その日、曹はいつもと様子が違っていた。  
 何故か藍と眼が合うとすぐそらし、毎回のように言う下ネタもない。いつも顔に浮かべている王様のような豪快な笑みは、はにかんだような微笑にとって変わっている。  
 そして、何と言ってもおかしいのは――。  
 
「藍、喉かわいてないか?」  
 藍が曹の突然の変化をいぶかしんでいると、藍の半歩先を歩いていた曹がふと思い付いたように尋ねてきた。  
 とっさに上手く返事の出来なかった藍はしどろもどろになってしまった。  
「え、あ、うん……」  
「じゃ、買ってくるよ。ポカリでいいか?」  
 だが曹は普段のように面白がる様子もなく藍の言葉を引き取った。  
 
「あ、うん。えっと、ちょっと待って、お金……」  
「ハハ、いらねーよそんなの。俺が払う」  
 慌てて藍は財布から小銭を取り出そうとしたが、曹は藍に優しく微笑むと、颯爽と販売機の元へと行ってしまった。  
 戻ってきた曹から微笑みと同時に自分の分の飲み物を受け取ると、藍は内心で絶叫した。  
(おかしい!)  
 自らの半歩先を歩く曹は、すでに飲み物を持っていない方の手を藍に向かって差し伸ばしている。  
   
 後ろ姿の、表情のわからないその背に、藍はいつもの曹に有るまじき優しさを感じて戦慄した。  
(もしかして……ううんもしかしなくとも今日で私と別れる気!?  
『最後くらいは優しくしとこう』!?そんな……!そんな!)  
 藍は差し伸べられた 手を睨みながらだらだらと冷や汗を流し始めた。  
 考えたくなくても浮かんでくる悪しき予感。必死で首を振り頭を振り脳内から振り払おうとするが、悪しき予感は一向に振り払われる気配がない。  
 
 何しろ藍は元地味ブス。努力しブスではなくなったが性格は今だ根暗の地味ブスのまま。秋子京華桜子ちはるその他ありあらゆる猛者たちを、根性と決死の努力で追い払い、曹の彼女という地位を維持してはいるが、それは曹のただ一言でいつでも覆される地位なのだ。  
(藍!考えてちゃ駄目、聞くのよ私!  
『曹くん、何かあったの?』『どうしたの?』  
 それだけよ!藍!勇気を出して!)  
 藍は必死で己を鼓舞し、曹に問おうとする。だが、喉まで出てきているその言葉が、どうしても声にならない。  
 
 そんな藍の様子に、曹が自分の後ろを歩く、藍の方へ顔を向けた。心配しているようである。  
「……藍、どうしたんだ?今日なんかへんだぞ?」  
(変なのはあんただ!)  
 やはり普段には有り得ない曹の態度に、藍は内心で絶叫した。  
 だが、このチャンスを逃す理はない!そう判断した藍は素早く討って出た。  
「……あ、うん。曹くんがこんな事してくれるって、めったに無いから驚いちゃって……」  
「え。あ、あ〜……そうか?」  
 藍の言葉は鈍いが当たった。曹の表情が、僅かだが変化する。  
 
 だがその僅かな変化では、藍にそこにある曹の意図を読み取ることは不可能だった。  
(別れるとかじゃないのかな?そうだったら今言うよね……)  
 藍が曹の意図を読み取れないまま、その日のデートは進んでいった。  
 
 藍と曹は映画館へとやってきた。だが、何を見るか決めていなかった二人は、チケット売り場の列に並びながら、今日何を見るかを話し合いはじめた。  
 今から待たずに見ることの出来る映画はちょうど三種あって、それぞれが全く異なったジャンルの物だった。  
 一つはアクション。  
 一つはラブロマンス。  
 一つはアニメ。  
 どれも前評判には大差無く、ジャンルもバラバラなため比べづらい。  
 藍は三種のポスターを比べながらも、内心ではその内の一つに注目していた。  
(藍!アニメは駄目よ!アニメは!……いくら、子供の頃大好きだった『キューティーバニー』の新作だからって!)  
 そう、今選ぼうとしている映画の中には、藍が昔大好きだったアニメ、『キューティーバニー』が入っていたのだった!  
「何みたい?藍」  
 そんな藍の葛藤を知ってか知らずか。  
 曹は藍の隣で同じように映画のポスターを比べながら尋ねてきた。  
「えっ?」  
「いっつも俺が選んでるだろ。たまには藍がえらべよ」  
(そ……っ、曹くん!曹くんが優しい!)  
 やはり、普段では『有り得ない』曹の言葉。  
 曹からいじめられるのがもはや日常となってしまっている藍は、思わず、思いっきり『信じられない』といった顔を曹に向けてしまった。  
「!」  
 瞬間、曹は藍と目が合うと、すぐその顔を藍からそらしてしまった。  
(変!やっぱり、てゆーか絶対変!)  
 藍は必死で曹の態度の変化の理由を考えはじめた。  
   
 それは、藍ではない第三者だったらすぐ解ける疑問だっただろう。だが、しつこいようだが藍は元地味ブス!そんな、例え第三者が曹も藍も知らない赤の他人だったとしても状況説明だけで分かるその答えを、元地味ブスにして男子経験ゼロの藍は、導くことが出来なかった!  
 やがて、曹の変化の理由を考えている内に、藍は、ある考えが頭をよぎりはじめた。  
(もしかして、今の曹くんだったら私が何しても、ひかないんじゃない……?)  
 藍は、迷い始めた。そう、普段の曹ならばともかく、今の曹になら何を言ってもいいんじゃないのか?  
(『キューティーバニー』……!)  
「……あ、藍。何か見たいの選べよ」  
 藍が黙っていると、曹が藍をせかし始めた。藍は、一瞬迷い、だがすぐにその顔を鍛えあげた極上スマイル(フラッシュ付き)へと変えた!  
 
 
 
 
「曹くん、私『キューティーバニー』見たいな」  
 
 
 
 
 とは、藍は言わなかった。  
 
 
「……あのアクションもの、曹くん好きじゃない?」  
「あれか?」  
 藍の言葉に、曹がその映画のポスターを指差す。  
 勢いのあるロゴで書かれたタイトルの隣では、ごつい男優が金髪の美女を抱えている。  
 曹が、好みそうな映画だった。  
(ふっ……危なかったわ、藍。いったい何を言おうとしたの?この愚か者……!)  
 ポスターを指差す曹の隣で、藍は髪をかきあげる振りをして冷や汗を拭う。  
(幾ら今日の曹くんがひかなかったとしても……明日に害がないとは言えないのよ!藍!)  
「うん……『俺達は明日がある』曹くん、好きじゃない?」  
「……」  
 曹に気付かれぬように溜め息をつきながら、藍は言葉を続けた。  
 本当は藍は、アニメ以外の二つから選ぶのなら、ラブストーリーものが良かったのだが、曹の好みを考え、アクションものを見たいと言ったのだった。  
 
 だが、曹の反応は藍が思っていたものとは違っていた。  
「藍……お前こう言うの嫌いなんじゃねえの?」  
「え……ううん。私今日見たいの無いし。いいよ、あれで」  
「……(ジ〜ッ)」  
 藍が曹に合わせようとすると、曹はただ黙って藍を見つめはじめた。  
(……な、何なのカナ?)  
「……(ジ〜ッ)」  
 困惑する藍をよそに曹はただ黙って藍を見つめ続ける。  
(こ、怖いよ〜)  
 藍の顔に、ひきつった笑みが浮かぶ。すると曹は、ただ黙って藍を見つめるのを止めて、口を開いた。  
 その顔に、普段と変わらない、王様の様な笑みが浮かんだ。  
「……なー、藍」  
「! ……な、何曹くん?」  
「嘘だろ?」  
「!」  
 藍が驚くのと同時に、曹は藍の腕を掴んでチケットを買いに向かった。  
 
「いらっしゃいませ。どの映画のチケットをお求めですか?」  
「『愛に縛られて』!二つ!高校生!」  
 映画の題を怒鳴るように言うと、曹は藍の分のチケット代まで払ってしまう。  
 その顔は、藍からは見えない。  
(曹くん怒ってる!?な、何で!?)  
 男心の読み取れない藍の困惑をよそに、曹は藍の腕を掴んだまま指定された館内へと入っていった。  
 
 劇場内に入ると、曹は藍に「座ってろ」と言うなり、出ていってしまった。  
(はあ……ホント今日の曹くん変。私、何かしたかなあ?)  
 藍は一人になった劇場内で、今日を含めた最近の曹の言動を思い返してみた。  
 曹の言動と言えばその王様な態度だ。成績優秀、スポーツ万能、代議士ジュニアでルックス完璧。付き合った女は数知れず。  
 無論、女で苦労したことなどない。  
(竿姉妹もいたわよね、初めは。まあ今は私ひとりだけど……)  
 それ故か曹は女に合わせたり気を使ったりすることなどめったに無く、ましてや、過去の引け目ゆえ元来下女気質の抜けない藍に、気を使うことなんて皆無に近かった。  
 そしてそれが、ここ最近に富に変化が起こったような様子はなかった。今日突然起きた変化なのだ。  
 
 考えている藍のもとに曹が帰ってきた。曹は、まだ考えている藍にポップコーンを差し出す。  
「ほら。やっぱ、映画って言ったらポップコーンだろ」  
「あ、ありがとう」  
 そうしてポップコーンを差し出す曹からはさっきまでの様子はみじんも感じられない。館内の明かりは微かなため、その表情は良くは見えないが笑っているようにも見える。  
 だが、それだけで今まで感じていた事をただの気のせいと思う事は藍には出来なかった。  
(……一体、何を考えてるんだろう、曹くん)  
「あ、ほら藍。始まるぞ」  
 曹の声と同時に、映画が始まった。  
 全てがおぼろげにしか見えない暗がりの中、明るい映像によって曹の顔が照らし出される。  
 だがそれは、ほんの一瞬の間のことで、映像が暗くなるとすぐに曹の顔は見えなくなってしまった。  
 果たして曹は笑っていたのか。それは、わからなかった。  
 
 映画「愛に縛られて」は、ちょっと個性的ななラブロマンス映画だった。  
 元来浮気症の主人公(男)は、様々な女性の間で揺れ動き、一体自分が誰が好きなのかわからなくなってしまう(おそらく題はここから来ていると思われる)のだが、最終的には自分が誰を好きなのか思い定めることに成功し、初めて自分から愛を告白するのだった。  
 ヒロインはそういった浮気症の男の恋人としてはく押しが弱く、ただ耐え忍ぶことで男からの信頼と愛を勝ち得るのだった。  
 何の予備知識も持たずに見た映画だったが、藍は見ている内に笑いが止まらなくなってきていた。  
(この映画、私と曹くんに何だか似てない?キャ〜ッ)  
 曹も、藍と同じ事を思っているらしく、こちらは藍とは逆に苦虫を噛み潰したような顔をして映画を見ている。  
 まあ、散々来る物拒まずな付き合いをしていたのだから思うところがあるのだろう。  
 ついに映画はクライマックスになり、主人公がヒロインと口付けを交そうとしていた。  
 その時だった。  
「……藍」  
 曹が、小さな声で藍を呼んだ。その手が、藍の頬にふれる。  
(何?)  
 藍が、曹の方を向いたときだった。  
 映画の中で、主人公とヒロインの唇が重なる。  
(……え?)  
 それと全く同時に、曹と藍の唇が重なった。  
(〜〜〜!!?)  
 藍の顔が赤く染まる。だが曹は、全く構わないと言うように唇を離さない。最も、見えていないのかもしれない。  
 戸惑う藍に構わず、曹は藍に舌を絡ませてきた。藍の吐息に甘い物が混じる。  
「……ふうっ……んっ……」  
 
「……」  
 曹が唇を離すと同時に映画の中の二人も唇を離した。  
『もう俺が好きなのはお前だけだ』  
『……本当?ジョン』  
 不安そうに尋ねるヒロインに、力強く頷き返すと、主人公はヒロインを力強く抱き締めた。  
『……今まですまなかった、ロジー。……愛してる』  
『……ジョン!』  
 主人公の言葉にヒロインが大粒の涙をこぼしはじめ、同時に、重厚な音楽が流れはじめる。  
 やがてゆっくりと、映画の二人はカメラから遠ざっていった。  
 
 館内で、一人、また一人と映画の余韻からさめて出口へ向かう中で、藍は今だキスの衝撃から醒めていなかった。  
 えんえんと続くスタッフロールを見つめながら、その口が半分開いたままになっている。  
(い、い、今の……でぃーぷキス……だ、よね?な、何で今!?)  
「……」  
 曹は、藍がここまで動揺するとは思っていなかったのか、どーしたものかと考えているようだ。  
 だが、そうこうしている内に、館内の客達はみるみる減っていき、二人ともただ考えているわけには行かなくなった。  
「藍……外出ないか?」  
「! あ、う、うん」  
 曹の言葉に、藍は慌てて我に返ると出口へと向かった。  
 
 藍は曹の後をついて出入り口へ向かいながら、一体今のは何だったのかとまだ衝撃から醒めていない頭で考えはじめた。  
 藍には、ディープキスの経験はなく、先のが始めてである。  
 ディープキスに限らずいろいろと経験が豊富な曹から再三誘われたことはあるのだが……。  
『なー藍。舌入れて良いか?』  
『えっええっと、ととと……っ!』  
『ハハ、おもしれ―奴』  
 藍が思い出せる限り、曹は本当にしたいと言うよりは、単に藍をからかいたいだけのように思えた。  
 違ったのだろうか。  
(こういう時ってどういう顔すればいいんだろう……)  
 目の前の曹からは、藍に何か言おうとする気配はなく、藍は小さく溜め息をついたのだった。  
「悪い、俺トイレ」曹が劇場内を出ると同時にそう言ったので、藍は映画館の出入り口で曹を待つ事になった。ちょうど映画を見終えた人々が、藍の隣を通りすぎていく。  
 藍はそんな人々を眺めている内にある事に気がついた。  
(あ、あの人、確か同じ館内にいたよね。……って、あ〜〜っ!)  
 藍の顔がみるみる赤く染まる。  
 
(そうよ!さ、さっきの見た人いるんじゃないの!?)  
 藍は、先の行為の大胆さを思った。  
 幾ら暗がりの中の事とは言え、周りが気付かなかったとは思えない。  
(ひえ〜っ!わ、私はなんてことを……っ!いや、やったのは曹くんなんだけど!)  
 藍が出入り口で悶絶しかけると、そこに曹が帰ってきた。  
「藍?……どうした?」  
「えっ……あ、な、何でもない!」  
「そっか?なら良いんだけど……」  
 曹は藍を不思議そうに見つめる。  
 見つめられた藍は顔が赤くなるのを見られまいとうつむいた。  
 だがその実、目は曹の唇を見つめていた。触れ合った唇の感触が蘇る。更に藍は顔、体全体までながめ、曹にみとれはじめていた。  
(やっぱ曹くんってかっこいいなぁ……)  
 はじめて会った日の事を思い出す。突如自分を抱きしめてきた曹は、次の瞬間藍を軽々と、お姫様のように抱き上げて微笑んだのだった。  
『霊長類、人科人属(メス)生後十五年。……名前は?』  
 藍を抱えた腕は女の細腕とは違い逞しく力強く、至近距離で見たその顔は、他に類を見ないほど整っていた。  
 あの頃から曹は何一つ変わっていない。むしろその美貌は一段と磨かれているようにも思える。  
 
 曹の美貌には常に羨望とも嫉妬ともつかない感情を抱いてきた藍だったが、今それは今までにないほど高まっていた。  
(何か本当……綺麗っていうか何ていうか……)  
「……?」  
(私、こんな男の子と付き合えてるんだよね……こんなにかっこいい男の子と……キスできたり、するんだよね……きっと、今はまだだけどその先だってその内……)  
 そこまで考えて、藍はもっと曹を見たくなり、うつむいていた顔を上げた。困惑した顔で自分を見つめる、曹の瞳と目があった。  
 自分を見つめるその顔は、やはり、綺麗だった。  
「……藍?」  
 曹が藍を呼んだ。だが藍は見惚れていてそれを聞いていない。  
「藍!」  
 さすがに曹が声を大きくした。その声に、藍が我に返った。  
(私、何を考えて……っ!)  
 とたんに藍の顔がさらに赤くなる。  
「?」  
(こ……ここにいるから変なこと考えるのよ!キスしたばっかのここにいるから!)  
 藍は慌てて恥ずかしさを追い払うように声を上げた。  
「そ、曹くん!次いこ次!」  
「次?」  
 藍は曹の腕を掴んだ。  
(とにかくここから離れなきゃ!)  
 そして、曹の腕を引いて歩き出した。  
 行き先は、考えていなかった。  
 
 
(ここ……どこ?)  
 一体どれほどの間、曹の手を引いていたのだろう。  
 気付けば藍は、今まで自分が来たことの無いところへ来てしまった。  
 ――しかも。  
「藍……お前ここって……」  
 曹が驚いたような呆れたような、どちらともつかない声を出した。  
 やたらと派手なネオン。  
 いならぶ看板にかかれたひわいな言葉。  
 目の前を通りすぎる人々からかおる、きつい香水の匂い。  
 藍達が来たのは俗に言うピンク街だった。  
 
「……!」  
 映画館から離れることだけを考えて歩いた事が、裏目に出てしまった。  
 さすがに曹も、何を言えばいいのか分からないようで藍の隣で頭をかいている。  
(いや〜っ!さっきの考えといい……!私欲求不満なの!?そ、そんなのじゃないのに〜!)  
「お前……誘ってんの?」  
 曹の言葉に藍は慌てて弁解をはじめた。  
「ちっ、違うの曹くん!そ、そんなんじゃなくて……!映画館から離れたくて!キスしちゃったから恥ずかしくて!今日の曹くん良くわかんないし!」  
 呆れられる!藍は必死で弁解していたが、あまりに混乱していて言葉が言葉になっていない。  
 
(いや〜っ!ど、どう言えば良いの〜っ!)  
 だが、混乱する藍とは逆に、曹は落ち着いていた。それどころか、藍のあまりの慌てぶりを笑いはじめた。  
 そして。  
「……ちょーどいいじゃん、藍」  
 曹の言葉と同時に藍の体が宙にうく。  
(え?)  
 曹は藍を、肩車を子供にするようにして抱きあげた。そのまま、藍をすっぽりと自分の腕の中に納める。  
 そして続く言葉を耳元で囁いた。  
「俺、今日お前誘うつもりだったし」  
 藍が目を見開いた。  
「そ……そーだったの?」  
「……俺、結構意思表示してたと思うぞ?」  
 曹の言葉に藍はようやく今日の曹の謎が解けた。  
 普段の曹からは考えられない優しい態度。そして、館内でのキス。  
(あれ、そういう意味だったの?……嘘、嬉しい……)  
 曹の思いがけない意図を知り、藍は次の瞬間、曹に抱きついていた。  
 曹が驚いて藍を見るとその目に涙がにじんでいる。  
「藍、お前……」  
 
 藍は、曹が他の女達とは付き合ってすぐに関係を持ったと聞いていた。それからずっと、自分は誘われない事を不安に思っていた。  
 自分に、魅力がないからかと。  
 自分から誘ってみようかとも考えたのだが、誘って曹が応じたとしても、自分がそんな不安を持っていたら、何の意味も無いことになるように思えた。  
 だから藍は、ずっと一人で思い悩んでいたのだった。  
 
「藍……嫌なのか?」  
 曹の言葉に藍は首を振った。  
「違……、嬉しくて……」  
 それは、涙混じりの聞き取りにくい声だったが、曹はその声を聞き取り、微かに驚いたようだったが、またすぐいつものように笑った。  
「お前な〜、それで泣くなよ」  
「ごめ……」  
「よしよし」  
 曹は、藍の頭を優しく撫でた。  
 その手に、藍は更に曹を抱き締めて泣きはじめた。  
 
 それから大分たち、藍の涙ははようやくおさまってきた。  
「ありがと……曹くん」  
「構わねえよ。……で、どうする?ホテルお前が選んでいいぜ」  
 藍が曹から離れると、曹はそう言ってさぁ早く、といわんばかりの満面の笑みを浮かべた。  
 藍の顔が赤くなる。  
 曹の後ろには色採りどりのカラフルな看板が並んでいた。  
 ホテル名のかかれた看板には、当たり前のように恥ずかしいアオリ文句が並んでいる。  
 
(ど……どれがどれだか……)  
 初めて見る光景に藍は軽くめまいを覚えながらも、視界に入る中からどれか一つ選び出そうとした。  
 看板に書かれた内容を読み比べる。  
 その時、藍の目がはたと止まった。  
 ある事に気付いた。  
「ちょ、ちょっと待って」  
 藍はそう言うと、鞄から何かを確認しはじめた。  
「?」  
 曹が不思議そうに藍を見つめる中で、藍の顔色が青くなっていく。  
「何やってんだ?藍」  
「ごめん曹くん……お金足りない……」  
 藍が曹の言葉に振り向きながら、手にした財布を見せた。財布の中には、千円札が僅か2枚だけ、入っていた。  
 
「だから……俺が払うって」  
「そーいうワケにはいかないよ!」  
 ホテルの前で、藍と曹は言い争っていた。  
 お金が足りない、という藍に曹は自分が払うと言ったのだが、藍はそーいうワケにはいかないの一転張りで、すでにかなりの時間が経過していた。  
「あのな〜!じゃ、ここまできてしないっていうのか!?」  
「だって!しょうがないじゃない!そういつも曹くんに甘えていられないもん!」  
「……あ・の・な〜……!」  
 藍の言葉に曹が頭をかく。  
「面子ってのがあるだろ!お前のそーいう所好きだけど少しは考えろ!」  
『面子』という言葉を持ち出されて、さすがに戸惑うが、それでも藍は素直に応じる気にはなれない。  
   
 何かに限らず、藍は曹におごって貰う事が多いのだ。だからホテル代くらいは曹におごって貰うワケにはいかない。  
 曹にも誰にも言ったことはなかったが、それは藍の心からの思いだった。  
「で、でも……」  
 藍がまだ煮えきらない返事をしていると、曹は何かふっきれたように口のはしをあげ、ニヤリと笑った。  
「……もういい、わかった」  
「え?」  
 何を?と藍が聞き返そうとした時だった。  
「ひゃあっ!?」  
 曹は、藍をまるで建設工具を運ぶように担ぎあげた。  
 曹の肩の上で藍は必死にバランスを取る。  
「ちょっ……!曹くん、何する気!?」  
「ホテルじゃなきゃーいいんだろ?平気平気、任せとけって」  
 明るく言うと、曹は綜合をくずしたように笑った。  
(なっ……!)  
 藍の顔がひきつる。  
 藍は何か言おうとしたが、曹の笑顔の前に、言葉は出て来なかった。  
 
 
 曹が藍を連れてきたのは、町外れにあるトンネルの中だった。  
 中に電灯もないうす汚れたトンネルは、出入り口から与えられる微かな光だけが中の全貌を認める手掛りとなっていた。  
 辺りに人の気配はない。  
(――まさか)  
 藍は慌てて曹に声をかけた  
「そ、曹くん!」  
「何だ?藍」  
 答えながら、曹は藍を地面に降ろす。  
 藍が曹から一歩後ずさると、その背に壁がふれた。逃げ場はない。  
 コンクリートで出来たそれは、夜の外気を吸い込んだかのようにひんやりと冷たかった。  
「ま、まさかここで……?」  
 引きつった顔で藍が問うと、曹は何を今更、とでも言いたげな不思議そうな顔をして藍を見返した。  
 
「そうだけど?」  
 藍は絶句した。  
 だが、すぐに我に返り抗議の声をあげた。  
「ちょ、ちょっと待って!ここ、そ、外だよ!?」  
「ハハ。ダイジョブ、ここめったに人来ねーから。前試したし」  
(誰と!)  
 焦る藍を見て、曹は実に楽しそうに笑い始めた。  
「そ、そういう事じゃなくて……っ!」  
 藍は続けて、抗議の声を上げようとした。  
 だが次の瞬間、藍は続く言葉を忘れてしまった。  
「!」  
 突然、曹がブラウスを脱いだ。  
 投げ出されたそれが軽く風にはためきながら地に落ちる。  
 曹の、見事としか言う他のない均整のとれた美しい体が、この薄暗さの中、藍の目にはっきりとうつった。  
(か、かっこいい……)  
 続く言葉を失った藍が、呆然と立ちすくんでいると、曹は藍の顎に左手をかけ上をむかせた。  
 そして、藍の唇を求めてきた。  
 
「……っ!」  
 一瞬抵抗した藍だったが、すでに抗がう気力は失せていた。藍は素直にその求めに応じた。  
「んっ……ぁんっ……」  
 やがて舌が絡みはじめ、藍の吐息に甘いものが混じる。思考にもやがかかっていくような錯覚を藍は覚えた。  
 曹が唇を離すと、藍はそのまま壁にもたれかかった。  
 そんな藍をみつめ、曹はからかうように口の端だけで笑う。  
 藍の頭の中に、出会ってから今までの日々が浮かんだ。  
(やっぱ、逆らえないな……)  
 曹のその微笑みに、藍は逆らえた事がない、今までずっと。  
 そしてそれは、これからも変わらないのだろう。  
「……藍」  
 曹が藍を呼んだ。次に続く言葉が、藍には予想できた。  
 口の端で微笑み、藍を見つめる曹の瞳には、この場においてもまだ茶目っ気が残っていた。  
「俺が嫌い?」  
「……好きです」  
「だよな」  
 答えは、一つしかなかった。  
 
「……ぷっ、くくく……っ」  
 人気のないトンネルの中に、小さな笑い声がひびく。  
 他でもない藍の声である。  
「……お前な」  
 曹が呆れたように溜め息をついた。  
 互いの吐息がかかるほど近付いていた体を一度離してから、曹は再度藍の鎖骨を指で軽くなぞった。同時に藍が身を震わせ、再び小さな笑い声を洩らす。  
「……もう少し色気のある声出せねえの?」  
「……ご、ごめん何かくすぐったくて……ぷっ、ふふっ……」  
 謝るいと間もあればこそ、曹が藍の鎖骨から首筋へと指先を運ぶんだため、藍は謝り終わらぬ内からまた笑いはじめた。  
(笑っちゃ駄目よ、藍!……け、けど、く、くすぐったい……)  
 藍自身は笑いをこらえようとはしているのだが、曹が体をなぞるたびにはしるむずがゆさは止めようがなく、逆にこらえようとすればするほど治まりのつかないものになってしまう。  
 曹はそんな藍を見て何か考えたようだった。  
「藍、ちょっと後ろ向いて」  
「え……何かあるの?」  
 曹の言葉に藍は首を動かして後ろを見た。  
 
「……違う、体ごと」  
「え、こう?……っ!わわっ!?」  
 藍が体ごと後ろをむく。その瞬間、藍は曹に背中から抱きすくめられた。  
(ひえ〜っな、な、生肌が……っ!)  
 自分の衣服の上から伝わってくる曹の体温に、藍の心臓がドクンとはねた。  
 それとほとんど同時に、藍のうなじに生暖かい何かが触れた。  
「……っ!」  
 藍が、声を発する事もできずに身をのけぞらせる。  
 曹の舌が藍のうなじから耳たぶへと這った。  
「ぁっ……んっ……」  
 初めて生まれる感覚に、たまらず藍の口から甘い声が漏れた。  
「……良い声出せんじゃん、藍」  
「ちょ、曹くっ……あっ……!」  
 からかうような曹の声に藍は抗議しようとしたが、とたんに耳を甘く噛まれ、藍の抗議の声は甘いあえぎに変わった。  
「んっ……はあんっ……」  
 さらに耳たぶからうなじへ、今辿った道筋を今度は逆に、曹の舌が這う。  
 
 同時に、ただ藍を抱きすくめていただけの腕が、藍の体をまさぐりはじめた。  
「あっ……はあっ、ぁ、んっ……やぁんっ……!」  
 それははじめ衣服の上からだったが、藍が反応を段々と大きくしていくに連れ、大胆になっていった。曹は藍のブラウスの裾から左手を入れて藍の胸に直接触れようとする。  
「! そ、曹くんっ……!」  
「何?」  
 反射的に、藍がわずかに体を捻って曹の手から逃れようとした。だが曹は躊躇わず、左手を藍のブラジャーの中へ潜り込ませる。  
 密着していた所に下から割り込まれて、藍のブラジャーが上へとずれた。  
「ゃんっ!」  
 乳首が直接衣服に擦れ、藍が今までより大きな声を上げた。  
「いいじゃん、藍」  
「そ、曹くん……っ!」  
 曹は藍を揶揄するように再度耳元で囁きながら、今までただ腹部にあてているだけとなっていた右手を、スカートの中に滑り込ませた。  
 
 だがその時、他人の手が自分でも触れたことのない秘部に触れる。その衝撃に藍がはっと我に帰った。  
「! ちょ、ちょっと待って!」  
「……?」  
 今までと様子の違う藍の声に曹が手を止めた。その顔は後ろから抱きすくめられる形となっている藍からは見えない。だが、その顔が笑っているのではない事ぐらいは藍にも予想できた。  
「言っとくけどな……今更やめねえぞ」  
 わずかに不機嫌さのある曹の言葉が藍の予想を肯定する。  
 そう、今更やめるわけがない。そんな事は、藍でも分かる。  
 だが、藍には今までただ一つ気にかかっていることがあった。  
 今それを、藍は思い出したのだった。  
「その、曹くん……」  
「何だよ?」  
「……後ろからって、痛いんじゃないの……?」  
「……」  
 さすがにその言葉は予想していなかったのか、藍を抱きすくめる曹の腕から力が抜けた。  
 
「……お前な〜、何でんな事知ってるんだよ……」  
 呆れた声で曹が尋ねる。  
「……いや、それはその……いろいろ」  
「いろいろって、お前……」  
 返答につまった藍がしどろもどろに答えると、曹はさらに呆れた  
ようだった。曹の大きな溜め息が藍のうなじに触れた。  
 その感触に藍の体が微かに震えた。  
「……っ」  
「!」  
 曹は即座に藍のその変化に気付いた。  
 とたんに呆れていた顔が楽しそうな笑みに変わる。  
「……藍、お前見たいなの何て言うか知ってるか?」  
「え? ――ひゃんっ!」  
 藍が答える前にまだ胸に触れていた曹の手が藍の乳首を弾いた。  
 その隙に曹の右手が藍のスカートの中に潜り込む。  
 その指が、パンティーの上から藍の秘部を擦った。  
 
「! あんっ!」  
 藍の体がはねる。  
「……耳年増って言うんだよ」  
 曹が藍の耳元で囁いたが藍はもう聞いていなかった。左手で両胸を、右手でスカートの中、秘部に指を這わせられ、藍の意識は朦朧としていった。  
「んっ!……あんっ……はあっ、んっ……やあん……っ!」  
「何が嫌なんだよ?濡れてるぜ、藍」  
「……っ!」  
 パンティーの薄い布ごしからでも分かるほど、そこは溢れだした蜜で濡れていた。  
 曹はからかうと同時に藍の秘部を覆うパンティーをおろす。  
「……ぁんっ!」  
 曹の指が直接藍の秘部に触れた。  
 指は肉芽をつまんでもて遊び、藍の秘部からはさらに蜜が溢れていった。  
(くちゅ……ぐちゅっ……)  
 指に蜜が絡む卑猥な音が藍の耳に届く。  
 嫌が応にもその音は、藍に自分を雌だと認識させた。抗おうにも、体に力が入らない。  
 
 それでも藍がまだ僅かに曹に抵抗するのは、藍の中に残る羞恥と理性。そして恐怖からだった。  
「……ん…あぁ……や、嫌……曹、くんっ……」  
 曹もそれに気付いたのだろうか。  
「……!」  
 曹は、藍の体から腕を離した。そしてそっ、と藍の体を捻って、自分の体と向かい合わせた。  
 藍のすぐ後ろにはトンネルの壁があり、藍は曹に体を支えられ、ゆっくりと壁に寄りかかった。  
「……藍」  
 曹が静かに自分を見つめているのを、朦朧とした視界の中で藍はみとめた。  
「……怖いのか?」  
 その瞬間、藍の中にあった羞恥心と理性、恐怖は、深い安堵に変わった。  
(……大丈夫、曹くんだもん……怖くなんてない)  
 藍は、曹の首筋に腕を絡ませにしがみついた。  
「……ありがとう、大丈夫」  
 そう言うと、藍は自分から曹にキスをした。  
 
 次の瞬間体にはしったそれはあまりにも激しく、逆に藍はそれを痛みと分かる事が出来なかった。藍は必死で曹の体にしがみついていた。  
「――っ!」  
 藍がそれを痛みだとわかったのは、曹のそれが全て藍の中におさまったときだった。  
 抱えられた脚の藍だから、蜜とは違う赤い液体がつたう。  
 曹の体にしがみつきながら、藍は荒い息を洩らした。  
「あぁ……んっ……はぁ……っ」  
「藍……大丈夫か?」  
「あ……い、痛いけど……大丈夫……」  
「……しっかりしがみついてろよ」  
「……あ……っ!」  
 言葉と同時に曹が腰を動かした。  
 自らの中を激しく突かれ、藍は狂おしいほどのあえぎ声を叫びはじめた。  
「――ああんっ!はあぁぁあぁんっ!」  
 自らを呑み込もうとする快楽からのがれるように、藍は曹の背中に絡む腕にさらに力をこめた。  
 だが激しい快楽は逃れようとする藍にいとわず、藍の意識をさいなんでいった。  
 意識が消える、その一瞬前。藍は、視界にうつる全てが、白くなったように感じた。  
「――あああああぁあぁあっ!」  
 一際高い叫びをあげて、藍は達した。  
 
 
「大丈夫か?藍」  
 意識を取り戻した藍の視界に最初に写ったのは、そう言って自分を覗きこむ曹の姿だった。  
「あ……うん平気……って言っても何が平気かよくわかんないけど」  
「ははっ、そりゃそうだな。ほらよっ」  
 藍が体を起こすと、曹はその手に握られているコンビニの袋を差し出した。  
 意味がわからず藍は困惑する。  
「? なに、これ?」  
「替えの下着とタオルだよ。気持ちわりぃだろ、そのままじゃ」  
「えっ……きゃあっ!」  
 曹の言葉に藍は先の自分の姿を思い出して慌てて前を隠した。  
 だが、藍の体にはすでに衣服がかかっていた。  
 それは紛れもなく曹のブラウスだった。  
 みれば、曹はまだ上半身が裸のままだ。  
「……これ、曹くんの……?」  
「……ん?ああ」  
「……ありがと、何だか何から何まで……」  
 藍が礼を言うと、曹は照れた様子で横をむいた。  
「……いいから、早く着替えろよ」  
 
「うん……」  
 藍は曹から見えないように後ろを向くと素早く着替えた。  
 どうやら女ものの下着を買うのはさすがの曹でも恥ずかしかったらしく、藍は生まれて初めてトランクスを履くことになった。  
(あれ?これなんだろ)  
 タオルとトランクスをとり、藍は空になったと思った袋の中を覗くいた。だが中にはまだ一つ小さな箱が入っていた。  
 手にとって見ると『キズテープ』とかかれている。  
(……バンドエイド?)  
 藍の体にはそれをつかうような傷はなかったため、藍はそれを使わなかった。  
「終わったか、藍?……じゃ、帰るぞ」  
「うん……」  
 そう言うと曹は素早くブラウスをはおり、藍に手を差し出した。  
 藍はその手をとり、二人は帰路についた。  
 
 次の日、藍はクラスメイトの叫びによって、そのバンドエイドの意図を知ることになるのだが……今の藍は、もちろんそれを知らない。  
 

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