−Yellow Machine−  
 
ナンシーは椅子に座って、学習机の上で腕を組みながら、来るべき時を待っていた。  
引き出しには日記帳が入っているが、いやらしいページを破り捨てたあの時からほっぽらかしたままだ。今では目にするのも憚られた。  
机の右奥にはアレックスが五歳の誕生日の時にくれた写真立てが置かれていて、  
中に差し込まれている写真には、ナンシー、グレン、ロッド、ティナ、ベンチに腰掛けた四人が並んで写っている。  
ロッドからダブルデートをしないかと誘われた。エルムからスプリングウッドまで出て、遊園地に行き、写真はその時に撮られたものだ。  
ナンシーは写真立てを手に取って、恥ずかしそうに微笑んでいる自分の姿を見つめた。  
グレンが少し遠慮した様子で肩を抱いて、相変わらず完璧な笑顔を讃えている。  
ロッドは口元だけへらへらさせて、両手でグッドポーズをつくっている。  
ティナはロッドに抱きつくようにもたれかかって、彼の胸元へ寄せた顔を左半分だけ見せて、流し目で微笑んでいる。  
思えばあの時からね、とナンシーは回想した。かっちりはまったことを、それぞれが気づいたのではないだろうか。  
機能として無駄がなく、感情としても親密だった。それぞれが役割を持って、とにかく上手く回っていた。  
だからナンシーはちょっぴり怖くなったのだ。誰かが欠けてしまえば、たちまち他にも歪が生まれるかもしれないと感じられて。  
しかし、ずっと四人が一緒でいられるなんてありえない。ハイスクールを卒業すれば、皆がそれぞれの道を歩むことになる。  
グレンとは一生もののつきあいを続けるつもりだが、ロッドやティナとはどうなるか分からない。  
彼らにも自分の人生があるのだから、エルムを離れることになるかもしれない。  
彼らなしで、自分とグレンは今まで通りにやっていけるだろうか?  
ロッドとティナは自分の中でそれほど大きな位置を占めていたのだと確認して、それゆえ気後れした笑顔になっている。  
その時は一生会えなくなるわけじゃないんだから、と思いなおして、やがて忘れた。だが、今は違う。  
また、行きたいな――。ナンシーは心から思った。四人でスプリングウッドの遊園地へ。  
スプリングウッドはここいらでは最も大きな街で、その周辺都市をエルムやロニーが担っている。  
遊園地と言ってもアトラクション自体はそう大したものはないが、雰囲気はよかった。  
幻想的で、よくできたとは言えないが別世界だった。  
塗料が剥げて白とメッキのまだら模様になった回転木馬や、古めかしい音楽にのせてぐらぐら揺れながら回るティーカップ、  
部屋が八つしかない黄色い観覧車は、夜空から降りてくる闇とまだらになって輝き、  
女郎蜘蛛が死に際に足を伸ばしているように見えて、妖しくも美しかった。  
しかし笑ってしまったのはお化け屋敷ファンハウス。いちばん怖がっていたのは意外にもグレンだったからだ。  
ティナは怖がるよりも、きゃあきゃあ笑っていて、ロッドはアテが外れたのか、不満そうだったけれど。  
ファンハウスは遊園地のど真ん中にあった。ここの花形なのだろう。真紅の屋根に、ダーク・グレイに塗られた壁。  
古い大邸宅をイメージした造りで、ゴム製の異形の怪物達が、壁から抜け出そうと、鬼気迫る形相で動きを止めていた。  
切符をもぎる入り口では、白と青の縞のオーバーオールに真っ赤なペンキでペニーワイフ、と記したピエロが、  
禿頭からこれまた真っ赤な毛を垂らし、菱形に開いた猫のような黄色い眼を輝かせ、  
子供を頭から貪り喰うような鋭い歯を尖らせながら、背中にくくりつけた風船を揺らせて叫んでいた。  
さあよってらっしゃい、見てらっしゃい、この世のものとは思えない、セントルイスの森の中、  
村人連中に襲われて、焼かれて死んだ猿と人間の合いの子が、闇の中からやってくる、早く逃げないと喰われちまうぞお!  
グレンの顔は入る前から青ざめていた。  
「別に大したことはないけど、こういうのあんまり好きじゃないんだよな」  
眼が泳いでいた。本当に気分が悪いんじゃないかと心配してしまったほどだ。  
なに、お化けが怖いの?と訊けば「怖いとは言ってないけど――」怖いんだ。  
ロッドは既に入り口の暗幕からティナと一緒に姿を消そうとしていたところで、尻込みしているグレンに気づくと、  
幕の隙間からひょっこり頭だけだして、寝惚けた顔で、言い放った。  
「んだあ、おったまげたあ。こいつぁえれえ臆病もんだべさ。ママのところへ帰った方がよか、よか」  
グレンが唇をぎゅっと締めた。めったに怒らないが、怒るとたいてい無表情になる。  
 
「分かった。行こう」  
そしてグレンの悲鳴を嫌と言うほど聞くことになった。二階、三階、四階と登り、それからまた一階へ降りていく構造で、  
興冷めしてしまう子供だましの機械じかけは時折見られたものの、たいていは雇われ役者がきちんとメイクして楽しませてくれた。  
なかでも宣伝に使われた猿と人間の間に産まれた化け物、悪趣味なピエロが言うには彼に名前はない。  
名前をつけてもらえなかったのだ。彼は彼と呼ばれる。またそれとも呼ばれる――その「彼」は作り物とは思えず、  
鷹をくくっていた自分ですら、はっと息を呑んで、すぐさまその場から離れたくなったほどだ。  
暗闇の中、ぎろりと剥いた眼だけが光って浮いているように見えた。やがて全身を現せば、神に祈りたくなる。  
そこには虐げられた怨念がこもり、まさに怪物、まさに狂人、奇形の悲哀を唸り声で訴えていた。  
かつて遊園地では本物のフリークスを見世物に使っていた。せむし、小人、シャム双生児。  
人権が意をなさぬ前近代的な時代ではない、まだ半世紀も経っていない、遠くない過去の話。  
彼らは解放と同時に職を奪われたあと、どうやって生活していったのだろう、逃げる間に突拍子もなくそんなことを考えてしまった。  
今遭った化け物は彼らの片割れなのかもしれない――つまり、そんな妄想すら頭に浮かんでくるほどよくできていたのだ。  
しかしグレンはそれどころではなかったようだ。悲鳴の合間にいる……いない……いる?……いないとぶつぶつ言っていた。  
他人の眼を気にする余裕なんか既になかったのだろう。自分がくすくす笑っていても、まるで気づいていなかった。  
魑魅魍魎(ちみもうりょう)の接待が終わりを告げれば、待ってましたとばかりに、ティナとロッドの二人がグレンを冷やかした。  
いつもはブレーキ役のティナがタッグを組むと、もう止まらない。グレンは理不尽なからかいを受けることになった。  
「弁解の余地はないかもしれないけど、誰にだって苦手なもんくらい、あるんだ」  
「にしてもねえ」ティナは口に手を当てて笑いをこらえていた。  
「ありゃねえぜ、うわ、ああ、ふわああああああ!」ロッドが続けた。  
本当にそんな感じだった。どうして苦手なのか訊いてみたのだが、いまいち言っていることがよく分からない。  
「分かんないよ。血は平気なんだけどね。フットボールで慣れっこだから。  
 右足の骨が飛び出したやつも見たことある。平気だった。ぶつかって当たり方が悪けりゃ血は出るし骨は折れる。  
 当たり前だから。圧力や重力の問題、うん。ホラー映画だってなんてことない。スクリーンがある。隔てられてる。  
 でもこういうのは――同じかもしれないけど、どうしてだか怖い。心臓がばくばくして、理由が分からない。  
 分かったらなんとかできるんだけど――」  
「おら、分かんねえ。なんも見えねえ分かんねえだあ。あれ、ここどこだっけ?もしもし、もしもし?20世紀1983年スプリングウッド!」  
「ああ、もう、ちくしょう、そうやって馬鹿にしてりゃいいさ。とにかく怖いってのは――」  
「恐怖についてこれから語っていただきますのはale(イギリス産ビール)大学卒、  
 現在は法律事務所で二足のわらじを履く新進気鋭のホラー作家、代表作『さやいんげんの逆襲』  
 さあお待ちかね、グレン・ランツ氏の登場です!」  
ぷーぷー、露店で買ったおもちゃで効果音をつける芸の細かさに舌を巻いてしまった。  
もっと別のところでそのエネルギーを使えばいいのに。  
「やめなって」ティナは止めたが、顔は笑ったままだ。グレンは完全にやさぐれてしまった。  
やさぐれたグレンをそうは見れないので、実のところ自分も楽しんでいたのだった。  
グレンがおもむろに口を開いた。  
「ジュース買ってくる。飲みたい人は哀れな臆病者に2ドルのご寄付を。お釣りは返さないからそのつもりで」  
「じゃあ俺コーラ、ビッグサイズ」  
「私メロンソーダのM」  
グレンは猫が猫じゃらしを掴むようにロッドとティナから4ドルを奪い取った。なんだか、尻馬に乗るのは悪い気がした。  
 
「えっと……いいわ。私も行く」  
「いいよ。気を使ってくれなくても。一人でドリンクも買いに行けないって、こいつが言いふらすんだから」  
ロッドが肩をすくめて、ジェームズ・ベルーシのようなすっとぼけた顔で見てきた。笑いを堪えて、財布から2ドルを取り出した。  
「じゃあ、アイスティー、Mサイズ」  
「君の分はご寄付を回す。気持ちのお礼ですから」  
「ちょっと、それ不公平よ!不公平!」  
ティナがけらけら笑って主張したが、グレンは無視した。ロッドはまだジェームズ・ベルーシから戻っていない。  
「あいつとつきあうと特典がいっぱいついてくるんだな」  
「そうみたいね」  
「ナンシー、スーパー行ったらトイレットペーパーついてきたことないか?」  
「ない」  
「あんたはいらない特典が多いけどね」  
さりげなくきついことを言ったティナを尻目に、とぼとぼ歩くグレンの後姿だけ見ていた。  
見ながら、また笑ってしまった。なによ、もっとしっかりしてよね、普段はあんなに凄いんだから。  
ロッドが大声で叫んだ。  
「そして、グレン・ランツは旅立って行ったあ!」  
その言葉でグレンがさっと振り返った。何を言い返すのかと思えば、顔いっぱいに笑みを浮かべて  
「分かったぞ!分からないってのが肝心なんだ!」  
みんなぽかんとするしかなかったのだ。  
 
しかし――ナンシーはグレンの真理を見つけた科学者のような表情を思い出しながら、机の隅に写真立てを戻した。  
分からない。  
鉤爪の女についても名前だけで、あとは何も分からない。無味乾燥な記号が一つ増えただけだ。  
何に突き動かされているのか。核となる部分が判明しない。  
気が狂った性的倒錯者。夜毎他人の夢に入り込んでサバトを繰り広げる気狂い女。――ビッチ。  
ふいに、何の役にも立たないかと思われる疑問が浮かび上がってきた。  
性欲とはいったいなんだろう?  
自分はなぜ、ふいにむらむらして、マスターベーションしたくなってしまうのだろう。生理現象?  
では、鉤爪の女の変態的な暴虐も、話は簡単、私と同じように、むらむらして、  
そうしたくてたまらなくなる、ただの生理的欲求なのかしら?  
断じてそうは思えなかった。  
エロスに関しては様々な人が様々な考え方を持っている。  
またその持論を通して子孫を残す行為であるセックスに様々な付加価値をつけようとする。  
愛のため、快楽主義を貫くため、支配欲を満たすため、生の確認、  
リインカネーション的見地に立てば死の追体験、ただ興奮を転化させたもの、まことしやかに悪とされる経済的理由、  
竪穴住居で火を起こしていた頃、風呂に入る習慣すらなかった女は食料と身体を等価交換した。  
セックスはセックスであり、それだけだ、余計なものは省くべきだ、そういうこともよく言われている。  
ようするに同じ行為をしても、人はそれぞれそこに違った感情を産み落とさざるをえないのだ。  
肝心なのは自分がどういった価値を見出すかだろう。  
今に至って、ナンシーははっきりと言える。私は、愛のためだと。  
では愛とはなんだろう?愛するって具体的にどうすることを言うの?  
胸のどきどき?きゅっと締めつけられるようになるあの気持ち?相手を大切に考え、またそのように行動すること?  
分からない。  
でも自分はグレンを愛しているって、他の誰がそれを否定しようとも、言える。信じる。こうなれば一種の狂信者だろうか?  
考えるのをやめた。そういう風に考え続けるのは悪い癖だ。それで何も変わりはしないのだから。  
現実にはもう四人が揃うことはない。あの素晴らしい日に戻ることはできないけれど――ティナを夢の世界から解き放つことができたら、  
ティナは、さっき眺めていたこの写真と同じように、自分の中で、何の心残りもなく、ずっと生き続けることができるかもしれない。  
もし本当に神様がいらっしゃって、主の国があるとするならば、そこで笑えるのかもしれない。ならば、命を賭ける価値はある。  
逢えてよかったと言ってくれた親友(とも)のために。  
ナンシーは机から離れて、腕時計をはめたままベッドにもぐりこんだ。念のため、目覚まし時計の針も一時にセットしてある。  
ベッドに入ったのは十一時頃だったが、それでも、十一時半には眼を閉じていた。  
特定の時刻に合わせて眠れと言われて人はなかなかできないものだ。ましてそれが、死と隣り合わせの眠りであるならば。  
いざその時が迫ってくるとやはり恐ろしい。今までのこと全て夢であったならと思う。逃げ出したくなる。  
グレンの笑顔を思い出す。何度もできる、と自分に言い聞かせる。  
そして昼間訪れた牢獄を思い浮かべる。その中で一人で戦っていた男に会いたいと願う。  
頭の中をロッドで満たせば――夢は自らの記憶と密接につながりあっている――きっと会える。  
十一時五十分にはナンシーはもう眠りに落ちていた。  
待人が既に殺されているとも知らずに。  
 
十時三分。独房のベッドに寝かされたロッドはこれまで自分が一夜の関係を持った女達に抱かれている。  
夢でも現実でもない、その間に存在するもう一つの世界。  
彼女らはロッドから少しずつ奪っていく。心を電動の鉛筆削りでやるように削り取っていく。  
奪われた分だけロッドは細く、鋭くなる。彼女らはロッドの削り粕を食す。なかでもジャクリーンはたらふく食っているだろう。  
ロッドが童貞を捨てたのは十四歳の冬。相手は二十八歳で、彼女が本当の名前を言ったとするなら、ジストだった。  
彼女の印象は黒に集約される。艶のある黒髪を首の後ろから胸の前まで垂らしていた。  
太い黒眉、魔女のような鉤っぱな、ブラウンの口紅。  
コンクリートの色のようなトレンチ・コートを着て、濃紺のセーターがほんのり盛り上がっている。  
眼は細いが黒目がちで、北欧人のような真っ白い肌が余計に黒を印象づけている。  
ホモが好んでつけるようなラベンダーのきつい香水。  
友人の知り合いが働いているバーで、ロッドは時間を潰していた。なんてことない、汚らしい、犬の小便を飲ませるバーだ。  
換気扇が小さすぎるのか煙草の煙でいつももうもうとしていて、霧がかかったようになっている。  
そこでピンボールや玉突きに興じ、バカな話でくだを巻き、ネタが尽きればお開きだ。  
しかし、その日は集まりが悪かった。結局来たのはロッドだけで、独りで飲むのも阿呆らしく、  
ライトが壊れてちかちか点灯と消灯を繰り返すポンコツピンボールに勤しむものの飽きてきて、  
早々に帰ろうと思ったところに、ジストがやって来たのだ。  
ジストはロッドをちらりと見て、微笑んだ。この作られた微笑みが今になれば、最も正常に美しかった。  
微笑み返すと、ヒールを小さく鳴らせて、彼女はゆっくり近づいてきた。  
優雅だった。時間さえゆっくり流れているように感じられた。  
「ジストよ。あなたは?」ロッドはそこで身構えてしまった。あんまり簡潔で味気ない挨拶。  
歯牙にもかけぬとはこのことかい。「俺は、ロッド。ロッド・レーン」  
わざとさりげなく答えた。さあ、ウブなガキなんて思わせないぞ。なんせ、見たところ相手は相当年上の女だ。  
お眼鏡に適うとすれば――それにしてもジストと来た。  
ロッドはゴールデン・レトリバー特有の茶色と白が混ざった柔らかい体毛を想像しながら言ってみた。  
「つづりは?アメジストのジスト。ジステンバーのジスト」  
言った後で、しまった、と思った。何をとっても三級の切り出しだ。  
自称ジストは表情を変えなかった。聞こえているのか疑わしいくらい反応がなかった。  
しばらくして、何も言わずに、ロッドの手の平を握り――冬とは言え、あまりに手が冷たいのでロッドは唾を飲み込んだ――  
もう一方のつるつるしたマニュキュアの先で、生命線の上からD、I、S、Tとなぞった。  
犬の病気。  
こそばゆいのを我慢して「わん」ロッドが吠えるとジストは少し笑った。しかし、和むような笑いではなかった。  
何時間もかけて造ったマッチ棒の城をぶち折って握りつぶしたいと感じた時のような笑いだった。  
ロッドはたじろいだが、動揺をなるべく知らせまいと表情は変えないように努めた。  
そして何か気の効いたことが言えないかと、記憶を探っていく内に、小さい頃よく遊んでいた、姉の友達、  
ジャクリーンの笑顔がちらりよぎった。そう、ジャクリーンと喋っていたように、  
もっと聞かせてと言われたように、巧い切り返しができればいいのだが。  
一瞬考えた隙に、彼女の顔は少し伸ばせばキスができるところまで迫っていた。  
「いくつに見える?」  
ジストの眼は大きく開かれていた。それでも黒かった。顔の割りに低く濁った声だった。  
「二十八」  
ロッドは間髪入れず確信めいた顔で答えた。  
何も理由があったわけじゃなく、どういうわけか、頭の中にその数字がぱっと湧いてきたのだ。  
十九でも二十四でも二十九でも三十三でもなくて、二十八だった。啓示とするならそれは罰に等しかった。  
ジストは驚いて、ロッドを今夜の贄にすることに決めた。  
 
それからジストの奢りでロッドはいくらか酒を飲んだ。ビールくらいしか飲んだことがないものだが、彼女が世話してくれた。  
緊張と高揚が犬の小便をカクテルまで引き上げた。  
いったん酔いが回ると、持ち前のノーテンキな、いささか下品なジョークが口をついて出た。  
男共に聞かせるのならなかなかのものだったが、彼女は心から笑わなかった。  
ただじっとロッドの眼を覗いて、探し物を見つけたようにほくそ笑み、優しい相槌を打った。  
上品な切り替えし――分かったような落ち着き。女を意識させる仕草。  
ロッドにとってそういう態度は望ましいものではなく、したがって何とか腹から笑わせてやろうと、本来の目的を忘れて  
色々とやってみたのだが、実のところ、ジストはそういう少年の裏の顔を見たがっていた。何もかも曝けださせたかった。  
彼女は少年がそれを鬱屈した現実から逃れるためにするのだと察知していた。  
それは今、ふらりと知らない酒場に入って、少年と時間を共にしている彼女にとっても同じことだった。  
だから耳を傾けてあげる。今のところは。  
周囲の人間にこっぴどくやられた二人はしばらく楽しい時を過ごした。負け犬が傷を好きなだけ舐めあっていた。  
ロッドがトイレに行くために席を立ち、用を済ませたあと、扉の外にはジストが立っていた。  
虚ろな眼、今にも吸いついてきそうなブラウンの唇。欲しがっている。俺の二倍の長さを生きている女が。  
ロッドの全身を単純な欲望が襲った。吸いたい、きっと違う。遊びでジャクリーンとキスした時とは。  
どんな味がするだろう。今すぐ抱きしめて、舌と舌を絡めあいたい。  
まだ店の中はやいのやいのとうるさかった。大勢の消防隊員が仲間の退院を祝って、カウンターに列を作って飲み比べをしていた。  
血が欲望に身を任せろと全身をかけ巡っている。どんどん太鼓を打っている。ジョッキをテーブルに打ちつける音より大きく感じられた。  
さあ飲め!おっ!行け!もう少し、ああっ――  
女子トイレへ引っ張り込まれた。手を引かれている時は、ろくでもないことを考えていた。  
どこまで行けるのかな?口づけ?胸まで?終わりの終わりまで?バカ、やめろ、そんな風に考えるな。  
しかしどういうわけだろうな?この年増女は俺のどこが気に入ったんだ?これからコトに至ろうってわけなんだろうが――バタン。  
洋式便所のドアを閉める音が大きかった。怒ったような閉め方だった。そっと鍵をかけ終わると、ジストは本性を表した。  
「座りなさい」  
途端に命令口調になった。何を考えているか分からないところはあったが、物腰は柔らかかった。  
今ではそれが消えうせていた。捕食者としての威厳が満ち満ちていた。  
ロッドは反射的に座ってしまった。一瞬、殺されるのではないか?と不安をよぎらせながら。  
「脱いで。口でしてあげる」  
「……ここで?」  
「もちろんあなたにも選ぶ権利はある。犬や猫じゃないんだから」  
犬や猫、と言った時のジストの顔は幸福に満ちていた。ロッドはぞっとした。犬や猫とは――。  
「これから何するかは分かるでしょ。ねえ、まさか、ね。  
 でも、ひっぱりこんで、ムードもなしに、フェアじゃない、そうよね?あなたが選べばいいの」  
待てよ、と言おうとしたところで、ジストの眼が輝きを帯びた。  
「自分で脱ぐか、私に脱がされるか」  
完全に狂っていた。唇の端から涎が垂れている。眼はぎらついているが、同時に黒曜石のように無機質だ。  
立ち上がろうとしたが、ヒールのかかとがブーツのつま先を踏んづけていた。  
痛みが走って怒りが湧く前に、彼女は既に股間の中心へ顔と両手を寄せていた。  
茶や黒の粕がこびりついた床のタイル。小さく区切られた正方形が、ロッドには歪んで見えた。  
ジストはそんな汚らしい床にやすやすと両膝をつけて、  
アンモニアと糞便と使用済生理用品と消毒液がごちゃまぜになった匂いをいっぱいに吸い込んで、息を吐いた。  
白いもやがぱっとあがった。熱い吐息をジーンズの上から振りかけられて、その熱がトランクスを通して、ペニスまで少し伝わった。  
これが女の息なのか。ロッドは驚いていた。ハードに感じている、俺じゃない。ペニスに会いたくてたまらなかったと叫んでいる。  
真夏の川が干上がっちまうような暑い日に、チャットがよたよた歩きで水を欲しがって寄ってくる時の息とおんなじ――。  
 
ジストが睾丸から陰茎にかけて、下から上へ、撫ぜ上げる。ジーンズ越しに指で愛撫を繰り返す。  
十分に大きくなったのを確かめてから、ボタンを外して、ジッパーを降ろした。金具が下まで滑る少しの間に自問自答がすり抜けていく。  
おい、セックスってのはこんな風にやるのか?違うだろう?おい、どうしてこんなことになってる?  
いいのか?お前はそれで、いいのかよ。いいんだろう?望んでいたことじゃないか、童貞を捨てたいって。  
だが、こんな風に、男としての面子などまるでない、好きにされて、いいのか?  
くわえた。  
さっと頭に入ってくる。人間の口の構造。断面図。思い浮かぶ、唇、歯、舌、喉。  
ピンク色の亀頭が口の上のぬるぬるした部分に擦れていた。そうしている間にも舌は裏に沿った筋を上下している。  
歯が時々触れるのも計算の内だったろうか。尖った前歯がまだ浅いカリに当たり、軽く噛まれるたび、ロッドは身体を震わせた。  
ブチ切られたっておかしくない――。ブラウンの唇が血の色に染まるのが、はっきり浮かんだ。  
しかし、それで萎えさせるような未熟な口技ではない。恐怖と快楽を同時に味わわせる術を彼女は知っていた。  
恐怖と快楽は似ている。お互いが混ざり合い、掛け合わされるように効果を引き上げる。より高みへと導いてゆく。  
気がつけば高くて、細い、女の子のような声を出していた。声変わりして間もない、知られたくなかった幼さを示している。  
ジストは笑った。可愛らしいペニスの爆発を夢見ながら。必死に耐えている少年の顔を見ながら。  
尿道を舌先でちろちろと刺激に入った。やばい、とロッドが感じた時には右手の人差し指がアナルに触れている。  
滑り込むと、よりペニスが硬くなった。ケツの穴だぞ――ケツの穴なのに――そんな!  
円をかくように中でゆっくり女の指が回っている。  
出る!なんてこった!出ちまう!  
ついにロッドは後悔した。今になって何をされているのかやっと分かったのだ。屈辱的だった。  
マスをかいているところだって見られたことはないのに。  
あんな臭い匂いのするものを、ただ強制的に、牛の乳を搾るようなやり方で、  
姉貴より年上の、大人の女の口の中で、ぴゅっぴゅっぶちまけるなんて。  
押しのけようと肩に手を伸ばした瞬間、ジストが強く亀頭を吸引した。  
焼かれるような刺激が下腹部に走り、何もかも出し尽くしていた。声も。精液も。十四歳のプライドも。  
美味しそうに飲み込んだあとで、ジストはもう一度問うた。  
「選びなさい。もう一度口でイクか。それともアソコでイクか」  
ロッドは後者を選んだ。半ば引きずりこまれるような朦朧とした意識の中で、息もたえだえに漏らした。  
「……あそこ」  
「あそこってどこ」  
母親が悪さした息子を問い詰めるような響きだった。何も言えなかった。まだ視界が霞んでいる。  
「おまんこでしょ!」  
ジストが睾丸をひねった。射精の微かな余韻と、下っ腹の刺すような痛みが合わさって、ロッドはまた可愛い声で鳴いた。  
「おまんこだよ!おまんこ、入れさせてくれよ!」  
ジストのヴァギナは信じがたい悪臭がした。ヒールを脱いで、ストッキングとパンツを滑り降ろした時からもう臭った。  
眼が痛くなるほどの汚臭。気づいていないはずがない。ラベンダーが枯れている。  
腐った水面(みなも)に腹を晒して浮いているザリガニのような臭い。  
ジストは指ですくった愛液を嬉しがって彼の鼻に押しつけた。露骨に嫌な顔をするのを見て、にやにや笑っていた。  
「泣け」  
言われずとも涙が溢れた。情けなかった。初めて味わった女のジュースのあまりの臭さにげえ、となってぽろぽろ泣いた。  
指が口に突っ込まれる。しおっからい、ねばっこいもの。  
ゲロを吐きそうになってなんとかこらえたが、汚臭が舌の上に広がって、鼻へと抜けていく。  
「ほら、もっと、泣け!」  
その通りにした。ヴァギナとペニスがこすれた。触れてる、とロッドは嗚咽を漏らしながら思った。  
柔らかい、ねちょねちょしたものにペニスが触れている。穴、小さな穴がある。ひっかかっている。  
穴に先っちょが。くせえ穴に入っていく。俺のモノ、ああ――。  
しっかり奥までつながりあった時のジストの顔を、今でもロッドはたまに思い出す。  
感情が一定でなかった。憎しみと歓びが皮膚の上で希釈したり濃縮したりしていた。その顔で射精した。  
 
彼女はまさに犬の病気だった。脳をやられた牝犬だった。精巣に残った最後の一滴まで搾りとられ、  
トイレのドアをくぐる頃には全てを奪われた気になっていた。女を抱いた、なんて仲間内の話の種にもなりゃしない。  
犯されたのだ。帰り際、薄汚いシャツを着た腹がぷっくり出た男がにやにや笑って見てきた。父に似ていたが、ぶちのめす元気もなかった。  
ペニスや陰毛に染みついたジストの愛液の匂いは三日ほど取れなかった。用を足すたびに思い出して、惨めな気持ちになる。  
いったいなんだったんだあれは?あれが女か?犬が電柱に小便するように、男に印をつけて回るのが、女か?  
しかし、臭いは同時にあの時の感触を如実に思い出させた。とろけそうになったペニス。自分の手では絶対に味わえない快感。  
気がつけばジストの肉壷(そうとしか形容できないものだった)のうねりを反芻しマスをかいていた。終わったあとでさらに惨めになった。  
いそいそとティッシュをくずかごに放り投げたところでふっと頭に浮かんだのは、体験済らしいパーカー先生のありがたいお言葉。  
なあみんな、性病持ちはやめとけよ、なし、ゼロだ。やらせてくれたってノーだ。  
悪いことは言わないから。もしどうしてもやるんならゴムは忘れずに。でないとちんぽこビヨンド状態だ、腐っちまう。  
なんだって?どうやって見分けるって?バカだなお前、そんなの簡単さ、なに、お前医者かって言ったのか。  
黙って聞けよ、そうだな、プッシーがびっくりするくらい臭え女はまず間違いなく言って、ビョーキ持ちだな。  
たまにいるだろう、俺鼻が効くんだ、近寄っただけで、ぷんぷん臭ってきて、おええええ!ってなる奴がさ。  
まんこの臭い振りまいてる奴がよ。おっきな声じゃ言えねえけど、ジョリーがそうだ。奴は臭い。ビョーキだな。間違いない。  
おい、誰だ、お前が犬ならお袋は牝犬だってか?うるせえよ、ボケが。  
まあいいや。お前らも十人もやりゃあ分かるだろうさ。十人に一人くらいはいるんだ、  
天国への階段を登って扉を見つければ地獄の入り口って奴が。ジミー・ペイジもゲロ吐くぜ。  
Whole Lotta Gonorrhea!(胸いっぱいの淋病を!)なに、お前何人とやったって?固いこと言うなよ。  
それにしてもな、淋病ってのはちんぽが腐って落っこっちまうんだ。ははっ、粘土みたいにぽろん――  
ちくしょう、人生最悪の日だ。  
けれど、一月も経てば、それで終わり。幸い泌尿器科の女医(人生最悪の日、Part2)の話によれば、  
やっかいなものを染された危険はないようだし、淋病でペニスを切らなければならなくなることもめったにないらしかった。  
そもそも運が悪かったのだ、公園にグロテスクな食虫植物が生えているようなもので、そうそうあることではなく、  
つまり考えようによっては貴重な体験だった、とロッドは思おうとしたのだが、  
スクラップ工場で廃車寸前となっていたクリスティを友人から譲り受けてすぐに、その考えは間違いだと分かった。  
行くところに行けばビッチはあふれかえっていた。ビッチ達の顔の全ては思い出せそうにない。  
思い出せるのは匂い、アソコの具合、胸の弾力、腰を持ち上げた時の重み。彼女らはヤリたがっていた。犯されたがっていた。  
しかし、誰とでもというわけではない。ロッドは彼女らの警戒心を解く方法を姉のシェリルや姉の友人達から学んだ。  
まず身近にいる女から始めよ、我を振り返れ。そうは言ってもそこに至るまでにはそれなりの踏み込み台を要した。  
ジャクリーンだ。父と母のことがあるので、シェリルは家に友人をあまり呼ばなかったが、  
友人の一人、ジャクリーンがロッドをどういうわけか気に入っていて、彼女のリクエストで一緒に遊ぶこともあった。  
もっともほんの幼い頃の話で、成長してからはたまに見かけるくらいの仲になってしまったのだが、二人目の相手はジャクリーンだった。  
あのバーにはあれからずっと行かなかった。仲間に知られれば何を言われるか分かったものではないし、  
何よりジストが徘徊しているかもしれない。ぞっとした。徘徊、ジスト、病原菌。かと言って家にいても面白いことなど何もない。  
ただなんとなしに商店街をぶらぶらしたり、普段は見向きもしない真面目くさった映画を眺めたりした。  
 
人生最悪の日から一月ほど経った日、ジャクリーンと映画館で出会った。  
Movies Rainbow、縦割り住宅の一角かと思われる狭い小劇場、  
暇を潰したくてたまらない奴らが来るようなスペイン映画や低予算の二本立てを5ドルで流していた。  
彼女はそこで時給3ドル70セントと引き換えに、立ちっぱなしでポップコーンやフランクフルトやドリンクなど売っていた。  
腹が減ったと席を立ち、奥の売店へ行けば、ジャクリーンが驚いて、七年前の名残を覗かせる仕草で、話しかけてきたのだ。  
目で挨拶することはあったが、久しぶりに近くで見ると一層綺麗だった。  
ブラウンのカーリー・ショートはロングヘアに変わっている。前髪とこめかみの辺りはすっと伸びて、  
後ろはカールになって控えめにウェーブし、天井のブルーライトに照らされて、艶を際立たせている。  
細い首に小さな丸い顔が乗っかっている。利発そうなグリーンの猫目、日焼けの赤みが消えた薄白いほっぺた。  
厚くなった唇には、ピンクのベイビー・リップが塗られている。飄々としたイメージを与えても、一端笑顔がほころぶとがらりと変わる。  
スタッフ用の黄色のシャツは胸の部分だけ極端に盛り上がって、中央にプリントされた虹のマークが大きく歪んでMの字を描いていた。  
細身で小柄ゆえに余計に胸が強調されている。ねえ、ここ間違って入り込んじゃったみたい、窮屈なの、出して!と言わんばかりに。  
あがりを見計らって、食事に誘った。記憶を探って最も小奇麗かつ安い店を選んで近況を語り合った。  
ジャクリーンは実の姉よりも姉らしく振舞っていた。  
ロッドを一人の人間と認めてくれているようだったし、下らないジョークだって、一応は聞いてくれた。  
とっておきのネタをがつんとやれば綺麗な顔を崩して腹から笑ってくれたものだ。  
「ねえねえ、色んなものが詰まってるのね、あなたの頭。そういうの、テレビや本から探してくるの?」  
「むしろ清掃員に化けてテレビや本を探してる。粗大ゴミの日がクリスマス」  
「もう、そんなことばっかり言って」  
「この前行ったらびっくりしたぜ。清掃員がいつもより一人多かった。どっかで見た顔がいるなあ……  
 ああ、なんてこった、姉貴だ、姉貴、ああ、こうしちゃいられない、ねえ、誰でもいいからこれ、持ってってください!  
 飯はたくさん食いますが、よく動きますよ!あなたがリバー・フェニックスなら電池なしで動きます!」  
「だめよ、そんな風に言っちゃ、だめ。シェリルのこと」  
「なに?なんだって?コリー・フェルドマンはダメかって?『糞して寝ろ』と言ってます」  
「だめだって」  
「でも、笑ってる」  
「そうね」  
姉貴がジャクリーンだったらいいのに。ロッドは幼い頃少なからずそう思った。その当時、シェリルとは特に仲が悪かったわけではない。  
それどころか時折父の暴虐から手際よく救出してくれたので、すぐに罪悪感でいっぱいになったが、思ったことは事実だった。  
時々――勢いで手が触れ合うこともあった。キスした時、あれはジャクリーンが提案したのだ。いわく、男の子と女の子の遊び。  
ロッドは七つで、ジャクリーンは十一だった。1974年、32番地のマイク夫妻が畑を売る前、州道の分離帯に沿ってつながる道はまだなく、  
収穫前のとうもろこしが青々とした葉を風に揺らせて土と肥料の匂いを運んでいた。幸い、周りには誰もいなかった。  
納屋の裏手で行われた姉も知らない彼とジャクリーンだけの秘密。ファニーなキス。少女の膨らみかけた胸や甘酸っぱい汗の匂い。  
背の高さだって同じくらいだったから、唇と唇をお互い垂直にゆっくり近づけるのは簡単だった。きゅうっと潰しあった。  
ジャクリーンは眼を閉じていた。自分だけ眼を開けているのが申し訳ない気がして、ロッドも瞼を下ろして唇の不思議な柔らかさに感じ入った。  
離した時に、彼女は既に目を開けていた。寂しいような、嬉しいような顔をして、彼の肩を撫でたのだ。  
「ね、遊びよ。いつもしてるのと同じ、これって。そうよね?」  
 
ロッドは十八歳のジャクリーンにその話をしたくてたまらなかったが、あまりに恣意的でいやらしく感じられて、諦めた。  
しばらくそういう関係が続いた。ロッドが映画館へ行く。映画を観るためではなくジャクリーンに会うために。  
そして仕事が終われば二人で話す。今度いつ売店に立つかはその都度教えてくれた。  
五回目に会った日、寝た。モーテルの薄暗い部屋で、二人は抱き合った。  
ジャクリーンは処女じゃなかったが、ロッドはこれと言って感動も失望もしなかった。なあに、俺だって童貞じゃない。  
もちろん彼女のヴァギナは清潔だった。キスして、と言われた時――顔をしかめたが、息をせずにやってみた。  
まるで違う、甘く神秘的な味がした。同じものなのか、とロッドは驚いた。彼女のヴァギナは不思議な泉に感じられた。  
いつまでも唇でなぶっていたくなる。愛撫を続ければピンクのエイが泳ぐようにゆらり形を変えた。  
気がつけば普通に息を吸い、愛液を吸っていた。  
これが、本物だ。  
途端に全てを知りたくなった。成長したジャクリーンの身体の全てを。爆発しそうな心臓を抱えながら、ありとあらゆるところを舐めた。  
濡れた唇、柔らかい耳たぶ、首筋のラインに赤く跡をつけてやる。尖った肩に這わせて、腋まで降ろした。躊躇する声を無視して続けた。  
初めくすぐったがっていた彼女は次第に本気になって感じ始めたようだった。その顔を増やすように努力して唇で愛撫を続けた。  
背中の筋を指で撫ぜ、後を追うように唇を這わせる。片方の乳首を親指でこすり、もう片方を舌で転がす。乳輪まで念入りにキスする。  
くぼんだおへそは控えめに触れるだけにして、白いおなかをさすりながら、陰毛に向かう。森に唾液の雨を降らせてやる。  
クリトリス、パーカー先生のありがたいお言葉、女が一番感じるところ。表情を確かめながら唇で念入りに色んな刺激を試してみる。  
挟む、こする、はじく、転がす。十分に膨らんだのを確認したあと、今度はさすりながら、  
膣穴へ舌を差し込めば、上の方から急かされて弱々しく同意したような切ない声が聞こえた。  
後ろの穴、パーカー先生のありがたいお言葉、上級者向け。汚ねえからな。女だって恥ずかしがる――糞くらえ。  
ジャクリーンのならなんだって、お尻の穴だって、綺麗だ。  
この時、既にジャクリーンの足はいっぱいに開いていた。クリトリスを人差し指で回しながら、まずは軽く、一瞬のキス。  
意表をつかれたか、全身がびくっと震える。少し間を置いて、もう一度、今度は長く唇を貼りつけて、舌を差し込んだ。  
拒絶の声が細く、震えた。だが――顔は嫌だとは言っていない。続ける。強張っていた腿やふくらはぎが徐々に緩んでいくのが分かった。  
低い声が立て続けに聞こえてくる。愛液がだらだらと鼻まで垂れて、鼻先で分かれて、シーツまでこぼれた。  
足の指の一本一本まで、口に含んだ時、ジャクリーンがストップをかけた。ペニスにゴムをかぶせ挿入を要求した。  
そこから先は、ぎこちない腰の動きを彼女が補った。そのため、すぐに精液溜まりは真っ白になった。  
一瞬で終わってしまった性交だったが、ジャクリーンは不満そうな仕草も驚きも見せず、何も言わなかった。  
その代わりにっこり笑って、昔したキスの後と同じように、ロッドの肩を撫でた。彼の頭の中にとうもろこし畑の風景が浮かんだ。  
すうっと風が吹いている。背丈が同じだったジャクリーンが、まるで、あの時の続きをしてるみたいね、と言っているように思えた。  
 
結果的に、ジャクリーンはまだぎこちないロッドをよくしつけた。女の身体をどう扱うかはもちろん、  
女と会う時はどういう顔をしているべきか、服は乱れていないか、朝昼晩歯を磨いて髪を整えて精悍な顔つきで笑えるかどうか。  
何より大切なこと、抱いた女の一部、思想、願望、悦び、感動、意志、時には二律背反する矛盾……或いは全てを感じ取ろうと努力し、  
それらを自分なりに消化した上で、中に確かに生きているのを、示せるかどうか。  
その通り、ロッドはやりなおそう、と思いさえしていた。まともになろう。ジャクリーンのために。ジャクリーンの笑顔がもっと見たい。  
ジャクリーンとずっと笑いあえるなら、キスの続きができるなら、舞台に立てないチャップリンみたいな人生も乗り切っていける。  
当面の問題は進級だった。彼は壊滅的な焼け野原に杭を打ちたて、ペンと消しゴムと教科書を持って、畑を耕し始めた。  
元々理解力は低い方ではない。ただ退屈に過ぎるのと、諦めていただけのことだ。しばらくは剣を置いてペンの生活を続けた。  
そうして年が明ける頃には、ジュニアハイスクールの最終年への進級もすんでのところでパスして、  
このまま行けばリッキー・ヘンダーソンが二塁を無事盗むのと同じくらいの確率でプレイサーヴィルの就職クラスに滑り込めそうだった。  
たった何ヶ月の内に、もうジャクリーンはなくてはならない人間になっていた。  
同時にあんなに怖かったジストが遠い場所にいるように感じられた。  
ひどく遠い、別の星で起こったような出来事。木星のわっかに含まれる小さな隕石、存在しても詮無きものだ。  
だが、一つだけ。彼女がペニスを奥まで含んだときの名状し難き顔だけはまだ心の隅に残っていた。  
いったい、どういう風に生きれば、何をすれば、或いはされれば――人はああいう顔をするんだろうな?  
次からは会う時が寝る時だった。未熟なペニスは次第に肉の味を覚え始め、鍛えられた。  
姉はもちろんのこと、周囲の友人にも自慢したくなる気持ちをぐっと抑えて、ジャクリーンとのことは秘密にしていた。  
肩を撫でてくれたジャクリーン。あのキスだって二人だけの秘密だったのだ。あれは彼女の意志だ。彼女の気持ちを裏切りたくない。  
それに、誰かに話してしまえば、感動がうすらいで途端に意味のないものになってしまう気がした。  
 
だが、いつまでも我慢できるものではない。ロッドは次第に関係を公のものにしたいと思い始めた。  
映画館にお邪魔して黄色いシャツを見るよりも、一度最高にめかした格好で朝から街を歩きたかった。  
人目や年齢を気にしてモーテルで愛し合うより公認のカップルとして認められたい。  
真面目とは言わずとも世間並みにやるようになった自分を  
文明に触れた地底人アンダーテイカーを見るような眼差しでいぶかしんでいる姉や友人にその理由を教えてやりたかった。  
それに――いささか宙ぶらりんだった。なにせ、好きだ、愛している、その一言さえまだ言えてない。  
教示その四(彼女は様々な教示を言葉を使わずして実に巧みに語った)  
「無闇に好きとか愛しているとかぺらぺら言うのは相手を縛る言葉ですよ!大切なのは行動で示すことです!」  
抱き合っている時もそうだ。余計なおしゃべりはやめて、身体で示して、それが決まりだ。  
十度目のセックスのあと、ロッドは想いを伝えようとした。切りがよい数字だ。しかしジャクリーンが機先を制した。これまでと同じように。  
したがってロッドは休みの日、いやそれだけじゃなく、好きな時にいつでも会いたい、と言うことしかできなかった。  
当然オーケーをもらえるものだと思っていたが、彼女は乗ってこなかった、卒業後の進路や様々なことを理由に態度を保留した。  
「ごめんなさい」顔が固くなった。口では謝っていても感情を排した顔だった。頭の中では何か色々と考えているように見えた。  
やがてジャクリーンはグリーンの猫目をすっと閉じて、耳の後の髪をひとさし指で撫で始めた。猫がゆっくり毛づくろいするように。  
ロッドは申し訳ない気持ちになった。  
一緒にいられる数少ない最高の時間を台無しにしてしまった。自分だけの都合で彼女を混乱させてしまった。  
そう、何事にも段階と準備があるのだ。さすれば、寝るのだってあまりに早きに過ぎたかもしれない。  
しかしロッドはジャクリーンの手際の良さを信じていた。年上だからそう感じる部分もあったろうが、昔から抜きん出ていた。  
遊びにしろ何かやる時は上手いこと自分が楽しめる方へ持って行く。それでいてみんなに不満を感じさせない方法を考え出す。  
今と同じように優雅に髪に触れて、眼をぱっちり開けた時には素晴らしい考えが手品のように生み出される寸法だ。  
皆を巻き込んで、結果がつまらないものになったことは一度だってなかった。  
「……とりあえず」ジャクリーンが眼を開いた。  
「落ち着いたら家に呼ぶわ。ありがとう」  
だから、今回もジャクリーンに任せることにした。彼女の言うことならばと。  
 
信頼が崩れ始めたのは、冬の寒さが心持ち緩んできた頃だ。  
長らくつきあいをさぼっていたパーカーの車に札つき連中と乗り込んでドライブインシアターに出かければ、  
ダリオ・アルジェントの「サスペリア」が流れていた。仰々しい音響、原色を散りばめた照明。  
大雨が降っているドイツの古都。空港から降り立ってタクシーに乗り込む少女。  
彼女がバレエ学校の門を叩いて追い返されてからしばらく経って、パーカーが「やるぞ、おい、やった!」  
黒手袋がナイフを握り締め、タクシーに乗っていたのとは違う女の胸や腹を突き刺した。一度、二度、三度。  
赤い光がフロント・ウインドウに差し込んで、車内を血の色に染めている。  
女はめった刺しにされたあげくにテラスを突き破り、宙釣りとなる。  
首に縄が絡まって落下した時の顔があまりに毒々しく、ロッドは苦味潰したような顔を左に背けた。  
目を開けると――ちょうど左斜め前だ。顔の大きさくらいに縮まっている薄赤い、おそらくは白の普通車。  
その助手席にジャクリーンがいた。彼女は助手席の窓の下から映画同様の叫び声を挙げるような顔でふっと現れて、また下へ消えた。  
ほんの数秒だったが、ロッドの目にはしっかり焼きついた。赤く彩られた彼女は初め目を閉じていたのだが、切なげに開いてから隠れた。  
隠れる寸前、目があったように感じられたが、そこまでは自信がなかった。  
反射的にスクリーンに目を戻してみれば、どういうわけか、また違う女の顔半分にガラスが深々と突き刺さっている。  
ああ、割れたテラスか、納得したところで、ロッドは「あ」と声を挙げていた。「どうしたよ、びびってんのか」  
「イタ公ってのは加減をしらねえな。何考えてんだ」「うるせえ、黙ってろ」「殺せ!殺っちまえ!」  
もう一度、ちら、と眺めてみた。もちろん車を。  
シーンが切り替わって強い照明が消えてしまい、肉の棒がもぞもぞと動いているようにしか見えない。  
ゆっくり流れた時間。その時のロッドにとって、幽霊に見間違えてもおかしくない女はジャクリーンに似た誰かだった。  
そう思おうとした。似ている人だ。世の中に似ている人はごまんといる。  
一瞬見えただけだ、雛鳥が巣穴から顔を出すように一瞬、知らない男と女が――ことに及んでいるところを。  
 
だが、映画の半分も行かないところで疑惑の車が出口へ向かって走り去り、ホワイトカラーを取り戻しても疑念は消えなかった。  
観終わった帰り道で、ふと冷静になってみれば、やはりあれはジャクリーン以外の何者でもなかったのだ。  
見間違えるはずがない。だいいち――美しかった。  
ちなみに彼女は母子家庭ではあるが、一人っ子だし、クローン人間でももちろんなく、  
地下牢で鉄仮面をかぶせられた双子の妹もいないはずだった。いやはや地下室はあるかもしれないが。  
一縷の希望すら砕かれたかと思われたが、まだすがる藁は残っていた。  
ロッドは彼女にその日友人と映画を観に行くと告げていたのだ。場所までご丁寧に。  
その上彼女はアルバイト仲間のジニーとスプリングウッドに行くと告げている。  
おしゃべりしながらショッピングにいそしみ、洒落たレストランで飯でもぱくついて、今頃は家のベッドで寝ているはずである。  
素晴らしいことにジニーもそう言ったのだ。心強い証言だ。  
それに服装も彼が見たことのないものだった。走り去る前、車が左へバックして、中が十分に見えるところまで出てきた。  
見るな、見るな、と思いながら、目の端にひっかかった白いブラウス。  
顔は運転席の方を向いていたので分からないが、髪形は(少々乱れていたものの!)彼女だった。  
オーケー、落ち着け皆の衆、状況は悪くねえぞ、とロッドは思った。  
なぜなら、白は似合わない。ブラウスは似合う、いや何を着たって似合うだろうが白じゃない。  
彼女は黄色いシャツを着てる。いつも黄色なんだ。……映画館の売店で。  
ロッドは頭を抱えた。  
ならば、そう――最初の疑問に決着をつけるべきだ。  
彼女が浮気――浮気?どっちが浮気なんだ?俺の方か?やめろ、汚らわしい――したとしても、  
どうしてわざわざ危険を冒す必要がある?どこの世界に亭主の目の前で犬にアソコを舐めさせる主婦がいるだろう?  
犬と亭主と主婦の間に三国同盟が成立していればあるいは3%くらいは確率があるかもしれない。  
だが、三国同盟が上手く行った試しはないし、俺はそんなものを結んだ覚えはない。断じてない。  
そもそも、ジャクリーンほど頭がよければ、そんな失態はありえない。その線はない。茹で過ぎたパスタより脆い。  
しかしその日は眠れなかった。  
 
約束の日、映画館が見えてからは早足になり、入り口の扉をくぐる頃には駆け足になっていた。売店についた時は、息が乱れていた。  
「ちょっと、もう、ねえ、だいじょうぶ?はあはあ息切らしちゃって。はい、落ち着いて」  
ピンクの唇の両端をきゅっと持ち上げたジャクリーンは何も知らないように見えた。いつもの彼女そのものだ。  
黄色のシャツだって相変わらず盛り上がっていた。助手席からはあまり見えなかった胸。  
ロッドの眼がシャツの上半分へ向いて止まった。そのまま動かない。  
彼女は興味深げに視線の軌跡を辿っている。終着点が自分のバストだと気づくと、ふふ、とあやすように小さく笑った。  
突然、ロッドはそれをひどいやり方で引き裂きたいと思った。  
虹の真ん中から下、谷間の部分にぴんと伸ばした指を刺して左右にぐりぐりねじる。  
小さな穴を空け、そこから一気に、生あたたかい水色のブラジャーごと両手で引きちぎる。肌の香りが飛び散る。  
無限大の記号がその果てしない法則を保って具現化したような乳房がぼろんと飛び出て揺れる。  
ピンク色の乳首、マジックのキャップを切り取ったみたいな乳首、ごく小さな細い糸虫が這うように、皺が走っている乳首。  
高く短い悲鳴を挙げて胸を両手で隠し、心から怯える彼女の顔が見たかった。なぜだか分からないが。  
「そうね、せっかく早く来てくれたんだし、何か食べる?うん、コーンとコークでいい?」  
右の猫目をぱちくりウインクさせたジャクリーンに気づきもせず、ロッドは彼女の左肩の裾から直に二の腕を握っていた。  
「やめて。仕事場よ。あ、どれにします?」  
カーキのジャケットを着た髭を二日ばかり剃り忘れた風の男がすぐ傍に立っていた。  
ロッドは静かに手を離し、いつものように彼女の仕事が終わるまで映画を観た。  
その日、モーテルでは一切の会話がなくなった。奇しくも二人は身体で示し続けた。  
ロッドは性獣の狂気を宿らせて、疑心暗鬼の劣情を力いっぱい叩きつけた。  
疑うな、愛する女を疑うのは男のすることじゃない。疑うのは心の弱い人間がやることだぞ!  
それに、教示その七だ。  
「隅から隅まで詮索するのは停滞をもたらします。それよりも一人の時間を愛しましょう。  
 程よい孤独は強い男女を育てます。またあなた方のセックスの良い燃料となります。  
 さあ皆さん今からそれぞれそっぽを向いてください。一人の時間を――」  
 
だが、もやもやが消えることはなかった。たった一言、訊くことすらできなかった。  
先週、土曜の夜、どこにいた?  
或いは、こんな切り出し方でもよかったかもしれない。  
ジニー、あの子ジニーで合ってたよね?うん、彼女から聞いたんだ。  
どうせ行くんだったら言ってくれればいいのに。ドライブインシアター。  
だが、一言でも口に出せば疑っているのを認めることになる。こんなに綺麗なジャクリーンを。  
とにもかくにも破滅の波は食い止められそうになかった。加速度的にセックスは激しくなった。  
ロッドはいつまでもジャクリーンの身体を愛撫し続けた。何度も絶頂を強制した。ときに彼女は失神した。  
彼女のオルガスムスは長く、激しく、連なって続く。まるで機械のモーターがうなるみたいに鳴くのだ。  
最初は呻くような、低い「う」だ。うが連続して続き、むが混ざる。  
そして彼の背中に爪を立てたり、シーツをマットごと握っている時には細い喉から独特の音を奏でている。  
最初に会う時はいつも同じ服。同じ場所。肉体を保護する黄色いシャツ。  
ポップコーンやフランクフルトの油の匂いが染みついている。その下には彼女の香りがある。  
ロッドはそれを克明に想像し何度も引き裂く。彼女がイク時はことさら派手にやる。布切れ一片になるまでちぎり倒す。  
だが、すぐに彼女はシャツを着る。ロッドはまた愛撫を開始する。彼女は乳房と同じ無限大のスペアを隠し持っている。  
教示その十二「愛する人はフルネームで呼びましょう。ガキっぽいつきあいは御免です――」  
くそくらえ!もうジャクリーンとは呼ばないぞ、ジェリーって呼んでやる、嫌がられても呼んでやる。  
ええ、ジェリー?俺はぽんこつ人工衛星か?なんとかプーチンやらなんとかチョフが造ったロシア製のやつか?そうなのか?  
教示その二十一「彼もしくは彼女の家に無断で行くのは下品な行為です。玄関のドアはあなたのドアではないのです。はっはっはっ」  
そう、映画館を経由してモーテルに入って家に帰って、ずっとこのままぐるぐる回ってろっていうのか?  
ほら、あなたは何と言ってもまだガキなんだから、ぴちぴちのシャツで満足でしょ?ってか?  
やあ、これで35627周目だよ、そろそろ動かなくなってきた、油さしてよ、あるじゃないか、股から滴ってる、どろどろの。  
普段はお姉さん面してて、何でも知ってるのよって顔してるくせに、まるで今の君は黄色い機械じゃないか。  
もう知っているんだぞ、と心の中で言ってやった。教えられたんだ。何も知らない、遠い昔にキスした時とは違う。  
ほら、涙目になって、呆けた面をして、うんとよく動くように、何処をいじくればいいのか、俺は知っているんだ。  
 
臨界点突破寸前をもって、ジャクリーンはロッドを家に招待した。彼にはまだそれを嬉しく感じる気持ちが残っていた。  
ちょうど七日の間があった。彼女が指定した適切な充電期間だ。  
ついに先に進める、とロッドは思った。その日が楽しみで仕方なかった。どう広げていこう。二人で一緒に。  
そしてここ最近心の中で彼女を罵った言葉を一から十まで思い出し、その全てを悔いた。逢う資格の有無について考えさえした。  
当日には決心していた。本当のことを言おう。少しばかりか、最近ずっと俺は君のことを疑っていたんだ、  
たった一瞬見えただけなのに、おぞましい考えがどうしても消えなかったんだ、と。もちろん大変に勇気がいることだ。  
新たな溝を作りかねない。しかし、そんなことすら乗り切れなくてなんだろう?  
それが終われば男らしくない弱い心を鋼になるまで鍛えなおそう。今度はジェリーを引っ張って、一人の女として安心させてやるんだ。  
あまりにも青いが、同時に強い炎が彼の心の内に燃えていた。扉を開けて彼女が出てくるまでは。  
聖女のように微笑む彼女を見て、ロッドは泣きそうになった。  
いや、既に目の下には涙が溜まっていたかもしれない。それに彼が気づくことはなかったろうが。  
「待ってたわ。さあ、入って。私の部屋、見せたいの」  
確かに彼女はずっと待っていたのだろう。  
十度目のセックスのあと、思案して目をぱっちり開いたその時から?それとも初めてキスした時から?  
ジャクリーンは、あの日の助手席からタイムスリップでもしてきたように、白いブラウスを着て、超然と立っていた。  
ロッドは目の前の光景が信じられなかった。と同時になにかやぶさかない感動で胸を震わせていた。  
白い――あまりにも白い。夢にまで出た助手席のブラウス。お嬢様みたいなブラウス。  
本当は自分とデートしている時に着て欲しかったブラウス。存外白がよく似合っているじゃないか。  
離婚してから大分経った母子家庭、一人っ子の家らしく、男の匂いが失われていた。  
しんとして、空気だけやけに澄んでいて、薄暗くって、散らかったところが微塵もない、人が一人死んだあとのような家だ。  
いたるところに女の諦観と苦労と打算が息づいている。入って、入って?彼女はそう言ったのだ。  
ロッドは焦点の合っていない目でただただ足を前に動かそうとする。しかしもう一人で歩けない。進みたくない。  
ジャクリーンがカルロ・クリヴェッリ「マグダラのマリア」のような全てを見透かした目で、唇の端を釣りあげる。  
さあ、歩きなさい、これからなのよ、と手を差し伸べる。  
ロッドはいちばん奥の彼女の部屋まで、胸の痛みで血を吐きそうな想いで、手を引かれてよたよた歩いた。  
さしずめゴルゴダの丘を登るキリストに相違ない。ああ、実に、あんまり心無いやり方じゃないか。  
だが、弟子に裏切られるのとたった一人愛する女に裏切られるのとどちらが辛いだろう?  
 
部屋に入ったのが開始の合図だった。  
ジャクリーンは振り返り、少し間を置いて、またロッドの肩を優しく撫でた。三度目のキスの余韻。  
しかし動転していた彼にとって、それは悲惨な現実へ呼び戻す悪魔の手に過ぎなかった。  
撫でているのはジェリー。納屋の裏手でキスしてくれたジェリー。あんなに何回も抱き合ったジェリー。  
俺のジョークを聞いて顔を崩して笑ってくれたジェリー。それなのに裏切った。どうして?  
頬に一発張ってやるか、いやその必要はないと、彼女は優しい目で、口を開かずして語った。  
ねえロッド、これでお別れよ。残念ね。でも、あなた、ずっと想像してたんでしょう?  
ひどくしたい、めちゃくちゃにしたいって、あれでもまだ足りないんでしょう?  
そうよ、今日は特別な日、私が教えたこと全部忘れて、あなたがしたいように、何でも自由にしていいのよ。  
ロッドはもう涙をぼろぼろこぼしていた。全身が熱くて痛い。心臓が胸から飛び出して落っこちそうだ。  
しかしそれでも彼女の意志の断片だけは読み取れた。いつもそうやって無駄な努力をしてきたのだ。気持ちを分かろうと。  
彼はくたびれた奴隷のようにゆっくり頷いた。それを見て、頷き返したジャクリーンが下げていた眉をつり上げる。  
眉間が峡谷に変わる。ぎゅんと猫目を限界まで開かせてグリーンの瞳の奥からどす黒い狂気の光をぶちまける。  
眼はこう語っている。わかったらさっさと襲え!押し倒せ!  
「ああ、ジェリー!」  
ロッドは長袖のブラウスのボタンとボタンの間に両指をぐちゃぐちゃにねじ込んだ。  
そのままいつも頭の中で黄色いシャツにしていたように渾身の力で引きちぎった。  
黄色いシャツ?ああ、これがいつもの黄色いシャツならどんなに良かったろうか。  
ボタンがはじけ飛びオレンジのカーペットの上に転がった。彼女はブラジャーをしていなかった。  
無限大の胸と香りが勢いよく吐き出された。想像通りに揺れた。想像通りに香った。  
部屋に息づくその人の匂いとは比較にならぬメスがオスを発情させる香りが彼の身体を包んだ。  
驚くべきことに黒のパンツスーツの下にも何もなかった。  
引き下ろした時に、股裾の部分に付着したねとねとの愛液が穴から糸を引いて垂れた。既に湿りきっていた。  
やはり彼女は真実を告げていた。待っていたのだ。彼女はずっと。  
お互いの服を奪い合うように脱がしあった。全裸になったジャクリーンが自動人形のようにくるんと背を向けた。  
ロッドは後ろからもみくちゃにするように抱き締めた。そのまま二人はベッドに倒れこんだ。  
「ジェリー!」叫んで彼女のうなじに何度も顔を押しつけた。  
涙で濡れた鼻や唇で抵抗する後ろ髪を掻き分け、蚯蚓を探すモグラのように突き進み、  
激しい息を振りかけながら、耳の後ろからうなじにかけての香りの中にうもれた。  
隠された泉を手で探らず、膨らんだ尻に腰を押しつけただ強く動かした。  
ペニスが卑猥な入り口をかすめて逸れた。時に薄紫の尻穴から尾骨にかけて。時にシーツとクリトリスの間に挟まるように。  
しかし徐々に近づいていき、ジャクリーンがうつぶせの脚をばっと開いた。  
寝後背位でいきなり挿入した。今までで最も硬く、最も長く、最も興奮した生のペニスを。  
前戯なしで挿入したことなど一度たりともなかった。だから、したかった。  
それも身体をぴったりくっつけた格好で殺気をみなぎらせ、後ろから脅迫するようにひどく犯したかった。  
今に至って彼女は男の劣情を誘うための虚飾の声など使う気は毛頭なかった。  
しかしそれでも大声が出た。「うぅううぁ!」  
 
たっぷりお湯が張ったバスに飛び込んだように汁があふれ、飛び散った。  
肉襞がペニスを歓迎している。彼女のヴァギナはいつもと同じで狭く温かかった。  
ロッドはその温かみを心から憎んだ。  
こんなに芳醇に包んでくれているのに、ジェリーの中には何もなかったのだ。  
それはただ子種を導くために収縮を繰り返す肉体機能の一部分でしかない。  
ならば、子宮の入り口から直接ぶちまけてやる。  
今は彼女の肩から脚にかけての輪郭がはっきり感じられた。自分の身体とつながって一個の別の生き物になったようだ。  
「うぅう」  
届いた。奥、こつこつ、佳境に入ってからゆっくり叩かれるのが好きな場所。つまりまだだ。  
しかし、分かっているなジェリー、ええ?届いているよ、もう、一丁前に呻きやがって、叩きのめしてやる。  
ロッドは肩口に回していた腕を下ろして胸を揉みしだいた。あまりにも豊満だ。  
ぐちゃぐちゃにしてやると力強く握っても負けずに跳ね返ってくる弾力、  
雨に濡れれば水を弾いて露の玉を浮かび上がらせるだろう。指の間から肉がこぼれる。  
「逃げるな!」  
叫んで心に決めている。俺の流儀を通してやる。胸を握りつぶすようにして、おまんこが壊れるくらい動いてやる。  
ロッドはピストン運動を開始した。上質の肉布団の上でやたらめったら腰を動かした。  
気がつけば声を出していた。いつも思っていたこと。心の中で彼女を罵っていた言葉。  
「何を知ってる?ええ、ジェリー、何を!」  
耳元で大きな声を出されて、ジャクリーンの身体がびくっと震えた。ぎゅっとヴァギナが締まる。  
肉襞が慌てふためいている。それがペニスに伝わる。ヴァギナがペニスに語りかける。  
やめて、怒らないで。あなたのこと、大切な、弟みたいに思っていたのに……。  
「黙れ!」  
亀頭をこすりつけるようにして奥を叩いた。ふうっ、ふうっと苦しそうな声が聞こえてくる。  
耳の穴に舌をぶちこんで、唾を垂らして汚した。性感以外の感覚を奪うために。  
「もう着るな!絶対に着るなよ!いまいましい、あのくそ、くその色、ぶっ壊れろ、更地にしてやる!」  
指の間から肉が飛び出している。全部を手の平に収めて陵辱したいのに。  
人差し指と中指で乳首を強く締め上げる。圧縮ゴムのように硬かった。  
ね、遊びよ、いつもしてるのと同じ。これって、そうよね?遊びよね?遊びだったのよ。  
「う、う、う、う!」  
こんなにひどくされているのに彼女はいつもより大きな声を出している。それがロッドをたまらなくいらだたせた。  
ええ、おい、俺が今までやってきたことはなんだったんだ?決して彼女を傷つけないように、痛くしないようにって……。  
何も知らなかったのだ。分かったつもりになっていて、何も。  
自分への怒りを動力源にしてさらに速く鋭く腰を動かす。ナイフを突き刺すように。  
「ううむうぅぅううむううぅぅぅうむ……」  
ついに彼女は機械になった。すぐに激しい膣蠕動が訪れた。  
ヴァギナが涙を流して震えている。どうして私を傷つけるの?あなたは……まるで……。  
「ちがう!」  
射精した。奥の奥で白い体液を吐き出した。どっぷり子宮に入ったろうか。  
全身から力が抜けていく。波のようにうねっている肉がそうさせるのだ。  
そして彼女に身体を預けた。ジャクリーンが左に首を回した。横顔、猫目が赤く腫れている。  
口をOの字に開けて、視線が痴呆老人のように何もないところを漂っている。いつもの優雅さが消えうせている。  
「……もう終わり?」  
そこから先は簡単だった。ロッドは彼女を機械にするためだけに動いた。  
二度と生意気な口がきけないように黙らせたかった。絶対服従させてやるぞと心に決めて、愛撫に切り替えた。  
覚えている全てを使った。中に入れたまま、イキそうな瞬間に乳首を引っ張る。  
ざらざらの部分をこすりながら、クリを愛液塗れの指でゆっくり回す。よくほぐれたアナルと膣を指で同時に責める。  
もう心が折れていた。三度目に放出してからは、怒りも消え失せた。心の隅に戻って来て欲しいと感じさえしていた。  
何度も絶頂を与えた。失神しても責め続けた。彼女は、ひはっ、ひはっ、と空気を漏らすような声を出し、舌を唇の端にもたれさせた。  
睫毛が奮え、半開きの目を宙にさまよわせている。ぐったりしたヴァギナに何度も射精した。  
 
何時間も一方的に犯して、離れた。驚くべきことに、そのあとも、二人はベッドで隣り合って寝ていた。  
いや、髪をなでたり腕を絡めたりしないところを見れば、動く気力すらなかったのだ。  
「ずいぶんね」ついにジャクリーンが始めた。  
既にロッドも多少の冷静さを取り戻していた。今やったことはレイプと変わらない。本質的に何の違いもない。  
恥ずべき行為だ。もう一つあった。自分は、間男だ。しかし同時に、お前は気づいていたんじゃないか、  
認めるのが嫌で眼を閉じて、開いたら大事になっていた。分かりやすい摂理じゃないか、こんな思いも巡っていた。  
「できちゃったらどうしようか?」  
ロッドの顔が歪んだ。それを見て、ジャクリーンは小悪魔的な笑みを浮かべた。  
「知ってたんでしょ、当然。もうすぐあの人と街を出る。結婚して子供産んで――あんたの子よ、  
 危ない日にこんなにいっぱいぶちまけたんだから、きっとできるわ。たぶん、男の子ね。  
 髪の色、眼の色、血液型までおんなじ、顔まで似てる何も知らない夫と三人で幸せに暮らしましたとさ。  
 あんたの知らないところで」  
ロッドは何も言わなかった。無言の彼を見てジャクリーンは冷たい目をして黙ったが、彼には声が届いていなかっただけのことだ。  
彼は深い記憶の底にいた。夕闇が降りている、ふてくされた顔をして、そよ風がするように静かにドアを押しくぐった遠い過去。  
気づいた母が肘を擦りむいたゆえのざらざらした赤い皮膚や、泥にまみれた耳などを優しく拭いてくれた。  
どうして相手を殴ったのか、喧嘩になったのか、相手の何が許せなかったかを分かってもらおうと話した。  
母はこう言った。「暴力はやめなさい。よくないことよ、どんな理由があっても。悪いことしたなって思ってる?」  
いいや、思っていない。同じ答えを心の中で返した。俺は悪くない。  
ふいにジャクリーンが狂ったように笑い出した。タガがはずれたような笑い、ボリュームが壊れている。  
記憶の世界に入り込んでいた彼を引きもどすには十分な行為だった。  
ロッドはまじまじと目の前で笑い転げている女を見つめた。おい――いったい、これは誰だ?  
胸をゆらせて、唾を撒き散らし、鼻の穴をさらす、ただの間抜けな肉の塊にしか見えない。  
 
ジャクリーンは唖然としているロッドの肩を笑いながら叩いて、言った。  
「ねえねえ、すっごくいいこと思いついちゃった。聞いて、子供できたらあなたのRとってレイプってつけるわ」  
ロッドの身体を冷たい怒りが支配した。これは、肉の塊だ。人の皮をかぶった。生きている価値などない。  
「ゆりかごの傍に立って毎日囁いてやるの。あなたのパパは別にいるのよ、それも田舎の不良、  
 女疑うこと知らないフェミニスト気取りのクズで、そのくせお前は逆上したそいつにむちゃくちゃにレイプされてできた子なのよって」  
もう誰でもない。存在することが許されない。  
「だからお前も大きくなったらパパと同じようにレイプなさいって。男でも女でもいいわ。そのためにレイプってつけたのよって。  
 レイプ!あは、レイプ!あはっ、あはっ、レイプ!レイプ!レイプ!レイプ!レ」  
――殺してやる。ロッドは折れそうな首に両手を伸ばした。ジャクリーンは急に喋るのも笑うのもやめた。  
何の怯えも戸惑いも見せず、大きな手の平が迫ってくるのを毅然とした態度で待ち受けていた。  
振る舞いにある種の気高ささえ漂っていた。  
震える指が頚動脈の辺りに触れた。  
頭の中では機械が――ジャクリーンから離れてそれ自体意志を持ったような黄色い機械が唸って叫んでいる。  
うぅぅむむむうぅぅむむむむぅううむむむううううむむ(殺せ!殺してしまえ!どうせそいつは肉の塊だ!)  
指に力が入りかけた時、彼の頭に殴られた母の顔が浮かんだ。  
折れて床に転がった歯、悲鳴をあげて逃げる母、涙と鼻水と血液でねばっこくなったタオル。  
彼を呪いのように縛りつけている戒律、その手は?女を殴るのが男か?女を――。  
そっと撫でることしかできなかった。奇妙な声は掻き消えていた。  
その時、彼女の予想が初めて覆ったのだろうか、ジャクリーンの眉はぴくぴく震えていた。  
しかしそれもすぐに終わった。表情から全ての感情が欠落した。無表情を超越した皮膚を貼りつけただけの顔だ。  
口が微かに開いた。  
「石女(うまずめ)」  
うまずめ?ロッドの所有する語彙には見当たらない単語だ。うまずめ?  
それに目の前で喋っているのがどうしても人間とは思えなかったのだ。ロッドは驚愕した。ジャクリーンは本当に機械になった。  
「できないのよ。十四の時に一生できないって言われた。だから心配……ばかね、あなたは。だいいち――」  
彼女はその先を言わなかった。電池が切れたかのように動きを止めた。  
急に雨が降り出したのをきっかけに、ロッドは無言でベッドから這い出し、床に散らばった服を着た。  
ジャクリーンはまだ全機能を停止していた。ベッドの上で死んだように腕を投げ出し、ばらけた髪すらぴくりとも揺れなかった。  
彼はふらついた足取りで部屋の扉を開け、外に一歩を踏み出した。頭の中では同じ言葉が巡っている。  
ジャクリーンは機械になった。ジャクリーンは機械になった。ジャクリーンは機械になった……。  
彼の背中に低く震える声が届いた。  
「どうして殺してくれなかったの?」  
それきりで会うこともなかった。  
 
 

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