繁華街の中心から少し外れた場所に、小さなオープンカフェがある。
どんな時もそこそこの客入りがある代わりに、大繁盛もしていない、そんな雰囲気のある店だ。流行らず廃れず、もうずっと常連客の憩いの場になっている。
だが、今。店内には微妙な緊張感が漂っていた。
隅の方のテーブルを使っている二人組の存在によって、だ。
丸テーブルを囲むのではなく、わざわざ椅子を動かして隣り合って腰かけている若い男女。
何もその座り方が問題だった訳ではない。問題はその女性の方が『シスター』であるということだった――
はね癖のある短い青髪の少女――エルーはそわそわしていた。
膝の上に置いた手はしきりに閉じたり開いたりを繰り返しているし、視線はうろつきっぱなしで場所が場所なら挙動不審で引っ立てられてもおかしくない。
「あの……キリさん、私、やっぱりこういう場所は」
周囲の緊張を肌で感じる。居心地の悪さ――というよりもチクチクとした罪悪感に耐えられなくなり、隣に座る少年に呼びかける。
「ん? まだそんなこと言ってるのかよあんた。大丈夫だって。大人しく座ってれば誰も文句言わねーよ」
文句を“言われない”ことがむしろプレッシャーになることもあるのだが……彼にはその影響を受けるような感性などないのかもしれない。とてもとてもくつろいだ顔で少年は言う。
「はぁ…………」
キリ――それが少年の名だ――と行動を共にするようになってから、もう何度目になるかも分からない諦めのため息を、エルーはまた一つ増やした。
(シスターの私が、こんな場所でお茶していていいんでしょうか)
『シスター』とは透過病――通称トロイと呼ばれる病気を治療するために集った人々である。
トロイ患者の体内にため込まれた毒を、自分の体で引き受けることで取り除く。その代償として、シスターは一人の例外もなくトロイのキャリアとなる。
『触れれば伝染る』という最悪の感染手段を持つトロイのキャリアは、非感染者と触れ合うことは許されない。とうぜんこのオープンカフェのような不特定多数の人間が袖擦れ合わせる場所は危険極まりないのだが……
キリと彼の家族の優しさに触れて、キャリアであることに必要以上の引け目を感じることはなくなったエルーだが、それとこれとは話が違う。
人の多い所に赴くことは出来るだけ避けるべきなのに、何故かキリはことあるごとにエルーをそういった場所に連れていきたがった。
公園に始まり、劇場や市場、美術館など。
エルーとしては、もちろん断りたかった。しかしキリがどうしても行きたがるのであれば、それについていくしか彼女には生きる術がない。そのままの意味で。
それを分かっていて誘うのは、どうにも意地が悪すぎるようにエルーには思える。
――楽しくなかった訳では、決してないのだが。
「てかあんた。コーヒー一杯に何本砂糖入れる気だよ? 今は美味く思っても十年二十年後に効いてくるぞ」
「人の好みに口出ししないでください。キリさんこそ、砂糖の袋をいちいちちょうちょ結びするのはやめたらどうですか。というかなんで片手で出来るんですか」
卓上のシュガースティックを二人して無駄に消費しながら、エルーはとにかくここから早く立ち去ろうと決めていた。
キリの意地悪に付き合っていたら“きり”がないし、それに――
「あ、あんた、そんなに急いで飲んだらもったいないだろう」
「………………」
あてつけるように、くいっと首を上向けて最後の一滴まで飲み干した。
なんというか、こう。
彼の声を聞いていると、イライラとしたものがこみ上がってくる。
別に砂糖の量云々が原因ではない。
ならどこかというと。
「おい、あんた――」
「キリさん」
かちゃん、とカップをソーサーの上に戻して、エルーはキリに向きなおった。金髪の少年は仰天したように目をパチクリさせている。
――そんなに怖い顔をしているだろうか。
いや、それに足る理由だ、これは。
気を取り直し、エルーはぐっと身を乗り出して言った。
「なんで、ずっと私のことを『あんた』って呼ぶんですか。ちゃんと自己紹介しようって言ったのはキリさんで、私はエルーと名乗りました。ならそう呼んでくれてもいいじゃないですか」
少年の目がさらに見開かれる。
エルーが気にしていたことはそれだった。
キリが名前で呼んでくれない。
ただそれだけの理由でここまで不機嫌になるのは、単に異性との付き合いが少ないからなのか、はたまた。
自分でもよく分からないながらも、許してはいけないことだと女の直感が語っていた。
だから精一杯の不満を視線に込めて、金髪の少年へと送る。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………う」
緊張感漂う中にらみ合うことしばし、意外なことにキリの方から視線をそらした。
困った様子で明後日を向く少年の様子に機を得たと思ったエルーは、即座に畳みかける。
「キ・リ・さ・ん」
「あー、その、あれだ。うんあれだ。……言わなきゃ、ダメ?」
答えは一つ。
「もちろんです」
「うう……」
頭を抱えてテーブルに突っ伏すキリ。
こんなに困り果てている彼を見るのは初めてで、問い詰めているエルーの方が動揺してしまうくらいだった。
「――はっ、だ、騙されませんよっ。さあ、“きりきり”白状してください!」
「そのシャレは俺の人生にいつまでもつきまとうなぁ……じゃなくて、その、あんた、言っただろ」
また『あんた』と呼ばれて不快指数が二割増したエルーが問い返す。
「何をです?」
「だから、自己紹介の時」
「だから、何をですか」
少年は観念して告げる。
「だからさ、こう言っただろ。『親しい者はエルーと呼びます』って。……知り合ったばかりの俺が『親しい者』なのか、そうでないならどう呼べばいいのか、ずっと考えてたんだよ」
瞬間、キリの顔が少しだけ赤くなった。
遅れて、言葉の意味を理解したエルーの頬も朱に染まる。
ずっと考えていた。出会ったばかりの、しかしずっと手をつないでいなければいけない少女になんて呼びかければいいのか。
彼女にしてみれば、よく知りもしない男に四六時中触れられていなければならないのだから、あまり馴れ馴れしいと気持ち悪いだけだろう。
かと言って、そっけない態度をとり続けて平気なほど離れていられる訳でもなし。
キリはキリなりに悩んでいたのだ。少女との接し方について。
それを知ってしまったら。
「そんな、その、そんな悩み……」
しどろもどろになりながら、恥ずかしいのか嬉しいのかあやふやになりながらも、エルーは言葉を紡ぐ。
「い、言ってくれれば、よかったじゃないですか! わ、私なら、いつだって傍にいたのに!」
「だから、言えなかったんじゃねーか! あぁもぅ、なんだかめちゃくちゃだ……」
二人して顔を合わせられず、空や地面を見つめてしまう。
今更に、つないでいる手が熱く感じられた。
だけど、どんなに熱くても、この手を離すことは出来ない。
命の危険が危ないとかそういうことは二の次で、今離してしまえば、もう一度つなげられる勇気がなかったから。
真昼のオープンカフェに、重苦しい(しかし微妙にピンク色の)沈黙が積み重なる。
どれだけ時間が経ったのか、キリがようやく口を開いた時には、足もとに落ちる影の長さが目に見えて変わっていた。
「と、とにかく、だ」
「は、はい」
「……そっちが十分だと思ったら、教えてくれ。それまで俺も頑張るから」
頑張る、という言葉の示すところを、エルーは即座に理解した。
ここ最近のおでかけへの誘い。あれらは決して意地悪などではなく、早く『親しい者』になりたいという思いから出た行動だったのだ。
まあ、様々な過程とかすっ飛ばしてカタカナ三文字の特殊イベントじみたものになってしまっていたことは、気づきもしない二人である。
「なら、」
エルーは決めた。
「まだまだ、です」
「そ、そっか」
キリはうなづく。少しだけ残念そうに。
そんな彼を見て、エルーは思うのだった。
(ごめんなさい、キリさん。本当は私の方が意地悪だったみたいです)
もう少しだけ、『あんた』のままで。
もう少しだけ、頑張って。
テーブルの上には手つかずのまま放置されたローズパイが、いつまでも切り分けられるのを待っていた。
繁華街の中心から少し外れた場所に、小さなオープンカフェがある。
どんな時もそこそこの客入りがある代わりに、大繁盛もしていない、そんな雰囲気のある店だ。流行らず廃れず、もうずっと常連客の憩いの場になっている。
だが、今。店内には微妙な緊張感が漂っていた。
隅の方のテーブルを使っている二人組の存在によって、だ。
丸テーブルを囲むのではなく、わざわざ椅子を動かして隣り合って腰かけている若い男女。
何もその座り方が問題だった訳ではない。問題はその女性の方が『シスター』であるということだった――ということもなく。
本当はこの店の最高甘味である黒蜜練乳白玉ぜんざいを五十倍濃縮したよりもさらに甘ったるい空気を全方位にまき散らしているバカップルに、周囲の人間が当てられていたというだけだった。
トロイは触らなきゃ伝染らない。
なら、触らなくても被害を広げる「恋の病」ってのは、きっとトロイよりよっぽど厄介なのだろうね。