「いつか、幸せにたどりつく」
戦乱の世は未だ終わらず、されど、その傍らで季節はめぐりくる。
白い月が表情もなく辺りを照らす夜。
とある山奥の廃屋に男が一人、座り込んでいる。
刀を抱きしめ、眼を閉じているが、どうやら眠っているわけではないようだ。ぼんやり眼を開けると、もはや形骸を留めていない窓から月明かりが差し込んでくる。
―いつまでこんな日々を繰り返すのだろう。
四十八の妖怪を倒し、自分の身体を取り戻した。しかし、その果てに何があったのか。
弟を斬り殺し、結果として自分が原因で母は死に、そして…、どうしようもない男ではあったが実の父を…斬り殺した。もはや、誰とも会いたくなかった。だから、どろろとも会わずにあの村から立ち去った。
自らの手による死を考えたこともあったが、多くの死を踏みしめてきた身としては、どうしてもできなかった。
野垂れ死にを願ったこともあった。醍醐の残党らしきものが現れた時期もあったが、さすがに侍なんかの手にかかって命を落とすのは嫌なので、適当に斬りはらっているうちに、そのうち現れなくなった。
死霊も思い出すように現れた時もあったが、それさえ最近は姿を見せない。
俺がすでに死人に近くなっているからかな。
自嘲のような笑みを浮かべる。だが、最後はどうしてもあの顔を思い出す。
―どろろ。
最初のうちは、うっとうしかった。でも、だんだんと傍にいないと、こっちが不安になった。あの生い立ちからは想像もつかないような屈託のない笑顔も、別れの時の胸元を隠そうとした、初めて見せた「少女」の表情も。
今はどうしているのだろう。
もう数年になる。きっと、どこかで女性として生きて、つれあいをみつけ、幸せになっているのだろうか。そうであってほしい。
自分があいつを幸せにできなかった分。
そんな物思いに百鬼丸がふけっていると、外に人の気配を感じた。破れ戸ががたがた揺れる。
反射的に刀を構える。
「おーい、誰もいないのかー!」
覚えのある声。そう、たった今、その声の主を想いだし、焦がれていた。だが、本当にあいつなのか?そんな、まさか。
「いないなら、入るぞー!!!」
昔のような大声で、されど昔とは異なる声が辺りに響く。
ぼろぼろの戸が揺れ、この廃屋の今晩の二人目の侵入者が入り込む。
小さい灯火が彼女の手の先でゆらめいている。
「あ、あ、…あ…に、き!?」
百鬼丸の想像はあたっていた。
彼の眼の前には、数年前まで共に旅を続けていた少女の姿があった。
「…ど、どろろ…なのか?」
どろろはどろろのままだった。
確かにあの頃よりも背は伸びていた。体つきも女性的になっていた。しかし、それでも、どろろはどろろでしかなかった。変わっていたが、何一つ、変わっていない。
「あ…にき?」
灯火と月光で百鬼丸であることを再確認した、どろろの次の行動は再会の抱擁でも歓声でもなかった。
衝撃が百鬼丸の右頬を、そして左頬を走る。何度も何度も。
よけることも止めさせることも彼にはできたはずだった。だが、あえてそんなことはしなかった。したくなかった。
「―何で、何で、行っちまったんだよ!」
百鬼丸の両頬を打ちながら、どろろの顔が涙でゆがむ。
「ずっと、ずっと…アニキは死んだって思ってたんだぜ?」
頬の痛みが麻痺してきた頃、彼女もまた、百鬼丸のえりにしがみつき嗚咽を漏らした。
男はただ、泣きじゃくる娘の背をさすり続けた。
「…そっか、じゃ、最後の妖怪ってのはアニキの親父さんだったんだね。」
泣きはらした眼でどろろは百鬼丸の頬を今度はいたわるようにさすりながら、つぶやく。
「あんな男は父ではない。」
搾り出すような声で男は答える。
「……。」
しばし静寂が二人の間に重く漂う。
先に言葉を発したのは、どろろの方であった。
「でもさ、アニキ、どうして俺を置いていったのさ!?どうしてさ!?」
百鬼丸の胸板にどろろはしがみつく。
昔より少しは身だしなみを気にするようになったのか、それともやはり年頃になったせいか、以前とは異なる匂いを感じる。
「おまえこそ…、あの村にはいなかったのか?奴は死んで、平和になったとばかり思っていたが。」
そっと、どろろの髪をなでながら百鬼丸は語りかける。
「しばらくの間はよかったけどな。」
娘は、へへへっと寂しげに笑う。
月の光がその表情に微妙な陰影をつけている。
どろろの話では一時、村は確かに平和になったが、まもなく新たな領主が現れ、そいつもまた醍醐のような悪政を強いたという。村は再び混乱に陥り、一揆を再度試みたが、今度は完全に壊滅され、多くは処刑、投獄、生き残ったわずかな者たちは逃げ散ったという。
どろろは、まだ若年ではあったが一揆の企ての主要な位置にいたため、あと少しで殺されそうになったが、何とか逃げ切り、各地を転々としていたという。
気が付くと灯の火は衰えてきている。
「―でさ、行く先々で日雇いの仕事やらして、旅を続けてた。ま、色々あったけどよ、へへへ。」
涙の跡のこびりついた顔をくしゃっとして笑う。どんなに辛くても、どろろは笑っている、それがこいつらしさだったな。
さらに言葉を続けようとするどろろを百鬼丸は抱きしめる。
「すまなかったな…。」
本当に久しぶりに自分以外のぬくもりを感じ、どろろの心の臓は早鐘と化す。
「い、いや、別に、その…。」
決して弱みを見せなかった男の、弱々しく震える声に、どろろもまた声がつまる。
「なあ、どろろ。俺は確かに身体を取り戻した、しかし…。」
さらなる宿命を背負い込んだ。だから、もう、誰にも会いたくなかったんだ。
わかるな?どろろ。
明日の朝、俺たちは別れよう。
お前は、いつの日か自分の居場所をみつけるだろう。しかし、俺は…。
途中から直接、どろろの心の中に百鬼丸は語りかけていた。
黒々とした樹の影がざわめくように揺れている。
百鬼丸は、どろろからそっと離れようとするが、逆に彼女に引き止められる。
腫れあがった右頬に、娘の唇がそっと触れる。
「俺はアニキがいれば、それだけでいいんだよ。」
頬に触れる唇が震えている。
「アニキと一緒に旅をしていた時、妖怪や侍の奴に追いかけられたり、村の奴らに嫌な思いをしたりしたけど、それでも、それでも…、俺にとってはかけがえのない日々だった。」
娘の嗚咽が響く。
「なあ、アニキ、…、俺、どうしても、アニキの傍にいちゃ…駄目…なのか…!?」
今度は百鬼丸がどろろを抱き寄せ、その唇をふさいだ。
いつも、どろろの先をさっさと歩いていた男の唇もまた震えていることに気付き、彼女はちょっと微笑ましくなる。
そんなどろろの心情を読み取ったのか、男は照れ隠しのように力強く抱きしめる。
―俺はおまえを幸せにできるか、わからないぞ。
―ああ、結構だ。俺は俺で勝手に自分で幸せをみつけるさ。アニキと一緒にさ。
夜風に樹々はざわめき、その黒々とした影は小屋の中に微妙な陰影をつけていた。
しばらく唇を合わせていた二人だったが、やがてどろろは意を決し、うつむきながらも、自ら帯を解き始めた。
「お、おい、どろろっ…。」
驚く百鬼丸の前で、どろろの着物が床に落ちる。晒で巻かれた胸が、月の光で白く輝いている。大胆な行動と裏腹に、どろろは両の眼をぎゅっとつぶる。
苦笑しつつも百鬼丸もまた着物を脱ぎ、それを床に敷き、どろろの身体を横にさせた。
百鬼丸の、どろろの晒を解く時のぎこちない指先や、冷静を装いながらも不器用な愛撫の姿に、彼女は男もまた自分と同じく初めてであることを察した。
アニキみたいないい男なら女なんていくらでもよってきただろうにな。
ふっと微笑むどろろの心の中を読み取ったのか、百鬼丸はどろろの唇を軽く塞ぐ。
…痛かったら、すぐ言え。
心の中に語りかける百鬼丸に、泣きたい位の愛しさを感じ、どろろは彼の背中に両腕を回した。
「はっ、は、あっ…!」
どろろの口から吐息とも悲鳴ともつかない声がもれでる。予想以上の痛みに思わず、身体を離してくれと叫びたくなる。
しかし、その傍らでこの熱情を失いたくない、それどころか、もっと感じていたいという貪欲な自分もいることに気付く。浅ましいのだろうか、いや違う。うまく言えないけど、そうじゃない、そうじゃないんだ。
ただ、アニキとともにいたいんだ。廃屋がぎしぎしと揺れる。土ぼこりの匂いや互いの汗の匂いにむせかえりそうになりながら、どろろは男の背中にしがみついた。
そんなどろろの表情に、百鬼丸は軽く口付けし、汗で額にはりついた女の髪の毛をそっとかきあげる。
「どろろ…。」
数年分の空白を埋めるように、そしてこれからの過ごす日々のためにその名を呼ぶ。
どろろの方は、ひとつの状態で自分の名前を呼ばれたことに今までにない照れを感じ、それを隠すようにわざと乱暴に百鬼丸を抱き寄せる。
「アニキ…」。
二つの影は与え合うように求めあい、貪るように愛しあった。
月の位置がさらに移動した時分。
「大丈夫…か?」
この質問を聞くのは、何度目になるのだろう。
厚い胸板に寄り添い、どろろは苦笑する。
苦痛がないわけではなかった。今も百鬼丸の存在が身体の中にあるような気がしてならない身体を物憂げによじらせる。
「まあ、大丈夫…、かな。多分。」
気が付くと自分も百鬼丸も髪がほどけ、互いの髪と髪が絡まりあうようになっている。
「…アニキ。」
「何だ?」
「もう、勝手にどっか行くなよ。」
返事の代わりに抱き寄せられ、さらにどろろは男の胸板に密着する。力強い鼓動に女は今まで味わったことのない安らぎを感じた。
「アニキ。」
「何だ。」
「ほっぺた、痛くない?」
「…痛くないわけではないぞ。」
「だったら、よければよかったのに。アニキならできただろ。」
「もう眠れ。あと少しで朝になるぞ。」
「はーい。」
窓からは月の光だけではなく、夜風も吹き込んでいたが、今宵の二人は寒さなど感じなかった。
翌朝、いつもより日が高く昇っている時分に、どろろは目覚めた。
百鬼丸の方はすでに着替えを済ませ、どろろの顔を見つめている。
「なーんだ。アニキ、起こしてくれればよかったのに。まさか、ずっと寝顔を見ていたのかよ。やな趣味だな。」
照れくささを隠すように、どろろは口を尖らし悪態をつくが、起き上がろうとした直後、とある部分に激痛が走り、顔をひきつらせる。
百鬼丸はそんな新妻の背中を無言でさすり、やがて、妻の表情が落ち着いたのを確認した後、懐から湿った小切れを取り出し、さっき、小川で浸した布だと説明した後、これで身体を拭くが良い、俺はその間に何か食い物を探してくると小屋を出て行った。
腫れぼったい眼で廃屋を出ていく男の後ろ姿に、何だ、アニキ、背中をなでてくれたのはうれしかったけど、新枕の後なんだから、もうちょっと、その、気の利いた言葉を言ってくれても良かったのにと、どろろはちょっとむくれ気味になる。
しかし、昨夜の交歓の痕跡を清めながら、小切れが川の水で浸したにしては、あまり冷たくないことに気付く。
…アニキがずっと懐に入れて温めていたのか?
夫の不器用な想いやりに、彼女は小さく笑った後、少し泣いた。
どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。
廃屋の外で、捕まえてきた川魚を食べながら、百鬼丸が話を切り出す。
「なあ、どろろ。」
「何だよ。」
照れ隠しのように魚に豪快にかぶりつきながら、女は答える。
何だか数年ぶりの再会の翌日というより、ずーっとこうして日々を重ねてきた気がしてしまうのは自分だけだろうか?
「今後のことだが。」
魚を持つ手を止める。
「お前が、俺とともに生きてくれると言ってくれた後、俺はこれからのことを色々と考えた。」
今までは、野垂れ死にしか考えていなかったからなと、自嘲気味に軽く笑う。
そして、ひと呼吸の後、
「以前、お前に話したことがある、養い親の寿光の下で医師になろうかと思う。」
妻の顔を見つめる、彼の両眼には迷いの影はなかった。
多くの死を踏み越え、さらなる宿命を背負い込んだ自分が果たして医者になる資格があるのかわからない。
しかし、この宿命を背負った身であるからこそ、医師としてできることがあるのではないか。
一方で今までの経緯を全て話した後、養父がどのような反応を示すのかわからない。あの厳しくも暖かい養父を傷つけることになるかも…。
「大丈夫だって、アニキ。」
夫の憂い顔に向かって妻は、にっと笑う。
「俺は、ずっとアニキの傍にいるぜ。」
まるで心の声を読んでいるかのような、どろろの反応に百鬼丸は眼を丸くする。
そんな百鬼丸に、どろろはアニキの顔を見ていれば心を読む術なんてなくてもわかるよと微笑む。
ああ、そうだな。そのとおりだ。泣きたいくらいの愛しさが胸の中に満ちてくる。
なあ、琵琶法師のおっさん、俺はどうやら幸せの国ってのにたどりついたようだぜ。
どこかって?こいつとーどろろと一緒にいるなら、そこは幸せの国にさ。
澄み渡る空を仰ぎ、百鬼丸は両眼を閉じる。
どろろも、そんな夫の表情に愛しさを感じ、ともに空を仰いだ。
<*>
戦乱はまだ終わらないが、それでも懸命に生き抜いた人々がいた時代。
とある村はずれに、寿光という医師が住んでいる。
数年前、長い旅から彼の「息子」がやたら元気な妻を伴い帰ってきた。
やがて「息子」は養父と同じ医師になり、戦乱で負傷した人々のために義手や義足も数多く製作したという。
そして、彼の妻は、夫の義手作りを手伝うと同時に、周囲の村と連絡を取り合い権力に立ち向かい、当時にしては珍しく、村の自治を勝ち取るに至ったという。
<終わり>