−The Last Supper−
ティナは四日間学校を休んだ。グレンがティナの担任の教師に訊けば、病欠としか教えてくれなかったらしい。
ナンシーはロッドに「まさか、変なことしたんじゃないでしょうね」と疑惑の眼を向けたが、
当の本人は広い胸板を反らせて、ぱりぱりのジーンズのポケットに手を突っ込みながら「知らねえよ」と否定する。
「本当だ。俺だってティナが心配だからな……家まで会いに行ったさ。だけどあいつ、顔も見せやがらねえ」
ロッドはワックスできっちりオールバックに固めた頭を下げて、耳の裏を一かきし、下から覗き込むようにしてナンシーに訊ねた。
「ナンシーこそ、ティナから何か聞いてないか」
「ごめんなさい。私も心当たりがないの。特に、変なそぶりは見せてなかったし……」
「一度、三人で行ってみないか?お見舞い」
グレンが提案したが、ナンシーは「そっとしておいた方がいいんじゃないかしら」と消極的だ。結局ロッドの案が採用された。
「一週間経って音沙汰なかったらグレンのケツに乗っからせてもらう」
週が明けて月曜日、ティナは遅れて学校に来た。
一時間目、同じ授業を受けているナンシーは、ティナが教室のドアを開けて入ってくるのを見て、
初めは安心したのだが、すぐに異様な空気を感じ取って、眉をひそめた。
久しぶりに見るティナの顔は青ざめていて、目の下にはクマをつくり、心持ちやつれたようにも見える。
「ティナ」
ナンシーは小声で呼びかけて手を振ったが、気づいたティナは一瞬怯えたような素振りを見せ、小さく手を振り返すのがやっとだった。
終業のチャイムがなり、次の授業のために皆が移動を開始した。
全員が出きらない内に、厚手のポロシャツを着たグレンが、まだ眠いのか、GIカットの頭をかきながら、いちばん乗りでやってくる。
ティナを見つけると、端整な顔をみるみる緩ませて、ナンシーの席まで駆け寄ってきた。
「ティナおはよう!もうよくなったの……って、どうしたの、寝不足?」
「うん……怖い……夢をみて」
「へー。俺なんかもう朝起きたら目ぱっちり開いちゃってビンビンでさあ!」
聞きなれた軽い声に、皆が振り返ると、ロッドが黒皮のジャンパーを揺らせて、いつのまにか後ろに立っていた。
「俺様、感動しちゃってね」
ロッドはうつむき加減のティナにそっと近づいて、へらへらしながら肩をぽんと叩く。
「オー神よ……、今日も今日とて、爽やかな目覚めをお与えくださり感謝いたします。
つきまてはその印といたしまして……息子にお前の名前書いちゃった」
ティナの肩が震えだす。顔をきっと上げてロッドを睨みつける。
「……あんたのアレに……私の名前書けるスペースなんてないでしょ!」
ティナが今日初めて、強い口調で言葉を発した。
「ぷっ」
グレンが笑った。ナンシーもつられて笑う。
「なんだよ、ブルドーザー並みの威力知ってんだろ?」
「バーカ」
ますます笑い声が大きくなって、ロッドは拗ねた顔で舌打ちをした。いつものパターンだ。ロッドはティナにやりこめられてしまう。
しばらく喋ったあと、皆の顔を見回して、ティナが切り出した。
「明日の朝から、パパとママが旅行に行くの」
「そりゃいいね。お前ん家まで三本足で走ってっちゃう」
ティナは無視して話を続けた。これもまた、いつものことだ。
「それで、いきなりこんなこと言い出して悪いんだけど……
明日の夜、みんなに私の家に来て欲しいかな……って思ってる。都合どう?」
「私はたぶんオーケーよ。でもティナ、身体の具合は?」
ナンシーの声で、ティナの眉がぴくりと震えた。
「心配しないで……それより、独りでいたくなくて。寝る場所は来客用のがあるから……」
「ティナの快気祝いってとこかな」
グレンはフットボールで鍛えられた腕を突き出して、ロッドとハイタッチする。
「ったく健康優良児よお」
「どうも」
二人のやりとりを見て、ナンシーはいつかのティナの言葉を思い出す。
(プロムの時は気をつけなきゃダメよ。グレン狙ってる子、けっこう多いんだから)
「グレンのお母さん、許すかしら」
グレンの母親はグループ内では「教育ママ」の見識で一致していた。
おそろしくマナーに厳しく(彼女の前ではロッドでさえ丁寧な言葉遣いになる。もっともロッドはなるべく避けているのだが)
グレンの帰宅が門限より少しでも遅れると、箒を抱えたまま庭に立って夜中になってもずっと待っている。
不思議の国のアリスのトランプ兵士みたい、ナンシーは自分の部屋の窓から幾度かその光景を眺めてそう思った。
「その件は俺に任しとけ」
ロッドが両手の人差し指でグレンを指して言った。
「とっておきの秘密兵器がある」
ナンシーがあきれたように、ふう、と息を吐いた。
「また変なことたくらんでるわね。ほんとにもう」
次のチャイムがなるまで、四人はパーティーの内容を話し合った。
ロッドが大の苦手な数学の授業をエスケープするために窓から抜け出して、
ティナとナンシーは歴史の授業を受けに教室を出た。
廊下はもう人がまばらになっていて、ハイスクール特有のごったがえした喧騒が収まりつつある。
「まったく……バカでやんなるわ、あいつ」
ティナはうつむきながら歩いているが、その表情には薄っすら笑みが浮かんでいるようにも見えた。
「あなたに夢中なのよ」
ティナがいくぶん元気になったように思えて、ナンシーは嬉しかった。
次の日、学校が終わってから、ロッドが四人乗りの赤いオープンカーで皆を拾っていった。
愛車のクリスティだ(どうやら、購入時に既にそういう名前がついていたらしい。ロッド談)。
「68年型、赤のプリマス。ちょっとばか古いが、まだちゃんと走るし、なかなかイカした車だ」
ロッドは左手でバタフライ・ナイフをくるくる回しながら、ずっと片手ハンドルで運転していて、信号待ちで
「もう。危ない」
後ろに座っているナンシーにナイフを取り上げられた。
ナンシーの横に座っているグレンがナイフを受け取り、刃を一度出して、しげしげと眺める。
ロッドがいつも持っている青い鎖柄のナイフとは違うものだった。新調したのだろうか。
刃を閉じて前から手を伸ばしているロッドに返すと、ナイフは黒いジャンパーの内ポケットにすばやく滑り込んだ。
「ナイフなんか持ち歩くなっての」
「へえへえ、お坊ちゃん」
「ロッド」
ティナがたしなめる。
グレンは気を取り直して、後ろから身を乗り出して、お気に入りのラジオ番組にチューナーを合わせる。
『ファンキ―――!ミュージック!1043!』
ヒュ――!
ロッドが口笛を鳴らした。
ショッピング・モールで一度停まって、ティナとナンシーが今日の分の食料やお菓子と、ティナの四日分の貯えを買いに行った。
「すぐ戻るから」
男二人が車に取り残され何処を見るともなくぼうっとしている様は哀愁以外に形容のしようがない。
地方ラジオの人気DJ――ヴァニータ・ストレッチ二十七歳が、カーステレオを通して、ふぬけた野郎共を励ますように喋っている。
『ファンキー、ミュージック。さあ今日もハガキをどんどん紹介しちゃいましょう。
えーそれではさっそく。ロニー・タウン、ペンネーム、トミーくん。十歳、えー、いつも綺麗なストレッチさんこんにちは。
まあませてる。てか、見たのか。このやろう。なんちゃって、僕はママとおねえちゃんとゴードン、あ、犬ね。
わんちゃんの絵が描かれてます。かわいー。えーと、一緒に住んでいます。
僕がテレビ・ゲームにはまっていると、ママは勉強しなさいっていつもうるさいです。ねー、私も勉強苦手だったのよ、うん。
特に算数が全然できなくって、どうでもいいか。トミーくんは勉強しなさい。お母さんの言うことが正しいです。
はは、自分のことを棚にあげて何を言うか。えー、僕はメイクにはちょっと自信があります……って、お化粧するの?
え?あはっ、今ビルが持ってきてくれたんだけど、ほんと凄いわ、凄い凄い。
みんな分かんないよねー、ごめんなさい、いやお見せできないのが本当に残念、
今ね、私の目の前、マイクの横に置かれてるんだけどー、なにかな、これ?どうやらトミーくんが作ったマスクのようです、
リアルですよー、ほんと映画で使われてるみたいなの、狼男かな?がおー。ハロウインで重宝しそうですね。
マイケル・マイヤーズが泣いて喜んじゃうよ。まだ小さいのに大したもんだ。
トミーくん、マイケル・マイヤーズ、知ってるかな?怖いぞー、ブギーマンだぞー、
チャチャチャチャチャチャーンチャーンチャーン、失礼。えー、家の近くはキャンプ場になっています、へー珍しいね。
時々かっこいい女の子達が遊びにきて湖で泳いでいます、ほうほう、私も休みがもらえたら行ってみようかしら、
えー、なになに、その時、カーステレオから流れてた曲なんですけど、
お姉ちゃんに頼んでアルバムを買ってきてもらって、毎日家で聴いています。
どうかその曲を流してください、いつも綺麗なストレッチさん、だから見たのかよ。二回目かよ。
でもちょっと嬉しかったりして、おねえさん、そこまで言われちゃしょうがない。
トミーくんのリクエスト、「Iron Maiden」「Flash Of The Blade」』
エッジの利いたギターソロがカーステレオから流れて、車内を飛び越えて霧散した。
ロッドは彫の深い顔を歪めて、一つ大きくあくびした。グレンには、まるでハスキー犬が吠えているように見えた。
「暇だ。暇で死にそうだ。何か面白いこと言って」
グレンは考えた。面白いこと……面白いこと……。言われてみると思いつかない。
腕を組んで、真剣に記憶をさらってみる。頭がだんだん下がってくる。面白いこと……面白いこと……。
「あーいい。お前に期待した俺が間違いだった」
ロッドはジーンズのポケットに手をやり、黒光りするサイフを取り出して中を色々と確かめ始めた。
指で押し広げて、どこにも探し物が見つからないと分かると、車のキーを抜いた。疾走するギター・サウンドが急停止した。
「おいおい、止めるなよ。いいとこだったのに」
ロッドは無視して車を降りて、グレンに手招きしながら後ろ向きに歩いた。
「なんだよ」
「いいから来なさい」
グレンは車から降りて、ロッドに着いていった。
モールは四階建てになっており、中にいるのは夕食の材料を揃えに来た主婦がほとんどだったが、
今ロッドが通り過ぎたカフェテリアで談笑しているハイスクール・ガールや、
カジュアルな格好でショッピングを楽しんでいるカップル達も余暇を楽しんでいる。
ロッドは足早に進んでいき、エスカレーターに乗った。
グレンが下を眺めていると、買い物かごを手に提げたナンシーとティナが目に入った。
なんだか――買い物してるナンシーは不思議だ。結婚したらこんな風になるのかな、と、なんとなしにグレンは思った。
声をかけようとして、ロッドが口をふさぐ。彼なりの気遣いであった。
二階へ到着、ロッドがずんずん先へ進んで、たどり着いたのは薬局だった。
縦長の箱を掴みとり、レジへ持っていって、購入、8ドル50セント也。
エスカレーターまで戻ったところで、グレンがなんだと聞くと、ロッドが人差し指を折り曲げて笑った。
もどかしくなって、袋から出して手に取り眺めると一ダースのコンドーム。グレンはばつが悪そうな顔をした。
「避妊はしましょう」
「……ああ」
ロッドはおもむろに箱を開いて、連なったコンドームを三つ、グレンに渡した。
「ガツンと決めろ。ナンシーも待ってるぜ」
「余計なお世話だ」
グレンは三つともチノパンの後ろのポケットに詰め込んで、ロッドにお礼を言った。
今日という日になくてはならないものを手に入れた二人は、いち早く車に戻ってそれを使う対象者が帰ってくるのを待った。
ロッドは中身を全て取り出した後、運転席から無用の長物となった空箱を網目状のトラッシュ・ボックスへ投げた。
グレンの心の中で審判員がタッチ・ダウンを宣告したと同時に、回転扉をくぐって二人が出てきた。
紙袋を抱えたナンシーとティナが、何やらぎこちなさそうに会話を交わしながら、クリスティに帰還した。
「ただいま。けっこう時間かかっちゃった」
グレンがそわそわしてナンシーを迎え入れた。
「おつかれさま」
「おう、じゃあ行くか」
ロッドがキーをひねると、再びカーステレオからラジオが流れた。ハンドルを握ったロッドをティナがまじまじと見つめて
「さっきさあ、お店の中……いなかった?」
首をかしげて尋ねる。ロッドが目を閉じて首を振る。
「存じません」
グレンも目をつぶり、同じように首を振る。
「右に同じ」
「え?なに?いたの?」
ナンシーが驚いてグレンを見て、左目をそっと開けたグレンは無意識に顔を逸らした。ティナが低い声でロッドに問いかける。
「なに買ったの」
「黙秘します」
「右に同じ」
「ふーん、私に隠し事するなんていい度胸してるわね。まあだいたい想像はつくけど」
グレンはどきっとして、ティナを見た。
ティナは、ふうん、ま、好きにしてくれればいいけど?という風に、気だるそうな眼でグレンを見ている。
やっぱりティナは何でもお見通しだな、とグレンは思った。ナンシーはきょとんとしている。
ティナがロッドのほっぺたをつねってぐいぐい引っ張った。いへえ、ロッドは目を瞑ったまま情けない声を出している。
「え?なに?全然分かんない」
ナンシーがティナに問いかけるのを見て、グレンが慌てて口を開く。
「ナンシー、チキン買った?ほら、昨日言ってたよね。ローストチキン作るって」
「うん、買ったけど」
「僕が作るよ。たぶん上手くできると思う……」
「ねえ、話題逸らそうとしてない?」
ナンシーが真っ直ぐな瞳でグレンの眼を覗き込む。グレンはこの眼に弱い。
「気のせいだよ」
き、の一音だけやけに高かった。
「みひぃにおなひ」
ロッドが頬を引っ張られながら後押しした。
ティナはもう全てを察しているので、ナンシーとグレンのために何も言わないつもりだった。
ティナだってつきあいの長い二人が肉体的に結ばれることは心から喜ばしいことだと思っているのだ。
だいいち他人の恋路を邪魔するふとどき者は犬に噛まれて死ぬべきだ、という格言もあるし、ティナは割合この格言を気に入っている。
(理由は『犬に噛まれて』の部分が何とも言えず良いからだった)
しかし、グレンはティナが悪戯心を起こして自分のささやかな計画をばらしてしまわないか不安だった。ティナにはそういうところがある。
三者三様の思惑が交錯する中、ナンシーが溜息をついた。
「まあいいわ。でも、いたんだったら手伝ってくれればよかったのに」
グレンが胸をなでおろし「そうだね」と力なく答えると同時に車が走り出した。
『うーん、そうかあ……、なるほど、続いてのおたよりは、あ、またロニー・タウンだ。
なんという偶然、えー、メイガンちゃん、八歳、スタジオはお子さまミュージックフェアと化しております。
ストレッチさんこんにちは。いつも楽しく聴いてます。ありがとー。えー、わたしのパパはおまわりさんです。
厳しそうですね。マイ・ダディもテキサスで牛さん飼ってるんですけど、こわかったですよー、
女の子だからもっとおしとやかにしなさい、なんてお尻ぺんぺん。
えー、このまえ、パパがねてるときにいたずらして、うわー、そりゃだめだ。
マジックでかおにねずみのヒゲをかいちゃいました。パパにすごーくおこられました。
ぱとろーるに行けないじゃないかーって。うーん、確かに迫力にかけます、マジックでネズミのヒゲかいてるおまわりさん。
でも駐車禁止のキップ切られても許せちゃいそうですね、そういう問題じゃないか。
えーと、でもでも、ごめんなさいっていっしょうけんめいあやまったら、ゆるしてくれました。
メイガンはパパがだい、だい、大好きです。あーいい話ですね。うん、ほほえましい。胸がじーんとします。
私も結婚したら、女の子がいいなあ。今、外のベンがいやらしい眼で見てきたんですが、気のせいでしょうか。
あ、ベンが怒っております。嘘をつくなとガラス戸を叩いております。あはははは。
彼の名誉のために見間違いということにしておきましょうか。こりゃ曲流してる間にお説教かなー?
さて、そんなほほえましいエピソードを送ってくれたメイガンちゃんのリクエスト、
ポップでロックなメロディ、彼女のイメージにぴったりだ。
私もこのバンドのアルバムを最近買ってですね、家で一人寂しく聴いております。
彼氏募集中。「ASIA」「The Smile Ha Sleft Your Eyes(偽りの微笑み)」』
ナンシーはモール内をうろついている間にも、ティナの様子が気にかかっていた。
正確には、ティナが昨日、学校に来た時からずっと、或疑問が頭の隅にひっかかっていた。
確かにティナは昨日よりは見違えるようによくなっている。
それはいいことだけど、やっぱり、自分の呼びかけに怯えるように応対する節がある。
なにか、悪いことでもいったかしら。まだ身体の具合が悪いのかもしれないけれど……。
ただ、一つだけ、ナンシーは確信している。
ティナは何かを隠している。
生暖かい風が顔にふきつけられ、曲が終わりに近づいて、ティナの家が見えてきた。
宴は長く続いた。ティナとナンシーが生地の上にさっとデコレーションして自作のケーキを作り、
男共はそれをつまみぐいしながら、NFLバッファローズを応援する。
グレンは卓越した料理の腕前をみんなの前で披露することになった。
「ほんとに女顔負けね」
ティナがローストチキンをぱくつきながら言った。
「まあ、ほとんど、できあいさ」
グレンは照れ笑いして応える。
以前自分で作ったものより美味しかったので、ナンシーは溜息をついた。グレンは本当に何でもできてしまうのだ。
食後の運動、客室のビリヤード台で、ペアになって対決した。
結果はロッド・ティナ、一歩及ばず敗北。
ジェンガ、オセロ、モノポリー、家に存在するありとあらゆるゲームをやって、くたくたになり、ついに、秘密兵器が登場した。
「空港の近くの従兄弟の家に泊まるのはオッケー。既に従兄弟に話はつけてある」
グレンが受話器を握り、コードを肩に巻いて通して、不敵に笑う。
「あとは俺の秘密兵器でこの通り」
ロッドはジャンパーのポケットからテープを取り出してティナにひらひら見せ、
テーブルに置かれたカセットデッキに押し込み、スイッチを入れた。
グレンは大急ぎでダイヤルをプッシュしている。
しばらくすると、ぐぅううううん、空に穴を掘るような効果音がスピーカーから繰り返された。
ジャンボジェットが離陸する音だ。
「あ?ママ。うん、元気だよ。マーク?うん、いるよ。風呂に入ってる」
「手間のかかることするわね」
ティナはあきれている。
「何か用事があったら少し経ってからかけてね。うん、今?い!?」
突然、スピーカーから、大勢の男達が叫び声と共に走り来る音が聴こえてきた。グレンは顔をしかめる。
「ディ、ディナーおわったとこ。うん、大丈夫だよ」
『FIRE!』
ぱらららららら、ぱらら、ぱらららら、マシンガンの銃声と悲鳴が交錯する銃撃戦が始まった。
「あ、いや、違うよ。うん、あれ?あ、近くの不良が喧嘩してるみたい。だ、だいじょうぶ、だいじょうぶだって!」
ナンシーとティナはソファの左右の肘掛けにもたれかかり、既にお腹を抱えて笑い転げている。
「わ、わかった!警察に電話する、警察に電話するから、う、うん!心配しないで!」
『GO AWAY!』
糸を引くような、落下音――――。
1t爆弾!?
「あっ、危ない!飛行機が落ちそう!落ちる!」
全てが失われるような、テーブルを揺るがす轟音が、部屋中に鳴り響いた。
「だ、だいじょうぶ!落ちたのは向こうだ!ホント、ママ!切るよ!電話!」
ガチャン。
「ロッド!」
ロッドはにやにやしながらカセットデッキのスイッチを切り、グレンに敬礼した。
「戦場にかける橋、名作だ」
グレンとロッドは顔を見合わせてどっと笑う。四人で涙が出るまで笑ってしまった。
余韻もさめやらぬ中、ロッドとグレンが悪乗りして、ティナの父親が大事に取っていたジョニー・ウォーカーを空けた。
しばらくして、二人は仲良くトイレに駆け込んだ。
「ねえ、もう夢なんか怖くないでしょう?」
ナンシーは二人がいない隙を見計らって、自分の不安を打ち消したいがために、さりげなくティナに訊ねた。
ティナの異変は夢と自分がキーワードになっている。
それがどうつながりあっているかは分からないけれど、
おそらくティナが隠していることもその二つに関連性があるのだろう、長いパーティーの間に、そうナンシーは推論していた。
「…………」
ティナは何かを諦めたような顔で首を横に振った。
「……ナンシー、夢で起こったことが現実になるって、信じる?」
ナンシーはティナの手を握った。自分を慰めていた、ゴミ箱に捨てたはずの日記が思い出される。
「ねえ、ティナ、あなたらしくないわ。そんなこと、あるわけ」
「鉤爪の女に襲われる夢を見るの。ナンシーは……怖い夢、見る?」
鉤爪の女!
ナンシーは背後から金槌で頭を殴られたような気がした。
自分が受けた恥辱の――或時は耐え難い快楽の記憶が鮮明によみがえってくる。
初めは裸にされる程度のものだった。でも、それらは、だんだんと激しい責めになってきていて……。
「私も……それ……鉤爪の女……見る」
ティナの虚ろな瞳と恥ずべき記憶に引き込まれて、ナンシーは独りでに告白していた。
「それってどんな」「それってどんな」
二人同時に声を出して、お互いの顔を見て、下を向く。 考えることは同じだった。
まさか、
(ティナも)(ナンシーも)
あんなことを?
しばらく沈黙が支配していた。
静謐の檻の中で、ナンシーは現実の世界にいるような気がしなかった。
ひょっとしてこれも夢じゃないかしら、と思って、すぐに突拍子もない考えを打ち消した。
「……ここしばらく来てないけど、あいつはまたやってくる」
ティナが首を持ち上げ、前を向いて、沈黙を破った。
「それも、近いうちに。もし……」
ナンシーは舌下に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。
「もし、私が死んだら、あいつよ」
ティナのはっきりした口調には、何者にも侵されない決意の光が込められていた。
ナンシーが今まで見たティナで、最も力強い目をしていた。
「な、なに言ってるのよ、ね!疲れてるのよ。ティナ!」
「ナンシー、今日はありがとう」
ティナが突然、ナンシーに抱きついた。ナンシーはティナが少し震えているのに気づいた。
スポーティーな柑橘系の香水のかおり。綺麗なブロンド。締まった腕。柔らかい頬の感触。
ナンシーもティナの背中をぎゅっと抱いた。ティナがこれ以上怖がらないように。
ナンシーはティナがふっと笑ったような気がした。そして、ティナがもう帰ることのない旅に出るような、
自分達が決して届くことのないどこか遠い場所へ行ってしまいそうな気がして、さらに強く抱きしめた。
ティナは眼を瞑ったまま、身体を預けてゆっくりと口を開いた。
「あなたに……ロッドに、グレンに……逢えてよかった」
どたどたとけたたましい音が、廊下の向こうから迫ってきた。
ナンシーがふいと目をやると、まだ酔いが抜け切っていないロッドがトイレから駆け足で戻ってきたのだった。
ロッドは口を尖らせてティナの後ろから抱きついた。
「よおおお、レズってんなら俺も入れてくれえ!……ヤローだけど」
ティナがナンシーから勢いよく離れ、ロッドの肩に平手打ちを喰らわせる。
「なんだよ」
「もう、大事な話してたんだから!デリカシーないのよ、あんたって男は」
「どうしたの?」
グレンもトイレから戻ってきた。よれよれになったポロシャツを直して、ガムを噛んでいる。
ロッドはティナの背後に回り、もう一度抱きついて、後ろから顔を寄せて口づけした。
ティナの口内にきついブルーベリーの香りが広がる。
唇を離すと、膝の裏に手をやって、ティナをお姫様のように抱きかかえる。
きゃっ、ティナが驚いて、ロッドの胸を拳で叩いた。
「じゃあ、俺達そろそろ、あっち行くわ」
「二人とも、帰っちゃだめよ、この変態に何されるか分かんないんだから」
ティナはロッドの首に腕をかけて笑っている。さっきまでのティナが嘘のようだ。ナンシーは余計不安になった。
「お前らもよろしくやってくれ、じゃな」
ロッドがウインクする。ナンシーとグレンは目を合わせて、ぎこちない笑いをかわした。
ロッドとティナが、ティナの部屋にしけこんで、もう三十分になる。
その間、二人はソファの上で寄り添って、今日のパーティーについて感想を述べた。
話すこともなくなり、だんだん会話のリズムが落ちてくると、グレンがナンシーの手を引いて、髪を撫でた。
ナンシーは心ここにあらずだった。
ビリヤードの劇的な勝利について喋っていても、あのおかしな電話工作のことを振り返っていても。
そして今、グレンの大きな手の平をぎゅっと握っていても、頭の中ではずっとティナのことを考えていた。
なんだか、ティナにもう会えない気がする。それに、鉤爪の女……。
「ナンシー」
我に返ると、すぐそばにグレンの唇が近づいていた。グレンのすっと締まった唇が押し当てられる。
ナンシーは急なキスに驚いて、舌を引っ込めて、歯を閉じてうめいた。
強引に過ぎたか、反省して、グレンは一度撤退し、ナンシーの肩に手を回し、抱き寄せて、下唇を吸った。
フットボールの激しい練習でくたくたになったあと、更衣室で着替える男共のむさくるしい汗の匂い、
それと対極に位置する、ナンシーのささやかな女の肌の香りが、グレンをさらに興奮させた。
愛撫によって、ナンシーが自ら扉を開いた。
グレンはもう一度ナンシーの口に入り込み、舌先で小さな歯の裏をゆっくりと舐める。
そのまま続けて、ナンシーのウェーブがかった髪を頬に優しく当てて、耳の後ろに手をやり親指で太めの眉をそっとこすった。
二人の荒い鼻息と唾液が混ざり合う。ナンシーも自らグレンの舌を求めた。
息が激しくなるにつれ、グレンが身体を寄せてくる。厚い胸板が頬に触れる。
うなじからコロンの香りがした。その裏には男の体臭が息づいていた。
ナンシーはグレンの匂いをもっと嗅ぎたいと思った。太股に、チノパン越しに固いペニスの感触が伝わった。
ナンシーは思い出す――自分の部屋で、ベッドに寝そべって、お互いの性器に触れ合ったあの日。
三ヶ月ほど前、まだ鉤爪の女に遭遇していない幸せの時、初めて見た勃起した男の性器に、ナンシーは面食らってしまった。
男の人のモノは、こんなにも大きく、硬くなるのだ。本に書いてあるようなことは、嘘じゃなかったのだと。
ベッドの上で二人寝そべって、おそるおそるグレンの股間から伸びているモノに触れると、
それはまるでグレンと離別した一個の生き物のように反応して、指が上下するたびに、びくびく動いていた。
大きい。とても――ナンシーは心底驚いた。いったい全体、こんなに大きくなるものなの?
指なんて比べ物にならない。あれが、中に入ることになるなんて、信じられない。だから、性交は拒否した。
ナンシーは、モノを見るまでは、このまま最後まで行ってしまっても……と考えていたが、
グレンのペニスは予想していた15cm定規なんか比べ物にならないほどで、
そんな驚異的なものが指一本でさえ窮屈な自分のアソコに収まるとは想像もできなかったし、むしろ裂けてしまうのではないかと恐怖した。
だから、必死にキスを重ねて、どうか、グレンが入れたいって、我慢できないって、いいませんように、
祈りながら、慣れない手つきで、巨大なペニスをこすって、気をやらせた。
グレンのペニスが不規則な速度で刺激を受けて、赤みを帯びた亀頭がはちきれんばかりに膨らんで大量の精液を発射させた時、
ナンシーはびっくりしてペニスから手を離した。
暴れ狂うペニスは二度三度、精液を女の匂いが染みついたシーツやナンシーの胸から腰までぶちまけた。
まさか、あんなに勢いよく出るなんて――親指と中指で作った円よりも大きい亀頭の割れ目から、
ややクリームがかった白色のどろっとした液体が、熱情の強さを示すように胸まで飛び散った。
顔を下に近づけると、形容しがたい匂いがナンシーの鼻腔を襲った。
グレンのものでなければ、顔を背けてしまったかもしれない。ただ一つ言えることは、とても臭かった。
しかし、その臭みが、ナンシーのヴァギナを悦ばせた。どうして入れてくれなかったのと嘆かせた。
放出したあと、ティッシュで拭き取ろうともせずに、グレンはヴァギナをいじっていた。
人差し指と薬指で、肉の境目にそって、下から上へ優しくなでていた。
ナンシーは自由になる自分の指とは異なる制御不可能な興奮を感じた。
のみならず、初めは幼馴染という関係だったグレンが
自分のアソコをまさぐっている――その事実だけで、頭が飛んでいきそうで、くらくらした。
中指が時々、一番感じる部分に触れた。
薄い皮の上から、グレンの指の腹が、ヴァギナの頂点に隠された大きめの豆を潰すようにして丸い円をかいた。
皮をかむったままでも、刺激が強すぎて、ナンシーは思わず腰を引いてしまった。
「ナンシー、怖がらないで」グレンは言った。
そして中指がナンシーの中に侵入した。ナンシーはグレンのごつごつした指を、内部器官で直接感じた。
指一本を受け入れるのがやっとだった。ゆっくり抜き差しされると、身体がこわばって、グレンに全力で抱きついてしまった。
初めて触られた相手がグレンであることにナンシーは少なからず幸福を感じていた。
でも、本当は――言ってみたかったのだ。
指を中に入れないで、自分がいつもしているみたいに、続けて、感じる部分をいじって欲しかったと。
皮をむいて、中指の横の腹で、もう少し抑えた力で、ペットの猫にするように、何度もなぜて欲しかったと。
ナンシーは唇と唇を合わせながら、このまま最後まで行くべきなのかどうか、自問自答を始めた。
本当に最後までしてしまっていいのだろうか。頭の中にはティナがいた。なぜティナはあんなことを言ったのだろうか、
ティナと抱き合っている時、どうしてあんなに儚い気持ちになったのだろうか、
今こうしてティナのことを考えながら、浮ついた気持ちでグレンと寝てもいいのだろうか。
「グレン」
待った、の声だったが、グレンは気づかなかった。
「ナンシー、好きだ。愛してる」
愛してる、ナンシーは嬉しかった。今すぐ言いたかった。自分もグレンを愛しているのだと。
しかし、やはりティナの言葉が頭から離れない。「鉤爪の女に襲われる」ティナは本当に、鉤爪の女をみたのだろうか?
鉤爪の女は自分を裸にして、口にするのもはばかられる厭らしいことをした。それと同じことをティナもされていたのだろうか。
「違う」
ナンシーの声を無視して、グレンの手がナンシーのシャツに忍び込んで、ブラジャーの下へと侵入した。
バレンシア・オレンジのような豊満な柔肉を大きな手の平が包み込んだ。
乳首が勃っているのを確認すると、左の胸をぎゅっと力を入れて揉む。
ナンシーの唇から、ううっ、と声が漏れた。少し、痛かった。
グレンは力を緩めて、ナンシーの乳首を親指で下から掻いて、ぴんと弾いた。
ナンシーはアソコが湿って来ているのを感じた。これ以上されたら、行くところまで行ってしまうだろう。
自分がそれを望んでいるのをはっきりと自覚できた。だってもう濡れている。
初めてのセックスがどういうものか知りたい、そんな好奇心ではない。
愛する人が望んでいるのだから、気は乗らないけれどさせてあげたい、そんな奉仕精神でも断じてない。
ただ一つになりたいという気持ちが湧き上がってくるのを感じている。
でも、それは今なのだろうか?
もう一度問うてみる。答えはノーだ。
ティナのこと、鉤爪の女が自分にしたこと――グレンにはまだ味合わされていないのに、
いや自分以外、他の誰にだってそんなことされなかったのに、
つまり、鉤爪の女の愛撫で絶頂へと導かれてしまったこと――が頭から離れない。
ナンシーはそんな状態で、グレンとするのは不本意だった。最後まで行く時は、グレンのことだけを考えていたかった。
「違うの!やめて!」
ナンシーは両手を使って、密着した肩を力いっぱい押し返した。
グレンは突然の拒絶にきょとんとした顔で
「痛かった?」
とナンシーから手を離した。
「……そうじゃないの」
「じゃあ、部屋に行く?」
「違うの。どうしてもティナのことが気になって」
グレンはほっとして、ナンシーを再び抱き寄せる。
「心配いらないよ、ロッドがついてる」
そう言って、唇をふさごうとしたが、ナンシーは口づけすら拒否した。
「やめて」
グレンはたじろいだ。ナンシーの眼が、自分を、まるで、強姦者のように、見ている。
「今日はティナのために来たのよ」
傍から表情を見ればとてもそうは思えないだろうが、ナンシーは心の中でグレンに精一杯謝っていた。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分が至らないからこういうことになったのだと。
全て自分の責任なのだ、そう認識すると同時に、おあづけ食わす嫌な女なんて思わないでほしい、
自分を嫌いにならないで欲しい、哀願に近い感情も混ざりだした。
一つ分かっているのは、ここで弱くなったら、まず間違いなく押し倒されてしまう、最後まで行ってしまうだろうということだ。
だから、一歩も引いてはいけない。グレンにはひどいことをしているのだけど、黙って拒絶を受け入れて欲しかった。
「冗談だろ」
グレンはあきれてナンシーを見た。まったく、どうして、ナンシー、信じられない。
目を白黒させて、うろたえた。ティナの家についてからの記憶が、
千五百ピースのジグソーパズルを一気に床にひっくり返したように、ごちゃまぜになってグレンを襲った。
パーティーは楽しかった。それに間違いはない。ティナは元気になった。それも正しい。
昨日見た時は言葉を発するのもやっとだったのに笑顔をたくさん見せてくれた。
そして、今頃、ティナは、もちろんロッドもだろうが、何も着ちゃいないだろう。
そうすると、スタートが問題だったのだろうか。そんなに強引だっただろうか?
グレンの混乱は止まらない。
確かにキスをしたとき、ナンシーは口を閉じていて、急ぎすぎたかなという感はある。
しかし、無理やりにしたわけじゃない。嫌がるナンシーを押し倒すなんてことはしたくない。
ナンシーは感じてる。間違いない。自分のアレはもうヘルメットのように硬くなってる。
入れたくてたまらない。バカ、性欲に身をまかせたいんじゃない。
「グレン」
ナンシーの声はグレンには届かなかった。グレンは完全に思索の森に迷い込んでいた。
ただやりたい、そんなのは最低だ。ナンシーでなくたっていいじゃないか。
あくまでも優しく抱きあって、ナンシーを安心させて、自分も安心して、どれだけ好きかをお互い確認しあう、
そのために、ナンシーの中に入り込んで、ナンシーの感触を味わえるだけ味わって、ゴムはつけるにしても、たっぷり精液を吐き出す。
そしてその資格ももちろんある。自分達は、本当に、お互いに愛し合ってるんだから。
オーケーだ。なのに、なんで、そんなこと言うんだ?
「どうして……」
グレンは自分が意図せず声を発しているのに気がついて、なんて情けないことを言っているのだろう、と自戒した。
或意味でこれがグレンの初めての挫折だった。
「ごめんなさい。最後まで、したくないってわけじゃないのよ。
それだけは信じて。あなたとするのが嫌なわけじゃないの。でも、今日は、ダメ」
グレンはナンシーの目をじっと見つめた。ナンシーは気丈というよりも攻撃的な目でグレンを見ていた。
ストイックで純真な瞳が、時々変わるのをグレンは知っている。
一度目は昔、クラスメイトの女の子がガキ大将に虐められていた時だ。
ナンシーがよってたかって罵声を浴びせられているのを見つけた時は、急いで止めに入ろうとしたが、その必要はなかった。
彼女がガンとして引かず、今みたいな目で、ボスはおろか取り巻きの十数人までも一気に黙らせたからだ。
二度目はロッドが怪我をしたときだ。ロッドが喧嘩に巻き込まれて、警察沙汰になった。
しばらくして留置所から出てきたロッドは仕返しに行くと息巻いた。その時もナンシーは掴みかかって止めた。
三度目は……。
もういい、ナンシーは本気だ。グレンの顔がだんだん失望の色に染まっていく。
だってそうだ、彼女の心を溶かすのにどんな方法があるだろう?
ことこの状況に至ってはどんな折衷案だって存在しえないし、一度こうなったナンシーは誰だって止めることはできないのだ。
ちくしょう!
グレンは頭を壁にぶつけてそのまま死んでしまいたい気持ちにかられた。
自分はとんだヘマをやったのだ。どうしてそんなことをしてしまったのか、グレンに後悔の念が押し寄せる。
いつものようにすんなり切り替えるわけにはいかない。
だって相手は七つや八つの頃から好きで好きでたまらないナンシーで、しかもこれから初めてのセックスをするつもりだったのだ。
そんな大試合を前にして、恋人達が抱き合うにはもってこいの夜に、
ベースボールで例えるならば打ってから三塁方向へ走るようなド素人級の失態をおかしたのだ。
おそらくそれがナンシーの心を閉ざしてしまった。お前は下手糞だ――グレンはそう言われている気がした。
グレンの脳裏にフットボールのコーチの顔が浮かんだ。
グレン、貴様、目ん玉ついてんのか!貴様のミスでチームが死んだぞ!全てを台無しにしやがって!
「分かったよ、悪かった」
グレンはナンシーの身体から完全に離れた。
肩にかけられた指の感触がなくなった時、ナンシーはグレンを正視できなかったし、
それに合わせてナンシーの腕がだらんと下がった時、グレンはナンシーを正視できなかった。
それからはお互い一言も会話をかわさなかった。こんな風になったのは初めてだった。
喧嘩をしたことはあるにはあるが、すぐに仲直りできていたし、何より今まで感じたことのない異常な後味の悪さが残っている。
二人はずっと黙り込んで、ソファの上で、広がった扇のようにそっぽを向いて座っていた。
しばらくして、グレンが無言で立ち上がり、リビングの階段へ向かった。
ティナの部屋の隣、二人がそこで初めての契りを結ぶはずだった客室用の寝室へ消えていった。
ナンシーはそれでも、ティナの告白を思い出していた。夢の中で遭った鉤爪の女。
火傷にまみれて赤々とした皮膚の粘膜と、厭らしい切れ長のオンナの視線が、べったり自分の背中に張りついているような気がした。