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「嘘だ!」イワンは気違いのようにわめいた。「お前のような下男が、俺たちの兄弟なぞと・・・
よくも・・・ぬかしたもんだ」
「信じてくださらないなら、結構でございますよ」スメルジャコフは落ち着き払った様子で言った。
口元にはなにやら異様な笑みがうかんでいた。
「本当に、御存知なかったので? 殺害のことも知らぬばかりか、わたしがあなたの異母兄だと
いうことも知らなかったので?」
「知るものか、この臭い悪党めが」
「おや、ふるえていらっしゃいますね」スメルジャコフは笑みをうかべたまま言った。
「何をそんなに怯えているんです? 顔色が悪いですよ。ほら、椅子に腰かけたらどうです?
それでもなければ、もっとわたしの側に寄ってください。そして、わたしのことを、
どうぞ兄さんと呼んでくださいませ」
「お前を兄と呼べだと?」途端に逆上してイワンは叫んだ。「阿呆め、殴られたいのか?」
「呼べないのでございますね」スメルジャコフは不意に声をはりあげた。そして濁った目をイワンに突き付けた。
「あなたは臆病だ! 信じてくださらないならそれでも結構だと申し上げましたが、あなたがそこまで臆病者だった
とは存じませんでしたよ! 殴るとおっしゃいましたね。どうぞ殴ってください。殺したって結構ですよ。あなたに
わたしが殺せるものなら、殺してごらんなさい。わたしはあなたの兄上ですよ! 兄上、兄上です! なおかつ、わた
しは
あなたの思想を吹き込まれて以来、一瞬とも欠けることなくあなたの忠実なしもべであり、あなたの分身であったので
すよ!
わたしを殺すことは、あなた自身を殺すことです。それでも殺す勇気がおありなのですね? それならそれでかまい
ませんよ。
しかし、もし無いならば、わたしの側においでなさい。そしてわたしを兄と呼んで、わたしに兄弟愛の接吻でもしたら
どうなのです。
弟のアリョーシャがあなたに赦しの接吻をしたように、あなたはわたしに赦しの接吻をしてくださらないのですか?
何を怯えている
んです? 何をおそれているんです? わたしだって、あなた方と同じカラマーゾフの兄弟なのですよ? どうしてわ
たしだけが赦されぬ
のですか? あなたはわたしのキリストだったはずじゃありませんか? あなたはわたしを救うとおっしゃったじゃな
いですか?」
「お前を救うなどと言った覚えはない!」
「おっしゃったじゃございませんか。あなたは哀れな子供の話がお好きで
よく話題に出していらっしゃいましたね。罪なき童らが虐待を受ける話を。
そして、そんな哀れな子供を生み出す神の世界なぞまっぴら御免だ、自分は
そんな神の世界を愛するわけにはゆかないと。わたしは、その話をはじめて
耳にしたとき(あれはあなたがここへおいでになってから数日の頃のことで
したかね、)あの穴蔵へこもって、大声で泣いたんでございますよ。ええ。
後にも先にも、わたしがああまで泣いたことはありませんでしたよ。風呂場
の湯気と呼ばれた時の屈辱を、ゆがんだ憎悪に支配された召使小屋での生活を、
猫を殺して葬式ごっこをした時の悲しい悦びの情念を、わたしはその時すべて
ぬぐいさられるような気がしました。そして、これから先の人生の全てが赦しに
満ちたものであるような気がしたのでございます。あるいは、わたしは、はるか
二十数年前、われらの父フョードルに陵辱される白痴の母親のことをひそかに想像
していたのかもしれません」
スメルジャコフは溜息をついた。「もっとも、そのことも、今となっては
ただの笑い話ですがね。びくついてる今のあなたを見ていると、自分が
生きていることもむなしくなりますね。あなたは神の世界への切符を謹んで
返すとおっしゃいましたね。ところが、そのふるえる手を開いてごらんな
さい。あなたは未だ切符を握りしめていますね? 切符の行き先はどこです
かね? あなたはわたしの手から切符を奪い取ったわりに、御自分では未だに
それを大事に持っていらっしゃるじゃないですか? 粘っこい若葉が何です?
瑠璃色の空が何です? 数え切れぬほどの無数の不幸な子供を残したまま、
あなたはひとりで何を見ていらっしゃるのです? 返したはずの切符の
終着地点の風景をなぜしゃあしゃあと眺めているんです? あなたがあれほどの
気迫をもって退けたホサナをあなたはなおも歌おうとしているじゃありませんか。
いまにも唇を開きそうな気配じゃないですか。ええ! そりゃあなたは結構です
とも。アリョーシャに赦された唇を心の拠り所にしてあなたはいくらでも生きて
ゆける。たとえ一度は神を信じぬ大審問官の身分に堕ちたとしても、キリストから
接吻された彼はきっと這い上がり生きてゆけるのです。あなたもおっしゃった通り、
接吻は心に残って永遠に燃え続けるんです。だがわたしはどうなるんです?
生まれてこの方誰からの接吻も受けたことがない子供たちはどうなるんです?
その不幸な人間達に接吻を与えるためにあなたは立ち上がったのではなかったのですか?
・・・・・あなたは卑劣漢だ!」
二分ほどふたりは黙り込んだ。どちらの顔も青ざめていた。
「けれども」スメルジャコフが低い声で付け加えた。「あなたの思想の偉大さを、
わたしは完全に信じなくなったわけじゃございません。あなたの思想が劣化した
原因は、わたしがあなたの肉弾となり父フョードルを殺害したことなのかも
しれませんからね。行動は常に不純なよどみを抱えているものです。どんな
純粋な思想でも、愚かな人間の肉体に宿ればたちまち腐臭を発しますからね。
ですが、だからといって、わたしのことを「臭い悪党」呼ばわりする資格なぞ、
あなたにはございませんよ。あなたは、今こそわたしを、パーヴェル・
フョドロヴィッチ・カラマーゾフと呼ばねばなりません。同じ父のもとに生まれた
カラマーゾフの兄弟と呼ばねばなりません。それがおいやなら、どうぞ、わたしを
殺してくださいまし。このスメルジャコフを、どうか殺してくださいまし」
再び、ふたりは黙り込んだ。イワンははげしい頭痛に襲われて、椅子に倒れ込む
ように座りこんだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・