポイントとなった。  
細過ぎた頬は適度な肉を得てふっくらと膨らみ、やや厚くなった唇は艶を増した。  
申し訳程度だった胸が月を追うごとに大きくなっていき、今では93cm、適度な張りと固みを供えた美しい乳房を持つに至っている。  
乳首は少し赤みを帯びて、勃っていない状態であっても、つんと上を向いて大きい。  
着痩せするタイプな上に、いまいち冒険できなくて、自らの成長をそっと隠しておきたくて、  
身体のラインを強調させる服を選ばないので、外から見ては数字ほど目立たないが、  
実際に両手で持ち上げてみるとずっしりと重みを味わうことができた。  
ナンシーは鏡の前で裸になり、自分の胸を両脇から挟んで、持ち上げたり、横に動かしたり、  
時々乳首を摘んで伸ばしたりして、何か未知の物体を調査するように色々と確かめてみたが、  
そうしている内に、今でもかなりボリューム豊かな胸がまだ大きくなってくるような気がして、不安になった。  
もう十分なのに、これ以上大きくなって牛みたいに垂れてきちゃったらどうしよう?  
貧乳でバストアップに四苦八苦している女性から見れば非常に贅沢な悩みではあるが、ナンシーは本当にそう思っている。  
子供の頃は女の子に見えないくらいのいかり肩で、オトコ女みたいな体型になるんじゃないかしらと心配していたのに、  
肉体が勝手に意志を持って「おいナンシー、1、2、3で行くぞ。1、2、3、ゴー!」全速力で走り出し、彼女を置き去りにしている。  
当の本人は「3の次で行くの?3と同時なの?」とどぎまぎしているのに、もう大分離れている。  
お尻はすっかり大きくなって丸みを帯び、  
鏡の前で後ろ向きにショーツを降ろして振り返って見れば、皮を剥いた湯で卵のようにつるんとしている。  
ウエストの中心部はしっかりくびれているけれど、臍の下の部分を摘んでみると、少しだけ肉が余っていて、母性を感じさせる。  
そして、もちろん可愛らしかった女の子のモノはペニスを受け入れるためのヴァギナに変化を遂げた。  
ティナがきゅっと締まったしなやかな猫のような身体と言い表せるならば、  
ナンシーは豊満でありながら鈍重な印象を与えないギリシア彫刻のような身体である。  
パーツの一つ一つに生きとし生けるものの鼓動を感じる、自然的な美だ。  
背中にそっと手を回して、生命が創りたもうた奇跡に感謝しながら、正面から包み込むように、調和を乱さないように注意して抱くと、  
ふわふわして、素晴らしいくらい柔らかくって、ずっとその身体に触れていたい、と思わせるくらいのものだ。  
 
きっとグレンにも同じことが起こっているのだろう、とナンシーは推測した。  
目鼻立ちがはっきりしているのにも関わらず、くどさを感じさせない端整な顔立ちは、  
少年の面影を残したまま、フットボールの試合で鍛えられて、たくましさを備えたものに進化しつつある。  
きちんとシェービングで剃り跡がつかないように処理しているけれど、髭は以前より濃く生えてきている。  
大きいけれど女の子と変わらないくらい綺麗だった指は、ごつごつしてきて、今ではすっかり男の指だ。  
小さい頃から手を握っていたからよく分かる。 木漏れ日の下、二人で手をつないで遊歩道を歩いていると、  
グレンの身体はこんなにも成長したんだ――時々、母親のような気持ちになる。  
冒険という言葉が似合う男の子の体臭は、胸に顔をこすりつけたくなってしまうほど、ナンシーにとって不思議な香りに変わっている。  
ナンシーは、特に用事がなく、時間が取れる時は、ベンチに腰掛けてフットボールの練習風景を眺めている。  
「グレぇーン!がんばってぇー!」  
「マーク行けぇっ!あっ、おっしぃ」  
歓声を送る同級生から距離を置いて、終わりの笛がなるまで待っている。  
グレンが全速力でシャワーを浴びて、更衣室からピースフルな笑顔で出てきて、  
辺りをきょろきょろ見回して、手を振っているナンシーに駆け寄って、  
どちらともなく腕に腕を絡めた時、男の人の匂いってどうしてあんなに不思議なのかしら?とナンシーは思う。  
決して洗練された鼻腔を刺激するものじゃないのに、じんわり身体に染みて、ずっとこの匂いに包まれていたくなる。  
ティナの言う通り、やはりグレンは男であり、私は女で、変えようがなく、それ自体は素晴らしいことだ、とナンシーは思っている。  
しかし、いつかはグレンの気持ちに応えなければならない時が来て、  
いや、自分自身が決断してグレンの最も成長したであろう大きなモノを受け入れる時が来て、  
その時までに肉体の急速な発達に伴う混乱が上手く収まってくれればいいけれど――混乱?  
ナンシーは少なからず混乱している。  
急激に成長した身体が、処女から女になることを急かして、ほら、もう準備はできているんだから――と、  
あとはお互いの気持ちを確認して、抱き合うだけなのだと主張している。  
もし応えられなければ、グレンの肉体が一人歩きして、おい、俺はもう待てないんだぜ。宝の持ち腐れってもんさ。  
こいつをなんとかしてくれよ。がるるるるるるる。  
ぎくしゃくしたあげく、ジャック・トランスのように凶暴になって、押し倒されてしまうこともありえる。  
そんなのは最悪だ。もしくは、外から提供者が現れれば――引く手あまたのグレンのことだ、  
すぐに相手が見つかって、あっさり乗り換えてしまうかもしれない。もっと最悪だ。そんな不安がなくはない。  
 
「確かに、私はグレンに見合うような、スーパーガールじゃないし、  
 グレンなら他にもっと、ティナみたいに女らしくて可愛くて……綺麗な子とつきあえると思うけど……」  
ティナがナンシーのおでこを人差し指でつんと叩いた。  
「なになに、そんなこと気にしてるの?らしくないわねえ。いいのよ、ナンシーはナンシーで」  
そう言うとティナはナンシーの顔を覗き込んで、さらりと笑って続けた。  
「それにね、私から見たってナンシーは凄く綺麗。自分じゃそう思ってないかもしれないけど。  
 ホント、おせじじゃなくてね。時々、ナンシーみたいなのだったらいいのにって思うことあるんだから」  
「なんだか、ティナにそんなこと言われると、照れる」  
「そりゃどうも。まあ、グレンが浮気したら、私が懲らしめてやるから、安心しなさい。  
 あ、ナンシーが先にボコボコにしちゃうかもしれないけど。あいつ、効いたってさ。いいパンチだって」  
「ごっ、ごめんなさい……」  
「いいのよ。逆にお礼言いたいくらいよ。ほんとあのバカは、いっぺん頭切り開いて脳味噌取り出して一日氷嚢に漬けときゃいいのよ。  
 それくらいでちょうどよくなるわ、言うにことかいて、グレンと私にあんなこと」  
ナンシーは笑った。ふう、ティナが溜息をついた。  
「まあ我らのグレンちゃんも、たまーに抜けてるところがご愛嬌、かな?あとマザコン」  
「マザコンじゃないってば、もう」  
ナンシーは歓談のさなか、グレンは自分にとっての100%なのかしら、同時に自分はグレンにとっての100%なのかしら、と考えたりした。  
答えはでなかった。ただ、90%は絶対にクリアしているわ、と思い出を根拠に信じることはできた。自分にとっても、相手にとっても。  
そして、私、ナンシー・トンプソンは、グレン・ランツと100%の関係になるために、  
全力で努力することを誓います――そんな具合にやっていきたかった。しかし、実際はなかなか上手くいかないでいる。  
 
ともかく、四冊目まではダメだった。  
ところがナンシーは自分のクロプシー並みの運のなさと一度開いた未読本は最後まで読まないと気が済まない徹底さを呪うことになる。  
諦め顔でしぶしぶ手に取った最後のポルノ小説はそれほど素晴らしかった。  
残りの四冊は今頃その隠語塗れのページの何%かをざらついた再生紙へと輪廻転生させているのだろうが、  
これだけは机の引き出しの一番奥に隠してあって、たまに読み返してしまう。  
カバーすら剥ぎ取られ、角がめくれ上がり、ところどころ黄ばんでいる状態の悪い文庫本だが、  
どこか真に迫った人間の息遣いを感じたのである。  
タイトルは「黒い家の少女」。  
黒屋根の大邸宅に父親と住んでいる一人の少女の告白物だった。  
全編少女の独白形式になっていて、性的描写は至ってライト、露骨に、というより、絡んでいるシーンは一切ない。  
少女は冒頭でこう語った。  
「母を失い、父すら信じられなかった私にとって、優しい笑顔を投げかけてくれる庭師のマリオがただ一つの支えでした」  
少女は庭師を思い浮かべ、亡き母が使っていたベッドの上や、学校の四階のトイレや、パンジーが繁る庭、大理石のバスタブ、  
或時には仲間達と遊泳を楽しんだ後の夜の砂浜など――ありとあらゆるところで自慰に耽った。  
とうとう最後まで性交が適うことなく、庭師は書斎の引き出しから金を盗んだのが発覚し、解雇されてしまうのだが、  
その時ですら、少女は一人部屋に耽って、笑って警察に曳かれていった庭師を想い、秘所に細々とした指を這わせたのを告白していた。  
ナンシーは夢中で読み進め、いつのまにか自分の秘所にも手が伸びているのに気がついた。  
 
ナンシーはその歳の少女にしては、いや十七歳の処女だからこそ、類稀なる想像力を有している。  
文章がもたらす魔力を享受し、活用できる。それは今この時のみ与えられた処女の特権だ。  
十四歳から十八歳までに我を忘れて聴いたロック・ミュージックがその人にとって特別な感動をもたらすのと同じで、  
一度過ぎ去ってしまえばそれらは決して戻らない。皆そのように生きている。  
三十歳で聴くT-REXは如何?  
四十歳で聴くJimi Hendrixは如何?  
五十歳で聴くJim Morrisonは如何?  
瞼を下ろした後、ナンシーのScreenにはグレン・ランツそれ自体を超えた一人の男が映っている。  
 
I could never understand the wind at all  
もっと私の傍に 寄って来て あなたは 私を 抱きしめる   
いつものような 100%の笑顔で 私を 見つめる  
ブラウンの髪 小さな耳 あなたの 眼の中心   
私は 吸い込まれて もう全てを捨てて いい気になる  
Was like a ball of love   
あなたの 人差し指 今 私の 唇に触れた そっと 優しい   
私の クリ ぴん と 起きて  
ゆっくり あなたは 私の 口に 侵入する   
唇 と 唇 あなたの 舌 ねっとり あたたかい  
I could never never see the cosmic sea   
あなたの 唾液 美味しくて 息が わたしの 鼻の下   
きつく あたって きつく 吸って  
ずっと 私の 口の 中 めちゃくちゃに 嘗めまわす   
ぼうっとして 今 歯の裏を こするように してくれた 震える  
Was like a bumblebee   
触らないで まだ 私の あそこ そっとしておいて   
あなたは 髪をなぜて 背中に 手を 回す   
まだ 離さないで ずっと してて ああ どうして あなたの 唇   
離れて あまった 唾液が すっと 床に 落ちる   
And when I'm sad   
全部 脱いでから そう 言うのに あなたは 待てない   
いきなり 私のシャツの下 手を 滑らせて 入ってきた ついに   
おへそ から まっすぐ 手が 登ってくる   
あ いきなり 乳首 ああ 転がして  
I slide  
世界 まがってく  
I have never never kissed a car before  
それ 今は あなたの もの だから   
もっと ぎゅうって つまんで   
うん 擦って かりかり   
親指で 乳首 して  
It's like a door  
とても いい どうして   
私 それ されると いいって なんで 分かるの   
私の こと 何でも 分かるの?  
あなた 私の 100%の人  
I have always always grown my own before  
今 太股に あなたの モノ   
なんて 大きいの 無理よ こんなの  
あ ジッパー を 降ろして にゅう 出てきた   
大きい 直に あなたの 硬いもの 私の 太股に 押しつけて  
All schools are strange  
少し 太股 滑らせて あなたが 気持ちいいって 顔 した   
嬉しい もっと 気持ちよく なって  
そのまま 乳首 虐めてて ずっと   
もう あそこ 濡れてるんだから いいわ 手で さすって 私の あそこ  
And when I'm sad  
うん 私のヘア 上から 下へ 撫ぜて   
初めは そっとよ そうっと 触れて 横から 遠くから   
人差し指 中指 そのまま うん そう お肉 持ちあげて   
えっ だんだん 近づいてくる 近づいて  
I slide  
世界 まがってく  
I have never never nailed a nose before  
はあ すごい 私の肉 触れて 凄く 巧い   
そんな クリも 一緒に されると うん そんな  
できるの クリも 知ってるの そこ いちばん 感じるって   
感じすぎるって あなた 凄い いい いい  
That's how the garden grows  
笑って 綺麗だって やめてよ   
私 の あそこ もう だめ クリ されると   
でも 緩めないで クリ 虐めて うん あああ もう 凄い   
あなたの 視線 そんなに 見ないで じっと 私の あそこ     
I could never understand The wind at all  
すぐ 傍に あなたが いる   
私が いきそう だって 訊いてくる   
そんなの 訊かないで 分かってる でしょ  
私 こく こく うなづくと また いっぱい でてきた   
was like a ball of love  
イキそうな 顔   
イキそうな 息   
ぐしょぐしょ  
それだけ あなたが 好きなの  
And when I'm sad  
えっ 乳首 離して えっ そこ だめよ ちがう   
ほんとに 入れちゃうの ほんとに 怖い  
でも あなたなら うん 優しく あ ああ   
凄い 身体 力 抜けちゃう クリで 登って どろんと 落ちて   
I slide  
世界 まがってく  
Watch now  
穴に 入って やばい 私の 穴 2つ とも あなたの 指 で いっぱい  
もうだめ イクの ほんとよ イク   
あなたに イカされる イク   
愛してる 大好き イク イク イ  
I'm gonna slide  
 
ナンシーは引き出しから目を切った。  
心臓を鷲づかみにされたように、息をするのも苦しくなるが、ティナの死について、考えてみる。  
部屋に入った時は、ティナが死んでしまったショックで何も考えられなかった。  
ティナの死体を直に見た時、ティナの告白が頭の中でぐるぐる巡った。  
だから鉤爪の女がやったのだと信じ込んでいた。いなくなったロッド。グレンはロッドがやったと思っている。  
「あいつ以外に誰かいてほしかった」  
ぽつりと言って、グレンは涙をなんとかしてこぼさないように、見せないように堪えながら、でも大粒の涙を落としていた。  
グレンが顔を崩して泣いているところを見たのは初めてだった。  
今にして思えばなんとかして慰めるべきだったが、自分にそんな余裕はなかったし、言葉も見つからなかっただろう。  
確かにあの時、内から鍵がかかっていて、自分達が部屋に入った時、ロッドの他には誰もいなかった。  
ティナの言うことが本当なら、ティナは夢の中で鉤爪の女に殺されて、現実でも殺されたのだろうか。  
正夢の類?それなら、ロッドがやったということになる。でも、ロッドがやったとはどうしても思えない。  
まさか、夢で殺されると、現実でも殺される。  
つまり、夢とこちらの世界がリンクしていて、ティナは夢の中で切り刻まれている時、  
現実の身体も同じように、自動的に切り刻まれていた。  
しかし、それは本当に頭の中身を疑われかねない発想だ。狂人のたわごとだと誰もが思うだろう。  
自分のショーツが濡れているのとは訳が違う。結局、ロッドが逃げたのが全てなのだろうか。  
ロッドがティナを殺して捕まるのを恐れて逃げた――いや、ロッドに限って、そんな。  
ナンシーは思考の渦に巻き込まれ、朝を迎えた。七時、部屋の窓から父の車が走り去っていくのが見えた。  
ずいぶんと早いのね、それ以外に何も感じなかった。  
ナンシーは階段を下りて、リビングのソファにもたれかかり、テレビをつけた。  
地元のニュース番組――昨夜の事件をアナウンサーが事務的な口調で伝えている。  
回転する赤色灯に照らされた救急隊員達が、濃いグレーの死体袋に詰められたティナを機械的にタンカで運び救急車に乗せている。  
警察は現場にいたと思われる少年、ロッド・レーンを重要参考人として……そこでテレビを切った。  
八時頃、マージが起きてきて、朝食を作ったが、食べる気にはならなかった。  
マージは家でゆっくり休みなさい、と娘を気遣ったが、ナンシーは拒否した。  
家は父と母のどちらかがいる限り、もはや休息の場所ではなかったし、  
ティナのことを思い出すだけで、どうにかなってしまう。学校に行った方が忘れられる。  
グレンはきっと来ないだろう。今頃あの家では驚天動地の大騒ぎになっているのに違いない。  
可愛い完璧な一人息子が、殺人事件の現場にいたのだから。  
 
八時半頃、ナンシーは家を出た。心配する母に何度も大丈夫と言って、しかし足取りは重く、下を向いたままとぼとぼと歩いた。  
空は雲ひとつなかったが、世界の全てが色を失い、早朝の鳥達のささやかな囀りにすら耳をふさぎたくなった。  
もう四人が深くつながりあっていた日々は二度と戻ってこない。  
ハイスクールまでは歩くと二十分から二十五分ほどかかるので、  
普段は自転車やロッドの車で通っていたのだが、今日は歩いて行きたかった。  
身体に疲労を与えると、少しは忘れられるかもしれない。  
昨日から一睡もしていない(ティナとロッドの喘ぎ声は本当に凄かった)のに、まだ全然眠くない。  
サビーニ通りを抜けると、ナンシーの背丈くらいある植え込みが左右に繁っている散歩道に出る。  
まっすぐ行って左に曲がり、商店街を横切って、街の中心へ向かうと、プレイサーヴィル・ハイスクールがある。  
ちょうど家が見えなくなるところまで歩いて、突然、ナンシーは誰かの視線を感じた。  
鉤爪の女?  
両手で頭をかきむしる。確実に自分はおかしくなっていると感じながら。  
少し歩く速度を上げる。まだ視線を感じる。立ち止まって、感覚を研ぎ澄ますと、夢で感じた火傷女の厭らしい視線とは違っていた。  
背中にべっとり張りついて離れないような気持ち悪さとは違って、道行く人が実は透明人間になっていて、ちら、ちら、と見てくるような感じだ。  
ナンシーは歩みを進めるふりをして、ふいに振り返ってみた。後ろの木陰、植え込みに隠された芝生に誰かがいたような気がしたからだ。  
誰もいない。  
またしばらく歩く。植え込みに沿って、左に曲がるまであと少しというところだ。  
対面も植え込みがずっと続いていて、右手に小さな抜け道があった。  
見ないように、そこを通り過ぎようとした時、後ろから、ナンシーの身体を男の手が捕らえた。  
全身が硬直する。右手で口を塞がれ、左手を身体に巻いて押さえつけられ、そのまま植え込みの陰へ引っ張られる。  
うそ?  
一瞬思ったあと、ナンシーは必死で暴れた。強姦される、強姦される、抵抗しなきゃ、頭の中はそれでいっぱいだった。  
手足を振り回し後ろの男を殴りつける。男が何か言っている。気にしている余裕はない。  
力いっぱい殴りつけ、蹴る。口を押さえている指が少し開いた。助けて!そう叫ぼうとした時、  
「ナンシー、俺だ。話を聞いてくれ、ナンシー」  
見知った声、しかし、殺気だって、興奮した身体は止まらない。親友の声を聞いても、ナンシーはまだ暴れている。  
「聞いてくれ、やったのは、俺じゃないんだ」  
男はゆっくり力を緩めてナンシーを離した。ナンシーは振り返って、驚いた。  
正真正銘、逃亡犯のロッドだ。「ロッド……!」  
 
ロッドは逃げないように肩を抑えて、真剣な顔でナンシーを見ている。  
ナンシーは何かを哀願するような目で叫んだ。言いたいことや聞きたいことがたくさんあった。  
「なんで、なんで逃げたのよ!」  
ロッドの眼が少し哀しげに色を変えた。しかし、すぐにまた光を取り戻し、ナンシーに正面から向き合った。  
「あのままいたら捕まってたんだ。疑われてもしょうがない状況だったからな」  
ロッドは息を乱さず、ナンシーをまっすぐ見据えて、言った。  
なんだか以前のロッドと違う。異様な凄みを感じて、ナンシーは少し怖くなった。  
「どうして、そんなの……説明してよ!」  
ロッドは口元に人差し指を立てて、小声でしゃべった。  
「ティナは夢を見てた。夢で殺されたんだ」  
ナンシーの眼がぐっと開いた。ベッドの中の推理がロッドの口からも出てきた。そんなバカな――。  
「いいか、落ち着いて、聞いてくれ。昨日、お前らと別れてすぐ、ティナは言ってたんだ。  
 夢の中で鉤爪の女に殺されそうになった、ってな。その通りに……なった。  
 ティナはおそらく夢の中で切り刻まれて、現実でも同じようになった。信じられないか?俺のこと、頭のおかしいイカれた殺人者と思うか?」  
ナンシーは首を横に振った。ロッドは力強くうなづく。  
「鉤爪の女は、右手のグローブに四本の爪をはめて、趣味の悪い赤と緑のセーターを着てる。  
 頬に火傷の跡がある化け物だ。昨日、ベッドで俺が目を覚ました時、ティナは天井に届くくらい浮いてたんだ。  
 それで、四本爪でひっかかれたような傷が入って、ティナはああなった。嘘じゃない。本当だ」  
「そんな……そんなの」  
「待て、これ……」  
ロッドは黒皮のジャンバーの前を引っ張って、左胸に開けられた穴をナンシーに見せた。  
「あいつにやられた。俺も鉤爪の女に遭ったよ。夢の中でな。もう少しで殺されるところだった。ティナ……ティナの十字架が守ってくれた」  
ナンシーはまだ半信半疑だった。ジャンバーの穴なんて鉛筆でだって作れる。  
しかし、そんなことよりも、心の中で、ロッドの告白が正しくあって欲しいという気持ちと、どうか嘘でありますようにという気持ちが戦っていた。  
ロッドが殺人犯じゃないのはいい。でも、鉤爪の女に殺されたなんて、じゃあ、私もロッドもいつか、と身体が震えた。  
 
「どうした、ナンシー」  
「……知ってるのよ、そいつ。私もそいつの夢、見るのよ」  
「ナンシーも見るのか?」  
ロッドは驚いて声が少し大きくなった。言ってから辺りを見回す。  
ナンシーは思っていることを全部ロッドにぶちまけようと思った。  
「そうよ、あなたが聞いたこと、ティナからも聞いた。ティナは言ってたの。もし私が死んだら、それは鉤爪の女がやったんだって」  
「なに?」  
「ティナ、知ってたのよ。まるでそんな感じだった。自分がこれから死ぬって、殺されるって知ってるみたいだった」  
ロッドが舌打ちした。  
「ティナ、私をいきなり抱きしめて言ったわ。私達に逢えてよかったって。その時思ったのよ。  
 変なことが起こるんじゃないかって。何かとんでもないこと、  
 ティナの言ってることが真実でもうティナに会えなくなるんじゃないかって、だから私もティナをぎゅっと抱いたの!」  
ナンシーは自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ錯綜する気持ちをまくしたてた。  
ロッドの拳が強く握り締められた。ぶるぶる震えて、地面に叩きつけられた。  
「俺は、あの悪魔を、殺す。ナンシー、力を貸して欲しい。夢でどんな」  
背後から独特の音――それだけで或行為を想起させる音が鳴った。  
二人同時に振り向くと、トンプソンがロッドから五メートルほど後ろで銃を構えていた。  
「両手を挙げろ」  
ロッドはまた前を向き、トンプソンに背を向けたまま、そろりと両手を挙げた。  
「パパ!」  
トンプソンは無視して続けた。  
「そのまま、ゆっくり、腹ばいになれ」  
ロッドは観念したかに見えた。両手を上に突き出したまま、ゆっくりと腰を降ろしていく。  
しかし、膝をつこうかと動きを止めたところで、一呼吸置いて、植え込みに向かって走り出した。  
「止まれ!」  
銃口が天に向けられ弾丸が発射された。乾いた音がはじけてナンシーは耳をふさぐ。  
ロッドは一度身体をびくりと震わせて頭をぐっと下げてまた走った。  
目の前に広がる植え込みを突き抜けようと両手を突っ込んで枝を掻き分け身体を茂みの中に沈ませる。  
おい、これはチャンスだ――。トンプソンの頭に何者かが囁きかけた。トンプソンはロッドの背中の中心に狙いを定める。  
相手が子供であっても許す気などさらさらない。いや、子供だからこそ、今、殺しておけ――。  
撃つ口実ができたというものだ。人質を取ろうとして、失敗して逃走、  
ナイフを振り回し――心配するな、奴は持ってる、危険と判断し、射殺。  
過剰防衛?判断ミス?職権乱用?捏造?私刑?殺人?バカな、あとでどうとでもできる。そう、あの時のように。  
なかなか向こうへ抜け出せないロッドを見て、トンプソンの右頬がせり上がってくる。  
くたばれ、クズが――引き金を1/3ほど押し込んだ時、  
 
「だめえっ!」  
ロッドの背中を隠すように、ナンシーが両手を広げて立ちはだかった。  
黒光りする銃身、向けられた者にはブラックホールのように見える銃口が、ちょうどナンシーの鼻梁の中心を指している。  
緊張でトンプソンの指が引きつり、引き金をさらに沈ませる。  
トンプソンがぐうっと呻いた。  
止まれ、と脳が命令を下すのが、あと少しでも遅れていたら、娘の脳味噌を草むらに撒き散らすところであった。  
大きく息を吐いて、マスターピース・リボルバーを上に向け、指を離した。  
「どういうつもりだ!」  
ロッドは右眉の上を枝で切って、ようやく道へ出た。左右を見ると左側から男が二人、こちらに走り寄って来る。  
後ろではパトカーが警報を鳴らしている。右と正面は開かれている。正面は――来やがった、だめだ。  
右に向かって全速力で走ったが、たちまち二台のパトカーが脇から現れて道をふさいだ。  
振り返ると、後ろの二人の刑事が、もう手を伸ばせば届くところまで迫っている。  
ロッドは二台のパトカーに向かって全速力で駆ける。  
勢いをつけて飛び上がって、フロントガラスに着地し、いけるか、と思ったところで、  
脇から現れた刑事に警棒でアゴを殴られもんどりうって倒れる。  
後頭部をしこたま打って、意識が混濁している間にたちまち取り押さえられてしまった。  
ロッドは獣のような雄叫びを挙げて、後ろ手にかけられた手錠を揺らし、懸命にもがいている。  
こんなところで捕まるわけにはいかないのだ。  
ティナの敵を討つために、鉤爪の女を殺すために、ナンシーに聞きたいことがまだある。  
 
いつもより早く仕事に行ったはずの父が突然、植え込みの陰から現れた。  
アスファルトに這いつくばっているロッド、彼を取り囲む数人の警官、前と後ろに三台のパトカー。  
ナンシーは全てを理解した。  
「私をおとりに使ったのね」  
トンプソンは否定できなかった。ただ娘から目を切って、銃をホルダーに収めた。仕方がないのだ、心の中で繰り返しながら。  
容疑者は車を捨てて逃走している。遠くへは行けない。  
付近住民には既に通達を終えているので、警戒はするだろうし、大都市とは違って、人口も少ない。  
したがって、新たに盗んだのであれば、型番からすぐに足がつく。  
刑が重くなるから、むしろそうしてくれた方がありがたい。  
市外へ出られないように、昨日の夜から主要道路には人員を割いて検問を行っている。  
父親、教師、知人、親戚の証言から、容疑者と親しい関係の人間を割り出した。  
その内の誰かにかくまってくれと頼みに来る確率が高い。  
追い詰められた人間の心理、後ろ盾を持たぬガキの考えることだ。グレン宅とナンシー宅も、もちろん対象だった。  
それぞれの持ち場で待機し、網にかかるのを待つ。  
気づかせないように、あくまで本人には知らせず、両者のいずれかが出てくれば、泳がせて、おとりに使う。  
本来、身内が関わるケースでは別の刑事を担当に回すのだが、本事件最高責任者の立場を利用して自宅付近に張り込んだ。  
娘を狂わせた糞ガキをこの手で叩き潰してやるためだ。それは惜しくも適わなかったが、殺人者を速やかに逮捕した。  
汚い蝿から娘を、ひいては善良な市民を守った。それの、何が、悪い――。トンプソンの脳髄を怒りが支配する。  
「だいたい……だいたいお前、なんでこんな日に学校に行くんだ!今日は休みなさい!」  
ナンシーは驚愕して、唇がぶるぶる震えた。  
さんざん利用しておいて、この期に及んで、まだ隠そうとして、挙句の果てには父親面するのだ。  
「家にいるよりずっとマシよ!」  
ナンシーは父親の制止を振りきり、走り出した。  
処女の背中に、父の怒号と、パトカーの警報と、ロッドの雄叫びが、いっしょくたになって浴びせられた。  
混沌の場から、ナンシーは一刻でも早く離れたかった。  
 
 

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