眠ろうとした瞬間、恨めしげな表情を浮かべた老人が、前に立った。
目をそらしたくてもそらせない。いっそ気を失ってしまいたいのに、それも構わない。
永遠に続くんじゃないか、と錯覚してしまうような闇の中で。ランドは、その老人とにらみあっていた。
いや、一方的ににらみつけられていた。
老人の口がゆっくりと動く。実際に声が聞こえたわけではないけれど。ランドには、その老人が何を言いたいのか、はっきりとわかった。
――何故、殺した――
(違う。おれは悪くねえ。おれはただ命令されただけで。あんただってそうだろう? あんたが元締めに頼んだんじゃねえか。自分を殺してくれって。それがあんたの望みだったんだろう? おれは悪くねえ。おれは……)
――何故、殺した? 何故、殺した? 何故何故何故何故……――
「うっ……わあああああああああああああああああああっ!?」
悲鳴と共に、ランドはベッドから跳ね起きた。
真っ暗な室内。夜の冷えた空気が立ち込める部屋の中は、お世辞にも「暑い」とは言えない。
けれど、ランドの身体はびっしょりと汗に濡れていた。息も荒く、ぱっと見ただけなら、激しい運動をした直後のようにも見えなくもない。
けれど、彼の顔色は対照的に青ざめていて。細身の身体から、震えが止まることはなかった。
「おれが悪いんじゃない。おれが……」
アサッシンギルドに売り飛ばされ、初めて「仕事」をこなした夜から三日。
ランドは、一度としてまともに眠れたことはなかった。
当たり前である。もともとアサッシンになるつもりなどなかった彼に、自分の手で人を殺す度胸など、できているはずもない。いわばそれが「普通」なのだ。
けれど、アサッシンギルドに身を置いていく以上、「普通」であることは捨てなければならない。
そして、アサッシンギルドから抜けることなど、できるはずもない。
ランドもそれはわかっていた。早く慣れてしまえば……あるいは、忘れてしまえば楽になれる。それくらいはわかっていた。
わかっていても、まだ23歳の彼にとって、人の「死」は、重すぎた。
「うわあっ……ああっ……」
自分の身体を抱きしめて、がたがたと震える身体を少しでもおさえつけようとする。ここのところ毎日それが続くものだから、同室だったアサッシン仲間は、別の部屋へと避難していた。
それは誰もが通る道だ。そして、一人で通り抜けねばならない道なんだ、と。誰もがランドを見捨てた。
下手な慰めを言っても仕方がないことはわかっていた。皆、それを経験して、乗り越えて、一人前のアサッシンになっていった。
そして、ランドもいずれはそうならなければならない――
「あああっ……ああっ……」
目の前の幻影を振り払おうと、必死に頭を振った。
いっそ、酒にでも溺れて、前後不覚にでもなってしまえば……と、枕元に常備してある酒瓶に手を伸ばした。
と。
彼の手の上に、細くて白い、華奢な手が、乗せられた。
「またなの」
「……ミスティ……」
「あんた、いつになったら慣れるの」
ランドが顔を上げると、夜の闇の中に、白い顔が浮かんでいた。
ミスティ。アサッシンギルドの仲間の一人。
男なら誰もが虜にならずにはいられない、魔性の美貌を持った毒使い。アサッシン、ミスティ……
「ミスティ……」
「言ったでしょ? 諦めれば楽になるよ、って」
そう言って、ミスティはランドの隣に腰掛けた。
突き放すような口調ではあるが、その目は優しかった。姉が弟を見るような、あるいは母が息子を見るような。
そんな視線が、今のランドには、痛かった。
「見るなよ……」
「じゃあ、見ないであげる」
「……何で、来るんだ……」
「あんたがうるさくて、眠れやしないからよ」
「……」
「いいかげんに吹っ切ったら? どれだけ泣いて後悔して苦しんだって。あんたの手はもう汚れてる」
「……」
「あたしの手もね」
そう言って、ミスティは小さく息を吐いた。
二人がこんなやり取りを交わすのは何度目になるだろう。
ミスティがアサッシンだと知った日、ランドは彼女を責めた。
アサッシンという仕事がどんなものかは知っていた。ひどく汚い仕事だと思った。だからこそ、責めた。そして、責める彼を、ミスティは小馬鹿にするような目で見つめていた。
そのランドも、今はアサッシンだ。そして、今も。ミスティは彼を小馬鹿にするような目で見つめている。
ひどく同情に満ちた、目で。
「おれは諦めたくねえ……」
「じゃあ、いつまでも苦しんでればいい。どうせ逃げられるわけないんだから。いずれ自分でわかるでしょ?」
「……」
「……何?」
立ち上がろうとしたミスティの手を、ランドは反射的につかんでいた。
そして、ミスティも逆らわなかった。ランドがそうすることはわかっていた……そんな目で、彼を見つめていた。
「何?」
「……」
「あたしに、何をして欲しいの?」
「……」
傷ついたような目で見上げられると、ミスティはそれ以上何も言えなくなった。
黙って細身の身体に腕を回すと、そのまますがりつかれた。
ミスティの柔らかな胸に顔を埋めるようにして、ランドは泣いた。
泣きながら、彼女を抱いた。
身体を重ねることに全く抵抗はなかった。
ミスティはランドのことが好きだった。こんな場所に居ながら、いつまでも希望を捨てようとしない……そんな彼を見ているのが、好きだった。
自分はとうの昔に捨てた夢を、ランドはいつまで経っても捨てようとしない。
子供だと言ってしまえばそれまでだけど。それでも、ミスティは、そんなランドを見ているのが楽しかった。
だから黙って抱かれた。抱かれてやることでランドが落ち着いてくれるのなら、痛みを忘れてくれるのなら、甘んじて彼を受け入れようと……そう思った。
「ミスティ……」
「……」
ミスティは生娘だったわけではないし、ランドも経験は豊富な方だった。
そんな二人の営みは、いつもとてもスムーズだった。
細い指先が裸身を辿る。触れるだけでミスティの花芯は素直に濡れて、痛みも苦痛もなくランドを受け入れた。
快感の声を上げれば、ランドは我を忘れたように彼女の唇を吸った。
彼女の身体に溺れているそのときだけ、ランドは悪夢から逃れることができた。
黒い髪を指で梳きながら、ミスティの細い身体を貪った。
体力の許す限り彼女を抱いて、そして疲れ果てて眠る。
ミスティの隣でだけ、ランドは心穏やかな顔で眠りにつくことができた。
「あんたのことが、好きだ」
何度目かの営みの後、そう言われた。
ミスティは笑ってそれを受け入れた。断るような理由なんかどこにもなかった。
恋人同士になった。アサッシンギルドで、決して幸せを求めることは許されない二人が。
思えば皮肉なものである。アサッシンギルドから逃れたいと願う傍らで、ミスティの傍に居ることを望む……決して相容れることのない望みを、ランドはどうして捨てようとはしないのか。
どうしてあんなにも、希望にすがることができるのか?
「あたしはあんたのことが好きなんでしょう、きっと」
眠るランドの赤毛を梳いて。ミスティは、闇の中で、ぽつりとつぶやいた。
口で伝えたことは無いけれど。それこそが、彼女の本心。
「あんたと一緒になれたらいい。本当にそう思う。でも……」
でも、あたしは、あんたみたいにまっすぐ前を見ることはできない。
「あたしはいつか、あんたを殺すことになるかもしれない」
いつかアサッシンギルドから抜け出してやる……身体を重ねた後、必ずランドが繰り返す台詞。
そして、「また馬鹿なこと言って。そんなの無理に決まってるでしょう」と突き放すのが、彼女の役目。
けれど、ミスティは時々思う。ランドは、いつかきっと、本当にアサッシンギルドを抜け出してしまうかもしれない。
そして、そんな彼を、元締めは決して許しはしないだろう。
そうなったとき……彼を手にかけることになるのは、もしかしたら、自分かもしれない。
「あたし、あんたを死なせたくない」
どんな形でもいいから、生きていて欲しい。
彼女にとってのランドは……彼女が決して抱くことを許されない、「希望」そのものだったから。
「お願いだから、つまらない夢は早く捨てて。あたしもあんたも逃げることなんかできやしない。ずっと、ずうっと……」
夢見ることに疲れた女の言葉に、男は、うめき声を返すだけだった。