「イワン・フョードロヴィチ様」  
 ホフラコワ夫人宅に現れた予期せぬ来客に、召使は驚きの声を上げた。以前より  
いくらか痩せた二十四歳の青年は、蒼褪めた手に一枚の紙を握りしめながら、  
リーザの部屋へ入っていった。……  
 
「素敵ですね。……それは、確かに素敵です」  
 そう言葉を結んで、イワン・カラマーゾフは椅子から立ち上がった。リーザ・  
ホフラコワは、車椅子に腰掛けたまま、彼のことを見上げていた。イワンは  
身支度を整えると、静かに言った。  
「でも、もう、私を手紙で呼びつけたりしないでください」  
「素敵な話だったでしょう?」  
「今度から、そんな素敵な話はアリョーシャに語って聞かせたらどうです、  
リザヴェータ嬢」  
「いやよ」  
「なぜ」  
「アリョーシャみたいな人に向かって、こんな話ができると思って?」  
「すればいいのですよ」イワンは扉に手をかけた。「彼はきっと、あなたのその  
饒舌な唇に、あたたかい接吻を返してくれるはずですよ。あなたのことを救え  
るのはアリョーシャだけだ」  
「そんなはずないわ」  
「さようなら」  
「待ってよ!」リーザは叫んだ。「待ちなさいよ。本当は分かってるくせに。  
アリョーシャは……アリョーシャは……あたしのことなんか愛してくれやし  
ないのよ!」  
「そんなことありませんよ」イワンは振り返った。「落ち着きなさい、リザ  
ヴェータ嬢」  
「いやよ! いや! いや! いやあああああ!」  
 椅子の車輪をがたがた揺らし、自分の髪をむしるようにつかみ、金切り声を  
上げだしたリザヴェータのもとに、イワンは踵をかえして歩み寄った。  
「あなたのヒステリーには呆れますよ、リザヴェータ嬢。いったいどうされた  
というんですか」  
「だって、だって、考えてもみてよ……アリョーシャは、絶対にあたしのことを  
抱いてくれないわ!」  
 
「何だって?」  
「ねえイワン、あなたは、もうカテリーナさんのことを抱いたの?」  
「リザヴェータ嬢……!」  
「ああ、もう抱いたのね? 分かるわ、あなたは真のカラマーゾフだもの、  
お兄さまが監獄にいるのを差し置いて、お兄さまの婚約者を自分のものにし  
たのね? ねえ、どんな風にあの方と寝たの? どうやってあの方の唇に触  
れたの、どうやってあの方の服を脱がせたの、どうやってあの方の身体に  
手を這わせて、乳房に頬を寄せて、脚をひらいて、あの方にあなたを受け  
入れさせたの? ああ、素敵だわ! あの方はどんないやらしい声を上げて  
あなたを欲したの、あなたは熱く濡れたあの方の中に押し入ってどんな顔を  
したの、欲情に任せてぜんぶをあの方の中に吐き出して、生粋のカラマーゾ  
フのあなたはどんな万感の快楽に打たれたのかしら! 素敵、素敵、なんて  
素敵なの……」  
 まるでうわごとのようなリーザのつぶやきは、頬を打つ音と共にぴたりと  
やんだ。左頬を抑えたまま、数秒ばかり顔を伏せていたリーザは、ふいに病  
的な笑い声をあげ、ぎらぎら目を輝かせてイワンの手に飛びついた。  
「イワン、イワン! あたしの頬を打つだなんて! 男の人にぶたれるなん  
て、あたし初めてだわ! 怒ってるの? そう、怒ってるのね。そんな目を  
して。怒った男の人って、素敵。怒った男の人にぶたれるなんて、もっと  
素敵。あたしは天使じゃないけど、よろこんでもう片方の頬を差し出すわ。  
怒ってるなら、もっと頬をぶって。お願いよ、イワン」  
「きみは自分が何を言っているか分かっているのか?」  
 
「あら、カラマーゾフのくせに、道徳ぶったことをおっしゃるのね。でも、  
あたし知ってるわ。あなた、本当はすごく臆病なのよ。お兄さまにも、お父  
さまにも、なにひとつ自分の本心を言えず、カテリーナさんのことも、愛し  
てるの一言もいえないまま、ただ一晩のあやまちのように抱いてしまったの  
よ。情事がのあと、あなたは一晩中、月明かりの中でカテリーナさんの寝顔を  
眺めていたのに、朝がやってきたら、彼女にすごく冷たい言葉を吐いて、  
そして帰ってしまったんだわ。そして何もかも忘れたような顔をして、カタ  
リーナさんがいつその一夜のことを口に出すか、びくびくしているんだわ。  
すごくかわいそうな方! でも、大丈夫よ、イワン。あたしは絶対に秘密を守  
るわ。ね? いいこと、イワン。これはふたりだけの秘密にしましょう。  
悪魔の契約よ。ほら」  
 リーザはイワンの手を、ぐいと自分の方に引き寄せた。そしてイワンの顔を  
挑戦的に見つめたまま、その手を、寝巻きの上から自分の胸に乱暴にあてがった。  
「あたしだって子供じゃないわ。分かるでしょう?」  
 イワンはその手をふりほどこうとしたが、リーザはなお執拗にイワンの手を  
両手でつかみ、自分の胸に押し付けた。  
「抱きなさいよ。イワン。あたしを抱いてよ。秘密にしてあげるから。あたし  
のこと好きにしていいのよ。いいこと。カテリーナさんだってできないこと、  
あたしはやってあげるわよ。教会で禁じられてることだって、あたしは喜んで  
やるわ。愛してあげるわ、イワン。あなただって苦しいんでしょう? 知って  
るわよ。あなたが愛してくれるなら、一緒に地獄にだって堕ちてあげるわ。  
だから抱きなさいよ。ほら、何を耐えてるのよ。手が震えてるわ。もっといっ  
ぱい触ってよ。見た目よりは子供じゃないでしょ? 服を脱がせてもいいのよ。  
イワン・フョードロヴィチ」  
 やめろ、と短く叫んで、イワンは手をふりほどくと、そのまま背を向けて扉の  
方へ走り去ろうとした。だが、取っ手に手を掛けて、そのままぴたりと彼の動  
きが止まった。数刻が流れた。彼の手は取っ手に掛けられたまま小刻みに震え  
ていた。リーザはただ黙ったままその背中を見つめていた。そして、異様に長い  
沈黙を破るように、イワンの口から小さく吐き捨てるような呟きが洩れた。  
「この小娘め」  
 
 旋錠の音が部屋に高く響く。目を陰鬱に輝かせ、つかつかとリーザのもとに  
歩み寄ったイワンは、車椅子から彼女を抱き上げ、そのままベッドの上に身ごと  
横たえさせた。無防備な少女の細い腕を乱暴につかみ、その小柄な肢体の上に  
身をゆだねる。唇が触れ合うほどに顔を寄せると、リーザは目をかたく瞑って声を  
あげた。  
「イワ……」  
「みたことか」イワンは顔を離さずに言う。「何も知らない子供のくせに」  
「知ってるわ」微かに目を開き、リーザはとぎれがちに言った。「知ってるわよ。  
本で……いろいろ、読んだもの。ママには内緒で、こっそり……」  
「それで何を知ったつもりなんだ。いま俺のことを怖いと思っただろう」  
「怖くなんか……ないわよ」  
「俺の中のカラマーゾフを呼び覚ましたのは君だ。もう泣いても暴れても無駄だ」  
「わかってる……わかってるわよ」  
 つぶやくリーザの口に幾度も自らの唇を落とし、幾重にも身を包んだ冬用の  
寝巻きを順繰りに剥がしていく。イワンの手の中に現れた少女の肢体は緊張を  
みなぎらせてこわばっていた。  
「リーザ。聞いてくれ。俺はあいつと父親を殺した」  
 愛撫は長く続く。痛々しいほどに華奢な身体は徐々に紅色に潤み、男の欲情を  
受け入れていく。かぼそい呼吸は徐々に激しくなり、遂には手が触れるたびに  
微かに喉を震わせるようになった。  
「一緒にあいつの夢に苦しんでくれるんだな」  
 いつからか洩れだした切なげな嬌声と共に、十四歳の少女は幾度も頷きを返した。  
 

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