身をひるがえすと、左肩に爪が食い込んだ。爪先がティナの柔肌をつぷりと刺す。
痛みなどものともせず、火傷女の抱擁から逃れようと、赤と緑の縞模様のセーターを殴りつける。
「なーかなか見せつけてくれんじゃないの、え?」
どういうわけか、火傷女は簡単にティナを解放し、ベッドから降りた。
金髪を爪で掻き分けて振り返る。切れ長のブルーの瞳で、ティナをねめつける。
唇の端を上げて、腹を空かせた蜘蛛のように、頭の中は捕らえた獲物をじわじわと嬲る狂想でいっぱいになっているのだろう。
ティナはベッドの上で尻餅をついて、後ずさりして逃げようとするが、
火傷女の顔を間近に見たショックで、腰が抜けてしまい、ベッドの端に手をかけて、自分の下半身をひっぱってもがいている。
「こらこら」
火傷女がグローブを一握りしてばっと開くと、ティナの身体にまた見えない圧力がかかり、ベッドに戻される。
ベッドの中心で大の字に手足が開かれていき、身体がすうっと浮いて、30cmほどの高さで固定される。
「ヒャハッ!お前の惚れてるろくでなし、グッドガイ人形の指みたいなチンポだね。ワタシの方が良かったんじゃない?」
火傷女は左手の小指を立てて、耳元でひらひらさせる。
「ああ〜ん、ロッドぉ、私のぐろいマンコに入れてぇ〜ん」
ティナの声色を使い、口腔に小指を突っ込んで、フェラをするように、すぼめて前後に動かす。
引き抜いて、唾で濡れた小指をティナに向けて、御辞儀させるように何度も折り曲げて、今度はロッドの声色で、陽気にはしゃぐ。
「ハーイ!ボク、ロッド!ヤサシクダイテヨ!ヤサシクダイテヨ!」
ティナは火傷女をにらみつけ、わざと聞こえるように、鼻で笑った。
「う、自惚れてんじゃないの?」
そして、自分を見下ろす火傷女に、めいいっぱいツバをはきかけた。
「あんたみたいなクズに比べりゃ、ロッドの方が何倍もよかったわよ!」
赤く爛れた皮膚にティナの唾がぺたりと染み付いて、火傷女の眉がぴくりと痙攣する。
唇を引きつらせて、目がつりあがる。
火傷女は真っ赤な口を裂けそうなくらい開き、舌を伸ばした。
ねとねとの唾液につつまれた舌はどこまでも垂れ下がり、1mもあろうかというほどだ。
「ひっ……」
ヴァッ!舌がティナに向かって飛んでくる。右腕に絡まり、そのままベッドの端に結ばれる。
抜け出そうとしたが、巨大なガムのようにへばりついて、できない。第二の舌が伸びる。
今度は左腕に飛んでくる。空中で足をばたばたさせていると、両足まで封じられた。
身体を四方から引っ張られて、ティナは苦痛に顔を歪ませる。
このまま四つ裂きにされるのではないかと思うくらい、ぴんと身体を伸ばされて、身をよじらせるだけが精一杯だ。
「あっ、あんたなんか、怖くないんだから!」
殺すなら殺せ、とティナは思った。もういい。火傷女、お前に命をくれてやる。
でもロッドやみんなの想いだけは墓の中まで持っていく。 火傷女は無言で近づいて、
自分の頭にかぶさっている茶色の中折帽を爪でつまんで上へ持ち上げ、大道芸人のような慇懃無礼な礼をして見せた。
「ああ、ワタシの愛するFedora……」
帽子をずぼりとティナの頭にかぶせ押し込む。ちょうど目の下までかぶらせて、ティナは何も見えなくなる。
光を奪われた恐怖にティナは首を振って帽子を落とそうとするが、中折帽はぴっちりはまってびくともしない。
火傷女は頬を肩にこすりつけ、反吐をふき取って、帽子のツバへそっと顔を近づけた。
「ワタシがいない間にイイ気になってたみたいだから」
左耳にぎりぎりまで唇を近づけて、囁く。
「教えてやろうかしら、もう一度牝豚に」
火傷女はそっと離れ、放射される禍々しい気配を消した。
チーターが姿勢を低くして草むらに隠れてじっと捕食に供えるように獲物を襲う機会を待つ。
ティナは何も見えない、何も感じられなくなって、火傷女が部屋から出て行ったのかと思ったが、
そんなはずはない、と考えを改める。獲物を目の前にして、奴がすごすごと手を引くはずはない。
シュッ。
火傷女が中指の爪でごく弱く、ティナのわき腹をひっかいた。
ティナの腹筋がぴんと張る。やはり来た。冷たい感触、切られた?
「つっ!」
痛みが追いかけてきた。
火傷女は少し間を置く。
今度は左頬だ。すっと線が入り、切り口から薄っすら血が滲む。
皮一枚を裂くように弱い切り方だった。しかし、切られた痛みはあり、
どの程度切られているのか分からないティナは恐怖に身をよじらせる。
「ひ、ひとおもいにやったらどう?」
火傷女は答えない。今度は右のふくらはぎの裏に爪が当てられる。
シュッ。
少し強い。血が滲んで、ぽたりと落ちた。
次は左肩、次は右の乳房の下、次は左足裏……だんだん力の加減が分かって来る。
それがどの程度の傷であるかも。火傷女は致命傷を与えるほどの力ではひっかいていない。
少なくとも今のところは。しかし、それよりも……ティナはひっかきの間隔が一定であることに気づく。
十五秒ごとに、爪が来る。たぶん、そのくらいだ。
シュッ。
左の手の平が切られた。
ティナは数える。一、二、三、……十四、
シュッ。
右の二の腕が切られる。
やっぱりそうだ、一定の間隔。次に来るのは十五秒後……数えたくなくても数えてしまう。
必ず迫り来る私刑にティナは恐怖した。次は何が来るのか、ひっかかれるのは何処なのか。全身が強張る。
シュッ。
神経の密集度が高い耳の裏だった。
「いっ!」
今までで一番強い痛みだ。次はどこに来る、どこに……もしかして、あそこ?
シュッ。
お尻だった。ほっとする。しかし、すぐに次の切り傷が迫っている。
しかも、どれだけの強さで行われるか、保証はない。突然、全力で身体をえぐられるかもしれないのだ。
想像すると恐ろしくなってきた。殺されてもいいと覚悟を決めていたのに、
何時殺られるか分からないだけで、心がこうも揺らいでしまうものか。
シュッ。
腰骨から太股にかけて、血の線が走る。次は……次は、どこ?
次の十五カウントは、ひっかきではなかった。
火傷女は、爪の腹で、乳首をそっとこすった。
感覚を研ぎ澄ませて、今か今かと身構えていたティナは、突然の愛撫に声を挙げる。
「ぁん」
明らかにひっかきとは違う快楽の属する刺激だった。火傷女は笑う。十五秒。
シュッ。
今度は強く、みぞおちの下辺りから縦に臍へ向かってひっかかれた。つつつと滑らされて、爪先が小さなクレーターに刺さる。
「いたいっ!」
十五秒。今度は愛撫だった。アナルを爪の腹でそっと撫でられた。
皺と皺の間を細い爪先でくすぐるようにして、ひどくこそばゆい。
アナルは主人の意思などお構いなしだ。一度大きく盛り上がって、引っ込んだ。
きゃっ、と声が漏れる。そうして幾度か、爪の洗礼と愛撫が交互に行われた。
次は……ひっかかれる。次は……愛撫。
ティナは頭の中で予測を立て、刺激に耐える心構えをする。
快楽に耐える心構えと痛覚に耐える心構えはまったく違うのだ。次は……、
ひっかき!
頭の中の数が十五に達して、ティナは身構える。
違った。快楽だった。小陰部を爪の裏でつつつと撫でられた。冷たい、心地よい刺激。
最後にぺろんと弾かれて、予想とは正反対の刺激を受けて、ティナは快楽を全身で受け止めるはめになった。
「アはッ」と声が漏れる。
ここからはランダムだった。
続けてひっかかれることもあれば、愛撫が来ることもあり、初めのようにひっかきと愛撫が交互に来ることもあった。
またその強弱も様々だ。膣に指を入れられたり、背中の筋をやんわり撫でられるだけのごく弱い愛撫であったり、
また傷もつかないほどのひっかきであったり、逆に切れた瞬間、血がぽたぽた落ちるような深めの傷であったり。
もう全く予想できない。そしていつまで続くのかも分からない。ずっとずっと、続くのかもしれない。
ねぶられ、いたぶられ、ティナの身体に異変が起こり始める。
自分でも不思議だった。爪でひっかかれる時にも、感じている。だんだん気持ちよくなってくる。
それも、きつくひっかかれるほど。
シュッ。
乳輪をまたいで、乳房に切り傷がつけられた。
「ぅん!」
あの時の声が漏れる。傷は少し深く、血がとろりと流れる。
どうして?ティナは自分でも不思議に思った。
痛いことをされてるのに、どうして気持ちよくなるの?
「あら。ひっかかれて感じるの。牝豚ちゃん」
頃合と見たか、火傷女はひっかき中に初めて口を開く。
「うるさ」
クリトリスを爪でちょんとつつかれる。
「ぃあ」
火傷女の悪趣味なお遊びはいつまでも続く。ティナの神経はすりへってぺちゃんこになりつつあった。
十五秒ごとの輪舞。
五十二枚積んだトランプから一枚ずつカードを引いて、束がどんどん薄くなっていくように、自分が消耗しているのが分かった。
感じてはいけない、屈してはいけない、抑制がティナの脳神経を磨耗させつつある。
しかし、皮肉なものだ、これが悪魔の魔術なのか、大の字になったティナの白雪のような肌に描かれた無数の赤い痕線、
まだ爪に侵されていない股の間、どどめ色の蜜壷からつうと垂れる透明の愛液は、
人間の身体をカンバスにしたアートと言っても差し支えないほどに、耽美で猟奇的な世界を構築していたのである。
やがて、火傷女が筆を休める。ティナは疲れ果てて、もうカウントする余力も残されていなかった。
「さあて」
火傷女はブーツを脱いで、ホットパンツのボタンを外して、するする降ろす。
抱きしめるとぽっきり折れてしまいそうな細いウエストに、黒皮のバンドがくるんと巻きつけられて、
正面と背面の両端から、ストッキングを釣る二本の皮が太股に伸びている。しかし、肝心な部分には何も着けていない。
火傷女はベッドに登り、ティナの腰をまたぐ。贅肉が一切ない、締まった太股をストッキングで隠しておきながら、アソコは丸見えだ。
火傷女のヴァギナは禍々しい容貌とはかけ離れた、まだ少女のものかと見紛うほど可愛らしいものだった。
恥丘は急カーブを描くことなく自然な傾きを見せ、金色の陰毛はきちんと処理されているのか、
縮れず、もつれることもなく、風になびいた稲穂のように縦に行儀よく並んでいる。
閉じられた入り口。不必要に盛り上がっていない大陰唇。割れ目に沿って、綺麗にカーブを描くラビア。肉芽は完全に皮に隠れている。
火傷女は自分のヴァギナに左手の人差し指と中指を近づける。ヴァギナが逆Vの字にぱくりと開いて、薄い桃色の肉が姿を現す。
火傷女の悪魔のような顔が女になる瞬間だった。目を切なげに自分のヴァギナに向けて、眉を八の字に寄せている。
「ん……」
小さな割れ目から、透明な液体がぴゅっと飛びだし、ティナの胸に降りかかる。
火傷女は鉤爪を自分の股間に降ろし、隠すようにして、左手で局部を上に広げている。
爪に当たった淫水が、四方八方に飛び散り、ティナの無数についた痕に降りかかる。
さらさらした液体は、匂いは尿であっても、尿とは違う何かだ。湯気がもうもうとたっている。
ぐつぐつ煮えたぎる熱湯と変わらぬ温度の液体が、ひっかき傷に浴びせられる。
「い、いたいッ!いたいッッ――!!」
火傷女が舌なめずりをして、腰を激しく前後に振った。
顔に似合わず控えめなアソコから溢れる液体が、ティナの顔から足まで飛び散る。
ティナは喉の奥から動物のような声を絞り出す。ぎぃああああ、の後は文字に書き表すのが難しい、新言語の叫びだ。
「キャッ――――――――ハハッ!」
火傷女が得意の雄たけびを挙げる。ティナは身をくねらせて頭を振って耐える。
余りの痛みに意識が失われるかというところで、やっとヴァギナから淫水が止まった。
ティナはくまなく恥辱の雨でずぶ濡れになってしまった。それでもどういうわけか、身体が火照る。
火傷女の淫水の不思議な魔力で、ティナの体躯は一個の大きな性感帯へと変貌を遂げていたのだ。
金色に光る体毛の一本一本が、膣の肉襞のように快楽を伝える凶器となっていた。身体全体が燃えるように熱い。
火傷女が上からふっとティナの胸に息を吹きかける。
「アッ」
刺激にびくんと震える。たった一息吹きかけられただけで、べろべろなめまわされているような刺激が響く。
ティナをまたいだまま、火傷女は上から呼びかける。
「欲しくなったら、おねだりしな」
「……だ、だれがっ!」
火傷女はまた厭らしい笑みを浮かべ、セーターの裾から手品師のように煙草を一本取り出し、くわえる。
その姿は女ガンマンかと言わんばかりにたくましく、スタイリッシュであった。
愛煙、ゴロワーズ・ブリュンヌ。パチン、と指をならすと、人差し指から、すっと炎が立った。
煙草に火をつけると、大きく吸って、煙をティナのヴァギナに吹きかける。
「あはぁっ」
煙の風圧だけで、頭がくらくらする。火傷女はまだ赤くなっている煙草の先を指でぴんと弾いて落とした。
ティナの腹に転がった赤い塊は、身体にふりかけられた液体で、
じゅっと音を立ててすぐに崩れてしまったが、その熱は一瞬ながらも柔肌に伝わっている。
「ひぃッ!」
痛みではない、快楽だった。
熱せられた周辺、蚯蚓腫れした切り傷がうねうねと蠢いて、身体の中へずぶずぶ侵入してくるような芯まで響く快感。
肉体が外部から来た何者かに浸食されてしまう危機感。もう一度同じことをされたら、耐えられるか分からない。
「ヒャハッ!淫乱牝豚のお前は、必ず望む」
もうティナはノックダウン寸前だった。身体は熱く煮えたぎり、それでも絶頂まではなぜか届かない。
オーガズム一歩手前で、扉を閉められて、何処にも行けないような状態だ。
火傷女は、再びティナの耳元に近寄る。帽子に隠された顔の半分が、喘ぎ声を挙げまいと必死に抵抗している。
めくれ上がった上唇、顎がかくかく震えている。電気椅子にかけられた死刑囚のようにも見える。
「これからワタシは何もしないよ。もしイカせて欲しいのなら言いな。
だが、一言でもワタシに哀願するなら、お前はあいつらの記憶を裏切ることになる」
ティナは首を横に振る。まだ拒絶の意志は残っている。
「なんたって、ひっかかれて感じて、ションベンぶっかけられて、それでもおねだりするんだ」
ティナの目から涙がこぼれ、帽子を内から濡らす。犬のように息吐き舌を出さざるをえない。
内から湧き上がる快感をせき止めようと、全神経を集中している。
「もう一度言うよ。欲しいのならいつでも言いな。だがその瞬間、お前は淫欲のためなら仲間を裏切る牝豚と証明される」
その一言で、ティナは歯をくいしばった。耐えてやる。誰が貴様の言いなりになんて、なるものか。快楽を押さえ込んでやる。
火傷女はベッドから降り、脇に腰掛け、帽子の縁でそっと煙草を捻り消すと、
セーターの裾からゴロワーズ・ブリュンヌをもう一本出して、ゆっくり一服した。
黒い網目から覗く肌、ストッキングに包まれた長い足を組んで、
交差する太股の中心に、ジャノメエリカのような可愛らしい女陰を隠しながら。
−Gore Gore Girl−
奥歯が砕けそうなくらい、かみ締める、瀬戸物の食器をたたき合わせるような音だ。
負けられない、火傷女が出した裏切りという言葉が、ティナの抵抗の原動力となっていた。
並みの女であればとっくに降参して、悪魔に救いを求めているに違いない。
ティナは歯と歯を鳴らし、前歯を擦り合わせ、息だけを吐いた。
しばらく歯軋りが続き、口に力が入らなくなって、縦に開ききった時、ティナは覚悟を決めた。
死んでやる。火傷女に屈服するくらいなら死んだ方がマシだ。
それほど快楽が脳を支配しつつあった。
絶頂のためなら全てを捨ててもいい、浅ましき淫婦の考えが、絶えず頭を駆け巡り、
今、発起したばかりの決意すら蜃気楼のように歪んでいる。
めちゃくちゃにして、と言ってしまえたらどんなにか楽だろう。
一言、イカせて、と叫べば、どんなにか極上のオーガズムを味わうことができるだろう。
誘惑に負ける前にコトを終える必要があった。自分が自分である内に。
鼻から息をいっぱいに吸い込む。
やってやる――勢いをつけ、舌の真中を噛み切ろうとした――が、口が上手く動かない。
ずいぶん前から思うようにならなかったが、自在に動かすどころか、下の歯が持ち上がりすらしない。
顎が、外れていた。
歯軋り、噛み潰し、上下運動を咬咬と繰り返し、己の限界を超えた力がかかったために、
肉体がこれ以上は無理だと、自ら役割を放棄したのである。
前歯に舌先を乗せて、上ではさみ潰すようにやってみたが、
下顎が押されて力なく下がり、徒に舌の表面を傷つけただけで、とても噛み切るまではいかない。
元々、とろけるような快感を長時間味あわされて、咬合力がすっかり衰えていた。
もう自死もままならない。皆の想いを胸に抱いて、満足な死を選ぶことも許されない。
だらしなく開かれた大口の両端から、涎がだらだら垂れて、耳たぶまで流れている。
「ごろぜぇっ!」
火傷女は無視して、ぼんやりした目つきで、斜め上にふうと煙を吐き出す。
その表情に、もちろん憐憫はない。そうなることが分かっていたかのような落ち着きぶりだ。
メルシィ。
衆目がいるならば、必ず口にするであろうお慈悲を与える気持ちなど、火傷女にはさらさらない。
ベッドの上で磔にされたあげく命と引き換えに誇りを求める決死の訴えですら、
1.5m四方の極狭い飼育小屋で一頭の豚が鳴き喚くのと何ら変わりはないのだ。
豚が仮に人間の言語を発し、もう飯はいらぬ、糞尿塗れで寝るのもおっくうな生活はたくさんだ、
今すぐ貴様の両手に握られたブラシで脳天を勝ち割り殴り殺してみろ、
そうタンカを切ったところで、人間様にとって殺すべき時でなければ殺さぬ。用となるまで生かしておく。
「ろぜぇっ!……やぐ、ごろぜぇ……」
火傷女は依然、煙草を吸いながら、あたかもここは自分の部屋で、他に誰もいないという風に、くつろいでいる。
ティナは諦めると同時に喘ぎ声を挙げた。感じているのを知らせまいと、
喉を強張らせ声帯を押さえていた力が、大きな声を出したことによって、緩んでしまったのだ。
ティナの発する喘ぎは情痴のそれというよりは、人間の声であるかすら疑わしく、動物の鳴き声と言った方が近い。
アシカの腹に焼きゴテを押し当てると、暴れ狂ってのた打ち回ってこんな声を出すのではないだろうか。
或いはじめじめした地下室に何百年も放置して、
腐ってしまったコントラバスをむちゃくちゃに弾き鳴らすと、このような音を奏でるのではないだろうか。
ひとたび我慢の紐を解いてしまうと、再び締め直すのは不可能だ。
涙はすっかり帽子を侵食し、縁のダムをやぶって、頬を濡らしている。
火傷女は、意を得たか、にたりと笑い、新しい煙草に火を点ける。
ティナはちぎれそうな正気を保とうと、懸命に自分が生きた証を辿っていく。
グリーン・フォレストへ家族旅行でキャンプに行った時、はしゃぎまわってモミの木に登って落っこちた。
泣き喚く自分の頭を、パパが優しく撫でてくれた。
子供の頃、夏が過ぎ秋が来ると、ママはセーターを編んで、それを自分にも教えた。
いつか好きな人ができたら、あなたも作ってあげなさいな、ママはそう言った。結局途中で飽きて投げ出してしまったけれど。
祖母から聞いたワーニャ伯父さんのあらすじ。エレーナはなんて言ってったっけ。
人間というものは、何もかも美しくなくてはいけません。顔も、衣装も、心も、考えも。
自分も女としてそうありたいと思った。
ナンシーと初めて逢ったのは、十歳の夏。
教室に入ると、クラス中が大騒ぎになっていて、その中心にナンシーがいた。
どうやら、虐められっ子のキャリーを守っていたらしい。
そのせいで、キャリーと一緒に取り囲まれて、四方八方から罵声を浴びせられている。
余計なことに首を突っ込む奴もいるもんだ、こわごわ遠巻きに眺めていると、
ナンシーが突然、ボス格のシシーに一発張り手を入れた。みなが一斉に静まり返った。
ナンシーは、狼みたいな眼で、周囲を黙らせたまま、「卑怯者!あんた達、恥ずかしくないの!」って言ってのけた。
すごい、真面目な顔して、なんてタフな女なんだろう、と思った。
ナンシーはその時から自分の中の密かなヒーロー。 今でも普段は引っ込み思案だけど、やる時はやるんだ、と思っている。
グレンと初めて逢ったのはナンシーと遊んでいた時だ。グレンはお母さんに手を引かれて歩いていた。
その年にしては背が高くて、大きな身体をして、おまけにかなりハンサムなのに、
ママに付き添われて、きっちりした服装をしてるのがおかしかった。
歯に矯正器をはめていて、ナンシーが呼びかけると、にこっと笑った時にそれが見えて、またおかしくなった。
でもその時からグレンの笑顔は大好きだ。二人は私が知る大分前から既に馴染みの仲だった。お隣さんらしい。
別れる時、グレンがナンシーにまたね!と大きく手を振って、その時、ナンシーの目が切なげに変わるのが分かった。
ははん、まったく、ナンシーったら。あとで冷やかして、突っついてみるとあっさり白状したんだっけ。
ロッドと初めて逢ったのは高校に入ってから。入学式が終わり、三人で喋っていると、輪の中にロッドが突然割り込んできた。
ジョークが面白くって、みんなあいつの話に聞き入ってた。
そしたら、いきなり、手を握ってきて、大真面目な顔して、好きだ、なんて言ってくる。
その時はボーイフレンドのニックがいたから「あんたみたいな勘違い野郎はお断りよ!」って言ってやった。
そしたらあいつ、世界の終わりみたいにしょぼんとして、ふらふら歩いて、上級生にぶつかって、六対一で殴り合いの喧嘩を始めた。
ボコボコにされちゃって、顔に青タンを作って、死んだんじゃないかって心配してかけよると、
もう一度私の手を握って、殴られて頭がおかしくなったのか、ティナ、愛してる――。友達からね、と言っておいた。
そうやって今の四人組は形作られた。何があっても、いつまでも、分かつことなく、続くものだって……。
火傷女の淫水はインクのようにティナの白肌に染み渡り、既に表面から消えてしまったが、代わりに大粒の汗がにじみ出ている。
雫が赤い痕にそって流れ、時にぎりぎりの刺激を加える。
胸から恥丘にかけて作られた無数の痕は、いびつな赤い木のように描かれ、
上に下に斜めにとまっすぐ枝を伸ばし、そこになった透明の実が背や尻をぐるんと駆け抜けて落ちる。
限界に達しつつあるのをティナ自身が悟った。
既に愛液はアナルをもぐじゅぐじゅに濡らし、ベッドの上に大きな丸い染みを作っている。
快楽の波を押しとどめるために、思い浮かべた記憶の数々が、ぐるぐる巡って熱したバターのように溶けていく。
ママの記憶が消え、パパの記憶が消え、祖母の記憶が消え、グレンの記憶が消え、
ナンシーの記憶が消え、ロッドの記憶が消え――いや、最後にキスの記憶だけが残る。
なぜキスが残ったか、誰の意志かはティナ自身にも分からない。
ティナは奇跡のキスを反芻する。何度も何度も、あの時の感触を思い出し、淫欲とは全く別の、人間がもたらす温かみにすがる。
ティナは恐るべき悪魔に対し、たった一度のキスのために戦い続けた。
人間が私利私欲のためでなく、何か別の素晴らしいもののために戦えるのであれば、今まさに、ティナはそれを実行していた。
しかしやはり無謀な戦いであったのか、消耗した体力に加え、出口の見えぬ絶望と絶頂への執着が、ティナの精神を徐々に蝕んでいった。
長く続いた戦いはとうとう終わりを告げ、淫欲の波が完全にティナの身体を征服した。
「……もヴ、だ……べ……」
火傷女の小さな耳がぴくっと動く。
「んだってぇ?」
わざと大きな声で、ティナに呼びかける。
「……い……が……ぜ……で……」
やれやれ、小さく首を振り、おかっぱのブロンドを揺らせて、火傷女は腰を上げる。
待ち焦がれた様子はない。ただ自然に立ち上がる。満身創痍のティナに、まだ余力があると考えているようだ。
「まったく、近頃のクソガキは口の利き方もしらないねぇ」
言い終わると、煙草を投げ捨て、あくびをしながら、爪を丸めて背伸びして、そっとティナの耳元に顔を寄せる。
「いいかい?こう、言いな」
「お・ね・が・い・し・ま・す。わ・た・し・は・ど・う・し・よ・う・も・な・い・め・す・ぶ・た・で・す。イ・カ・せ・て・く・だ・さ・い」
お手本は、ゆっくりと、正確に、染み入るように発音された。
ティナは螺子の外れた首振り人形のようにかくかく頷く。
あわれ、仲間の絆を胸に抱き、誇りある死を望んだ一人の少女が、唾棄すべき悪魔に屈服した。
火傷女は再びティナの傍から離れる。壁にもたれかかり、腕を組んで、二の腕を爪でノックしながら、哀願の言葉を待ち受ける。
ティナは下顎を野放しにして、唾液塗れの口を動かし、切ない声を搾り出した。
「……おねっ……おねぇっ……がぁあいぃ……じまっ……ずぅ……わだ……わだぁじぃ……ばぁっ……」
「どっ……どっ……じょおお……もなぁいっ……めず……めずっ」
牝豚の一語が効いたのか、ティナのヴァギナから、ぷしゃあ、と愛液が飛び散り、火傷女のセーターにも降りかかった。
「うわっ、潮噴きやがった。このマゾ牝豚」
「……めずっぶだぁでぇっ……ず……」
「いっ……いガっ……ぜっ……でぇ……ぐだ……ざぁ……い……」
火傷女が爪を裏返し手の平に叩きつける。かちゃ、かちゃ、かちゃ、拍手のつもりであろう。
「よくできました。ティナ」
言うが早いか、火傷女の眼が悪鬼のごとくつりあがる。禍々しいオーラを放ち、ゆっくりとティナの身体へと向かう。
全身の毛が逆立ち、ちりちりと焦げるような圧迫感が、ティナの身体を襲う。
それだけで、オーガズムの扉はもう半分ほど開かれていた。
あとは火傷女が指一本でも触れさえすれば、なんのことはなく昇天してしまうだろう。
火傷女の左手がティナのヴァギナへじりじり伸びていく。
尖った赤いマニュキュアの先は膣口まであと1cmもないであろう、
救いの手がもう少しで届きそうな距離にあるのが、ティナにも伝わった。
ティナは一声大きく鳴いた。待ち焦がれた絶頂がついに叶う。全てを捨てて牝となる瞬間が迫っている。
が、何を思ったか、火傷女はさっと気配を消して、左手を引くと、ティナの耳元に唇を寄せた。
「い、や、だ。ヒャハッ!」
ティナが絶叫した。おうおう唸った。全てを捨てて望んだものすら却下され、あらん限りの力で喉を震わせ、慟哭した。
パチン、火傷女が指をはじいた。どういう仕掛けか、ティナの身体を襲う快感が徐々に引いていく。
引き換えに、磨り減った記憶の数々がまざまざと甦ってくる。
手足を舌で縛られて、牝の歓びすら失われ、仲間の記憶を裏切ったティナにいったい何が残っているのだろう。
快楽の波が過ぎ去ると、湧いてくるのは後悔の念。ただ自分が牝豚であると認めざるをえない弱い心の数々。
守り通すと心に誓った決意が崩れ去り、悪魔の言いなりになり、堕ちてしまった屈辱感。
火傷女が、この機を逃すはずもない。ティナの声色を使い、自分の肩を嬉しそうにめいっぱい抱いてパフォーマンスを開始する。
「あなたに・・・・・・ロッドに、グレンに・・・・・・逢えてよかった。ヒャハッ!」
びくん、ティナの身体が震える。心の中でもう一人の自分が声を挙げる。
そうだ、私は、あんなことを言ったのだ。本当に、あの時は、そう思っていたのだ。
心から思っていたのに。みんなに逢えてよかった、ずっとずっと同じ時を過ごせればいいって、思っていたのに。
「う、そ、さ。お前の言葉は全部うそ。お前の気持ちも全部うそ」
その通りだ。私はみんなを裏切った。
あんなに優しい気持ちをくれたロッドを裏切った。ナンシーを裏切った。グレンも裏切った。どうしようもない牝豚なのだ。
「一本ブチ込まれるためなら」
そう一本ブチ込まれるためなら全てを捨ててしまう。淫欲を糧に生きるだけ。人間ですらないのだ。
生きている価値などない。心を持つことすら許されない。
裏切り者。自分が決めた決意すら守れない半端者。口だけの一時の性欲に流される不埒者。
「嘘」
嘘。神様はいない。祖母はきちがいだ。ワーニャ伯父さんと再婚したきちがいだ。
その祖母が大事にしてた十字架を握ってた自分はもっときちがいだ。
「うそ」
うそ。あのキスは真実でも何でもなかった。奇跡なんて起こらない。ただの一時の気の迷いだった。
自分が勝手に感激して舞い上がっていただけ。ロッドはただ駄々をこねる私を黙らせたかっただけ。
私は救いようのないバカだ。こんな不埒な頭のおかしい女にキスするロッドも大バカだ。
「ウソ」
ウソ。何もない。信じる人は誰もいない。これまで生きてきた記憶全てがうそ。
パパに頭を撫でられた記憶うそ。ママに編み物を教えてもらった記憶うそ。
ナンシーに抱きしめられた記憶うそ。グレンが見せてくれたまっすぐな笑顔うそ。
「ウ、ソ!」
ウ、ソ!
私が、信じた、愛する人、うそ。
うそ。
ウソ。
ウソ。
ウソ。
ウソ。
うそうそうそ……。
突然、ティナの全身が固まった。肉体が全ての機能を停止したかのように見えた。
息もしない。瞬きもしない。帽子をかけられた、よくできたマネキンのようにぴくりとも動かない。
火傷女も動きを止めた。まるで一枚の絵のように、世界の全てが凍りついた。
しばらくして、ティナを見つめる火傷女の切れ長の眼だけが、恍惚の悦びに緩んでいく。
呪われた絵画、夜中になると絵の中の男の眼が動く、そんな風に――世界で動いているのは、火傷女の眼だけであった。
目尻が下がり、綺麗な楕円を形作り、止まったところで、ティナが突然口を開いた。
「あばっ……あばあっ、ばっばっばっ」
世界が動き出した。奇怪な声はなんであろう、他ならぬ笑い声だった。
唾液が舌下に残り、上手く発声できないでいるため、溺れた阿呆と何ら変わりはない。
よりどころを失ったティナの精神は崩壊した。ただ貪欲に快楽を求めるだけの畜生と化した。文字通りの牝豚となった。
「あばっ、あばっ、びぃ、ひびぃっ、ぎゃばっ」
堪えきれぬ笑いが、唾を飛び散らせ、喉まで通し、鼻へ逆流する。ティナはげほげほと咳き込んで、唾液を上に撒き散らす。
「キャッ――――ハハハハ―――ッッ!!!」
火傷女の勝利の雄たけびだ。
ティナは全てを空に吐き出し、いくらかを顔を浴び、口の中の邪魔者を追い出すと、ようやく人間の声で、絶えることなく笑いだす。
「キャハッ、キャハッ、ヒャヒャ、ヒヒィィ、ヒィッ――ヒヒッ」
もうどちらが狂っているのか見分けもつかない。
二人の痴女がただ笑い転げる様は精神病患者の戯れに見えてもおかしくはない。
事実、二人とも狂っているのだから、そう言い表すのが適切であろう。
火傷女は、ティナの光を奪っていた中折帽をはぎ取った。
明るさを取り戻したティナの瞳には何が映っているのだろう。理性を失い、ただの畜生と成り果てたその眼には。
「ヴァッ!ヴァッ!ヴァッ!」
奪われた帽子を取り返そうと、ティナは外れた顎を上下させ、鋭い爪に食いかかった。
火傷女は面白がって手をひらひらさせ、振り乱れるティナの頭を飼い犬にするように優しく撫でてあやしている。
「とても綺麗よ。いい子ね、ティナ」
火傷女はヒヒッと含み笑いしながら帽子をかぶる。
頭にぴったり収めると、両足を大きく広げてベッドに登り、狂人に女陰を晒したまま一人ごつ。
「惚れた野郎の思い出なんざ、不味くて食えたもんじゃないからねぇ」
にたりと笑い、右手のグローブをいっぱいに広げて、上段に構え、ティナの白いおなかへ投げつけるように振り下ろした。
ロッドは悪寒を感じて、うつぶせの姿勢で、目を覚ました。枕が目に入った。
シーツが、漏らしたみたいに、ぐじょぐじょに濡れている。汗?にしてはおかしい。
部屋の電気が、いつのまにか消えている。ティナが一度起きて、消したのだろうか。
疲れて、身体に力が入らない。腰が痛い。顔を左に向けて、手を這わせる。
「ティナ」
ティナは横にいなかった。ベッドに寝ているのは自分一人。トイレにでも行ったのだろうか。
仰向けに転がる。探し人は、自分の頭上に、浮いていた。
ロッドは朦朧とした意識の中で、昔見た怪奇映画――神父が女の子を取り囲んで、
聖水をぶっかけて、ベッドがガタガタ揺れて、を思い出していた。
あれ?こんなシーン見たことあるぞ?
と、首をかしげて、すぐに映画でないことに気づく。
ティナが、手を後ろ向きに下げて、足をぴんと伸ばして、身体が真っ赤に腫れて……いや、無数の切り傷だ。
「なっ……」
突然、部屋のドアが強風に煽られたかのようにばたんと閉まり、独りでに鍵がかかった。
仰向けになったティナは空中浮遊・マジックショーのようにどんどん浮き上がっていく。 いや、ショーなんかじゃない、これは。
ロッドは何かとんでもないことが起こりそうな気がした。心臓が走っている。血液が全力で駆けている。
ティナが天井につこうかという瞬間、ロッドは立ち上がり、だらりと下がった手を引こうとした。
すると、ティナの身体がくるんとひるがえった。
「ティ……ナ?」
ズジャッ。腹に斜めに四本の深い切り傷が入る。
血が吹き出して、ロッドの顔を濡らした。
ロッドの視界が真っ赤に、フィルターをかけたように変わる。思わず顔を歪める。膝をつく。
「ティナッ!」
ズジャッ。
左胸をえぐるように四本の深い切り傷が入る。
腕で血を拭い、見上げる。乳首が縦に裂けた。
「や……」
ズジャッ。
太股に炸裂した。肉の切れ目から白い骨が見えている。
「やめろォッ!」
ズジャッ。
左手の人差し指、中指、薬指がいっせいに三本とも吹き飛んだ。
「やめてくれえッ!」
ティナが突然かっと目を開いた。
顔をまっすぐ向けて、ブルーの瞳をゆっくり左右に動かして、何が起こっているのかわからない、と言った風に。
目を降ろして、下で血まみれになっているロッドを見つける。
彼を見た瞬間、ティナはほんのコンマ何秒か自分を取り戻した。愛する人の名を呼ぼうと声を絞り出そうとした瞬間、
ズジャッ。
喉が切り裂かれる。
「ろっぼ」
ごぼっという音ともに、喉の切れ目と口から血がぼたぼた落ちる。
ロッドの顔はもう真っ赤に染まっていた。
ロッドの悲鳴でグレンは虚ろな意識から立ち返った。ナンシーは既に起きていて、グレンのベッドの脇に立っている。
「ねえ、おかしく……ない?」
グレンは頷いて、ベッドから飛び降り、ナンシーの手を引いて部屋を出た。
廊下にでると、隣のティナの部屋のドアを通して、悲鳴が相変わらず響いている。グレンは部屋をノックする。
「ロッド!どうした、開けろ!」
悲鳴以外の応答はない。それも驚いたなんて様子じゃない。正真正銘の恐怖の悲鳴だ。
ロッドが、こんな声を出すなんて、今までなかったことだ。よっぽどのことだ、グレンの脳裏に嫌な予感が走る。
「ロッド、ねえ!開けて!なにしてるの!」
ナンシーの頭の中をティナの言葉がぐるぐる駆け巡る。
「もし、私が死んだら」「もし、私が死んだら」「もし、私が死んだら」
そんなことはあるはずがない、そんなことはあるはずがない、
ティナが死ぬなんてあるはずがない、念じて、不安を押さえ込もうとする。
しかし、ノックする力がだんだん強くなっていく。もう殴打に近い。
悲鳴はまだ止まらない。来たばかりの頃は叫び声だったが、だんだんと弱々しくなっていく。
泣き声に混ざって懺悔するように、ロッドがティナの名前を繰り返している。
「ナンシー、どいて!」
ナンシーが両手を上げて横に避けると、グレンは扉に向かって肩でタックルを開始する。
フットボールで鍛えられた鋼の肉体が、全力で扉にブチ当たるが、びくともしない。
室内は既に地獄絵図と化していた。無残――悪漢に徹宵(てっしょう)嬲(なぶ)られたとて、こうはなるまい。
ティナは脈管五臓を切り裂かれ、火傷女の狂気によって彩られた芸術作品と化した。
頬骨が見え、ビューティー・ダックの唇は、左側が耳たぶにかかるまで、右側は外れて垂れ下がる顎の下まで縦に切り裂かれ、
なんと、美しき少女の唇はいまや墓から甦り死体を貪る食屍鬼のそれではないか。
下唇が斜めに開いて、ピンクの歯肉と規則正しく整列した白い歯が見え、二つに裂けた舌先が前歯にひっかかっている。
鼻腔から二本の爪を突っ込まれて引っ張り上げられたか、可愛らしい小鼻は三叉に裂けてしまった。
右の眉から頬まで入った斜めの切り傷、横に潰れたブルーの眼球が、瞼が切れて開いた眼窩から飛びだしている。
幾重に裂けた胸腔(きょうこう)、ハイスクールの女の子達が羨んでいた、形の良い胸はもはやそこにない。
萎んだ高熱気球のごとく、老婆の乳房と変わり果て、裂け目から橙色の脂肪をぼたぼた落とし、肋骨が姿を現している。
乳首は縦に横にと傷つけられ、最後には根元から切られ、砕けたボタンのようにはじけ飛び、シーツの上に転がっている。
窓から差し込む蒼い月光が、だらり下がった四肢を照らし、累々滴る紅と混ざりあい、薄紫に色を添える。
横一文字に大きく切り裂かれた腹部は、あふれ出んとする臓腑を漏らすまいと、はちきれんばかりに膨らみ、
隙間から覗く大蚯蚓の大群が、今か今かと顔を出そうと押しくらまんじゅうを開始する。
背面とて無事ではなく、肩の裏から差し込まれた刃が、腰に向かって何度も移動を繰り返したのだろう、
開いた穴から肺胞に溜まった空気が漏れて、しゅうしゅう血を泡立てている。
局部は恥丘から肛門までをごっそりこそぎ取られて、開けてしまった膣道と直腸を晒している。
少し経ち、黄土と赤のまだらになった一匹の大蚯蚓が、広がった裂け目から脱走に成功してだらんと垂れ下がり、
全体が逆さに釣られたキィ・ホルダアのごとき様相を呈した。
金の毛色、蒼い月光、黄土の腸、交差する紫、真紅の血液、
これら五色が絶妙の配合を見せ、雲で月が隠れるたびに、さわさわと色彩を変え、屍を艶やかに演出する。
斬痕の一つ一つから血が断続的に飛び散り、小さな花火の粉を降らせ、
ベッドの上で両手を顔に寄せて泣き崩れる哀れな男が、頭から血の雨をぱちゃぱちゃ浴びている。
爪の乱舞が終わりを告げて、最後の仕上げが行われた。物言わぬ骸は、ぐるりと回転し、 部屋の奥、天井の角へと突進していく。
角に頭を激突させて、首の骨がねじ切れる嫌な音が響いた。
百八十度捻れた首のおかげで、骸は薄気味悪い背面人間と化し、腹から臓腑を一気に吐き出しながら、
四人の写真が立てかけてある棚と卵型の蛍光灯の間に、押し込まれるように、どすんと落ちた。
全てが終わった時、グレンのタックルで扉が開いた。駆け込んだ二人を、蒸れた鉄の臭いが襲う。
血だらけの部屋――惨状に、二人とも声も出ない。
グレンは見た。赤達磨と化した男の顔を。ナンシーは見た。暗がりの中、溢れる脾臓小腸を。
ロッドがグレンに眼を向ける。涙が顔の血を拭い、頬に線を作っている。震える唇。「ティ……ティナ……が」
「死んだ?ええ、めちゃくちゃですよ。最悪の事件です」
午前四時、ドナルド・トンプソン警部補は、アレックス刑事から報告を受け、張り込み先から市警へ直行した。
駐車場に車を停めて、紫煙をくゆらせて、歪んだ右目を細める。
眦に深い皺が寄る。腹を空かせたハイエナのように痩せた頬。前髪が後退した頭には、薄っすら黒髪が残っている。
まったく、この街もすっかりろくでなしが蔓延る掃き溜めになりつつある――トンプソンはまだ平の巡査だった頃を思い出す。
十五年前、この街最大のくそったれを葬った。平和になると思ったが、まったくの誤りだ。
麻薬、強盗、殺人……件数は増加の一途。自分が退職する頃にはもっとひどくなっているだろう。
クズがクズを産み、クズがクズを育てる。いつまでも続くクズの連鎖。
厄介事を撒き散らしそうなろくでなしをリストアップして、一列に並べて右から順に射殺したい気分にかられる。
トンプソンは車から降り、警察署の入り口の階段に駆け足で向かった。
今日も最悪な事件が起こった。特に自分にとっては、間違いなく、人生で二番目に最悪な事件だ。
「ああ、警部補殿、お休みのところ、ご苦労様です」
「構わん。張り込み中だったからな。ジョーイ、頼む」
横に若い刑事がぴったり張りついて歩調を合わせ、手にした用紙の束をめくってトンプソンに詳細を伝える。
「被害者はティナ・グレイ、十七歳。プレイサーヴィル・ハイスクールに通っています。
進学クラスですね。両親は健在で、ベガスに旅行中とのことです。今連絡を取っているところです」
「急がせろ。なるべく、穏便にな」
ジョーイは頷いて、トンプソンを見た。
「……親の立場としては気が気じゃないですな。私も娘が」
ジョーイの言葉が止まる。トンプソンが冷たい視線で自分を睨みつけていたからだ。
長年の経験でつちかわれた刑事の眼光は、並みの暴漢にナイフを向けられるより恐ろしい。
「す、すいません」
「続けろ」
「犯行現場は被害者の自宅、被害者の部屋ですね。証言によると、犯行直後、中から鍵がかかっていたようです。
密室ですね。見たところ、刃渡り15cmほどの刃物に拠る裂傷。
直接的死因は、おそらく出血多量によるショック死。ひどい……めった切りです。
被害者には性交の跡があります。詳しいことは司法解剖が終わってからになりますが」
トンプソンは署内に入り、中を見渡した。
アレックスがデスクにかじりついて、一週間前に市街外れのウッズボローで起こったプレスコット殺害事件を処理している。
亭主に内緒で売春を繰り返した子持ちの女が、モーテルで激しいレイプを――あれはプレイではないだろう、
受けた後、何者かに刺し殺された。容疑者はプレスコットを買ったコットン・ウェアリー、
現場に指紋つきの凶器とレザーコートが投げ捨てられていた。目撃証言もある。その線でまとまり、現在捜索中、だったか。
「ご苦労様です。警部補殿」
アレックスの挨拶に、トンプソンはうなずいて、カウンターを横切り、奥に伸びる通路を進む。足取りが徐々に重くなる。
「目星はついてるのか?」
「ロッド・レーン、同じく十七歳。被害者の交際相手です。プレイサーヴィル・ハイスクールに通っています。
こちらは就職クラスですか。片親ですね、父親と二人で生活しています。
兄妹は成人した姉が一人……いますね。今はシカゴに住んでいるようです。
父親とは連絡がとれて、今、こちらに向かっています。自宅はデューイが張り込んでますが……大丈夫ですかね、あいつで」
一つ目の角を右に曲がる。デューイ、あのホモみたいにへらへらしてる新米の腰抜けか。
「相手はガキで、銃も持ってないんだろ?だいいち、心配しなくても、すぐに帰ってくるほどバカじゃないだろう。
通報されたことはホシも承知してるんだろ?」
「まあだから行かせたんですけどね」
ジョーイがにやりと笑う。
「……ええと、証言によると、この野郎は、事件が起こる直前まで、被害者とよろしくやってたようですね。
犯行現場に独り、血だらけでいたそうです」
まったく、まだ二十歳も超えぬしょんべんたれが、夜中に男を引き入れて乱交か。殺されても文句はいえんな。
トンプソンは溜息をついた。刑事として多くの事件を見てきた弊害、厳格に過ぎる男であった。
もし自分の娘が下らん男と夜遅くまでドラッグとセックスに耽ろうものなら、
我を忘れてこっぴどく折檻したあとで、相手の男を一方的に撃ち殺してもおかしくない。
「前歴はあるのか?」
「ええと、暴行容疑で二回、捕まってますね。去年と一昨年ですね。不良同士の喧嘩ですな。
小競り合いといったところでしょう。死亡者や重傷者は出ていません。あとマリファナ所持で一回。
他には特に……ありませんね。駐車禁止やスピード違反、その程度です。
犯行時にバタフライ・ナイフを所持していたようです。それにしては傷が深すぎますが」
トイレの脇を通り過ぎる。この時間でもまだ残っている者は多い。手を洗う音が聴こえている。
勤務時間をとうに過ぎているのに、片付いていない事件が山ほどあって家族の待つ我が家にも帰れない。
「動機は?」
「まだよく分かってませんが、クスリきめて喧嘩でもしたんじゃないでしょうかね。
最近、悪質なドラッグが出回ってますから、ほら、あのヴィデオ……なんとかっていう。
拳銃振り回して、新人類よ――永遠なれ」
「使った形跡はあるのか?」
「いえ、それは」
「ないなら言うな。分からんならいい。状況は、変わらずか」
ようやく目的地に到着した。表札もなく、ただ白のペンキを塗られた扉。窓にブラインドがかかっていて中は見えない。
「逃走中です。車を持ってますが、犯行後に使った形跡はありません。
付近住居の庭のホースを借用して、血を洗い流したようです。まだ近くにいますね。どこかその辺に隠れているんでしょう」
トンプソンは目の前の扉を、ノックもせずに開けた。
殺風景な部屋に、黒髪の少女と、栗色の髪の中年女性が丸椅子に腰掛けて座っている。
少女はうつむいて、膝と膝の間に手をやり、泣いているようだった。
中年の女が、少女の肩に手をやって慰めの言葉をかけている。
「分かった。続けて現場付近を捜索しろ。夜が明けても、見つからなければ、手を、考える……何をしている!」
「すっ、すぐに、逃走経路を特定……」
「お前じゃない。ナンシーだよ。ナンシー!お前はいったい、そんなところで何をしていたんだ!」