『鉄拳執事坪内さん』
「遅くなっちゃったね」
「うん」
丹羽大助は、かたわらを歩く原田梨紅に声を掛けた。
社会的にも、そしてふたりの間にもいろいろあった年も明け、冬の寒さもまだまだ厳しい日曜日、ふた
りして近郊の美術館へ電車で出かけたその帰り路。
なんとなく別れ難く、なんやかやと時間をつぶして気がつけば黄昏時は過ぎ去ってしまい、しらしらと
冴える冬の銀月がのぼり始めた空の下、大助は駅から海岸沿いの原田邸まで彼女を送っていくところだ
った。
要するにデート帰りである。
つきあい始めてしばらく経つが、このふたりだけに、デートといっても今日みたいに美術館、あるいは
映画館に動物園に遊園地だのと、周りの梨紗や冴原あたりがやきもきするほど微笑ましいものだった。
『手ぐらいつないだら?』
梨紗などそう姉にはっぱをかけるのだけれど、
『そ、そんなの恥ずかしいじゃない』
のひと言だ。
無論、奥手っぷりではひけをとらない大助から一次的接触の試みなどあろうはずもなく
(大助も、家では母やトワちゃんに、ひやかしとからかい半分にあおられていたりする)。
『そうよ、まだ中学生なんだから』
手をつないで―――その先を考え、なんとなくどきどきしながら自分を納得させた。
隣の大助につかずはなれず。ちらりと横目に盗み見る。
『丹羽くん、背、伸びたなあ』
いっしょのクラスになった頃は、自分や梨紗よりほんのちょっと低いくらいだったのに、今では少し見
上げ気味だった。
よくクラスのみんなからは『かわいい』と言われて、学園祭の演劇では女子は口惜しがり男子は道を踏
み外しかけるほど女装がはまりまくっていた顔立ちも、どこかしら大人びてきたようだ。
「なに?」
気付いて大助が声を掛ける。
「な―――なんでもないなんでもない」
慌てて手をぱたぱたさせながら歩みを止め、ちょっと赤面。
そんな梨紅のようすに微笑むと、
「ほら、もうすぐ着くよ」
「そ、そうね」
ちょっとどきどきしながら、見えてきた自宅へと、再び大助と肩を並べて歩き出した。
原田邸門前。
「着いたね」
「―――うん」
「じゃあ、また」
明日、学校で。
そう告げかけた大助の上着の袖を、うつむいた梨紅が、ちょいっ、とつまんでいた。
どこかしら寂しそうに、うわめづかいでこちらを見つめるその姿に、心臓が、以前なら恋愛遺伝子が反
応して限界突破してしまいそうな勢いで鼓動をきざむ。
惹きよせられるように顔を近づけると、梨紅もおもてをあげてそっと目を閉じ、互いの体温を感じられ
るほどに―――。
「ぅおぉぉぉじょぉぉぉすぁぁぁむぅぁぁあっ!!」
轟、と、原田邸より不意を突いて迫りくる、なにか。
「へ?」
大助の腰より低きを疾る、黒き颶風。
「疾ぃっ!」
地より逆昇る稲妻のごとく天を貫く鋼の拳。
「っ!?」
描いた軌跡が空間をえぐりとるようなアッパーカットは避けるも流すもならず、それでも寸前で後ろに
跳んで勢いを殺しながら両手を組んで受け止められたのは、幼い頃から丹羽家伝来のさまざまなテクニ
ックを否応なく叩き込まれてきた大助ならではだった。
「わわわっ!」
大助の身体が弾かれたように大きく後退し、勢いを殺しきれずにごろごろと2転、3転、原田邸のコン
クリートの塀を背に、ようやく片膝ついて立て直す。防御に使った腕は、骨にこそ影響はなさそうだが、
びりびりと痺れて感覚が戻らない。
まるで戦槌を叩き込まれたようだった。
まともに受けていれば、小柄な大助の身体は頭より高く打ち上げられていたに違いない。
比類なき剛拳、その使い手は―――「くぅおぉずぅぉぉぉお」
深まる夕闇に、ごごごご、と太文字の擬音を背負って立ちはだかる紳士。
「つ、坪内さんっ!?」
呆然となりゆきを見守っていた梨紅が、その姿を認めて叫んだ。
シルバーグレイのオールバックスタイルに同色の美髯、仕立てのよい黒のタキシードにいち分の隙もな
く身を包んだその姿。
まごうことなく、原田家執事、坪内さんその人であった。
だがそこに、大助も知っている日頃の温厚な紳士の面影は微塵もなく。
「きぃさぁむぅああ、梨紅お嬢様に、そのような不埒な真似を……」
紅蓮の怒りに燃える鬼神、そんな感じのモノがそこにいた。
「ふ、ふらち?」
「ちょ―――なにいってるのよ坪内さんっ!」
きゃーっと、真っ赤になって梨紅が叫ぶ。
「よくも……よくもわ・た・し・のかわいいお嬢様をキズモノに……」
「えっ、えっ!?」
「だれが“わたし”のっ!? だれがキズモノよっ!?」
「ゆ、る、さ、ぬ」
「はいっ!?」
「話を聞けーっ!!」
事態と展開と推移が呑み込めず、片膝立ちで塀にもたれ掛かって唖然としていた大助めがけ、くい、と
ずれた鼻眼鏡を直してぢゃきん、と拳を固めるや、執事坪内さん、再び黒い閃光と化した。
「ひいっ!?」
「噴っ!」
みごとな反射で身を投げ出した大助の頭があった位置を、真っ直ぐほとばしった右拳がはしり抜け、破
城槌さながらにコンクリート塀を穿ち砕いた。馬に跨るように開いた両脚、踏み込んだ右足元は、アス
ファルトの地面に放射状のひび割れを刻み込んでいた。
人間じゃない。
大助、なみだ目。
「1度ならず、2度まで我が拳をかわすとは―――軟弱な小僧かと思えば、なかなか」
純粋無雑な殺気の波動を言葉に変え、口の端を釣り上げて凶猛に笑いかける。
「坪内さんてば―――こらあっ、つぼうちーっ!」
梨紅の叫びはもはや届かず。
地面にしりもちをついたままの大助めがけて、坪内の右脚が昇り始めた満月を背に頭上高く、踵落とし
のかたちに振り上げられていた。
いつ足が上がったのか、知覚すらできなかった。
身も蓋もなく横に転がる。
脇をかすめ、ちりりとこげくさい擦過痕を空に残しつつ振り下ろされた剛斧の一撃。勢い止まらず踵が
アスファルトを砕いてめりこんだ。
「ひいいいっ!?」
ころされる、容赦斟酌問答無用全身全霊かけてころされる。
あわわわ、と、体裁気にせず全力で転がって逃げる離れる遠ざか―――れない。
神速の踏み込みによって大助と坪内さんの間合いは広がらず、中腰の顔面めがけて硬い革靴のつま先が
迫る。
半端ではなく鋭いその力線に逆らわず、両手で組み受けて勢いを利用して、流れはそのままに跳躍、一
足飛びに彼の身長をはるかに上回る塀の上に降り立っていた。
幼い頃から積み重ね、怪盗ダークとしての因果から解き放たれてなお、習慣的に日常繰り返されている
鍛錬のたまものである。もう記憶すら定かではない幼き日、梨紅のぬいぐるみを取り返した際にも見せ
た身軽さそのまま、いや、蹴り足のから借力しつつも助走すらなかった今の跳躍は確実にそれ以上だ。
さすがに追ってはこれないよね。
ひと安心、と下方、地面に目をやった大助は硬直した。
いない。
老執事の姿がどこにもない。
ただ、梨紅ひとり上を、こちらを見上げて目を見開き、口をぱくぱくさせているだけだ。
ダークと自分、そして丹羽家の因縁を折をみてそれとなく彼女には話してきた。その際、自分もこうし
た身体能力を持っているんだと説明して見せもしたので、改めてこんなに驚くことでもないはず。
まさか。
悪寒が走る。
月光を遮り頭上に差し掛かる影を感じるまでもなく、またしても、磨きぬかれた大助の生存本能が肉体
を衝き動かした。
重力のまま、塀の後ろ側、原田邸の庭に背中からまろび落ちる。
「ぢぃええりゃああああああ!」
塀が、割れた。
塀に立つ大助の頭より高く跳躍、いや飛翔した坪内さんの手刀は、自由落下に任せて塀を真っ向唐竹に
断ち割ってしまったのだ。反対側にかろうじて受け身をとって落っこちた大助からは、分厚く硬いはず
のコンクリート塀を、まるで豆腐のように根元まで分断した指先だけが悪夢のようにのぞいていた。
ずず、とその指がひっこめられる。
いくらなんでもむちゃくちゃだ。
そんな心の叫びをあざ笑うかのごとく。
「破ぁっ!!」
塀が爆発した。
そうとしかいいようのない、粉砕。
もうもうと立ち込める粉塵の彼方では、両脚を開いて腰を落とし、右手を頭上、左手を腹前に、すなわ
ち両手で太極を為して背を張り出した坪内さんの威容。
背中で体当たりして、塀を吹き飛ばした、そういうことだ。
砕いたコンクリート片を踏みしめ、ずい、と拳鬼が庭先に押し入ってきた。
「あは、あははははは」
芝生に腰を落として、どうにかしてこの怪物から一寸でも離れようといざりながら、乾いた笑いを大助
は漏らした。
「ちょろちょろと小賢しい」
生あるものを凍てつかせるような眼鏡ごしの凶眼が、へたりこむ大助を捉えた。
「だが、文化改革、略して“文革”を生き抜いた我が拳、伊達ではない」
坪内さん、ノリノリ。ちうか、微妙に障りがあるから“文革”って略さないほうが。
「もはや、逃がさぬ」
ぎらぎらと隠しようもなく放射され、大助の全身をぎちぎちと押し包んでいた殺意が、ふっと消えた。
構えもなくすらすらと、さながら無人の野を進むかのように歩み始める。
重心を据え、中心軸をぶらすことなく進みゆく、動きながらも五体を天地をまっすぐに貫く柱と為す歩
法は、勢いの乗った突進以上の戦慄を大助にもたらした。
打ち込むことはもちろん、避けることはおろか逃げることすら許されない、完璧なる神技の歩法。
追い込まれた鼠どころか、巣からこぼれ落ちた雛鳥のごとく、ただただ恐怖にすくむ他ない。ダークと
共にクラッド相手の最終決戦に臨んだ時でも、これほどの危機感は感じなかった。
殺意は感じず、ただ絶望をともなう無力感がひしひしと高まる。
死―――?
楽しかった記憶が脳裏を走馬灯のようにめぐりだす。
クリスマス・イヴに梨紅さんと。
学園祭の後、誰もいない教室で梨紅さんと。
臨海学校の夜、海岸で梨紅さんと。これは寸止めだったけど。
このかつてない緊迫した状況下、恐怖のあまり一線を突き抜けた夢想に知らず、にへら、と表情が弛ん
でしまった。
ぴき。
大助の表情になにを察したか。老執事の顔に、怒りを超越した修羅の相が浮かぶ。
「滅殺」
「ご、ごめんなさぁぁぁいっ!」
「丹羽くんになにすんのよおおおぉぉぉっ!!」
ぱこーん。
快音一響。
梨紅が、手にしたラクロスのスティック先端部分で、坪内さんの後頭部、それも延髄をピンポイントで
殴打していたのだ。
鋼鉄の拳鬼も、背後から不意を突かれてはひとたまりもなく、糸の切れた傀儡人形のごとく地面にくず
れていった。
「丹羽くん、だいじょうぶ!?」
梨紅がかけよってへたりこんだ大助に手を貸して引き起こす。
「う……うん」
まだぼんやりと喪心した様子で、どこからスティックを出したんだろう、などとぼんやり考えながら立
ち上がった。
「ごめんね。坪内さん、若い頃ストリートファイトとか地下格闘なんかでならしてたみたいで、今もた
まーに血が騒ぐみたいなの」
ストリートファイト? 地下格闘?
「そ、そうなんだ……」
なにをどうつっこんだものやら。
「もおっ、坪内さんってば、若くないんだからほどほどにしないと」
そう言って、タキシードの襟首をひっつかみ、うんしょと身体を引きずり始めた。
重そうだったけど、いかに日頃梨紅を大事にしている大助とはいえ、恐怖の権化たるその物体の運搬を
ぼくも手伝うよとは、とても言えない。
「よいしょっ……じゃあ丹羽くん、また明日、学校でねー」
「じゃ、じゃあね……」
呆然と、ずるずると坪内さんをひっぱりながら、ぶんぶんと元気よく手を振るその姿を見送る。
梨紅さんって―――。
冴えわたる月光の下、少しだけ彼女が遠く見えた、冬の夜。
さて、それ以来。
「梨紅さん……」
「丹羽くん……」
ふたりの世界。
少し上向いて瞼を伏せる梨紅に顔をよせ―――。
月光を背に仁王立つ鉄拳執事の姿が。
『お嬢様に手を出すモノには、死』
「わあごめんなさいごめんなさい」
「どうしたの?」
「え? ……あはは、なんでもない、なんでもない」
フラッシュバックに悩まされる大助だったり。
――― 了 ―――