「…ふうっ」  
強い夜風が心地良い。  
長い黒髪は風にはためいて、生粋のクリアナギンである少女を護衛する龍のように  
妖しくうねっている。  
少女の名はスイ。  
デオドラドの街で最も高い尖塔の頂上から黒々とした下界を見下ろし、獣のような目  
をぎらぎらさせている少女の胸中にどのような黒い感情が渦巻いているのかは一切  
外から推し量ることは出来ない。  
「絶対に、見つけてみせる…」  
その目が全てを見通すものでなく、その言葉が全てを威嚇するものではないことが  
少女たるスイの悲しさだ。ここでも、己の力が及ばないことを痛感してしまう。  
 
今日の昼、スイは生まれて初めて完敗した。  
しかも強い相手がいるからと無謀にも立ち向かって行って、手も足も出ないまま地  
に伏す羽目になったのだ。こんな屈辱はない。  
「チクショウ、あの男」  
スイは今まで、何ひとつ挫折を知らなかった。  
生まれ故郷のタームの街ではあたかも女王のように振舞っていたし、それが許され  
た環境でもあった。  
スイの父親もまた最強の男だった。その父に圧勝したのは十歳の頃だ。それ以来  
強そうな男と見るや戦いを挑んできて、これまでに千回もの勝利を重ねた。  
だが、所詮はお山の大将でしかないそんなものが何の意味もなくなるほどに、今日  
の完敗は圧倒的なものだった。  
「挑んでやる。何度でも、あたしが勝つまで」  
街を見下ろすスイの表情は、奇妙な晴れやかさを湛えていた。  
 
 
 
朝の日差しが苛立たしいほどに煌いている。  
今日も良く晴れるのだろう。  
よるべなく夜を明かしてまだ人の少ない街の通りを歩くスイに、遠くから声をかける  
者がいた。  
「おう、どこ行ってたんだよ」  
「…お前らには関係ないだろ」  
声の主をちらりと見て、スイはあからさまに嫌そうな顔をして見せた。  
それはスイが良く知る、幼馴染のキリとシスターのエルーの二人だった。訳あって  
常に手を繋いでいなければならないというのに、それほど不自由をしているように  
は傍目からは感じない。まあそれなりに二人とも今の状況に慣れているということ  
なのだろう。  
そんな、どうでもいいことすらも何故か無性に苛ついた。八つ当たりだとは分かって  
いるのだが。  
「心配してたんですよ、スイさん。これから御一緒に朝食でも如何ですか?」  
自由な方の片腕でパンの包みを抱えたエルーは、そんな心中も知らぬ様子でふ  
んわりと幸せそうに笑っている。  
二人のそれぞれの荷物からするに、食材を買いに街外れの市場にでも行っていた  
のだろう。  
「あたしはいいよ、別に」  
「お前さー、自由行動はいいけどせめて飯ぐらい一緒に食えよな。姿も見せないん  
じゃどっかで怪我でもしてるかって気になるだろ」  
「あたしがそんなヘマなんか!」  
キリの言葉にいつものように返しかけて、咄嗟に口を噤んだ。そういえばあの男に  
完敗したのはこの二人の目前だった。あんな醜態はみっともない。そんな感情だ  
けが心の中に血のように真っ赤な飛沫を上げて迸った。  
「ヘマなんか絶対に…」  
呟いたまま俯くスイの鼻先を、突然オレンジの香りが掠める。キリの抱えた紙袋に  
は幾つもの果物が顔を覗かせていた。  
「お腹、空いていますでしょう?あまり悩むのは良くないですよ」  
微笑むエルーにつられるように、ぐううと腹が鳴る。途端にこれまで禄にものを食  
べていないことに今更気がついた。  
「お前らなあ、あたしは」  
「いいから飯食おうってば。腹に詰め込まなきゃ何も始まらないぜ」  
二人はスイの苛立ちをやんわりとかわして、宿屋へといざなった。仕方なくという  
風を装って従うしか今はないようだった。戦うばかりでは腹は少しも満たせないの  
だから。  
 
キッチンを併設しているせいでそれなりに広い部屋には、温かな良い匂いが漂っ  
ている。  
「驚きました、キリさんすごくお料理が上手なんですよ」  
「んー、まあウチはそういう教育だったからな」  
「今日のオムレツ、期待してて下さいね。スイさん」  
てきぱきと卵を溶いて焼いているキリの側で、エルーは嬉しそうに笑っている。さっ  
きから感じていた苛立ちの中に紛れた、わずかにあった嫉妬の感情がようやく分  
かった気がした。  
付き合っていた頃のキリは、あんな風に楽しそうな様子を見せたことは一度として  
なかった。まあ、いつも勝手に振り回していただけだから当然だが。  
男というものは、こういう女を守りたいと思うのだろう。そして女はエルーのような女  
でいる方が幸せに生きられるのだろう。  
それぐらいは分かっていた筈が、似合わな過ぎて目も耳も塞いでいた。  
武の民の中の希少種、クリアナギンとして生まれたが故に普通の女でいられない  
ことが今になってスイの中に歪みを生み出しているのだ。  
所在なくテーブルについているスイの前に、形良く仕上げられたオムレツとソテー  
された何種ものハムが載ったプレートが置かれた。御丁寧にもオレンジを絞った  
ジュースまでが添えられている。  
よほど改心の出来なのか、自慢そうにキリがえへんと胸を張っている。  
「ほら食えよ、腹減ってんだろ」  
「…サンキュ」  
ほかほかのオムレツを一口食べると、バターの風味と卵の香りが一気に身体中を  
満たしていった。空腹のせいもあるだろうが、本当に美味しい。  
「美味いな」  
「だろ」  
「食材、たくさん買いましたから遠慮なくどんどん召し上がって下さいね。パンもあ  
りますし」  
キリが褒められたのが自分のことのように嬉しいのか、エルーは柔らかい笑顔を  
崩さない。その顔を見ていると今度は決して覆せない劣等感が沸きそうで、その  
後はただひたすらプレートの上の料理と運ばれるパンをがつがつと食べ尽くすだ  
けだった。  
 
「…美味かった、ありがとな」  
空になったプレートの上にフォークを置くと、ようやくスイは満足げに伸びをした。続  
けざまに料理を作っていたキリが、そしてエルーがその物音に振り返る。  
「もういいのか?」  
「あのなあ、あたしがどんだけ食うと思ってんだよ」  
子供のように頬を膨らませていると、オムレツとハムを持った別のプレートがテー  
ブルに置かれた。  
「じゃ、これ隣に持って行くからちょっと待ってな」  
「隣?」  
「ああ、この街に来る時に言っただろ。俺たちの護衛を頼みたい相手がいるって。  
それ、昨日いきなりお前がつっかかった奴だよ」  
ざわり、と音を感じるほどに血が騒いだ。立ち上がりざまに産毛までが逆立つ思  
いがした。  
「あの男が、隣の部屋にいるのか?」  
「いるけど?」  
「な、何で奴がここに」  
「まあ護衛を断られはしたけど、側にはいてくれるようだからな。たまたま今朝は  
爆睡していたようだったんで市場には俺たちだけで行ったんだ」  
本当は危険なことですけどね、とキリの側を片時も離れない(離れられない)エル  
ーが少しだけ顔を曇らせた。  
「…これ、あたしが持ってくよ」  
ひどく強張った顔をしたスイを見て、二人は呆気に取られたようにぽかんと口を開  
けていた。  
「こんなトコで面倒は、やめてくれよ。一応身を隠してるんだから」  
スイの激しい気性を思い出したのか、キリはやや慌てたようだ。そんな様子が何  
だかおかしくて軽く笑う。  
「バカにすんなよ、お前らに迷惑はかけない。ただ奴の顔を拝みたいだけだ。この  
あたしを負かした男だからな」  
それでも心配そうな二人を尻目に、さっさと温かいプレートを持ってスイは部屋を出  
た。幸い、角部屋のせいもあって隣室は一つしかない。  
深呼吸をする暇も惜しんで、隣室のドアを叩いた。  
返事はなかったが構わずにドアを開いて中に入る。スイが探していた男は窓辺で  
ぼんやりと外を眺めていた。  
「何だ、寝てたかと思った」  
「…お前は、昨日の奴か。あいつらの仲間だったか」  
 
ファランという名らしいその男は、スイを見ても殊更どうということもなく不機嫌そう  
な顔をしたままだ。  
「朝飯を持って来たぞ。腹は減ってるだろ」  
「まあな」  
プレートをテーブルに置くと、承諾もなしに傍らの椅子を引き寄せて座った。ファラ  
ンは全く気にすることもなく向かい側に座って黙々と食べ始める。朝の光の下だと  
いうのに、跳ね返すばかりの迫力を持った黒い髪に黒い瞳の男だ。近くで改めて  
眺めると特有の雰囲気があって魅かれないでもない。  
負かされたことで文句の一つも言おうと思っていたのに、変な気分だった。  
「他人が食うのがそんなに面白いか」  
「かもな」  
「変な奴だ」  
この部屋に入って来た時から、きんと冷えた空気は変わらないままだ。慣れない  
雰囲気に頬が奇妙なほどむずむずしながらも、スイは目の前の男から目が離せな  
くなっていた。  
「そう悪くない身体つきだ、ただ物を知らな過ぎるな」  
「えっ?」  
不意に、ファランはまっすぐ見つめ返してきた。  
「着衣では筋肉の付き方が良く分からんが、自己流でもそれなりには鍛えていた  
んだろう。だが、無駄な動きで良さが隠れている。基礎的な鍛え方も知らずに今ま  
で来たようだな」  
言葉を放ちながら腕を伸ばして、フォークの切っ先をスイの喉元にぐいと突きつけ  
てきた。何の気配も感じていなかっただけに、不覚としか言いようがない。  
「あ…」  
「奴が、キリが話していた。生粋のクリアナギンの娘と同行していると。どんな女か  
と思えばここまで未熟な奴とはな」  
「しつ、れいなことを言うな!」  
かあっと頬が熱くなった。クリアナギンとして生まれて、その血を誇りと思わなかっ  
た日はないだけに自分だけでなく大元でもある武の民そのものをも侮辱されたよう  
に思えた。  
だが、ファランは少しも動じる気配がない。  
 
「何を怒る。それほど悪いことでもないだろう。お前が女であるならな」  
「あたしは生まれてから死ぬまで、万民を統べる最強のクリアナギンでなければ  
ならないんだ!それが代々の誇り、あたしの唯一の自我だ」  
我を忘れそうなほど激昂し、立ち上がるスイを相変わらずつまらなそうな冷めた目  
で見上げてファランは唇の端だけで薄く笑った、ように見えた。そんな些細なもの  
に目が移ることは、既にスイが今の今まで感じていた敗北を際立たせていた。  
「誇りに自我か。よほどクリアナギンの血は大事と見える。それがお前自身の決  
定的な不幸だと気付きもしないほどにはな」  
「不幸、だと?」  
「所詮は男と女では身体の作りも違えば体力も違う。張り合って生きることに何の  
意味がある?完遂したとして、それがお前の幸せか?」  
挑むように黒い瞳が見つめている。これまで信じていた価値観がこんなことで覆さ  
れそうになる恐怖よりも、不思議な期待感が沸き始めていた。  
「あ、あたしはそれで良かった。今までずっと信じていた。誰よりも強くあれと言わ  
れ続けて育てられたからな。疑うこともなかった」  
「今はどうだ」  
「…そんなこと知らない、その認識を捨てろとでも言うのか?」  
「今捨てれば、まあ幸せにはなるぞ」  
「ふざけた断言を…それをお前がくれるとでも言うのか?」  
我ながら支離滅裂なことを言っている、とスイは自嘲していた。男になれない、今  
更女にも戻れないのであればこの存在など何の意味もないではないかと。  
だが、ファランの返事は意外なものだった。  
「無謀な戦いさえしなければ、長い髪の女はそう悪くない」  
無様にも、涙が零れた。  
 
「これで泣くのか、変な奴だ」  
「うるさい、あたしだって女だ。あたしだって」  
止まらずにぼろぼろ泣くスイの頬を滑る男の指が、黒髪を一房巻きつけて引き寄  
せる仕草をした。黒い瞳が暗い情を湛えている。  
「嫌というなら、すぐにここから出て行け」  
「訳の分からないことを言う奴だ。あたしが」  
引き寄せられるまま、側へと歩み寄ると一層深く色味を増した瞳に身の内が熱く  
なった。これまで男など特にどうということもなく相手をしてきた。身体を重ねた数  
など何の意味もないと切り捨てていた。  
だが、この男は何かが違う。初めてそんな確信があった。  
「それを拒否するものか」  
「いい覚悟だな」  
挑み合う眼差しがひどく心地良い。伸ばされる腕に絡め取られるように身を委ねれ  
ば、見た目よりは随分と広い胸に抱き留められて思わず目眩がした。背中に纏わ  
りつく長い髪がさらさらと腕を滑っていく。  
「名は何という?」  
「スイ、だ。タームの街では最強の」  
その言葉にやや細められていた目が鋭さを増して、唇を塞がれた。同時に頭を押  
さえつけられるように抱き込まれて意識が飛びそうになった。これまでの経験が全  
部ふっ飛ぶほどに、この男が与えてくるものは衝撃的ですらあった。  
鼻先を擦り合わせるほどの近さで、戦いの中で生きる男と女が見つめ合う。  
「忘れろ」  
「忘れられる訳がない。これはあたしが生きる理由だ」  
「適切な鍛錬をして、きちんと筋肉をつけられれば何とかなろうがな」  
「さっき言ったことと、やや違うな」  
「自分自身の誇りをそこまで死守するなら、それはそれで幸せなことだろうと思っ  
たまでのことだ。そんな女も嫌いではないぞ」  
またも戯言を、と言いかけた口が言葉を失った。突然身体が浮き上がったのだ。抱  
き上げられていると認識したのはすぐ後だったが、抗議すら出来ない。  
「あ…」  
「スイ、お前は面白い女だ」  
奥のベッドを目指して大股で歩く男は、どこか愉快そうでもあった。  
こういう男は、あたしも嫌いじゃない。スイは今まで誰も見たことのない女の顔をして  
一切逆らわないままファランを見上げていた。  
 
その頃。  
「スイさん、遅いですねー」  
朝食を終えて、すっかり食器を洗い終えてしまっても隣の部屋からスイが戻ってくる  
様子はなかった。さすがに心配になったのかエルーがそわそわと戸口を見る。  
「いいんじゃね?自分を負かすほど強い奴に、何か教わってんだろ。それがあいつ  
の成長になれば上々だろ」  
「でしょうか…」  
テーブルの上にはお茶の入ったカップが二つ。鬼の居ぬ間の何とやらという雰囲気  
が二人の間には流れていた。  
「ま、放っておこうぜ。それよりさ」  
「もう、キリさんたら」  
頬を撫でる手が日毎に優しくなっていることを感じているのか、エルーはぎこちなく  
目を閉じた。  
 
 
終わり  
 

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