朝の澄んだ空気を、行き交う人たちの雑踏と、自動車の走行音がかき乱していく。
バスの停車場までの短い歩道には、薄桃色の花弁を枝先にまとった桜の木が町並みを彩っていました。そんな優しさと、華やかさと、儚さを併せもった花の名を両親から授かった僕も、今年で高校二年生。大人への階段を着々と上りつつあるのです。
今日は始業式。遠足を明日に控えた小学生の男のコみたいに、僕はこれから始まる一年に胸を膨らませすぎて、登校には少々早い時間に目を覚ましてしまったシダイでありまして。
「桜くんっ!」
そんな新学期特有の少し新鮮な気分をタンノウしていたとき、春の優しく暖かな空間に響いた、まさに小川のせせらぎとでも表現したくなるような、澄んだ声が僕の名前を呼びました。
「静希ちゃん、おはよう」
二列でバスを待つ列に並ぼうとしていた僕のそばに、駅から降りてきた彼女が駆けよります。
「ふぅ……どうしたの? 桜くん、今朝はずいぶん早いわね」
少し息を切らして、彼女が僕に問いかけます。桜の木をバックにした彼女の出立ちはこれ以上ないほど絵になっていて、僕も思わず胸が高鳴りそうです。
「いや……何て言うかさ、新学期って気持ちが高揚してるから、つい早起きしちゃって。静希ちゃんは朝練?」
「うん、そうなの。何も始業式の日にまで走りこみしなくてもいいのにね。日々の積み重ねが大事とかで」
そう答える静希ちゃんは、僕たちの通う高校の陸上部に所属しています。毎日の運動で培ったスレンダーな身体、お風呂が好きだと言ってはばからない彼女の肌は色白で艶やか。長いストレートの美しい黒髪はツインテールにまとめられています。
更には今年で十と七つになろうかという彼女の胸元も自己主張を始めた昨今でありますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
「そうなんだ。大変だね。でも静希ちゃんのその日々の努力がキミの美しさを保っているんだと思うよ」
もちろん最後の一節は口に出しては言いませんでしたが、僕の気持ちを頭脳明晰な彼女はきっと読み取ってくれたコトでしょう。ほら、だって僕に向かって彼女は天使のごとき微笑みを返してくれました。
これにはきっと埼玉湾よりも深い意味が込められているに違いありません。ああ、僕も愛してるよ静希ちゃん…………と、賢明な読者諸君はもう気付かれていることと思いますが、
僕、草壁桜と彼女、水上静希は深く――そう、深く愛し合っているのです。男女の交際関係には至っていませんが、如何せん愛し合っているのです。幼馴染の彼女は友達以上であり恋人未満ではありますが、が!
……愛し合っているのです。……多分ですが。
「桜くん? 何だか耳から桜色の液体が漏れ出してるケド……大丈夫?」
バスが来て動き出した列の、僕の隣にいる彼女は何やら困惑したような表情で微笑みかけてくれていますが、きっとこれにはグランドキャニオンよりも深いいm
「何、朝から思考を暴走させてんだ桜。桜汁を止めやがれ」
〈ごすぅ〉と鈍い音が響きました。それが宮本が通学鞄のカタイ部分を僕の側頭部にダイレクトヒットさせたものだと理解するのに2秒ほどのタイムラグがありました。更に新学期の朝に、
僕に凶行に及んだのが親友の宮本広志であると理解するのにたっぷりと1分半はかかったでしょうか。
「できれば永遠に理解してほしくなかったがな。少なくとも俺は」
さらりと酷いことを言う親友もいたものです。
「何をするんだ宮本。僕がせっかく新学期の朝の幸せな時間を感受していたというのに」
「その新学期の朝に幼馴染の女のコの隣で耳汁を垂れ流していたので、お前のアタマに発生したエラーを物理的に排除してやったんだがな……感謝の一つくらいあったっていいくらいだぞ」
奴は僕の脳構造を昭和クオリティの電化製品の電子回路か何かと勘違いしているのでしょうか。
「お、おはよう宮本くん。宮本くんも、朝練?」
何かから立ち直った静希ちゃんが、やや遅れて宮本に挨拶します。ああ、もったいない。
「まあな。野球部は基本的に年中無給無休で己の身体機能を酷使する練習馬鹿の集団だから」
奴にはもう少しオブラートに包んだモノの言いかたはできないのでしょうか。まあバカだから仕方ないか。
「何か言ったか?」
「めっそうもない」
体育会系の思考の人はすぐ暴力に訴えるので、僕は穏便にコトをすまします。
乗り込んだバスは、早い時間ということもあり、いつもより少し空いていました。慌ただしい空気に包まれた駅周辺から遠ざかり、町のはずれにある僕たちの高校へと、ややゆったりした速度で走って行きます。