それから一週間、ロッドは家を一歩も出なかった。
機械になってしまったジャクリーンの顔が浮かんで、彼の父がたまに使用する睡眠薬なしでは一睡たりともできなかった。
洗面台の鏡の裏にそれはある。単純極まる肉体労働に疲れ切った父が錠剤の瓶を握り締めているのを幼心に覚えていたのだ。
こっそり十粒ほど拝借して自分の部屋の小物入れに仕舞っておき、眠りに落ちれば夢を見た。
ジャクリーンが赤ん坊を抱いている夢だ。
薄暗いリビングには部屋の指標を図るソファやその人の趣味が表れる壁掛けや時計や雑貨入れなど一つもない。
靴を履いていてもどこか冷たく感じる板張りの床に、焦げ茶色のジゼルテーブルが一つ置かれ、
幾重にも積まれた小皿やティーカップなどが納められたガラス張りの戸棚が二つ、右隅にそびえている。
二人は結婚している。少なくとも、向かい合って座った彼はそう信じている。
中央の留め金をなくしたカーテンのように白いブラウスがめくれ、
細い両腕でしっかり抱きかかえられた赤ん坊は豊満な乳房に顔を埋めている。頭までタオルで隠されて何も見えない。
早く顔が見たい、と彼は思う。俺の子だ、正真正銘、俺の子。
彼女は悟りを開いた仏陀のような眼差しで、柔らかい舌と唇で乳首を吸われる刺激を受け止め、時折微笑む。
やがて授乳が終わり、クリーム色のタオルに包まれた蠢く者の伸縮が静まれば、
そこで初めて向かいの椅子に腰掛けている彼に気づき、嬉しそうな声で呼びかける。
「ロッド、ほら見て、あなたの子よ!あなたの!」
腕の中のそれがくるりと反転した時、ロッドは既に叫んでいる。
向けられた赤子の頭部には一本の毛髪すらなければ頭皮もなく、さらには頭骨もない。
耳の上辺りから赤白い切れ目が額に地平線を形作っている。
寒々しくむき出しになった小さな脳味噌は銀色に輝き、微かに形成された皺の間に緑色のマイクロチップが何枚も差し込まれ、
それらはアイスクリームに混入したピスタチオのように調和を保ち、硬質でありながら柔らかい奇妙な感動を内包している。
白眼も黒目も存在しないただの赤い丸が眼窩の中央にぽつんと存在し、風穴を空けてやるつもりなのか、
そこから伸びるレーザー状の赤い光線がロッドの高い鼻先にちょうど合うように交差して届く。
あなたの子よ。
彼女は一ミリたりとも口を動かさず、あの日同様感情が失われた顔で、脳に直接、何度も語りかけてくる。
あなたの子よ。あなたの、あなたの、あなたの子……。
頭の中の声がどんどん大きくなるにつれ、ロッドの悲鳴も大きくなる。
家族一同介した部屋は、幸せな母子の笑顔と父親の絶叫で包まれている。
利発な母親の遺伝子をうけついで、お母さんの味方ばかりしちゃ不味いと思ったろうか、
赤ん坊の口が腹話術師があやつる人形よろしく縦にかぱっと開き、けたけた笑い声を奏でた。
べたべたのシャツを胸にくっつけて飛び起きるのを七回繰り返した後に、彼が信じたことが一つある。
女には何もない。あるとするなら、おまんこだ。
二週間経てば不眠と悪夢のサンドウィッチから何とか逃れることができた。彼の脳が考えることを放棄したのかもしれない。
復帰後初日は悪童共と顔を突き合わせ、マリファナを吸いながら車を交替で乗り回し派手にやった。
あちこちこすって、道行く女を卑猥語交じりにナンパして(当然ラリッたガキ共と心中する気がある女はいなかった)
ゲラゲラ笑って家に帰ると、玄関でチャットにドッグフードを与えた。
セルフィッシュリバーの排水管で寒さを凌いでいたオスの野良犬、
見つけた時は小さなロッドの腕でも抱きかかえてすっぽり包み込めるくらい小さかった。
当然雑種だろうと思っていたら100%のゴールデン・レトリバーだったのだ。
つまりポイ捨てされて、あるいは飼い主とはぐれて、必死で生き延びて来たのだろう、浮いた肋骨がそれを証明していた。
あんまりきゃんきゃん吠えるのでチャット、と名づけ、三日後になってもうちょっとマシな名前にした方がよかったろうかと悩んで、
渋々ながらこっそり呼んでいる内に一ヶ月後にはその名前が実にしっくりきていた。
いつのまにか、洗濯物を干し終わったシェリルが冷たい眼で犬に餌を与える弟を見下ろしていた。
がつがつ餌をほうばる犬の息しか聞こえない。静寂に耐えられなくなって、ロッドはちらりと姉を見やった。
夕食を作るところなのだろう。今日はシェリルの番だった。
水色のエプロンにところどころシチューをこぼしてできた茶色い染みがこびりついている。
姉のエプロン姿を見るのは好きではなかった。ハイスクールの卒業を控えているのに、プロムに着ていく流行りの服も持っていない。
彼とて一張羅と言えば芝刈りのアルバイト(下のおけけを刈ったらどうだ、とパーカらにはからかわれた)
をして貯めた金で買ったぶかぶかの黒皮のジャンバーくらいのものだが、それにしても――と思わずにはいられないのだ。
なあ、姉貴、どうするんだよ、そんなんで。プロムはどうするんだ?
ビッキー叔母さんが譲ってくれたあのエメラルド・グリーンのドレスで行くのか?あれはやめた方がいいぜ、悪いことは言わないから。
ただでさえずん胴なのに、ババくせえったらねえよ。
シェリルがいつもと同じように何もかも諦めたようなため息をついた。
「はあ、疲れた。腕が回んない」
そう言って、軒先に入ってくる。ぶよぶよの垂れ下がった二の腕にかぶりつけばさぞかし脂味たっぷりのジューシーな味がするに違いない。
まだ男を知らないだろうに、いや男を知らずにこの家庭へ閉じ込められたからなのか、シェリルはすっかり所帯じみていた。
顔に若い女としての輝きがない。手から洗剤の匂いがする。髪は枝毛がひどく、針金のようにごわごわと乾いている。
目鼻立ちがはっきりしている以外には、だらしない風体で夕飯を用意する結婚五年目の主婦と言ったって誰も疑いはしない。
いつから姉貴はこんな風になってしまったのだろう。ロッドはうら寂しい気持ちになる。
ええ、お好きな昼メロは何でございましょう、奥様?家計簿に今月の収支をご記帳なさいますか?ああ、懐に入れておく分は忘れずに。
それに飽きたら間食、セールス、特売チラシ、絶対ばれない浮気の方法からご近所の不幸話まで、何でもござれでありますよ!
姉の変貌はやはり父と母に起因している。
二人の顛末を目に焼きつけて幸せな結婚のみならず、男女の関係についても見切りをつけたようだった。
いわく男とは威張りちらして拳を振り回し、女を小間使いか性処理の道具としか思っていない、
金を1ドル棚にへそくっておくことも知らない哀れな生き物であると考えるようになったのはきっとそのせいだ。
「肩揉んでやろうか」
いったん撫でるのをやめ、立ち上がって問いかけたがシェリルは無視した。あらまあ、ここには空気しかありませんよ、という風に。
「なあ、姉貴――」
もういいじゃないか、俺も悪かった、代わってやるからエプロンなんか脱いで、お化粧して、男と遊んでこいよ。
なんだったら太めが好きだって奴を紹介して――そこでシェリルがじっとロッドの顔をにらみつけた。
眼を見ただけで、ロッドは姉がジャクリーンとのことを知っているのだなと気づいた。面倒事を起こした時はいつもそうだ。
あの眼――私は違う、と意思表明している。私は違う。連中に属してたまるもんですか。
ここは糞が散らばった掃き溜め、自分のいるべき場所では、断じてない!違う!私は違う!
ロッドは息を呑んで、本当にジャクリーンは参ってしまったのだ、と思った。あの彼女が喋ったのだ。
本命馬の方はどうなったろうか、そもそもあの告白は本当だったのだろうか、間男が自分一人とは限らないし、
もしかしたらあの時は行きずりの男だった可能性もある、いったい何が真実だ?
一瞬の内に様々な考えが巡ったが、今は意味のないことに感じられた。
それよりも今はシェリルだ。姉とは揉めたくなかった。嫌いではない。少なくとも母が出て行く前までは尊敬していた。
二人で父親から身を守りもしたのだ。殴られたあと、濡れたタオルで傷を拭いて、頭をゆっくりさすってくれた姉は世界一優しい女に見えた。
問題は離婚後だ。母を殴れなくなった父は次なる標的として姉に手を出すのではないか、幼きロッドはそう予測して絶望したが、
どういうわけかそこまでイカレてなかったようで、安心するに至るところだったのだが、
母の分の被害をロッドが引き受けるはめになり、シェリルはただ自分に飛び火してこないように逃げ回るだけで、何も良いことはなかった。
結局殴る側と殴られる側がいて、殴られる奴はどうやっても殴られるし、そうでない奴は安全な場所にいられる。
それが真理だとロッドは学んだ。父と姉に関して言えば、姉は頭が良く、気を逸らす術を心得ていたし、父の居心地も悪くなかったのだろう。
それに家庭がまともだった頃を知っているのが大きい。
母や姉が言うには、あなたが二歳になるまではあの人は少なくとも本気の力で殴ることはなかった、のだそうだ。
時々、まともな親に戻ったように、昔を懐かしむような顔で姉を眺める父を見かけることもしばしばあった。
そういう時、ロッドはいつも父に憐れみを感じる。本当は家族の中で姉が最も父を軽蔑しているのを知っているからだ。
しかしそれも当然のなりゆきだ、と納得する気持ちもある。暖かい家庭を知っている分だけ姉の被害は甚大なるものに違いない。
初めっから何もかも存在しないなら諦めもつくが、あるものが壊れていくのは耐え難い。
その辺りの道理が分からないわけではないので、ぎくしゃくし始めてからはこう考えることにした。ようするに考え方も生き方も違うのだ、と。
だからそっぽを向いてもう一度中腰になり、ずっとチャットの背中を撫ぜたり、喉をさすったりしていた。
チャットは尻尾を振って茶色い犬用のビスケットにかぶりついている。ロッドが八歳の時に拾ってきた犬だ。あれからもう六年経った。
もうとっくに俺の歳を追い越しちまったな、ふいにロッドは感慨に耽った。
犬にとっちゃ、今が人生の中頃、現役真っ盛り、と言ったところだろうか。
だが、とロッドは心に決めている。例え耄碌してよたよた歩きになったって関係ない。去勢なんか絶対にしないからな。
お前は好きなだけやれ、かっこいい女つかまえて、道端だろうが公園だろうが好きなだけ。俺もそうする。
はあ、大げさな溜息をついて、ついにシェリルが切り出した。
「あんたが何しようと勝手だけどさ」
ゴミ箱の口へ投げたティッシュの屑が逸れて、拾いに行くのはめんどくさいけれど仕方ないという雰囲気だった。
「勝手なら放っておけよ」
そうしたくないのに、口が勝手に動いていた。何を知っているのだ。男とキスしたこともない女が何を。
「……もういっぺん言って。よく聞こえなかったわ。最近耳が遠いのよ。何て言ったの?」
シェリルがわざとらしくおどけた風でやり返す。
「うるせえよ」
「あら、そんな風に聞こえなかったけど――」
「勝手なら関係ないだろうが!」
「そうしたいわよ!あんたがそうさせないんでしょうが!」
唾がいっせいに飛び散った。ここぞとばかりの大盤振る舞いだ。
チャットが二人を交互に見上げ、くん、と一声鳴いてこそこそ家の裏へ逃げていった。
黙るしかなかった。これまでの行動を鑑みれば反論の権利はないに等しい。実に痛いところを突いてくる。
「姉弟(きょうだい)として一つだけ言わせてもらうけど」
くそくらえ。
「ジェリー、言ってたわ。お婆ちゃんみたいな顔して――」
その口調には間違いなく女の嫉妬と安心が滲んでいる。ロッドは舌打ちした。
ええ、姉貴、実のところそうなって嬉しいんじゃないのか、あなたも経験したのねって顔に書いてあるぞ!
だが、言葉にするまで我を忘れてはいなかった。
「やりきれないって感じで、泣きながら言ったのよ。あんたは悪くないんだって。そればっかり繰り返してた。恥ずかしくないの?」
恥ずかしくてたまらない。だからロッドはその日から女を狩りに夜の街に出た。
そうしてプレイサーヴィル・ハイスクールに入学するまで、彼は盛り場をうろつき、様々な女を抱いた。
最初はありつくまでに少々時間がかかったが、三人目になると慣れてきて、
十人目になれば当たり前のように学校と盛り場とモーテルと家を周回していた。
ことに至るまでにはいくつかのパターンがあり(彼はジャクリーンの教示を存分に活用した)、
大きく道を踏み外さぬようにそれらを遂行するのは彼が想像していたよりもずっと簡単だったのだ。
資金が入用になったのは初めだけで、なかにはチップとしてモーテル三回分と往復のガソリン代を弾んでくれる女もいた。
生来の道化師的な性分とジャクリーンとのセックスで鍛えられた性戯を存分に発揮すれば、
さあ、どれだけ楽しませてくれるのかしら?と斜に構えた高慢ちきな女ほど、予想を覆されたろう。
特に騙しの声を挙げる女には容赦しなかった。そういう時、彼の頭ではいつも黄色い機械が始動していた。
――欺く奴は殺せ。死ぬほどイカせて殺してやれ!てめえがどうしようもないビッチだってことを骨の髄まで分からせてやれ!
そして彼女らを包んでいる理性の殻を指と舌でぶち壊すことに執心した。
情念の強さと容赦のなさで、犠牲者はすぐに声色を変え、鼻の穴をひくつかせる醜い顔をさらすようになる。
口から荒い息を吐き、ヴァギナから白味がかった愛液を流し、ついには小ぶりなペニスにすがりついた。
二千年ぶりにコールドスリープから目覚めたような顔をして、信じられないほど良かった、と告げる女も中にはいた。
よりてロッドは壊れかけていた自尊心を多少補強したもの、それ以上に彼女らが憎々しくてたまらなかった。
自ら加担していながら、今この時も女は裏切り続けているからだ。何を?彼がかつて信じていた女性像を。
二つの概念がウロボロスの頭と尻尾のように常にファックしあっていた。女に対する憧憬と憎悪だ。
そもそも彼女らとて真剣な関係を望んではいないのだから当然なのだが、ロッドは情状酌量する気は一片たりともなかった。
女はおまんこだ。おまんこだから、おまんこをよくしてやれば、奴らは尻尾を振ってすがりつく。
服を脱ぐのと一緒に彼はファニーなピエロの顔を脱ぎ捨て、単純な理念を胸に抱いて動き、その正しさを確認し続けた。
お互い愛など求めていない。愛って言葉を囁こうものなら、くたびれた犬を見るような目つきで、やめてよ、と笑うような女達だ。
ほら、愛だって!それってどこで買えるの?あなたの家の芝刈り機は愛をエンジンにして動くの?ぶーぶー。
彼が信じた「女=おまんこ」に相当する「男=ペニス」であって、それ以外は望まない女達だった。
なかにはそうじゃない女もいる。そのグループに入る女は一回こっきりの情事を望んでいた。
一回、気持ちよくなるだけ。一回、寝てもいいかなと思う相手と激しくやりたいだけ。
既に正式につきあっている相手がいるとか、もっとひどいのになると亭主がいるとか、そういう女もいないではなかった。
どういうわけか、彼女らは聞いてもいないのに口にするのだ。私、つきあってる人がいるのよ、本当は結婚しているの、云々。
それはもちろんロッドが何も持たぬガキだということもあったろうし、彼は悪い人間ではない、
また眠り込んでいる間にハンドバッグの中に入っている免許証や名刺などを盗み見て、
突然自宅や勤め先を訪ねてきて、お小遣いをせびりに来たり、再度の性交渉を迫るような恥知らずではないだろうし、
決定的破壊へ引きずりこもうとするような破滅願望もない、頭が回る男ではないと彼女らが信じていたという証明にもなる。
しかし、どうしてだろう?ロッドは考え込んでしまう。あいつら、なんだってガキの俺なんかに告白するのかな?
罪の意識ってのを感じてるからだろうか?違うな――うん、違う。どうでもいいのさ、あいつらは。
ことによっちゃ喋る相手がお人形さんだっていい。
ねえ、聞いてテディ・ベア。私の家はちょっとした教会なのよ、父が神とみなされる教会だったの。
国の補助はおりないけどね、母は父の言いなりよ、子供の頃、見ちゃったの、笑っちゃった、後ろを使ってたのよ、
あれって滑稽よ、ダディ、お尻がむずむずするの、なんてこった、そりゃ大変だ、ちょっと下着を脱いで見せてごらん、
バカ、それじゃ見えないだろう、ほら、もっと高く上げて!って格好でやるのよ、うん、そう、こんな風に……。
大丈夫、きっちり洗ってるから、ローションだってもってるんだもの、ほら、塗ってあげる……どう?
私のお尻の穴、見える?入れたい?でも彼にはこんなこと言えないわ、どうしっ!て……ぇえ……こんな、こと、喋ってるのっ……、
す……すごっ……いっ……会ったッ……ばっ!、かりで……(でもサイズはぴったりね!)
ロッドはいらいらした。その表情を見て、彼女らは自分らも嫌なことがあったのよ、と語りたがり、ロッドはさらにいらついた。
何人かは行為の最中に、愛する男の名前を呼んだ。それでも女を女として扱うことに集中した。
ただ肌と肌を合わせていれば、その時だけ忘れることができた。
黄色い機械が唸る。耳を傾けてそのリズムに乗って腰を動かす。彼女らのニップのこりこりした硬みは真実らしかった。
亭主持ちと寝る時は流石に気分が悪かった。母親を犯しているような気になるからだ。
また、出て行った母親は同じように、もしかすると自分や姉貴や糞親父と一緒に住んでいた時から、
今ここで自分がしているみたいに、あの男とファックしていたのだろうかと疑ってしまい、嫌な気分になった。
彼にとって女とは自分勝手な生き物だった。なんと男らしくない、反吐が出るほど格好悪い、以前の彼なら自死すべき思想、
まったくもってフェアじゃないと彼自身も考えたが、磁石と磁石が引き合うように思考が深遠へ向かって吸い寄せられ、
気がつけば心の中で女を罵り、唾を飛ばしている。女は勝手だ。何を考えているのかさっぱり分からない。
お袋は自分を捨てて出て行った。認めたくないが、やはり邪魔だったのだな。
自分は逃げ出したいお袋をつないでいた鎖だった。だって見ろよ、思い出せば、今だって笑っている。おめでとう、お袋。
たまに寝る奴らは、俺に股を開いている癖に――(いや、やはりフェアじゃないな、これは。俺が突っ込まなきゃ始まらないんだから)
自分をまるで聖女のように思っているし、そうする権利があると何処かで考えている。あればいいな、と思っている。
そんなもの、誰だってないのに。今つきあっている男も愛しているってさらりと言えてしまう。
女性器、笑ってしまう。女性器!はは、カント!おまんこ!女として扱って、大事なところよ、女の……女の、
吐き気がする、口では神聖な風に言うが、ふいに誰かが入り込み、精液ぶちまけ、また出て行く、それでおしまい、ただの穴。
女に信念なんて存在しない。だから奴らはあんなに笑える。知らない男に抱かれて裏切りながらもあんなに楽しめるのだ。
女にあるのは神経だけだ。だから敏感なおまんこが女だ。奴らは神経の塊だ。面子なんて考えない。誇りもない。羨ましい。
腐敗しきったビッチのマンコが羨ましい。ちくしょう、何を分かったようなことを言っているんだ。
いらいらする、いらいら――機械が唸っている。そして、無性に人を殴りたくなる。下らない理由で。
「下らないこと聞いていい?怒らない?」
「昨日の晩飯はベーコンとサラダ。レーン家では最後にyで終わる曜日はベーコンとサラダが出ることになってる。
出なけりゃジャンクフード。頭にSがつく曜日にはシチューが出たりする。家訓にこう書いてあるからな。
よいか息子達よ、ベーコンが叔父さんでサラダが叔母さんと思え。彼らは困った時に助けてくれる優しい親類だ。
フィレミニョン・ステーキは三軒隣に住んでいる会計士の嫁さんだ。実に羨ましい――が食べてみるとそうでもないものだ」
「……今まで、何人としたの?」
「ティナは?」
「さっきので……三人目」
「違うぞ、主いわく三枚目だ」
「それどういう意味」
「ぺらぺらにされた男達、彼らは広大なる大地にどんどん敷きつめられてゆくのだ。そうして或る日、天上からティナ・マリアが降り立つ。
ああ、むべなるかな、大勢の男達が巨大な彼女の尻にしかれッて、おい、やめろ、やめ……あ……ああ!……あぁ……」
「次言ったら今の三倍にして返すから」
「信じられねえことするな、おい」
「……こっちの質問に答えて」
「忘れた」
「言えないくらい?」
「…………」
「ごめんなさい。あなたの知り合いから聞いたの。私達と会う前のあなた、どんな風だったかって。
こそこそ嗅ぎまわるつもりはなかったんだけど――言い訳ね、本当に、ごめん。でもあなたの口から、どうしても本当のこと知りたくて」
「五十人くらいかな。記憶が正しけりゃヘリ坊やもそう言ってる。別に、話たって減るもんじゃねえしいいけどよ」
「うん――でも」
「なんだ?」
「ちょっと不安になっただけ」
「どうして?」
「…………」
「おい」
「…………」
「なあ、どうした?」
「……どうした?どうしたどうしたどうした、どうしたって、どうして!?どうしてですって!」
「……?」
「どうしてって言ったさっき、その口、ああ言ったわよね。そう、どうして。ふうん」
「なにをそうかりかりしてんだよ」
「なんでそんなことも分かんないのよ!ああもうやんなったわ、ああもう終わりよ、終わり終わり。
帰るから。なによ、この皮ジャンジゴロヤンキーが。頭ん中かぼちゃの種つまってんじゃないの!?」
「待て、落ち着け、待てよ」
「待たないわよ。このパンプキンヘッド!」
「なあ、悪かった。気に障ったんなら……怒ってんだから障ってんだよな。悪かった」
「謝らなくていいから、証明して」
「…………」
「二度とあんな風にならないって。信じていい?なんて聞きたくないの。そんなの嫌。信じるか信じないか、私が決める」
「…………」
「……話したくない?」
「……いや、話す」
「…………」
「……どう言えばいいか、そうだな、まずは最低な気分だった。あれは、どうにもむかつく」
「どんな風に……ごめん」
「謝んな。むかつくのは終わったあとだ。終わったあと、この女と何をしてたんだって思う。
何も言うことがない。ただするためだけに会ってすれば何も残らない。ゼロだ。
自分の中で……ちくしょう、気取ってるな、こんな言い方は、でも、本音を言えば、色んなものがなくなり続ける」
「なんで続けたの?」
「……女が」
「…………」
「ああ、ちくしょう……くそ……女が、女が嫌いだったから」
「……今は?」
「分からない。でも」
「いいわよ、そんなの。本当のこと言ってくれた方が嬉しい。でも嫌いなのに、たくさんの人と寝たの?それって矛盾してるじゃない」
「してるな。結局、大事な点は気がつけばぐるぐる同じところを回ってるってことだ。
最低な気分なのに、よくしつけられた犬みたいに自分からその場所へ戻りたくなる。
それが好きな奴もいる。回ってない風に上手くやれる奴もいるだろうな。人それぞれってやつか。
でもな、俺は自分がどんどん情けない男になってる気がした。地獄があるとしたらきっとあんなところだろうな。今は戻りたくない」
「…………」
「もう、絶対、しねえ。心配すんな」
「……ありがとう」
「泣くなよ」
「……信じる。決めた、信じるからね。信じる!……ロッドは私を信じる?」
「信じる。わたくし、元皮ジャンジゴロヤンキーはティナ・グレイの手となり足となりお守りいたすことを誓います。
槍持ちは一人もおりませんが、犬は一匹ございます。老いてなお盛んなり、地球を三回周ってワンと吠え、
火山に飛び込みしーしー火を消し、インスマウスのケツにも噛みつくタフ・ドッグ。ああ見えても相当の手練でございますよ」
「もう、ほんとに!……あ、そうだ、思い出した」
「まだなんかあるのか?」
「ついでに言っとくわ。初めて会った時、ほんと、あんなこと急に言われてびっくりするでしょ。
会ったその日で急に手握ってきて軽いんだから。いっつも思うんだけど、普通ね、ムードとかいろいろ」
「好きだ」
そう、ティナは違った。ティナだけが女として与えてくれた。
ハイスクールの糞つまらない最低の入学式で、ロッドは最高の女を見つけたのだ。
我に返った瞬間からいてもたってもいられずに走っていた。馬鹿らしいことだが、遠くで談笑している女があまりに素晴らし過ぎて、
早く捕まえないと、いや触れてみないと実態かどうかも分からない、この機を逃すと一生会えないんじゃないかと感じたからだ。
撃ち落とされると分かっていても突撃するしかなかった。信じられない、いったいどこの世界から来たんだ、と訊いてみたかった。
ジョークを言っても気が定まらない。オチを忘れそうになって、必死に思い出しながら、彼女を楽しませた。
彼女の笑顔には誠実さが滲んでいた。笑顔だけではない。髪に手をやる、そっと振り向く、空を見つめる、ふてくされる、首をかしげる……
仕草の一つ一つに男を欺く汚らしい作為など微塵も感じられず、それなのに奇跡的に美しかった。
むりやり輪に入り込んで、しゃべり倒した。時期尚早なのは十分理解していた。しかし心と身体がシールをひっぺがすように剥離してゆく。
ダメだ、早い、バカ、突然すぎる、まだ勝負するには……嫌な顔をするに決まってる――ストップをかけても手が勝手に動いている。
ついに抑制の砦が木っ端微塵に崩れ落ち、彼が小さな手の平を両手でぎゅっと握ってありったけの心を込めて飛び込めば、
巡洋戦艦プリンセス・ロイヤルの343ミリ砲八門が一斉に火を噴いたのだった。
その日からロッドは盛り場へ行くのを止めた。
肉体的にも精神的にも手痛い洗礼を受けたものの、
最後の直線で驚異的な差し足を見せ、何とか二着、つまり友人の枠に滑り込めたからだ。
(彼は殴りあった相手に初めてアイリッシュ・ウイスキーを奢ってやりたい気持ちになった。よお、どうだい?元気でやってるか?)
上々とは言えないが悪くない。まずまず、しかし――ベッドで仰向けに寝そべりながら、こう考えた。
初めて女に好きだと言えた。自分は、もう一度、変われるかもしれない。
そして最初は信じなかったのだ。ティナが?いや、ロッドが。
話をするにつれて、本当に自分は女を愛せるのだと、ますます彼は驚いていたのだから、格好だってつけようというものだ。
彼は三人と過ごす内に男のなんたるかを徐々に思い出した。怒髪天をつくと抑えきれないのは相変わらずだったが、
破滅へと突き進ませる黄色い機械は心の奥底で静かに動きを止めていた。鳴り止んで久しくなり、二人は性交に至った。
ロッドはなんだか改まってしまう。あれだけ大勢の女を抱きながら、ティナにだけは簡単に手を出してはいけないと思ってしまう。
ティナがはにかみながら、服を全て脱ぎ捨てた時は、
高原の真ん中で白雪に囲まれながらそっと咲いているLeontopodium(エエデルワイス)を見つけたような気持ちになった。
折ったり枯らしたりなどできようはずがない。彼は蜜蜂が花粉を運ぶようにクリトリスに触れた。
そうしてというのならそうしてあげた。いいというのなら。彼女がそれで満足するのなら、自分も満足できる。
しかし、従順なセックスを重ねるほど、貪るように抱き合いたい欲望も湧いてこないではなかった。
ティナと出会う前、行きずりの女達にそうしていたように。股間のモノを突き立てて、快楽を与えることだけ考えて、
ティナを歓喜の声で鳴かせてみたい。三回生まれ変わっても十分なくらいやりつくしたい。
あの夜――彼女が切り刻まれた……白い精液をぶちまけて、白い――
精液。
今、ロッドは立っている。頬に熱を感じ、指でそっと触れてみるとじゅんと痛みが走った。
どういうわけか、少し腫れているようだが、問題ない。家に帰って冷やせばいい。
それにしても、ここはどこだろう?自分が知らない場所には違いない。
乳白いもやが膝の辺りまで立ち込めている。来ては行けない場所なのかもしれない。
一本道、洞窟だろうか。それにしては、足場が柔らかすぎる。ゴムの上に立っているようだ。
左右は合わせて10メートルほどの幅を残し、滑らかに膨らんだ桃色の壁に覆われている。
脚を振って、下のもやをはらってみる。もやには存在を確認できるほどの微かな重みがある。
薄暗く、不快な臭いがする。潮の香りに似ているが、それでもまだ適切ではない。
金属片、化学物質などが出す臭いではない。生きているもの、そしてどこか懐かしみを覚える臭い。
何度かつま先で地面を蹴ると、突いた場所がにゅうと伸びて跳ね返ってくる。
踏みしめるようにして立つとブーツのかかとが少し沈む。
顔を下向けると、自分の細い影がもやに紛れて歪曲しながら奥へと向かって伸びている。
交わるところへ目を下ろす。桃色の地面。もう足の甲まで沈もうとしていた。右足を横に動かしてみる。
さっきまで踏んでいた場所が、靴底の形に縁取られて、外へ向かい放射状の線を引いて、ほんのり赤く染まっている。
押しつけられた部分が盛り上がってゆく。赤色が徐々に中心へ向かって薄まり、また桃色に戻った。
なんなんだ、ここは?いったい――。
前後確認、ゆっくり振り向くと、小さな円が見える。そこから強い光が漏れている。光源に近い。
真昼の太陽が目の高さまで降りてきているような違和感。距離はずいぶんありそうだ。
光。
不思議なことに、ロッドはその光を見た瞬間、残酷だ、と思った。
汚らわしい。この光は何も与えはしない。きっと、ここから出て行った者の全てを奪いつくすのだ。
凝視すると、深遠に横たわる何者かから逆に覗き込まれているようであった。
言い知れない恐怖で唾を飲み込み、また前を向いた。
問題はどちらに進むかだ。前の暗闇か、後ろの光か。どちらを選んでもそう違いがあるとは思えない。
ロッドは前進を選択した。気まぐれだ。暗闇の奥深くまで歩いてみようと、右足から一歩を踏み出した。
途端に頭が痛んだ。目覚めさせられるような耳鳴りがする。いぃぃぃぃいいいぃぃぃぃぃぃ――。
思わず両手でこめかみを押さえる。記憶が荒波のように襲いかかってくる。
父親の拳、顔を打たれた母と自分、いけすかない母の恋人、ジストの艶笑、悪友達、
機械になったジャクリーン、姉との口論、一夜限りの女達の身体の感触、グレン、ナンシー、そしてティナ。
何とか静めようと、幾度も頭を左右に振って、最後に瞬きを大きく二回すれば、もうしっかり理解できていた。
家には帰れそうもない。それにデートの約束だってしている。そう、夢の中で。
もやを掃除するまで1メートル先すら定かでない。じっと見つめれば、もやは芋虫が這うような速さで奥へ向かって流れている。
唾を吐いたあと、ジャンバーの内ポケットに手を差し込む。
半信半疑でかきまわし、紫色のプラスチック製のデジタル腕時計を探り当て確認すると、画面には10:05と表示されている。
落ち合うにはまだ早い。だが、おあつらえ向きだろうぜ、と考え直す。何事も一対一でやるものだ。殺し合いだろうと。
念のためアラームの時刻を設定しなおし、時計を元のポケットに仕舞ってから、右手を伸ばして、もやをかきわける。
湿っている。横なぎした右腕のジャンバーに白い雫がいくらか付着して、すうと線を引いた。
指をこすり合わせると多少の粘り気がある。
やはり、夢だ。
ロッドは右上腕部の傷を服の上から左手でぎゅっと握った。
熱い、じぐじくした痛み。負けないように息を整える。ティナ、心の中で一度強く呼ぶ。当然、返事はない。
もういつ現れてもおかしくないのだ。いや、きっと来る。
奸智に長けた悪魔は、今この時も、鉤爪を一本一本舐めながら、殺戮の機を窺っているのだろう。
ロッドは前進する。20メートルほど歩いたところで、ほんの少し、黄色い機械の囁きを聴いた気がした。
(to be continued→)