エルーは考えないようにしていた。  
考えると、自分がどうにかなってしまいそうだったからだ。  
「なぁ」  
だから、先程からずっと何度も声をかけてくれている少年にも応えられなかった。  
心ここにあらずという少女にキリは繋いでいた手をぎゅっと強く握り締め、もう一度大きな声で呼びかけた。  
「なぁ!」  
「え、あっ、ハイ」  
キョロキョロと目を振り、エルーは強く握り締められた手を見つめた。  
「なぁ、どうしたんだ」  
「い、いえっ、別に……」  
明らかにカタコトのような、ぎこちない返答にキリは首をかしげた。  
「どうかした?」  
「いっ、いえっ! ほんと、お気になさらずっ!」  
そうは言うもののキリは気になって仕方ない。  
握っている手から感じるものも、何かいつもと違う気がした。  
エルーはまた落ち着かない感じで、キリを誤魔化そうと空いた手をぱたぱたしている。  
「あー、おかーさん、あのふたりおててつないでるよ。なかよしだねー」  
「指差しちゃいけませ」  
無邪気な子供が大声で出したその言葉は明らかにエルーとキリに向けられた言葉だった。  
微笑ましげな光景がすぐに想像出来るが、それは初めから想像からかけ離れたものになっている。  
 
まだ幼い子供だったこと。  
母親の言葉が途切れたこと。  
周りの視線が投げかけられず、背けられていたこと。  
微笑ましいとばかりにくすくす、ともしない凍った空気。  
そして、エルーの手にこわばりを感じたこと。  
 
「行きましょう。キリさん」  
「……ああ」  
少女の声が耳に痛い。先程のカタコトではない、すべてを抑えこんで搾り出す声は痛いばかりでなく胸にくる。  
2人は人混みを避けるように、通りから裏路地に駆けて入っていった。  
 
エルーはシスターだ。  
不治の病、透過病――通称トロイにかかった命をほんの一時を永らえさせるために、自分自身を犠牲にする。  
触れただけでトロイは感染するのだが、耐性の高いシスターはその患者に触れることで逆にその毒を患者から吸い出して負うことが出来る。  
それでも患者も、彼女達も完全には治らない。  
トロイにもれなく感染した彼女達は、感染していない人達からすれば恐ろしい凶器そのものだ。  
トロイに感染していない者に触れれば毒を与え、トロイの患者に触れれば自身を犠牲に一時を与えるというどちらつかず。  
たとえ同じシスターであっても、肌が触れあうことでどちらかにトロイの毒が移り寿命が速まってしまう。  
彼女達はそれ故に肌を露出させない衣服をまとい、人とその心と接触することを避けていく。  
人を避け続け、人知れず発作を起こし、そして彼女達は文字通りこの世から消えていく存在。  
そんなシスター・エルーに触れられ、手を繋いでいるキリは特別な少年だった。  
触ってもトロイに感染しない、誰もが待ち望んだ救世主の卵。  
更に不思議な力フレアを持つ、とても自ら言ってのけた「一般市民A」からはかけ離れた役者だ。  
しかしこのことを公にすることは避けられ、人目を忍ぶ旅を……非常に目立つ仲間と続けている。  
 
裏路地を抜けて、通りから離れていく。  
誰からも見えない狭い角で2人の足は止まった。  
キリの持つフレアのおかげで疲れてはいない。  
それでも少女の消耗はひどく、ずずっとその場に座り込んでしまった。  
「何考えてたんだ?」  
彼女に、キリは躊躇わずに聞いた。  
聞かれたエルーは口をつぐんでいたが、ぽつりと言葉に出す。  
「……あの子とか」  
「あの子って、さっきの子?」  
「それと、ついこの前会ったシスターの……」  
「あぁ、えーっとシスター・ハイネ」  
その2人がどうかしたのだろうか、キリが首をひねる。  
ふと目を向けると、顔をうずくめたエルーから湯気のようなものがじゅわわっと上がっている。  
まだよくわからないキリは、とりあえず大丈夫かと不安になっておそるおそる彼女に触れようと手を伸ばす。  
「……今の私達、周りからどう見えるんでしょう」  
ぴたりとキリの手が止まる。  
「シスターの治療としてじゃ、こんなに長く手を繋いでいる必要はないんです」  
それはエルー、いやシスターを狙って襲ってきたガゼルの暗殺者も指摘していたことだ。  
「周りから見て、私達はどう見えるんでしょう」  
エルーは笑っていた。いや、嘲っていた。  
人と接触を避けるシスターの少女と一見は変哲も無い少年。  
容姿も似ていない2人を繋ぐ要素はどこにもなく、服装から見て取れるシスターの実情を知るものからすればおかしすぎる。  
あの子はシスターも何も知らなかったけれど、周りは知っていた。  
だから、逃げ出すように通りから離れた。  
覚悟をしていても、常に耐え切れるものではない。  
「どう、って」  
キリは言いよどむと、エルーは畳みかけるように言う。  
「あの子はなかよしだね、ハイネさんからはし」  
「し……?」  
 
『式には呼んで』  
キリはあー、と思い出す。エルーの湯気は未だに上がっている。  
彼女は顔を赤くして、キリに訴えかけるように叫んだ。  
「年頃の男女が手を繋いでいれば、そういう私達はどう見られますか!?」  
「え、それは」  
「もう、私は……自分が、何が何だか……」  
彼女の頭は混乱していた。  
混乱するから、考えないようにしていた。  
周りから、そんな風に、そういう2人に見られることが自分にとってどうなのか。  
人を避けて生きるシスターになって、初めて感じた温かな掌のぬくもり。  
この世界に救いが見えた喜び。  
2人で死線をかいくぐり、ぎりぎりのところや目一杯のお情けで生き延びてきた。  
そして、今がある。これからも、この手を繋いでいる限り彼と一緒に明日が来る。  
シスターでありながら、彼となら他のトロイ患者いや発作が起きないという点では一般市民と同じでいられるようになった。  
そんな彼女に訪れた心の変化だった。  
この少年が嫌いか好きか、で言えば……嫌いじゃない。  
けれども、それ以上はいけない。  
これはマーサからの指令であり、私情を挟むことなんて出来ない。  
元よりシスターはそれを許されてこなかった。  
そう頭では理解しているのに、触れ合ってしまった心が揺れている。  
あってはならないことに、彼女は自分自身を嘲うしかなかった。  
決して口に出すべきではなかった、少なくとも今出していいものじゃない。  
だけど、うずくまった所為でよく聞こえる自分自身の心臓の鼓動が脅しているようだったから。  
「どうって、やっぱ……」  
「それ以上は言わないでくださいっ」  
キリはびっくりすると、エルーはああとまた湯気をじゅわじゅわ出して顔をうずめてしまう。  
彼女は今までそういうことに対し突っぱねてきたのに、段々と考えてしまうようになったのだろう。  
有無を言わさず巻き込んでしまった彼のことを案じ、そしてエルー自身が彼のことを詳しく知らないことからそのことについて想像したりもした。  
スイや彼自身の口から彼をひとつ知って、また彼女の知らないことを隠すように言われたりして……日に日に彼のことを考える時間が増え続けていった。  
そもそもこの状況を続けて彼を意識するな、という方が出来ない話だ。  
シスターとして生きてきた為、そういう耐性を付けられず、ついには頭が回らなくなった。  
しかし、それでもキリはあっけらかんと言う。  
 
「うーん、やっぱ恋人とかじゃないかな」  
「こっ」  
友達や親友をすっとばして、恋人。  
エルーが開いた口がふさがらず、そこからも湯気が出始めた。  
この状況下になってそういうネタでからかわれ続けてきたが、その相方から言われるのはまた大きい。  
何を今更、と言わないでほしい。  
悲しいことに、彼女はそういうことを許されないと科せていたのだ。  
そういう男女の繋がりなんて、深い崖の向こう側で演じている劇のようにしか思えず見てこなかった。  
「確かに手の繋ぎっ放しはさ、そう見られても仕方ないかもしれない」  
「きききキリさんはいいんですかっ」  
うーんと考え込む相手を気遣うはずが、エルーは思い切り自爆した。  
彼女はもう何が何だかわからない状態だった。  
「いや、なんつーか」  
「いい、イヤなんですか」  
うまく伝えようとするキリを、エルーはまくしたてる。  
今の彼女の心はどこかでほっとしているような、残念がっているようなものがうずまいている。  
下手な返答をキリがすれば、この先の旅路は相当重く気まずいものになるだろう。  
どう見えるで恋人として答えてしまった以上、友達として好きなどで彼女の心に平穏が訪れてくれるとも限らない。モヤモヤが残ってしまうと、関係や戦闘がぎくしゃくしたものになるのでとてもまずい。  
「……あれだ。周りから恋人に見えても、まぁ当人同士は恋人じゃないんだし」  
「キリさんは私のことが嫌いですか?」  
「嫌いじゃないよ。そう見られることに抵抗もおぼえない。でもさ、恋人ってのは周りから見られるからなるもんじゃない」  
「それは……そうですね」  
ふしゅーとエルーの湯気が収まってきた。  
限定しすぎて考えていた思考が、ようやく正しく機能し始めてきた。  
手をずっと繋いでいても、そう見られても構わない。けれど、恋人じゃない。  
「でも、そうなると私達のことを説明するのが難しいですね」  
「そうそう。最初はそう考えていたんでしょ?」  
からかわれるようにキリに言われ、エルーはむっと黙った。  
手を繋ぐことをやめられないこの2人の関係を、行く先々会う人達にどう説明していくべきなのか。  
正直に話していっていい人達だけとは限らないし、一度口に出した秘密はいずれ他の人も知ることになる。  
それにここまできてしまったエルーが今までのようにからかわれ続けていると、その思考がまたおかしくなってしまいそうだった。  
「いっそ、そう言っちゃうかぁ」  
「そ、そう言うって」  
「ん、だから恋人」  
「〜〜〜!!?」  
「だってさ、その方が早いじゃん」  
単純明快なキリの答えに、エルーの心臓は鼓動が早すぎて苦しい。  
しかし、どこか胸にちくりと何かが残っているのも気づいていた。  
言った彼もまたどこか浮かない顔、いや諦めているような表情が見え隠れしていた。  
「そう言うって決めてさ、もう割り切っちゃった方がいいんじゃないかな」  
いくらエルーの存命とキリの能力を隠す方便とはいえ恋人として見られるのも名乗るのも構わないけれど、恋人じゃない。  
それって、どうなんだろう。  
エルーの胸の鼓動が、彼女自身に何かを訴えかけている。  
「……キリさんの思う恋人のすることって何ですか?」  
「え? あー」  
彼は言葉を少し濁し、考え、思い起こす。  
何をどう考えても、あの両親のことしか出てこない。  
あとスイからの3度の告白も出てきたが、無視する。  
 
「こ、恋人がするのって……やっぱキスとか」  
「き」  
またエルーが固まり、キリも自分で言っておいて照れを隠せない。  
「両親とか親戚の人が子供とかに親愛の〜ってやるのもあるけどさ、血の繋がってない2人がするのはやっぱそういう好きだからじゃないの」  
説明が説明になっているだろうか。  
もういい加減にしないと、自分もどうかしてしまいそうだ。  
ずずっと壁をこするようにして、キリも地面に座り込む。  
それから、エルーに宿に戻ろうかと声をかける。  
それで、この会話はひとまず終わりだ。  
「や」  
「キス、すれば恋人になれるんですか……?」  
キリの言葉、思考が停止した。  
同じ目線になった彼女の瞳が真っ直ぐこちらを見て、離れない。  
ぎゅっと握った手が今まで感じたなかで一番熱く思えた。  
エルーの頭からは湯気は出ていないが、既にオーバーヒートしてどこか焼き切れてしまったようだ。  
「私も、キリさんもお互いのことは嫌いじゃない。周りからもそう見えていて、あとはその……すればなれますか?」  
「それは……」  
何か違う。  
確かに条件で言えばそうだけれど、嫌いじゃないとそういう好きでは定義が何か違う。  
「だって、おかしいじゃないですか」  
「おかしくても、そうじゃないと周りに説明が」  
「胸が、苦しいんです!」  
エルーの訴えに、キリが固まる。  
「発作じゃないのに、それよりずっと苦しい……これは何ですか」  
キリには説明が出来なかった。  
彼女の鼓動につられているのか、彼の鼓動も早くなっていく。  
「わからないんです……」  
あの子やハイネにそんな風に見られた時のこと。  
自分の本当の気持ちはどうだったんだろう。  
「恋人は、そういう好き同士だからキスが出来るんですよね?」  
「いや、でも」  
そういう好きではなくて、ただの嫌いじゃない同士ならキスなんて出来ないはずだ。  
いや、もし血も繋がっていない2人がキスも出来るようならその嫌いじゃないはそういう好きということになるんだろうか。  
「そしたら、これが何なのかわかるんですよね?」  
エルーがぎゅっと、自らの胸をつかんで、彼に問いかける。  
その答えはキリにも、エルーにもわからない。  
お互いが正しい認識や思考回路をしているのかもわからないまま、エルーの身体は少しずつ彼に寄り添っていく。  
 
ただ、今まで気づかなかっただけで。  
お互いが、どこかで知らずに踏みとどまっていた一線があったのかもしれない。  
それを越えてしまったら、嫌いじゃないは何に変わるのだろう。  
 
じり、じりと迫るエルーの唇が止まった。  
ぎゅっと強く目を閉じ、震え、固まっている。  
2人の身体は密着にぎりぎり届かないまで寄せ合い、互いの心臓の鼓動が触れ合う服の上から伝わってきている。  
同じように目を閉じていたキリは宙をかいていた腕で彼女の頭をかき抱いて、その唇を勢いよく重ねた。  
無我夢中だった。作法も何もわからなかった。  
そうやって勢いのまま動いていた2人が、そのカタチで止まった。  
ただその手を離さないよう、指と指を絡めたまま、爪が立つほどに握り締めて。  
 
 

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