繰り返し、波の砕ける音が聞こえる。
あの日から数日が経過していました。
僕ら二人のどちらかが消えれば、運命をともにするはずだったこの世界は、何故か未だここにあり続けていて。
まるで何事もなかったかのように、時間は穏やかに流れ続けています。
それは、まだ何か、起こるべきことが起きていない、そんなような予感を感じさせますが、もう、僕にとってはどうでもいいことです。
ざく、ざくと、砂浜の砂を靴で踏みしめながら、打ち寄せる波に目をやります。
ここはあの夏、僕が、僕たちが楽しい時間を過ごした、あの浜辺。
脳裏に甦るのは、水平線へと沈みゆく夕日、そして、彼女と交わした――口づけ。
「…………っ」
――――痛い。
胸の奥が、痛い。
それは、何もできなくて、大人に頼ることでしか、生きていくことのできなかった、あの頃感じた、痛み。
自分の無力がただひたすらに悲しくて。
あの頃から、何一つ変わっていない。……自分の愛する人の一人すら、守れない。……どうして、こうも、弱いのだろう。
3月の海は、未だ人を拒むような冷たさを感じさせます。本当に春はやってくるのでしょうか。
もしかしたら、このまま世界の終りまで、冬が続くのかもしれません。
でも、それもいいかな、と思ってしまう自分が今、ここにいました。この胸の痛みと、彼女の残滓とともに、無意味な日々を、無意味に生きていくのも、悪くない。
そもそも、どうして自分は、こんなところにいるのだろう。
「…………桜くん」
浜辺の強い風に、かき消えてしまいそうなほどの、ごく小さい、けれど凛とした声が、僕の名を呼びました。
それは僕の中にあった予感。この世界が未だあり続ける理由でした。それは、起こるべくして、未だ起こっていなかった、最後の一欠けら(ワンピース)。
「…………静希ちゃん」
果たしてそこには、『彼女』がいました。
「私が来ること、分かってた?」
『彼女』は、困ったような笑顔を僕に向けます。
「さあ、どうかな」
別に意識したわけではありませんが、僕は静希ちゃんに冷たい返事を返しました。
「桜くん、驚かないの? アメリカに戻ったはずの私が、ここにいることに」
少しの間を空けて、『彼女』は僕に問いました。
「何で、だろうね……凄く意外なことのはずなのに、何だか今は、驚くほどの余裕が、ないよ……」
気持ちが沈んでいることで、僕は逆に、リラックスして彼女に受け答えができました。
「…………ごめんね」
数秒の沈黙ののち、彼女は一言、そう呟きました。
「あんなことをするつもりはなかった――とは言わない。あれは、はっきりとした、私の意思で行ったから。後悔は、しているとも言えるし、してないとも言える。でも、その結果、桜くんを傷つけてしまったことに対して、私は謝りたいの」
静希ちゃんはうつむき、申し訳なさそうに、再度「ごめんね」と呟きます。
二人の間に、沈黙が降りました。
未だ諦観と絶望の間を彷徨う僕は、そこで初めて『彼女』を認識しました。
今、目の前に立っているのは、『僕のよく知る』静希ちゃんであることを、認識しました。
何故だか僕は『彼女』に何かかけるべき言葉を持っているような気がしました。だから、今の僕の気持ちを、
「……何でこんなに、上手くいかないんだろうね」
呟きました。
その言葉を聞いた彼女は驚いた後、、耐えきれなくなったように、瞳を潤ませ、目もとを拭います。
「何で……」
『彼女』はとめどなく溢れはじめる涙を拭いながら
「何で私の気持ちが、そんなにも、分かるのよ……」
僕は、泣き崩れる『彼女』を抱きしめました。
だって、僕はずっと、君のことばかり考えていたから。
寝ても覚めても、君のことで頭がいっぱいだったから。
君は僕の、憧れだったから。
★
私がその『力』に気付いたのは、桜くんがイリオモテ島で出会った少女の話を聞いたとき。
その少女は、あまりにも私に酷似していたから。
アメリカへの留学を決めたのは、自分には『力』があると認めざるを得なくなり始めたときだった。
それは、『想いの力』。
ありふれていて、誰でも持っている力。
だけど、私はその『力』が人の数倍強かった。
彼のことを想えば、たちまちこの世を彷徨う幽鬼、『想いの姿』を顕現させることができた。
そしてその『想いの姿』を介して、様々な別時空(パラレルワールド)があることを知った。恐ろしく、おぞましい世界もあった。平和で、幸せに満ち溢れた世界もあった。
神を裏切った堕天使。天使の少女が、処刑される世界なんてものもあった。
そして、その世界で、私は、見た。この世界が生まれる刻(とき)を。
磔にされ、涙を流し、ひたすらに彼の名を呼び続ける彼女の最後の刻(とき)。
―桜くんといっしょに、ずっと――――
呪詛にも近いその願いは、果たして、叶えられた。
彼女は生まれ変わり、彼と幸せな時を過ごした。
その刻(とき)、私はこの世界が許せなくなった。
だから忘れるために、離れた。
そして5年――
何て長い月日だったのだろう。私は忘れることができなかった。
きっと、あの空港で、彼と会ってしまったのがいけなかった。
―あのとき、ああすればよかったな、こうすればよかったな―
そんな感情が、一気に爆発した。
きっと私は、5年経っても変わらない、彼の優しさに甘えたくなったんだと思う。
桜くん…………
だから、
……好きです。
そんな貴方だから、
……大好きです。
……あなたと出会ったときから……ずっと。
……何でこんなに、上手くいかないんだろう。
★
「……じゃあね、桜くん。多分、もう……『私』とは、二度と会わないと思う」
一しきり泣いて、いつもの笑顔を取り戻した静希ちゃんは、僕にそう告げました。そして、
「桜くんは、まだやることがあるよね?」
「え……」
ふいに、彼女が僕に問います。
「だって、桜くんはまだ諦めてないじゃない」
「…………」
「桜くんは、まだドクロちゃんに言いたいことがあるんだよね?」
しばしの沈黙の後、
「……うん」
強い意志を持って、僕は頷きます。
「じゃあ、行ってあげなきゃ。きっと彼女も、桜くんを、必要としてるから」
すっかり冷えてしまった身体に、再び熱い血が通ったようでした。
「静希ちゃんこそ」
「ん?」
静希ちゃんは、満面の笑みで、僕に応じます。
僕が好きだった静希ちゃんが、そこにはいました。
「僕のことを、何でそんなに知ってるのさ……」
「さーあねっ!」
静希ちゃんは僕に背を向け、ゆっくりと去り始めます。だんだんと僕と距離の開く、僕の片思いだった女の子。
「静希ちゃん!」
僕は遠ざかる背中に、叫びました。
「きっと、また逢える! またみんなで遊ぼう!」
僕は、見えなくなりつつある彼女に、精一杯手を振りました。
「……馬鹿…………」
彼女は、とても暖かい水滴を、頬に感じました。
それが、この世界の終点。
僕だけを残して、終えました。
★
何もない空間で、
――届け。
僕の脳裏に甦るのは、彼女と初めて愛し合ったあの日。
――彼女に届け。
僕の愛した、たった一人の天使に。
――この想いよ、届け。
★
目を開ければ、そこに――――いた。
「……ドクロちゃん」
暗銀色の、綺麗な頭髪、深緑色の瞳、まるで穢れを知らない楽園の妖精のような、ふわふわの白い肌、豊かな胸、頭上の光輪。
そこには、僕の愛した彼女が、いた。
僕は溢れる涙を抑えきれず、でも、精一杯の笑顔を彼女に向けました。
突然現れた僕に驚き、そして、その姿を認識した彼女は、
「……っ……桜くんの……馬鹿ッ……こんなとこまで来てッ……!」
何も身にまとってないドクロちゃんは、まるで子供のように、泣きじゃくり、僕に抱きついてきました。
「……ドクロちゃんに……逢いたかったから……」
僕もいっしょに涙を流しながら、愛しい彼女を強く抱きしめ、頭を優しく撫でます。
「ボクも……逢いたかった……桜くん……」
瞳から涙をこぼし、嗚咽を漏らしながら、彼女が言いました。
「ドクロちゃん、いっしょに帰ろう。またいっしょに暮らそう。それから……」
僕はそこで、言葉を切ります。僕の胸に抱きつく彼女の表情に、かげりを感じたから。
「もう……駄目なの……」
苦しげに、呟く彼女。
「え……? ……ドクロ……ちゃん……?」
彼女の表情は沈んでいて。
「『役目』が終わった天使は、『パンドラの言葉』の核にならなくちゃ、駄目なの。だから、ボクは……」
見ればそこは、巨大な樹木の根が張り巡らされた、異質な空間。思わず、絶句します。
「っ……そんなッ……! ドクロちゃんは僕と……」
「好きッ!」
僕の言葉をさえぎって、彼女が叫びます。
「桜くんのことが、大好き。ボク、桜くんと、ずっといっしょにいたい。……でも、駄目なの……ボクがいなくなったら……」
ここまで来て、そんな……
「じゃあ、僕もドクロちゃんと『パンドラの言葉』に……」
「ダメッ!」
再び、彼女が僕の言葉をさえぎります。
「駄目……だよ……桜くん……」
彼女は沈痛な面持ちで、うつむきます。
僕はしばらくの沈黙の後、
「……じゃあ、約束して」
僕は強く、彼女に言い放ちます。
「いつかまた、僕と逢うって。そのときは、またいっしょに暮らすって。約束して、ドクロちゃん」
僕が言い放ち、どれくらいの時間が流れたのでしょう。やがて、ゆっくりと彼女は口を開き、
「……約束する」
彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を僕に向けて、
「約束する……ッ! 絶対に桜くんに、もう一度逢うって……約束する……ッ!」
叫びます。
「うん、約束」
僕は優しく、応える。
「うっ……うわあああああああああああん……桜くんッ……!」
今度こそ、火がついたみたいに泣き出した彼女を抱きしめ、僕は、ずっと言えなかった言葉を、耳元に囁きました。
「――――――――」
僕の愛しいドクロちゃんは、一瞬驚いたように面を上げ、
「うんっ!」
満面の笑みで、頷きました。
★
彼女が守った、いや、今もきっと、守り続けてる、いくつかの世界の一つ。
僕は、ふと空を見上げます。
澄んだ青空。今日も快晴。雲は穏やかに流れて行きます。
僕の休日の日課は、大学を意味もなくブラつき、最後にこの公園のベンチに腰掛け、パン屑をハトにやることです。若者らしくないですか?
あれから、いくつもの季節が僕の目の前を通り過ぎました。
大学を無事卒業した僕は、とある研究職につき、休日のたびに、短い間ですが、彼女と通った大学を散策します。
「……ん?」
ふいに、手の甲に風にのせられた花びらが舞いおりました。
「桜だ……」
それは薄桃色の花弁。桜の花びらでした。
「あ……」
まるで初めて気付いたように、驚いてしまいます。
「春……なのか……」
その美しい光景に思わず声を上げます。
公園は桃色に染め上げられていました。
ゆるやかに吹く春風が、公園に咲き乱れる桜の木を揺らし、視界を桃色に染め上げるほどの花びらを舞わせます。
見渡せば、僕と同じようにベンチに腰掛け、花見を楽しんでいる老夫婦、同じく桜の木を見上げる仲睦まじい若い男女、舞い散る桜の花弁を、手に納めようと無邪気に飛び跳ねる幼い子供たち。
ああ――何て無意味で、悲しくて、でも――美しい。
ふいに水滴が頬を伝ったのと、僕の影に、少女の影が重なったのは、同時。
そして、そのとき――
―桜くん―
愛しい声が、聞こえました。
僕の、愛しい――――
これは、僕たちが再び出会う、春の物語。
―fin―