はぁはぁ・・・。
私は約束の丘をめざして走っていました。
ファトラ様はもういらっしゃってるかしら・・・?
目がくらみそうなほどまぶしい朝陽を全身で受け、心までぽかぽかしてきます。
朝露に濡れた草木もみんな朝陽を受け、反射して、雫のひと粒ひと粒が七色に輝いています。
まだ人通りのない町並みは私だけの王国のよう。
ああ・・・世界はこんなにも美しいものだったかしら・・・?
昨日までとは違う世界が広がり、浮かれた心を持て余したまま私は丘にたどり着きました。
頂上まで来ると、ほのかに笑い声が聞こえてきました。
「これ、やめぬか。くすぐったいであろう・・・あははは」
そこには昨日と同じ、いいえ、昨日よりも美しいファトラ様のお姿があったのです。
耳元に花を一輪さし、ゆたかな黒髪を風になびかせ、小鳥とたわむれるファトラ様・・・。
そのお姿はとうてい人の作りたもうたものなどではなく、神話の世界から抜け出してきた精霊のようでした。
私は声もなく立ちつくしてしまいました。
この瞬間を永遠にとどめておきたい・・・、一歩でも動いたらすべてが夢まぼろしとなってかき消えてしまう・・・、
そんな感覚に囚われながら、ただそこにいることしかできませんでした。
「ん?」
ふと、ファトラ様は私の視線に気づいたのかこちらを向かれました。
そして、私の姿を見とめるといつものように目を細めて微笑まれました。
「おお、待っておったぞ、アレーレ」
「は、はい。ファトラ様・・・」
私はファトラ様のもとへかけよりました。
今、私のためだけにファトラ様がここにいてくださる・・・。
こんなぜいたくなこと・・・こんなにしあわせなことがあっていいのでしょうか?
「今日もあいもかわらずかわいらしいな」
「そ、そんな、とんでもないです私なんて・・・えっ」
ファトラ様は私の髪をひとなですると、ほほに手をかけ・・・
「あ、あの・・・」
そのままご自分の顔を近づけ・・・
「・・・!!」
私はびっくりしてくちびるを離してしまいました。
それは私の生まれてはじめてのくちづけだったのです。
「どうした?」
「あっ、あの・・・違うんです、イヤなんじゃなくて」
「そうであろうとも。わらわに愛されるためにここにきたのだからな」
自信たっぷりに微笑まれるとファトラ様は私の腰に手を回し、私たちは再びくちづけをかわしました。
ファトラ様の身体のぬくもりを感じ、私はとろけてしまいそうでした。
聞こえてしまいそうなほど鼓動は高鳴り、呼吸は乱れ、膝がふるえてしまい・・・。
うれしいようなはずかしいような・・・この気持ちは一体どう表現したらよいのでしょうか。
長い長いくちづけのあと、やっとファトラ様は私を許してくださいました。
「はぁ・・・」
ためいきをひとつ漏らす間もなく、ファトラ様は次の行動に移られました。
「あっ、ファトラ様、何を・・・!?」
突然下着の中に手を入れられ、私は心臓が止まるほどの衝撃を受けました。
「イヤではないのであろう・・・?」
「あっあっ、イヤじゃないですけど・・・でも、でも・・・」
「ふふふ、愛いやつじゃ」
「あああ・・・!!」
あああ・・・!!
・・・あ・・・?
目を開けると部屋はまだ暗く、あたりは静寂に包まれていました。
はぁはぁ・・・。
夢の余韻が覚めやらず、私はまだ息が乱れていました。
あぁ・・・こんなふしだらな夢を見るなんて・・・。
自分がやるせなくて・・・そして、夢から覚めた現実の世界がせつなくて・・・。
涙がひとすじこぼれました。
ファトラ様に抱かれた腰も、やわらかなくちびるの感覚も、こんなにはっきり残っているのに。
下着の中に手を入れてみると、そこは自分でもはずかしいくらい濡れていました。
「あっ」
ずっと夢の中にいられたらいいのに・・・。
夢のつづきを想像して、私は自分で自分をなぐさめました。
「・・・ファトラ様・・・。あぁっ・・・!!」
隣の部屋で眠っている父に聞こえないよう、声を殺して・・・。
その日は朝から雨でした。
父は研究所に出かけ、ひとり残された私。
ただひとりきり、世界中からとり残されてしまったかのようです。
雨の日はいつも、なんとなく調子が出ないのだけれど、今日はなおさらだわ・・・。
心に大きな空洞を抱え、窓辺に座って降りつづく雨の音を聞いている。
このまま、雨がやむまでずっとこうしていようか・・・。
「アレーレ! 明日、明日、またここで待っておる!」
昨日のファトラ様の言葉がくりかえし頭の中で響いていました。
こんな雨だもの・・・きっと来ないわ・・・。
でも・・・もし・・・・・・、いいえ、来ないわ。
「アレーレ、待っておったぞ」
夢の中で見たファトラ様のまぶしい笑顔、私のためだけに向けられたやさしい微笑み。
でも、それは夢の中だけ。
「アレーレ、待っておったぞ」
来ないわ、絶対に来ない・・・たとえ今日が晴れだとしても来るはずない。
・・・それに・・・もし・・・もう一度でもお会いしてしまったら・・・私はもう普通の生活には戻れない・・・。
今ならまだ・・・忘れられる・・・。
それから数日間は何事もなく過ぎていきました。
ファトラ様の存在はだんだん遠くなり、忘れられそうでした。
でも・・・。
ある晩、父と夕食をとっていたときのことです。
その日父は王宮に呼ばれたとのことで、そこで聞いた話などをしてくれていました。
「そういえばファトラ様がひどいお風邪を召されたそうだ。
なんでも雨の中を一日中遊び歩いていたとかで・・・
まったくおてんばな姫だとルーン様もストレルバウ博士もお手上げだそうだよ」
「雨の中を・・・」
まさか・・・あの日・・・私を待って・・・?
そんな・・・違うわよね・・・きっと偶然だわ・・・。
でも・・・。
「どうかしたのか、アレーレ?」
「あ、いいえ、なんでもないです」
「ところでお前シベリウス博士は知っているな? 彼の息子のヨハン君が今うちの研究所にいてな、
まだ若いがなかなかのやり手での。うちの研究所の跡取りとしても申し分ない。
つまりだ、お前の夫にどうかと思っておるのだ」
「結婚・・・ですか?」
「先方も乗り気でな、来週あたりさっそく婚約といこうじゃないか」
「あ、あの、お父様」
「これはお前のためでもあるのだぞ。わかるな?」
「あ・・・私、私・・・ごめんなさい!!」
私は家を飛び出してしまいました。
「アレーレ!」
結婚・・・? 婚約・・・?
そんな・・・だって、私の心はファトラ様のものなのに・・・!
一体どうしたらいいの・・・。
あてどもなくさまよっているうちに、ぽつりぽつりと雨が降りだしてきました。
傘もなく、帰る家もなく。
「ふ・・・ううっ・・・」
悲しくて悲しくて涙があふれてとまりません。
こんなときにファトラ様がさっそうと現れて助けてくれたらいいのに・・・
・・・でも、そんなことあるはずないってわかってるんです・・・。
☆★☆つづく☆★☆