−Rod_Lane−  
 
小麦畑に囲まれた平屋建ての木造家屋に、巨大な竜巻がうなりをあげてじりじり接近する。  
屋根をはじき飛ばされ、窓ガラスを粉々に割られ、丸裸になった家が洗濯機にかけられた蝿のように飲み込まれていく。  
マイクを握ったレポーターが、厚手のコートをはためかせ、コメントするのも忘れ、背中を丸めて突風に耐えている。  
そんなニュース番組を見ているような顔をして、ジョーイが部屋から退散した。  
「あなた、大きな声出さないで」  
部屋に入ってくるなり娘を一喝した父親。  
マージはナンシーが負ったであろう多大なる精神的損傷を危惧していた。三人とは面識があったからだ。  
グレンはお隣さんの大切な一人息子で(しかしあの夫婦は堅物過ぎて、どうにも好きになれない)  
ナンシーにとってただの友達ではないことも知っている。  
成績優秀、健康的ながっしり締まった身体つきで、返事もはきはきしていて、  
にこっと笑った時は四十の大台を越える自分がどきっとしてしまうくらいの美青年だ。  
正直、娘のボーイフレンドとしては申し分がないどころか、こちらが恐縮してしまう。  
ティナ――ずいぶん前からナンシーがよく家に連れて来て一緒に遊んでいたから、もう見知った間柄だった。  
溌剌として、妙にこなれていて、自分の娘にもこれくらい愛嬌があればいいのに、と思わせていた少女は、  
ハイスクールに入った頃からめっきり女らしくなった。まさかあの子が殺されるなんて――マージは顔をしかめる。  
ロッド――チェーンやバッジつきのごつごつした黒皮のジャンパーを着て、リーバイスのカットジーンズを履いて、  
髪はきっちりオールバックの典型的な不良だけれど、根は悪い子ではないな、と感じていた。  
フロントラインが大層なデザインの真っ赤な車にティナとグレンを乗せて、映画を観に行くって  
(「FRIDAY THE 13th」のPART2だったか3だか、どっちだったか。今学校でも流行ってて、凄く怖いのよ、とナンシーが言っていた)  
家に迎えに来た時、ナンシーがまだシャワーを浴びていたので、待っている間にアップルパイを食べさせてあげた。  
がっつくように全部平らげてしまって、「美味しかった?」と訊いた時のはにかんだ笑顔が忘れられない。  
人殺しなんて、する子ではないと思っていたのに。  
マージはトンプソンをじっとり見つめる。ろくに家に帰ってこない夫はそんなことすら知らないのだ。  
休日だって、とりかかっている事件や同僚とのつきあいで潰れることが多く、一緒に過ごすことは少ない。  
そのくせたまに早く帰ってくれば、ディナーに冷凍物のミートローフを使ったり、  
ダイニングルームのテーブルに昨日の新聞が置かれていたりで、声をはりあげる。夜の生活もここ二年ほどない。  
夫が変わったのは、やはりあの事件からだ、とマージは回想する。あれはエルム街全体を巻き込んだ悪い夢だった。  
だった?  
まだ完全に覚めてはいない。十五年経ったのに、夫も自分も、ベッドから跳ね起きて、  
半信半疑のまま、大きく息を吸い込んで、吐いているところなのかもしれない。  
 
「母さん、こりゃいったいどういうことなんだ!説明しなさい!」  
マージの眼が恐怖で引きつるのを見て、ナンシーが口を開く。自分のせいでママが怒られるのは不公平だと思った。  
しかしそれとは別に両親に対する不信感がないと言えば嘘になる。  
どうしてパパはそんなモノの言い方しかできないのだろう、ナンシーは不満に思っている。  
一度言ってやりたい。ママはここ最近、夜だけじゃなく、昼間っからお酒を飲むこともあるって。  
時にはぐでんぐでんに酔っ払って、自分が学校から帰ってくると、ソファの上で寝てるんだって。  
でも言ってしまえば、パパはママを殴りつけるかもしれない。最悪、いやたぶん離婚だ。  
ママはパパに逆らえない。言いなりだ。これ以上、ママをめちゃくちゃにしてほしくない。  
「ティナの家に泊まる予定だったの」  
トンプソンがふん、と鼻を鳴らすのを聞いて、ナンシーは申し訳なさそうに続けた。  
「ティナ、身体悪くして、学校休んでて……久しぶりに来て、みんなで、ティナの家でパーティーしようって」  
「それでこんな時間までランチキ騒ぎか、え!?まったく、考えなきゃならんな!」  
トンプソンがナンシーの言葉をさえぎってがなりたて、言い終わった後で、愛すべき妻を睨みつけた。  
マージは慕うべき夫の顔を見ることができない。ただ黙って、顔を下にやるだけだ。  
ランチキ騒ぎ――ナンシーの頭に楽しかったパーティーのあれやこれやが浮かぶ。  
ロッドに抱きかかえられたティナの最後の笑顔が思い出される。ナンシーの目からまた涙がこぼれた。  
「ごめんなさい……」  
蚊の鳴くような声で娘が謝っているというのに、トンプソンの目は依然として厳しく光っている。  
被害者には性交の跡があります――ジョーイの言葉がまだ耳の裏にべっとり張りついている。  
パーティ?パーティと来たか。それは未成年が酒をかっくらって、白い粉を鼻から吸って、  
俺がポンコツのシボレー・カプリスで駈けずり回っている深夜に、馬鹿面さらしてろくでもない野郎と動物のように貪りあうことを云うのか。  
 
「まったく、あんなイカれた、ろくでなし共と!」  
「ロッドはろくでなしじゃないわ!」  
ナンシーが大声を挙げた。トンプソンの顔が強張って、眉間がぐっと開いた。  
とっさに、頭の中に、娘がまだ小さかった頃、寝る前にキスをして頭を撫でていた頃の無邪気な笑顔が浮かぶ。  
それが、目の前の、腫らした目で自分を睨みつけている成長した娘と重なり合い、がらがら崩れていく。  
娘の口ごたえはそうあることではなかった。もちろんあれば、こっぴどく叱って分からせてやったのだ。  
なのに、この期に及んで、殺人者を庇うとは、善悪の区別もつかなくなったか。  
腹の底から怒りが湧いて来る。それもこれもクズ共とつきあったからだと自分に言い聞かせる。  
夫の肩が震えているのを見て、マージが間に入って止めた。  
「ナンシー」  
マージは諭すように、名前を呼んだ。これ以上、続けられてはたまらない。怒鳴りつけるだけじゃ済まなくなる。  
「ろくでなしだなんて……大したことじゃないわ」  
「人殺しが大したことじゃないっていうの?」  
夫が拳を振り回し娘の顔を殴りつけるシーンを想像して、マージは頬の筋肉を硬直させた。  
娘は現実が見えていない。無理からぬことだが、許されることと許されないことの違いは教えておかなければ。  
受け入れてもらわなければ。マージはナンシーの目を覗き込んだ。  
「違うわ!私が言っているのは、喧嘩のことよ……」  
マージはきつい視線で、これ以上言わないで、とナンシーに無言の圧力をかける。  
ナンシーは諦めるような顔をして、また、声を挙げて、泣き始めた。涙が止まらない。  
血だらけの部屋。ティナの捻れた首。「もし、私が死んだら」切り裂かれた全て。  
ティナの笑顔。光景がフラッシュバックするたびに、涙が次から次へ溢れてくる。  
「信じられんな」  
トンプソンは吐き捨てて、娘と妻に帰宅するように伝え、部屋を出た。  
 
エルム街の外れの農地、ティナの家からわずか5、6kmほど西に行ったところに、セルフィッシュ・リバーが流れている。  
ブロックが敷き詰められた脇の土手に、大人の男が、かがんですっぽり入れるくらいの大きな排水管が伸びている。  
もう使われていないもので、水はほとんど流れていない。中心部に線を作り、濁った汚水を僅かに垂らしているだけだ。  
ロッドはそこにいた。入り口から見えないように、入ってすぐの突き当たりを少し右に行ったところで、うずくまって身を潜めていた。  
ロッドがまだ幼い頃、親が二人いた頃、まだそんなに屈まなくてもすんなり入れた頃に使っていた秘密の隠れ家だった。  
黒皮のジャンバーの左胸の内ポケットには、やはり銀色のバタフライ・ナイフ、そして、錆びた十字架が入っている。  
ティナの部屋から持ってきたものだ。それで、グレンに殴りかかったのだ。  
 
ロッドの父と母が離婚したのは、ロッドがまだ十歳にもならない頃だ。  
ロッドは遅くにできた子供だが可愛がられたわけではなかった。  
父は薄給の工員で、飲んだくれで、折檻という口実で突然蹴りを入れてくることは何度もあったし、  
一度、ロッドは頭を引っ張られて、机の角に血が出るまでぶつけられたこともある。  
もっとも、今から三年前、ロッドが十四歳になった頃から、父は手を出さなくなった。  
一方的な勝利を収めるためには、ロッドの身体は大きくなりすぎていたのだ。  
殴られるたびに、ロッドは父を心底クズ野郎だと思っていたが、母が受けた仕打ちに比べればマシだった。  
父は母を何か少しでも気に入らないことがあるとどなりつけ、殴りつけた。  
母はほとんどいつも顔に青痣を作り、奥歯だって二本折ってなくしていた。頬骨を骨折したこともある。  
母はよく耐えた、とロッドは思うが、結局は音をあげて、母が親権を捨てて一方的に出て行く形となった。  
そしてエルム街を出て行った後、隣街の印刷会社で働いて、幸運な再婚を果たした。  
相手は取引先の重役で、お互いに四十代中盤という年齢で、離婚経験者だった。一度だけ見たことがある。  
ロッドが父に内緒で、母方の親戚、叔母に頼んで、母が借りているアパートへ連れて行ってもらった時のこと。  
母は突然訪ねてきた姉とロッドを見て、驚いて、部屋に招き入れた。  
叔母が買い物に行くために部屋を出て、ロッドと母がしばらく喋っていると、  
ノックもなしで、高級そうなスーツを着て、茶色のネクタイを締めた、ふとっちょの男が、部屋に入ってきた。  
「やあ、この子は?」  
ロッドは挨拶した。男は一瞬神妙な面持ちになって、すぐに笑顔を作って、ロッドの頭を撫でた。  
母の新しい恋人は、ロッドにはいけすかない野郎に見えていた。何か腹に一物溜め込んでいそうな奴だと。  
しかし、母はその男を見て、家では見せたことのないような顔をして笑った。  
母の笑顔はロッドにとっては嬉しくもあり寂しくもあった。  
そして、寂しい気持ちの方が正しかったのだと、ロッドは後に知ることになる。  
再婚して一年たつと、母はロッドのことを忘れてしまったのか、  
それからはクリスマスやロッドの誕生日ですら連絡の一つもよこさなくなった。  
 
ロッドは意識的にジョークの腕を磨くようになった。笑わなければやっていられない。 だいいち、現実の生活がもはや喜劇だ。  
そうして、十四、五という年齢で、街に繰り出して女の子を笑わせては、デートして、時には寝たりした。  
身体が大きく、彫の深い顔をしているので、みんなロッドのことを高校生くらいだろうと思っていた。  
年の離れた姉はハイスクールを卒業すると、逃げるように家を出て行った。  
ロッド家において、姉は落ち着いて思慮分別のある人間だったから、余計に居心地が悪かったのだ。  
父は息子をろくでなしと思っていて、息子は父をろくでなしと思っていた。  
姉は少し離れたところに自分を置いて、遠くの火事を見るような感覚で、二人のことを、やはりろくでなしと思っていた。  
 
父のいんねんのつけ方を見て、ロッドは子供ながらに、よくもまあ、そんな下らないことで怒れるもんだな、と思っていたが、  
どうやら、自分にもその傾向、つまり、雨がいつまでもやまないとか、贔屓チームの四番打者がデッドボールを当てられたとか、  
そんなことで怒っているのに、度々気づかされた。そして、おい、あの野郎と俺は同じじゃないか、と胸糞が悪くなった。  
意識して、男は下らないことでは怒らない、と自分に言い聞かせてきたが、  
時にかんしゃくを起こして、殴り合いの喧嘩になることがある。カッと来ると止まらない。  
しかし、ロッドは女にだけは暴力を振るうまいと思っていて、それだけはこれまで固く心に誓って守り抜いてきた。  
父が母を殴っていたからだ。どうして、女を殴れるんだ?とロッドは不思議に思う。  
その腕は何のために使う?拳は?  
女を殴るためか?  
いけすかないクズを殴ってやるのは多少すかっとするけれど、女を殴ったって胸糞が悪くなるだけだ。  
だから、「鉤爪の女をブチのめす」と言った時も、実は少し抵抗があったのだが、  
鉤爪の女がティナを苦しめたという怒りと、夢の中の出来事というわけで、はっきり言えたのだ。  
 
ロッドはハイスクールを出たら、エルム街にあるアークグレイ自動車工場で働こうと決めていた。  
車の整備に関してはそれなりに知識があるし、資格も取るつもりでいる。  
知り合いのメリルもそこで働いていて、なんなら口を利いてやるという次第だ。  
ティナは市内のアーベントン女子大学に行き(以前、ティナからそう聞いた)、自分は就職、  
それで何の問題もないと思っていたし、ティナと、そう――所帯!を持つためには、いくらだって働くつもりだった。  
ただ、ティナが心変わりするのは怖かった。ティナへの愛が覚めることはありえないが、  
彼女が大学に行っていい歳になれば、自分ごとき薄給工員をあっさり捨ててしまうかもしれない。  
時々、強迫観念に近い形で、ロッドはそんな思いに囚われ、悪夢を見ることもあった。  
夢の中では決まってロッドはうらぶれて、父そっくりの顔になって、ティナは母を奪ったいけすかない男と結婚している。  
ティナはドブねずみを見るような眼で、声をかけたロッドに向かってこう言う。「あなた、誰?」  
そこで目が覚める。うん――連絡もよこさなくなるかもしれない。なんたって、母親がそうだったのだから。  
しかし、まだ始まってもいないことをあれやこれやと心配するのは男らしくない、とロッドは自分に言い聞かせた。  
母親とティナは違うし、自分も父親とは違う。  
色々と将来の計画も考えていたのだが、ついにティナには話せずじまいだった。ティナは冷たい骸となった。  
 
ロッドは胸ポケットからバタフライ・ナイフを取り出し、パチンと刃を出して、ぼうっと眺めた。  
ナイフを使って人を刺したことは、これまで一度もない。  
うざったい不良社会で面倒くさいいざこざを早めに切り上げるための脅しの道具であって、実用としては林檎の皮を剥く程度が関の山だ。  
刃の先は暗闇の中で、薄っすら光を放っている。  
ロッドは不思議な光に魅せられて、これで首根っこをすぱんとやればどのくらいの血が出るのかな、と考えたりした。  
そして、ティナはもっと苦しんだ、もっと痛かった、それに比べれば、頚動脈を切るくらいどうということはない、とも思った。  
だいいち、自分が既におたずね者で、仮に捕まって「冤罪だ、俺はやってない」と言ったって、通じるはずがないのは、分かりきっている。  
浮いたんだ、身体が、なんだっけ、ほら……エクソシスト、みたいに。  
それで斬られたんだ、むちゃくちゃに……、キャベツをちぎるみたいに……、ジョークにしても最低の部類だ。  
しかしジョークではない。ティナは死んだ。死んだのは、自分が守れなかったからだ。  
ロッドの頭の中は、今は自責の念でいっぱいだった。  
 
ロッドは刃を自分の首筋、ちょうど顎の下辺り、に斜めに添えた。  
目を閉じて、深呼吸して、親指と人差し指に力を入れてざくりとやれば、すぐに死ねる。  
唾を飲み込む。死んでしまえばあとは野となれ山となれだ。あの世があるなら、ティナにもそこで逢えるかもしれない。  
刃が強く当たり、首の皮を一枚裂こうかというところで、  
今ここにナンシーがいれば、きっとあの時みたいに止めるだろうな、とロッドは思った。  
 
いつものごとく下らない喧嘩が原因で、父親が来るまで留置所にぶちこまれた。  
学校で噂を聞きつけたのか、心配して三人もやってきた。  
父親は手続きだけ済まし、注意を受けた後、さっさと一人で帰ってしまった。二回目だったから、慣れたものだ。  
勝った負けたはどうでもいいが、相手のやり方が気に食わなかった。  
最初に大勢で襲い掛かっておいて、あとで散らばって、わざとやられて、ポリを呼びやがる。  
それにティナやグレンやナンシーを馬鹿にされた。それでカッとなって殴ってしまった。落とし前はつけるつもりでいた。  
汚い言葉で、三人に奴らがどれだけクソかをがなり立て「これからあいつらをブチのめしに行く」と喚いた。  
グレンがいつもの正論を吐いた。「落ち着け。そんなことしても何の意味もない」至極もっともだったのでいらついた。  
ティナもグレンに賛同した。「グレンの言う通りだと思う。冷静になって」ナンシーは黙っていた。  
ティナがグレンの肩を持つのに、さらにいらついて、何を言ったか忘れたが、  
とにかく二人に汚い言葉を使って――ティナの眼に涙が浮かんで、しまったと思った時、ナンシーの右ストレートが飛んできた。  
尻もちをついて、まだ目の前がちかちかしているのに、両手で胸を掴まれて、  
ねじり上げられて、やわな野郎ならびびって逃げ出すような強い眼をして  
「馬鹿じゃないの?ティナに謝りなさいよ!」  
それで目が覚めた。  
 
ロッドは首から刃を離し、ナイフをぱちんと閉じて、足元に置いた。  
「馬鹿じゃないの?そんなことして死んだティナが喜ぶと思ってるの!」  
今の自分を見れば、そうナンシーは言うだろう。  
あの時、グレンは自分を疑っていた――ロッドは暗い気持ちになった。まったく、日頃の行いが悪いからだ。  
ナンシーがティナの元にかけよって、悲鳴を挙げた。グレンも悲鳴を挙げたが、  
すぐにナンシーを守るように抱きかかえて、きょろきょろ辺りを見回して、「まだいるのか?」と訊いてきた。  
そして、クローゼットの中をおそるおそる覗いて、窓に鍵がかかっているのを確認した時、  
グレンがぽかんとした顔で――ロッドはあの顔を思い出して、泣き笑いする。まったく、冗談きついぜ。  
「お前」グレンはそう言った。だから、起こったことを片言で説明した時、グレンが飛びかかってきた。  
顔をくしゃくしゃにして泣きやがって、なんで、ああ、なんで、お前、  
グレンはそんな風に叫びながら、手加減を知らない力で三発殴ってきた。  
ベッドの上から吹っ飛ばされて、化粧台にぶつかって、十字架が背中に当たった。  
殴られた痛みで、カッと来て、その時手にした十字架で殴り返そうとしたが、かわされて、腹にきついのをもらった。  
ナンシーが泣き叫びながら、割って入って止めた。三人とも血だらけになった。  
ナンシーが「まず服を着て、それから説明して」と言うので、  
ティナの部屋のタンスに入っていたタオルで一通り血をふき取って、服を着た。ティナの匂いがしてまた泣きたくなった。  
全部着終わったあとで、自分の今ある状況が頭に刷り込まれた。殺人事件の容疑者。  
「俺はやってない」と言い残して――ティナの形見だ、十字架を胸に忍ばせて、部屋のドアに向かって走った。  
追いかけてくると思ったが、こなかった。  
外に出て、まずは血を洗い流すために、水道管つきの庭を探した。  
明かりも消えているし、まさかこんな時間に庭の水音くらいで起きてこないだろう、  
それで残った血を洗って、跡をつけないように、途中、林や植え込みに入ったり出たりして、ここに来た。  
 
ロッドは右のジーンズのポケットに手をやった。何も入れていないつもりだったのだが、しけたマッチ箱がでてきた。  
マッチを一生懸命擦って、リンの臭いを嗅ぎながら、三本折ったところで、ようやく小さな明かりを手にした。  
右手を中心にぼうっと光が広がって、半径50cm付近を円状にぼんやり照らしている。  
右側は入ってきた穴からうっすら月明かりが差し込んでいるが、左側は光が届いていなかった。  
足をよたよたロボットのように動かして旋回し、完全に左側を向く。  
先をじっと見つめていると、黒い絵の具を塗りたくったようで、どこまで続いているような気がした。  
突然、闇が笑った。  
何もないはずの空に、薄い膜のような線が入り、唇の形になって、にぃ、と笑った。  
そこでマッチが消えた。  
ロッドはやけに冷静だった。へえ、おかしなこともあるもんだ。  
もう一度、箱からマッチを取り出して、今度は一本目で点けることができた。  
左手で目をこすって、マッチを持っている右手を突き出して、また闇を眺めた。  
心なしか、さっきよりマッチの光の範囲が狭くなっている。正円が前方から徐々に押し潰され、半円に近い形になっていく。  
黒い波が寄せるようにじわじわとこちらに向かってくる。手の形になる。  
明かりが何者かに握りつぶされるように小さくなる。あ、一声挙げると、とうとうマッチの炎はかき消えた。  
ロッドは逃げなかった。もうどうでもいいような気がした。  
ティナの家から出た時から、既に心はすっかり闇に包まれていて、これから身体がどうなろうと、些細な問題に思えた。  
身体が暗闇に溶けていく。  
足の感覚がなくなる。侵食された部分から感覚がなくなっていく。  
下半身がやられる。  
胸まで闇がせりあがってくる。  
最後に首から上までを一気に飲み込まれた時、ロッドは意識を失った。  
 
暗闇を旅してどれほどの時間が経ったろうか、背中に弾むような、柔らかい感触が伝わり、ロッドは意識を取り戻した。  
誰かが自分の肩をゆすっている……誰だ?放っておいてくれ。心の中でつぶやく。  
肩に触れているのは小さな手の平、細い指先、この感触――ティナ?  
「……ッド」  
ティナの声だ。ティナが自分を呼んでいる。  
「…………きてロッド」  
ティナの匂い。  
「………………ろ!ったくもう……」  
ティナの、ティナの……。  
「起きろっ!このっ、チャドッ!」  
ロッドはがばりと跳ね起きて、ティナの名前を叫んで、目の前の小さな身体を力いっぱい抱いた。  
「な、なによっ、ちょっ、ちょっと」  
力を緩めなどしない。頭を抱いて、腕を腰にぐるりと回して、何度も叫ぶ。ティナ!ティナ!ティナッ!  
「い、いたいって、いたい!わ、わかった、チャドは言い過ぎた!ごめん、悪かったってば」  
背中を叩かれて、一度離して、肩に手を置く。  
「ティナ、お前、どこも、怪我、して……いや、俺……」  
目の前のティナ、あきれた顔をして自分を見ている。どこにも傷はない。  
少し涙で目を腫らした跡は残っているが、それ以外はいつものティナそのものだ。  
「まーた寝ぼけて。夢でもみてたんじゃないの?ずっーと、さ……ほら」  
夢?あの惨劇の全てが夢だって?まだ信じられない。夢とは思えないほどリアルだった。ロッドは何度も瞬きして、辺りを見回す。  
ティナの部屋、朝、窓から光が差し込んでいる。クローゼット、化粧台、鏡。光が反射して眩しい。  
ぴっちりした黄色のTシャツを着て、青と白の縞模様のパンティを履いたティナ、  
ベッドにうずもれる小さな尻、足は鏡に入りきらずに、横に伸びている。  
寝起きでぼさぼさになったショートカットの金髪、それを鏡を通して、気の抜けた顔で見ている、自分の顔が映っている。  
服を着て、ベッドの中に、ティナと一緒に……、おかしいところがあるか。  
昨日、激しく抱き合って、それから一度眠りに落ちた。寝る直前はどうだったか、思い出せない。  
ベッドの上で、足を崩して座っているティナが、下から覗き込むようにして、恥ずかしそうに自分の顔を見つめている。  
「えっと……あの……ほら……」  
ロッドが逆にティナの顔をまじまじと見つめ返すと、どういうわけかティナは目を逸らし、  
目元を緩ませて、ブルーの瞳を細めて、嬉しそうな顔で天井に目をやった。  
「名前……ね?うわごとで……ティナ、ティナッー、って」  
ロッドがきょとんとしていると、ティナは座ったままぴょんと回転して、背を向けて、両手をにぎって、上にぐっと身体を伸ばした。  
「いっぱい……さ、呼んでたんだけど……どんな夢、見てたの?」  
ロッドは目を下に落とし、ティナに心の中で告白した。  
そう、呼んだ。お前の血を全身に浴びながら。泣き崩れて、鼻水垂れ流して、お前の名を叫んだ。  
力を振り絞って、お前が答えようとした瞬間、安物のビーンズの袋を破くみたいに簡単に喉が裂けた。  
しかも零れてきたのは乾いた塩漬けの豆ではなくて、厭らしいほど生温かい血液だった。  
「いや、あまり、いい夢じゃ、ねえ、な」  
「なによそれ」  
急に低い声になってティナの張り手が頭に飛んできて、そうだ、いつもの、この感じ。これで、はっきりした。  
今、目の前にティナがいる。ティナの手が頭に触れている。この感触が嘘だとは思えない。  
夢をみていたのだ。まるで一本のドキュメンタリー・タッチの映画のように、長く、リアルで、最悪な夢を。  
ロッドは深くため息をついた。たった何時間しか経っていないのに、もう何日分も疲れた気がする。  
休息を求めて眠りに落ちるのに、起きてみれば寝る前よりも肩がこって、顔がだるくて、背中が張っている。  
人間の身体とは不思議なものだ。  
 
いったん落ち着くと、全身の力がすっと抜けた。  
例えて言うならば、ロングウォークに参加して三回警告をもらってへとへとになったところで  
「もう歩けません、限界です、やめたいんです」とリタイアを訴えて 「はい、分かりました。こちらへどうぞ」と受理されたような気分だろうか。  
実際、夢の中では、林を抜けたり、道を走ったり、かなりの距離を移動したのだが、おかしくって、笑いがこみ上げてくる。  
ロッドはもう一度ベッドにねっころがって、頭を枕に乗せた。どこからか、奇妙な声が聴こえてくる。  
(いいっ!すごいっ!すごいいい!)(きれいだ、すごく……愛してる!ナンシー!)  
どうして今まで気づかなかったのだろう。耳を澄まさなくても、はっきりと聴こえる愛のさえずり。  
何気なしにティナを見上げると、ティナがぶすっと頬を膨らませて、壁に目をやっている。  
「これ、あいつらだよな?」  
「凄いのよ、もう。私もそれで目、覚めちゃって。一晩中ヤリまくってたんじゃない。もう朝の八時だってのに」  
ぽりぽり頭をかいて時計を眺める。午前八時七分。学校サボッて一日中やりまくるつもりか。  
だいいち、昨日、グレンに渡したのはたった三つぽっち。ぽっち?十分だ。自分に落ち度はない。あいつらがやり過ぎだ。  
まずったな、ロッドは舌打ちした。初めてだろうに、燃え上がってとことんまで行っちまって、デキちまったら、どうするつもりだ。  
そう言えば、自分も昨日、ゴムをつけずに……。  
ロッドは頭の後ろに手をやって、目を閉じて、前にしたのはいつだったかな?  
ティナのことだから、危ない日に我を忘れて、なんてことはないと思うが、昨日は特別な日だったからな、と考えたりした。  
二人の声がますます大きくなって行く。がたん、大きな音が隣の部屋から響いて、喘ぎ声が止まった。その音で、突然、ロッドは、  
そうだ――!  
ぱっちり目を開いた。  
今、ティナに自分の想いを打ち明けよう。  
ハイスクールを出てから、自動車整備工になって、いつか結婚したいって、思ってること。  
いてもたってもいられないくらい、お前が好きなんだってこと。  
これから死ぬまでお前と一生過ごして行きたいって、そう、二度とあんな辛い思いはしたくない、  
三人は自分のくそったれ人生の中で、ただ一つの光で、中でもティナ・グレイは、すばらしく輝いているってこと。  
ティナを失うのは、自分にとって、全ての可能性を奪われるのと同じなんだってことを。  
「ティナ」  
(はあっ!ああっ!あああっ!)(うわっ、すごいよ、ナンシー!)  
「なに?」  
(もうっ、もうっ、だめえ)(僕も、もう……うあっ)  
「……いや、なんでもねえ」  
二人の情痴の歌がまた響いてきて、萎えてしまった。  
冷静になって考えれば、悪夢から覚めたばかりの寝起きの状態で、友人の喘ぎ声をバックにして、言うべきことではない。  
しかし、いつか、近いうちに、きっと。  
 
「……ああ、そうだ。なあ、昨日、つけてなかっただろ」  
ティナは首をかしげ、何を言ってるの?こいつと言う風に不思議そうにロッドを見たが、  
すぐに気づいたようで、ああ、ああ、と首を小刻みに振った。  
「大丈夫、ちゃんと飲んでたから」  
「わりぃな」  
「いいのよ、私がいらないって言ったんだから」  
ほっと一息つくと、いつもは二人に心配されている自分が、逆に心配しているのに気づいておかしくなった。  
しかし、あの二人なら、ないとは言えないところが怖い。ああいう性格の二人だからこそ、行く時はとことんまで行く。  
「ちょっとだけ、観に……いこっか?お隣さん」  
ロッドは耳を疑った。  
「なに?」  
「ほら、ちょっと、ほんのちょっと、見てみるだけ」  
人差し指で耳の穴をほじくっていると、ティナが手を引いて、もう既に足を床につけている。  
「おい」  
ロッドが手を逆にひっぱり返すと、ティナがくるんと振りむいて、大きく息を吸い込んで、口を開いた。  
「いいじゃない、今後の研究のためよ。私なんかあんたが起きるずうぅっ―――と前から  
 あんあんうんうんいいだのだめだのすごいだのいっちゃうだの独りで気が狂うほど長い  
 ことエッチなBGM聴かされてんのよもうスティーブンキングのイットだかシットだか糞長  
 い小説じゃあるまいしそりゃあ私だって二人の仲がいいのは嬉しいけどいいかげんいつ  
 までやってんのよって公害よホントあんなの聴かされたら近所の野良猫だっていっぺん  
 に目覚ましてニャーギャーニャーギャー腰振り回してサカるわよスリープウォーカーが  
 ニャーギャーニャーギャーあれあれ目ん玉ばちんとひんむいてベッドから素っ裸で飛び  
 出してサカってるにゃんこに顔噛みつかれてニャーギャーニャーギャーひっかかれて  
 『助けてえーマーマー』『痛いよーマーマー』『あらまーかわいそーなぼうやー』なんて  
 もうバカじゃないの?安らかな眠りを侵害されたんだからこっちにだってそれくらいの  
 権利あるでしょ?違う!?ねえ?」  
連装機銃を全弾撃ち尽くすような勢いでまくしたてられて、ロッドは圧倒されてしまった。ティナの眼が据わっている。  
「行くの?行かないの?」  
 
足をしのばせ、部屋から出ると、隣の扉は開いていた。  
二人でそっと陰によって、顔を隙間からほんの少し出して中を確かめる。  
ティナは四つんばいになって、ロッドは中腰になって、こそどろの凸凹コンビと言った様子だ。  
グレンとナンシーはベッドの上にはいなかった。  
二段ベッドの上の縁にナンシーが後ろ向きに手をかけて大またを開き、  
グレンの筋骨隆々とした腕が膝の裏にかかり、太股を持ち上げている。  
上のベッドに上るための梯子が外れて、床に転がって、グレンが四角の枠をまたいで、立っている。  
20cmを優に超えるかという巨大なペニスが、ナンシーのクレバスをいっぱいに押し開いて、中身を抉り取るように抜き差しされている。  
カリまで引き抜かれるたび、ナンシーの穴から少しだけ、中がめくれて現れる。  
刺激を弱める避妊具などいっさらつけていなかった。ロッドは舌打ちしようとして、気づかれるのを危惧して止めた。  
ナンシーの狭そうなヴァギナ、もっとも今は開かれているが――に侵入し巨大なペニスが暴れまわる様は、  
ウイスキーのボトルの口に、とても入らなさそうな大ウナギが無理やり身体を突っ込んでいるようにも見える。  
「おい、すげえな」  
ロッドがティナの耳元で、ぼそっと囁くと、ティナはこくこく頷いた。  
「でっ……でかすぎ……」  
ロッドは唾をごくりと飲み込んだ。なんだよ、あいつら、チェリーボーイとバージンじゃなかったのかよ。  
グレンは、もう何百回も経験してるみたいに、相手の感じるところが分かってるみたいに、責めている。  
腰の動きだって、滑らかで、リズミカルだ。流れるように動いて、ナンシーの喘ぎ声が、それと同調している。  
ロッドは目をぱちぱち瞬きさせた。それにしても……でかい。今まで見た中でも、超ド級のビッグ・サイズだ。  
悪友に貸してもらったいかがわしいビデオを思い出す。  
巨根を謳い文句にした物で――なんだったっか、そう……『何でジェーンはオナったか?』  
いや、違う……、あれは頭のイカれた女が色んな道具を使ってオナニーする奴だった……、ええと……『ラットマンコ』、  
でも……ないな……あれは、ひどい出来で、監督の頭をメガホンでぶん殴りたくなる代物だった。  
ちくしょう、なんだ、『裸のウンチ』、違う。意味不明でおまけに酷いスカトロものだった。ビデオをバットで叩き割って返してやった。  
『フェラ皆』……でもない……しかしあれは女優は可愛かった……まあティナほどじゃないが。ああ、そうだ、思い出したぞ、  
『ジェイコブス・マラー』!  
分かったところでどうと言うのだ、阿呆らしい。  
しかし、あれより、大きいかもしれない。百人に一人、千人に一人、いや一万人に一人の逸材だ。  
ロッドは、なんだか、卑屈になってきた。  
自分は就職クラスのおちこぼれで、喧嘩はするわ、留置所にぶちこまれるわの12cm、  
いっぽうグレンは進学クラスで成績優秀、フットボールクラブのエースで、アレはジェイソン・ボーヒーズ級と来てる。  
 
「何落ち込んでんのよっ、でかいのって意外と大変なんだから、自信持ちなさいよ」  
「うるせえ」  
突然、二人が動きを止めた。ロッドは、ティナの腰をつかんで、後ろにさっと引っ込む。  
扉の向こうから、グレンとナンシーの声が聴こえてくる。  
「今っ誰……かいなかった?」  
「そんなこと、気にしないで、ナンシー」  
「うんご……め、あッ!待……ってっ!……ああッ!」  
ティナが行って!という風に指さして、ロッドはまたそっと扉に顔を近づける。  
二人はまた、セックスの虜となっている。  
ロッドが後ろを向いてOKサインを出すと、ティナが再び四つんばいになってそろそろ寄って来た。  
「グレン、すごい!あなたのチンポ、まだ、こんなに、すごい!おっきい!」  
「ナンシーのも、すごくいいよ。……きつくて、あったかくて、ぬるぬるしてて!」  
「壊して、私のまんこ!私のおまんこぶっ壊してぇ!」  
ロッドは股間を隆起させながら、目を瞠った。親友の痴態を覗くのは、おかしい。  
真面目一徹のナンシーが、あんな卑猥な言葉を使って、乱れるなんて。  
しかし、まるでアダルトビデオだ。カメラで撮っている奴はいないのか?俺達がその役回りか?タイトルは何にする?  
「ナンシー、僕、もう、出すよ、出すよっ!」  
「うん!来て!出してっ!あなたの精子で、私をイカせてっ!」  
ロッドはティナに目をやった。  
既にティナは物欲しそうに目を垂らして二人の痴態を見つめていて、アヒルのような唇に人差し指を滑らせている。  
「しよっか?」  
その一言で、ロッドは、自分の下で四つん這いになっているティナを、そのまま後ろから抱いた。  
ティナが、きゃっ、と声を出す前に、すばやく唇で口をふさぐ。  
シャツの上から左手で胸を揉みしだいて、右手をおなかに這わせ、パンティの中に滑り込ませる。  
陰毛に指が届いたところで、ロッドは我に返る。声が、まったく、しない。  
気づかれた――?  
顔を出して部屋を覗くと、グレンとナンシーは大きなクマとウサギのぬいぐるみになっていた。  
ちょうど、背丈は同じくらいで、ピンクのウサギが短い足をいっぱいに広げて、茶色のクマが無言で腹を押しつけている。  
何も喋らず、当然だ、ぬいぐるみなのだから――しかし、もこもこの身体だけは、  
快感を得ているように震わせて、いったい、なんだ、これは……?  
二匹がぐるりと首を回した。  
ぬいぐるみ特有の無機質な顔そのままで、ロッドをじっと見つめた。相変わらず、腰は動いている。  
ロッドの力が抜けて、恥丘に這わせた指がずるっと下がる。真ん中の指三本が、秘所までたどり着く。  
違う。  
小さい。  
これは、ティナのじゃ、ない。  
身体をひっこめると、帽子、金髪、赤と緑の毛糸のセーターの背中……こいつは……こいつは……!  
後ろから抱いた身体がくるんと仰向けになる。ブルーの瞳、顔の半分が、ケロイド状に爛れている。  
火傷女は、グラブをはめた右手の中指を立て、ファックポーズを作り、不敵に笑う。  
「ヒャハッ!やっぱりあんたの小さいのじゃ、やぁだね!」  
言い終わると、中指の爪をロッドの左胸に突きたてた。爪先はジャンバーの皮を難なく貫いて、ガキン、と音を鳴らした。  
 
ふおっと大きく息を吸った拍子に、後頭部がコンクリートの壁にぶつかった。水が流れる音。  
ロッドは目を覚ました。  
目の前に広がるのは、ただのコンクリートの壁、右を見れば、排水管が出口まで伸びている。  
服の上から胸の辺りをさすってみると、左胸のちょうど心臓がある辺りに、小さな穴が空いていた。  
その穴に指を突っ込むと、凸凹の硬い何かが触れた。  
十字架――胸に忍ばせておかなければ、今頃は、心臓を抉り取られていただろう。  
ポケットから取り出して、まざまざと眺めると、ちょうど真ん中の、キリストの胸の辺りに、かけた跡があった。  
はは、ロッドの口から笑い声が漏れる。  
やはり、これが現実なのだ。  
ロッドは、ティナが夢の中で火傷女に殺されたのだと悟った。夢で起こったことが現実になったのだ。  
こんなばかげた話が嘘ならばいいが、真実なのだから、こんなにおかしいことはない。  
ロッドは追われる身なのも忘れて、声が枯れるまで、涙を流して笑い続けた。  
そしてまた水の音だけになると、口をぴったり閉じて、息を止め、真剣な顔で闇を見つめた。  
ロッドの不良としてのポリシー、喧嘩はびびった時点で負け。  
殴りあう前、相対する時は必ず呼吸を乱さない。怯えるということは、呼吸が乱れることだと考える。  
だから、ここ一番では、息を止めて、目の中心に光を宿す。息をしなければ、呼吸もクソもない。  
小説家が自分に合ったスタイルはこれだと、やたらと傍線を使用したり、濁点で恐ろしい位に区切ったり、  
三点リーダーの数を増やしたり減らしたり、それと同じようなもので、ロッドに中における大切な決め事であった。  
闇はもう笑いはしない。ただ静かに佇むのみである。  
 
ロッドは足元に手を這わせて、ナイフを見つけ、拾った。  
上着を脱いで、シャツを肩までめくり上げ、刃を出すと、自分の右上腕に押し当てる。  
力を込めた。ぷつりと皮が裂けて、痛みが走る。ロッドは初めて人間の肉を斬った。  
汗をかきながら、手を震わせながら、しかし呼吸だけは乱れていない。  
息を整えろ、自分にいい聞かせ、ゆっくり刃を動かしていく。  
全てが終わって刃が閉じられた時、ロッドの右上腕には   
T I N A   
の文字が刻まれていた。Tの両端やAの下部からは血が垂れて、存在しえない文字になっているが、  
一度乾けば、しっかりその名を浮かび上がらせるに違いない。  
再び黒皮のジャンバーを身にまとい、一つ大きく深呼吸する。確かに傷は痛みを与えている。  
ロッドは自分に言い聞かせる。この傷が、この痛みが、ティナが死んだ証拠なのだと。  
鉤爪の女は人間の身体を切り刻み、壊すことはあっても、治せはしない。  
なぜなら奴は、神でも人間でも女でもなく、一匹の悪魔だからだ。もう二度と同じ手は食わない。  
奴の甘い誘惑に乗って、弱きに流れることなどあってはならない。  
夢であろうが、現実であろうが、ティナはもうどこにも、いない――。  
ロッドは涙で顔をぐじゃぐじゃにして、乱れそうな呼吸を胸に手を当てることでなんとかして保ち、はっきりと、発音した。  
「ティナは、死んだ」  
(呼吸を乱すな!)  
「ティナは、死んだ」  
(バカっ、少し速いぞ!)  
「ティナは、死んだ」  
(くそっ、根性なしが、堪えろよ!)  
「ティナは、もう、どこにも、いない!」  
儀式を終えると、ナイフを閉じて、左側へ力いっぱい放り投げた。  
遠くの方で、カツンと音が鳴る前に、ロッドはもう四つん這いになって、入り口に向かって歩いている。  
頭の中ではどうやってあいつを倒すか?と考えている。  
ナイフでは奴に勝てない。  
勝つにはもっと別の力がいる――そう、もっと強く、もっと確かで、全てを省みない、何者も恐れない、ホンモノの、力がいる。  
穴から首を出したところで、顔をごしごし擦って、唾を吐いた。  
今度ばかりはナンシーが止めようが、誰に邪魔をされようが、落とし前をつけさせてやる。  
ティナを殺したあいつに。自分の目の前でむちゃくちゃに切り刻んだあいつに。  
さて、どうすべきか。ロッドは完全に排水溝から出て、浅瀬に降り立った。  
辺りを見回す。もう空が白やんでいる。幸い、近くに誰かがいる気配はない。  
ロッドは昨日の記憶を掘り起こす。ふっとナンシーの顔が浮かんだ。  
ナンシーなら話を聞いてくれるかもしれない、  
あの時、殺人犯と決め付けられても仕方がないのに、ナンシーは一度も自分を疑うような素振りを見せなかった。  
それよりも、こうなることを知っていたようだった……。  
それに、パーティーが終わる頃、二人はソファの上で、異様な雰囲気で、抱きしめ合っていた。  
ナンシーはティナの死について、何か知っている。  
そこに奴を知る鍵があるかもしれない。まずは、ナンシーに会いに行かなければ。  
ロッドは朝日を頭から浴びて、しっかりした足取りで、土手を登った。  
 
 

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