夜更けの冷たい風がどろろの頬をさわりと撫ぜた。
焚き火がぱちぱちとはぜる音、虫の音、風が木々を揺らす音、それ以外は全くの静寂の中で、どろろは猫の様に丸くなって横たえていた身を起こした。
旅の相棒である百鬼丸は、どろろと焚き火を挟んだ向こう側で既に寝息を立てている。
長い前髪に隠された端正な顔立ちがちらちらと炎に照らされている様をどろろはぼんやりと見つめた。
寝相の悪いどろろと違い、呼吸と共に胸が微かに上下するだけで百鬼丸はその瞼さえもぴくりとも動かさない。
(まったく、これじゃ寝てんのか死んでんのかわかったもんじゃねぇな)
醍醐の城から出てもう大分経つが、未だ奪われた四十八箇所、全てを取り戻せてはいない。
それでも、ひとつひとつ失われた部分を取り戻すにつれ、百鬼丸は人間らしさを取り戻し、以前よりも二人の道行きは明るいと言える物になった。
血肉を得、人で在る事を取り戻して行くその姿をどろろは喜びながらも、一方でその胸に小さな不安をつのらせていった。
百鬼丸が魔物との戦いの中で傷を負う事が多くなったからだ。
ゆらり、と焚き火の炎が秋風になびく。
人の命とは、儚いものだと
飢えながら、孤独に押し潰されそうになりながら、ひとり必死で生きて来た中で、あっけなく命が喪われていく様など何度も見てきた。
そんな風に、父と母を喪った様に、百鬼丸もまた自分の前から消えてしまうのではないか
その可能性に気づいた時、どろろはひどく恐ろしくなった。
どろろは膝立ちになり、努めて百鬼丸を起こさぬ様に静かにその傍らに擦り寄った。
相変わらず規則正しく呼吸を繰り返している百鬼丸に起きる様子が無い事を確認すると、どろろはそっと百鬼丸の右手に触れてみた。
自分の手よりも大きくて骨ばったその手の、温かな生きている感触を確かめる。
こうして百鬼丸の血の通った部分に触れると、どろろの胸の奥に澱の様にわだかまり続けている不安が、少し和らいでいくのを感じる。
(大丈夫…こいつはそう簡単にくたばったりはしねぇ)
そう自分に言い聞かせるように心の内で呟いて、どろろは百鬼丸の右手から手を離した。
安らかな寝顔に、ふと笑みがこぼれる。
規則的に上下を繰り返すその胸を見て、思いついたように、どろろはその左胸に耳を寄せた。
ど、ど、と心臓の音が布越しからも伝わってくる。
どろろは目を閉じて、その音に聞き入った。
心地よいリズムに暫しまどろんで、夢と現と、その境目を行ったり来たりしながら、どろろはかつて母が言った言葉を思い出した。
男なら、泣くなと
お自夜はどろろにしきりにそう言っていた。
この時勢に、己を強く持たなければ生きては行けぬだろう我が子を思って、お自夜はどろろに泣く事を禁じた。
男の様に強くあらねば、親が死んだ後に残された子供――――それも女の――――がどうなるか
お自夜はそういった悲惨から我が子を守る為に、娘に女である事を捨てさせた。
苦悩に満ちた決断であったには違いない、それはどろろの女としての幸せを奪ってしまうかもしれないものだったからだ。
だからお自夜はこう付け加えもした。
いつか、お父ちゃんみてぇな本当の男に出会ったら
どうしても女になりたいと、そう思える日が来たなら
お前が涙を流していいのは、その時だけだと
幼かったどろろはその時、母の言っている意味を本当に理解していたわけではなかったが、お自夜が死んでからはどんなに辛くても、悲しくても、涙を流すことはなかった。
頑なに女である事を否定して、やがて月のものが来る様な齢になっても、その容姿が如何に本人が否定しようと女としてしか映らなくなっても
それでも、泣くことだけは許さなかった。
あの時、ばんもんで、傷付き震える百鬼丸を見るまでは。
己の為の涙ならば、いくらでも堪える事は出来たのに。
この時どろろの頬をつたったのは、紛れも無く百鬼丸の為の涙だった。
悲しいとか、愛しいとか、今まで己に禁じてきた様々な感情が大きなうねりが涙となって、どろろの視界をぼやけさせた。
その涙の意味を――――未だにどろろは掴めずにいる。
ど、ど、と変わらず規則的に百鬼丸の心音が心地よくどろろの耳朶を打つ。
ふらふらと夢と現実の間を彷徨っていた思考が途切れ始めた。
人肌の温かさも母の懐に抱かれていた頃を思い出させて、どろろはゆっくりと深い眠りへと落ちていった。