[前回までのあらすじ]
ガゼル四天王の猛攻によりファルゼン部隊は壊滅。しかしキリとエルーは逃げ込んだ遺跡の最奥で超古代文明の遺産「W-INKシステム」を手に入れた。
新必殺技「ロイヤルダブルアーツブレイカー」により四天王を撃破することに成功した二人は、牧場主となったスイに別れを告げ、再び旅立つ。
そして彼らは協会本部にたどり着いた……
数ヶ月後。協会本部。
「……エルー、筆」
「はい。どうぞ、キリさん」
絵の具まみれになった筆を水につけ、新しい筆を渡す。
それを受け取った彼が筆先を催促するように揺らしたので、エルーはパレットを取り上げて差し出した。
すでに作ってあるいくつかの色から目当ての絵の具を選び、キリはちょいちょいと少しだけ筆の先に乗せる。
さっと一撫で。
キャンパスに緑色のラインが浮かび上がる。その色合いに満足したのか、今度はたっぷりと絵の具をつける。
「結構できてきましたね」
エルーが言う。
「そう見えるだろ? でもまだまだこれからなんだ」
キリが答えた。
二人、未完成の絵を見つめる。
トロイの研究に協力してくれる間は可能な限りの要求にお答えします、と言ったシスター・マーサに、キリが頼んだのは画材一式と落ち着いて絵が描ける場所だった。
というわけで、すぐさま協会本部の一室は即席のアトリエに改造された。
エルーは自分が塞いでしまっている彼の左手の代わりになって、筆を洗って色を作ったりしている。
キリの体を調べるために検査台に縛り付けられるのは日に数時間程度。それ以外の時間のほとんどを、二人は一緒に絵を描いて過ごしていた。
キリはふと筆を動かす手を止めて、
「しかし、いいのかね」
「何がですか?」
「こんなのんびりとした検査でいいのかなって。胴体輪切りにされてホルマリン漬け……とまではいかないとしても、頭丸坊主にされるくらいは覚悟してたんだが。隅にもおかない扱いときたもんだ」
「それはまた、贅沢な悩みといいますか図々しいといいますか」
青髪のシスターは苦笑しながら、新しい絵の具の蓋を開ける。
「シスター・マーサにも考えがあるんですよ、きっと。あー、もしかしたら、この世の最後に少しでもいい思いをさせてやろうってつもりなのかもしれません」
「おいおい」
引きつったキリのつっこみが入る。
馬鹿な話に花を咲かせながら、少しずつ、少しずつキャンパスが厚みを増していく。
◇ ◇
シスター協会本部。その奥の奥に一般の者は立ち入ることを許されない部屋がある。
会議室のようでもあり裁判所のようでもあるその部屋の中央に、シスター・マーサは発題者のごとく被告人のごとく立たされていた。
彼女を取り囲むように十数人の人間が席についている。それぞれが相当の地位のある者達で、分かりやすく言えば、ここにいる人間の意見だけで戦争が起こせるというほどの顔ぶれだ。
それほどの権力を前にして、わずかも怯んだ様子を見せていないマーサも、また只者ではなかった。
座っている男の一人が口を開く。
「シスター・マーサ。我々は結果を求めている」
その隣の老女が続ける。
「トロイの撲滅は協会の、いえ人類の悲願です。今年に入ってすでに三つの村が消えました。一刻も早く根本的な治療法を確立させなければなりません」
「だというのに、トロイに感染しない体を持った人間が見つかったというのに、君がしていることはなんだ?」
「血液検査の結果は提出したはずですが」
しれっとしたマーサの返答に、頭を禿げあがらせた男が声を荒らげる。
「結局何も分かりませんでしたなどと締めくくられた報告書に何の意味がある!」
バン! と机を殴り、
「次は腕の一本でも切り取って、徹底的に解剖しろ! それでも駄目ならミキサーだ、全身細切れにしてでもトロイの抗体を絞り出せ!」
完全に興奮状態に陥ってしまった男の暴言に、しかしシスター・マーサは腹を立てたりはしなかった。
男の母親が数十年前にトロイで消えてしまったことを知っていたからだ。
この場にいるのは、多かれ少なかれトロイの被害を受けてきた者ばかりだ。故に行きすぎとも思える感情論が出たとしても、それを止められることは少ない。
しかし、だからこそシスター・マーサは男の目を見て告げる。
「キリ・ルチルについて分かっているのは、彼が『トロイに感染しない体である』ということだけです。それがイコール抗体を持っていることにはなりません。
例えば植物にもトロイは感染しませんが、七百年研究を重ねてもそれらから抗体を見つけることはできなかったのですから。
それに、彼の肉体を傷つけるような検査法は絶対に許可できません。彼は決して代用の利かない存在であるということをお忘れなく」
すらすらと重ねられる正論に男はたじろいだ。じわじわと苦虫を噛み潰したような顔になっていく。
マーサはそれ以上深追いはしなかった。また、もっとも強硬に出ていた人間が沈黙したことで、それ以外の面々も用意していた質問や追及を行うタイミングを逃してしまった。
数分後。何一つ解決に結びつかないまま会議はお開きとなる。
一人また一人と退出していく中、件の男が残していった捨て台詞を、マーサは聞き逃さなかった。
「…………ふん。不良修道女め。若いシスターをあてがって恋人ごっこをさせて、一体何のつもりだ」
◇ ◇
協会本部食堂。
ひどく疲れた様子で姿を現したシスター・マーサを、たまたまおしゃべりをしていた五人ほどの若いシスターが取り囲んだ。
「シスター・マーサ! ――今回は誰を?」
うんざりした顔で年長のシスターは答える。
「財務省の禿親父を。来季の予算はごっそり削られるわね」
いえーい! と何故か上がる歓声。
「シスター・マーサもこりないですねぇ。会議の度にお偉方の誰かを病院送りにするなんて」
「不当な物言いに対し実力を以て抗議したと言いなさい。それに殴る時はちゃんと手袋をしています」
それでも被害者にとっては殴られていることに変わりはないのだが。流石は協会きっての武闘派メイルシスターだ、と若いシスター達は思った。憧れるべき相手を間違えていることに突っ込みを入れる者はいない。
「ところで、今回はどういう理由で暴れたんですか?」
「…………エルレインのことよ。私が彼女をキリ君にあてがっている、と思われていたらしくて」
うわー、と顔を見合わせる若いシスター達。何のかんのと言って、この手の話題に興味がつきない年頃である。
「でもエルーは、戻ってきた時からあんな感じでしたよ」
「そうそう。手をつないでいるだけだって聞いてたけど、なんか近いよね」
「私知ってる。ああいうのをラブラブっていうのよ。」
やいのやいのと盛り上がるシスター達。話の内容はどんどんエスカレートしていき、エルーの首の後ろにキスマークを見たとか、シーツを洗濯した回数は何回かとか、本人達の前では決してできない内容が飛び交う。
若さ全開の後輩達を頬杖ついて眺めながら、マーサはぽつりと呟いた。
「――まあ実際、私も期待してなかった訳じゃないのよね」
「はい? 何をです?」
ポニーテールのシスターが耳ざとく聞きつけ、尋ねてくる。
マーサは至極簡潔に答えた。
「エルレインとキリ君がエッチして子供をつくること」
「……………………………………………………………………」
チクタクチクタク。十秒経過。
「な、なななななな――――!!」
ポニテのシスターが震えながら立ち上がった。ちなみに残りの四人は真っ赤な顔でダウンしている。耳年増の癖に純である。
「なんてことをおっしゃいますか! どこまで直球勝負なんですか! 限度とかあるでしょう普通!」
「だって、気になるじゃない。シスターになる前ならともかく、なった後に出産を経験した人っていないんだから」
マーサはふざけた様子もなく答えた。
シスターになる。それはとりもなおさずトロイの感染者であることを宣言したのと同義である。そんな相手とエッチ――もとい、結婚しようと考える男性は非常に稀有だ。
いなかった訳ではないことは明言しておく。しかし幸福に結ばれた例がないのも事実なのだ。
『神の妻(シスター)』という呼び名は、『神様しか娶ってくれる相手がいない』ということの皮肉に使われたこともあったという。
そんな中で、
「あんなに仲良くやってる二人を見ちゃったら、期待しない方が野暮ってもんよ」
マーサは『期待』というフレーズを、何やら含みを持たせるような言い方をする。
ポニーテールのシスターはふと考え込むように首を傾げ、それから幾分か落ち着いた重い口調で言った。
「……じゃあ、もしかしてキリ君に無茶な検査とかさせないのって、彼とエルーの子供を調べたいから――なんですか?」
トロイに感染しない人間と、すでに感染している人間。
その二人の子供がどんな状態で産まれてくるのか。それは確かに興味深い事柄ではあるし、今この時にしか確かめられないことでもあるだろう。
けれど、それはキリ本人をミキサーにかけるよりも残酷な発想かもしれない。
産まれてくる子供に対し、愛情ではなく学術的好奇心のみを向けるというのは。
シスター・マーサは一度だけ息をのみ、そして、
「――――半分正解」
ダウンしていたシスターの一人がはっと顔をあげた。
その少女の顔を見て、マーサは言い直す。
「ウソ。四分の一だけ正解」
また一人顔をあげる。
「それもウソ。八分の一」
もう一人。――さらに一人。
合わせて十の瞳を向けられ、年長のシスターは大きく息を吐き出した。
「ごめん。……本当は大外れ」
腹の底に溜まったものを一緒に吐き出したかのように言う。
集まった視線から逃げるように、遠くを見るような目をして、
「私は駄目だったけど。あの子は違う。自分が消えても何かを残していく権利を得たのよ。なら、応援してあげたいじゃない」
トロイの治療法は確かに見つけたい。
けれど、その代償にあの二人の手を引き離したくはない。
「私達はいずれ消える身。だけど、心まで消したくはないじゃない」
体が消えて、言葉も消えて、人の記憶からも消え去って。
なお残る物があるとするならば、それは心に他ならない。
だから、本当に大切なことは、いつも心で決めないと。
シスター・マーサが常々後輩達に説いてきた精神の在り方。シスターとしての、ではなく、シスターになった人としての生き方。
その違いを理解できる者だけが、彼女の元に集う。そしてこの場にいる若いシスター達は、まさしくそういった集まりだ。
五人は深くうなづいて、心からの同意を表明した。
その後の一幕。
「でもシスター・マーサ。もしあの二人が破局したら、私がキリ君もらっちゃっていいですか?」
「あーずるーい!」「私も彼氏ほしー!」
「こらこら。何を聞いてたの貴女達。…………いっそ全員まとめて面倒見てくれるくらいの子だったらよかったのに(ボソ)」
「へ?」
「暗に『何でも言うこと聞きます』とまで言ったのにねぇ。あそこで『ぐえっへっへっへ。テメェラ全員オレなしじゃ生きられない身体にしてやるぜぁっ!』とか返してくれればよかったんだけど。
興味なさそうな顔をしているだけで、あれはエルーと同レベルの奥手だわ。まあ、そこがそそると言えなくもないわね」
「……………………………………………………………………」
憧れの人は年下好きらしかった。
◇ ◇
まるで時間が止まったかのように静かな部屋の中で、キャンパスだけが時々刻々と変化していく。
色と、形と、それらに収まらないものとが積もり積もっていく。
――ああ、こんな日々がいつまでも続いたらいいのに。
「ねぇキリさん」
「なんだ?」
「この絵のタイトル、決まってるんですか?」
「んー、そういうのは完成してから考えるもんなんだが……」
キリはしばし筆を走らせる手を休めて、考える。
ずいぶん白い場所が少なくなったキャンパスを眺め、それから傍らの少女をちらりと見やり、
「…………うん。これがいいかな」
「どんなタイトルですか?」
「まだナイショ」
「そ、そんな! ひどいですよ、こんなに手伝ってるのに!」
「ははは。じゃあヒントだ」
ぷぅとむくれたエルーの目の高さに、つないだ手が持ち上げられる。
固く結ばれた掌の向こうに、お互いの顔が見えた。
よく分からなかったけれど、なんだか分かる気がしたので、エルーは笑った。
“二人の絵(ダブルアーツ)”が完成するのは、まだもう少しだけ、先のお話。
fin