『格闘教師加世田先生』  
 
「あ〜あ、いやだなあ、家庭科」  
 冬休みも終わって始まった3学期、原田梨紗は相変わらずそんなことを呟いていた。  
 今日の家庭科は調理実習。去年あたりから、姉の梨紅に就いて手料理を練習してみていたりはするものの、一朝一夕に苦手を克服できるものでもない。  
「加世田先生も相変わらずだしね」  
 隣を歩く梨紅は余裕ありまくりだ。  
「もおっ、ひとごとだと思って」  
「あはは。あきらめてほら、いこ」  
「むぅ〜」  
 顔をふくらます梨紗をほっぽってさっさと歩き出す梨紅を追いかけ、憂うつな気分を募らせながら家庭科教室に向かっていった。  
 
 
 で、放課後。  
「やっぱりこうなるのよね」  
 はぁ、と梨紗がため息をもらす。  
『今日の居残りはあっ、丹羽! それから原田――もちろん妹の方!』  
 家庭科教師加世田先生によって、いつぞやのふたりがまたも容赦なく居残りを命じられたのだった。  
 本日の調理メニューはハンバーグ。  
 梨紗は手でこねるミンチの感触が気持ち悪くて思わず床に取り落とし、大助の方は、今回も隠れてついて来ていたウィズが飛び出し、ハンバーグを奪い取って走り回ったおかげで周囲を混乱に陥れてこの始末。  
『ふたりは放課後補習だあっ! 校舎裏までくるように!』  
 そんな訳で、しぶしぶながら言われた場所へ向かっているところだった。  
 なお、前回梨紅を煽って試みた入れ替わり作戦だが、今回はあっさり、  
『きっちり自分でやりなさいよ』  
と、インターセプトされてしまっている。  
「でも、なんで家庭科室じゃなくて校舎裏なんだろうね?」  
 並び歩いていた大助が、梨紗も浮かべていた疑問を口にした。  
「そうよね。校舎裏ってたしか……」  
 使われていない資材小屋がぽつんと立っているだけのはず。  
「そこで料理の特訓って」  
 なんとなく、いや、かなり鮮明に嫌な予感を覚えるふたり。  
 たどりついた人気のない校舎裏、資材小屋の前には加世田先生が立っていた。  
「よくきたな、丹羽、原田!」  
 いつも通り、元気はつらつ大きな声。だが、そのナリは。  
「せ、先生?」  
「その格好は……?」  
 大助と梨紗の目は、そろって点。  
「格好がどぉしたあっ!」  
「いや、だって」  
 
 ぶっとい両腕を組んで仁王立つ加世田先生のその姿。  
 今しがた山ごもりから帰ってきましたとでもいわんばかりの、使い込まれた白い胴着。  
 両袖はいかにもといった風情で根元からちぎれ、この寒空に丸太のような二の腕がのぞいていた。おまけに頭には白いハチマキ、腰にはフリルとかわいい熊さんアップリケのついた真っ赤なエプロン。  
「ふむ、そういえば先生のこの格好をお前達に見せるのは初めてだったか」  
 にやりと笑い、とても家庭科の教師には見えないごっつい掌を顎にやると、  
「これは私の正装だあっ!!」  
声を張り上げて、むぅんと胸をそらした。なんだかものすごそうなオーラが噴出していたりする。  
「ちなみにエプロンは妻の手縫いで、こっちの熊さんは娘のデザイン」  
「は、はあ……」  
 そんなこといわれてもなあ。  
 加世田先生、萎えるふたりにもおかまいなく、  
「さあ、特訓をはじめるぞっ!」  
 特訓? 補習じゃなく?  
 予感ゲージがマイナス方向に限界を突破し始めているふたりを、強引に資材小屋へ招き入れたのだった。  
 
 小屋の中は薄暗い。  
『なにかいる』  
 日常的な訓練で研ぎ澄まされた大助の感覚に触れてくるものがあった。  
 大きな、これは、生物の気配。漂ってくるのは、哺乳類の獣臭。呼吸音。  
 夜目の利く大助の視界は、ほどなくその実体をとらえた。  
 
もー。  
 
「……牛?」  
「え、なに? ウシなの?」  
「そう、牛さんだ。名前はキャサリン」  
「へえ、牝牛なんですね――っていうかなぜ!?」  
「なにを言ってるんだ丹羽。ハンバーグに肉は不可欠だろう」  
 ほがらかに言い放つ加世田先生。  
 大助は瞬間的に凍りついた。  
「わざわざ取り寄せた純国産和牛、それも未経産の上物だぞ」  
 ごくり。  
 上機嫌な先生の言葉にある不吉な予想を掻き立てられつつ、乾き貼りつく喉を生唾で潤すと、おそるおそる大助は尋ねた。  
「この牛、その、どうするんですか?」  
「食う」  
「ああ、やっぱり」「ええええっ!?」  
 胸を張る加世田先生に、聞かなきゃよかった、と頭を抱える大助と、驚きの声をあげる梨紗。  
「なにを驚いているんだ、原田」  
「だって、だって……」  
「いいかあ、原田。生きていくということは、なにかの命を奪いつづけていくということだ。  
だからこそ、先生は料理を通じてお前達に生命の大切さを学んで欲しいと思ってだな」  
 先生、その考えは立派ながら、やり方にたいそう問題があるかと。  
 目の前にたたずむ、立ち杭に縄でつながれた黒毛の牛、名はキャサリン。  
 哀しそうな瞳で見ているよ。  
「なに、私はいつも素手でやっているんだが、ふたりは初心者だろうから、特別にこの屠殺用ハンマーの使用を許可しよう」  
「いや許可されても――素手っ!?」  
「なに、山ごもりしていたころは熊や猪や野犬を捕食していたものだ」  
「山ごもり……捕食……」  
 一介の家庭科教師にあるまじき体格だとは思っていたが。  
 
「いいか、ハンマーのここに突起があるだろう。これで額の薄いところをこう」  
「いや説明されても」  
「なんだ丹羽、ひょっとして素手の方がいいのか?」  
「じゃなくて」  
「いかん、いかんぞお。自分が生命を奪って生き長らえているという事実から目をそむけた時、人間は他者に対して残酷になってしまうのだ。いただきます、という言葉には、大切な他の命をいただいてこそ、私達は生きていけます有り難うという意味があるんだぞっ!」  
 加世田先生、熱弁。  
「その言葉を噛みしめてだな」  
 びしぃっ、と大助を指差す。  
「殺れ」  
「やりません!」  
「先生哀しいぞ、丹羽っ!」  
 くわっと漢哭き。  
「どうしてもというなら」  
 ぎん、と双眸の奥に焔がともった。  
「先生を倒してみろっ!」  
「倒しません!!」  
 ぬぅんと立ちはだかる加世田先生と、ちょっと前にも味わったような身の危険をおぼえて冷や汗を流す大助との間に、すいと割ってはいる影。  
「丹羽くん、下がってて」  
「は、原田さん!?」  
「加世田先生、わたしが相手よ!」  
 そういって、先生を見据えながらしゅしゅっと構えをとったりしてみせた。  
 筋骨隆々、どう割り引いてもヘビーウェイトの加世田先生と。  
 14歳という年齢および性別相応、華奢で筋力とは無縁そうな体格の梨紗。  
「だめだよそんなの!」  
 慌てて大助は梨紗をかばって前に出た。  
「よぉし、丹羽が相手だな」  
 丸太のような右腕をぐるんぐるん回しながら加世田先生がいった。  
「だからやりませんって!」  
「先生うれしいぞお!」  
 
 ああまた人の話を聞かない展開なんだそうなんだ。  
 もはやあきらめモードの大助ではあったが、覚悟を決めると間合いをとって半歩後退、正面から向き合った。  
 体格的にはもちろん梨紗よりしっかりしているとはいえ、本来同級生男子の中でも小柄な大助だ。筋肉は太くないながら軽捷性と柔軟性に富んでいるとはいえ、マッチョダンディ加世田先生との体格差では、焼け石に水といったところだろう。  
 体格差、すなわち。  
 ウェイトが違う。  
 リーチが違う。  
 筋量が違う。  
 そしてこれらは"徒手で""正面から"渡り合うという条件下において、決定的ではないにせよ極めて大きなアドバンテージとなる。  
「それらしい勝手な解説で対戦ムードを作って盛り上げないでほしいなあ……」  
 あきらめムードを漂わせながらも、地の文に突っ込む大助だった。  
 その頭上に、室内の暗がりよりなお黒く差し掛かる巨大な影、そして梨紗の警告。  
「丹羽くん!」  
「え……っ!」  
 見上げた視線の先には、身軽に宙を舞う、余裕で100キロを超えていると思われる巨体。ごろりとし太いその右脚が、大鉈のように落ち掛かってきていたのだ。  
 視覚から得た情報を認識する前に、身体は横っ飛びに転がっていた。このあたり、さすがの危機対処能力である。  
 大助をかすめた巨躯は、鈍い地響きとともに地面に落下し、もうもうと土ぼこりを立てた。  
 跳躍から地面と並行にした上半身を軸に回転、放り出された円を描く片脚に全体重を乗せてぶつける。空手では胴回し回転蹴りなどと称される技だが、余裕で100キロを超えていそうな超重量の筋肉塊が回転しながら飛んでくるとは、完全に予想外だった。  
「おー、すばやいなあ、丹羽」  
 心底感心した口調でほめながら、むくりと立ち上がる加世田先生。生徒の出来を称える教師のそれだが、大技の餌食になりかけた大助は応えるどころではない。  
「よぉし、次いくぞー」  
 気さくに声を掛けると、大きく踏み込んで無造作なオーバーハンドの左打ち下ろしから、反動を利して伸び上がりつつ天を突く右揚げ突きを仕掛けてきた。  
 
 重く鋭いが、大助にとって見切れない速さではない。蹴り出しに拠らない重心移動を用いた滑らかな足さばきで身軽にそれぞれをかわすと、体を沈めつつ一気にふところに潜り込んだ。  
 リーチの差が大きいなら、一瞬の隙を逃さず接近戦に持ち込むほかない。『人を傷つけるのは嫌だけど』  
 とにかく、ここは暴走気味の加世田先生を止めないことにはおさまらない。  
 自らを護るために学んできた体術を意識野に展開、現在の状況とあえて課した制約に応じて肉体が稼動し、右拳中指の第2関節を突出させて軽く握った。  
 空いた右肋間の急所を点撃、そこから切り崩す。  
 その選択に従い打突を繰り出そうとした大助の顔前に、加世田先生の顔があった。  
 大きく口を開き、並び良いまっしろなエナメル質の歯をむきだしにして。  
 かしぃん。  
 急制動を掛けた鼻先で、打ち合わされた上下の歯が鳴った。  
「う……うわっ!」  
 驚きは、反射的に大きく跳びすざった後にやってきた。  
「噛みつき!?」  
「うむ、噛みつきだ。なに、生き物にとってごく普遍的な行動だぞ、そう驚かんでもいいだろう」  
 真顔で加世田先生は告げると、発達した首周りの筋肉をみっしりと浮き立たせながら、かし、かし、と歯を噛み合わせてみせた。整然と並ぶまっしろなその歯列、なかでも発達した犬歯は獰猛な捕食獣めいている。  
「"武食同源"を唱えるわが加世田家に代々伝わりし格闘料理術では、基本として扱われる技だぞ。毎日しっかり硬いものを噛み砕いて鍛えるんだ。コルクとかな」  
 加世田家ではそんなもの伝えていたのか。  
「ただ今弟子の募集中なんだが、どうだ丹羽?」  
「結構です」  
「なら、先生に負けたら弟子入りということで」  
「うわ、横暴」  
 そう口にしたのは梨紗だった。  
 加世田先生の背後で。  
「む!?」  
「えい」  
 そろえた梨紗の両掌が加世田先生の幅広い背に触れるや、気合――とも呼べない無邪気な掛け声ひとつ。  
 加世田先生の巨体が白目を剥いて声もなく、前のめりに倒れていった。  
 
 やっぱりこんなオチなんだ、でも今回はわりとあっさり終わってよかったなあ、などと、どこか現実味を喪失したままぼんやり思考をめぐらせる大助の傍に、梨紗が歩み寄る。  
「だいじょうぶ、丹羽くん?」  
「ありがとう原田さん、助かったよ……だけど今のは?」  
「うん、坪内さんにね」  
「ツ、ツボウチサン!?」  
 その名前は、大助にとって恐怖を意味する。  
「そ。美容と健康、それから護身のために太極拳とか習ってるの、梨紅といっしょに」  
 ひきつる大助を前に、にこやかに話す梨紗。  
「そう、なんだ……」  
 絶対その目的では教えていないよ、あの人。ていうか梨紅さんも!?  
 青ざめた表情を浮かべ、胸の奥にそんな思いを呑みこむ大助の傍で梨紗は、そーあんって技でしんとーけーがねー、とか続けていた。  
 
 
さてさてさて。  
「この牛、どうしよう」  
今しがたの騒動にも、われ関せずとばかりに泰然と構えている牝牛のキャサリンに目をやって、大助は呟いた。あ、それと加世田先生も。  
「うん……」  
あいまいにうなずくと梨紗は近寄り、そっと大きな頭を撫でた。キャサリンはたいした反応こそ見せはしないものの、黒い目を細めてされるがまま受けいれている。  
「加世田先生の言ってたことは、間違ってなんかいないと思う」  
誰にともなく、といった風に口を開いた。  
「うん」  
大助もひとつ、うなずく。  
「でも、やっぱり……」  
梨紗は少し、言葉を切った。  
「できるなら助けてあげたいっていうのは、間違ってるのかな」  
「間違ってないと、思うよ」  
いろいろな事情と状況はあるし、どれだけ言葉を飾ったところで他の生命を糧にせざるをえない。それでも、命をできるだけ大切にしたいと望み、理不尽な簒奪から守ろうとする想いは、間違いであって欲しくはなかった。  
と、もっともらしくしみじみしてみるものの。  
今回はどう考えても先生やりすぎ。  
ちょっと苦笑しつつも、穏やかにキャサリンの頭を撫で続けている梨紗、そんな光景をなごんだ心地で眺めていた大助の背を、ひやりと氷柱が挿し込まれたような悪寒が疾った。  
『!?』  
背後で、徐々に膨れ上がる圧迫感。  
梨紗も手を止めて目を見開き、こちら、いや、その更に後方を見つめていた。  
『まさか』  
冷や汗が額を伝う。  
おそるおそる振り返ったそこに、ゆらりと悪夢が具現していた。  
加世田先生、再起動。  
 
 
 ぼっかーん。  
そんな漫画の擬音じみた轟音けたたましく、資材小屋の壁面が内側から吹き飛び、転がり出る影ひとつ。  
 東野第2中学校家庭科教師、加世田先生の巨躯だった。  
 わずかに遅れ、正面の扉を勢いよく開けて走り出てきた、共に小柄なふたつの人影。必死の形相を浮かべた大助と、彼に手を引かれた梨紗だ。  
 高速のタックルを仕掛けてきた加世田先生をかわせたのは、僥倖以外のなにものでもない。勢い止まらず小屋の壁をぶち抜いていった先生を尻目に、大助は梨紗を連れて逃走に転じたのだった。  
「丹羽くん、ちょっ――待って〜」  
「原田さん、おそっ」  
「だ、だって」  
 あんな一撃を放てても、基礎体力面は向上してないらしい。  
 ちらりと背後をうかがえば、こちらを認識、捕捉した加世田先生が、今しも追跡に移ろうとしているところだった。双眸からなにやら危険な光芒を放っている。すなわち正気を失って暴走している状態、その2次元的表現だ――なんて冷静に判じている場合ではなく。 
 仕方がない。  
「ごめんね」  
 さっと梨紗を横抱き、いわゆるお姫様だっこで抱えあげた。  
『ああ、こんなところ梨紅さんに見られたらなんて思われるか』  
 日頃のんびりした様子からは信じられない速度で疾走しながらそんなことを考えるあたり、結構余裕がある。  
「なにやってんの……?」  
「そう、なにやってんのって梨紅さんに――わあっ!?」  
 目の前に、スティックを握ったラクロススタイルの梨紅が立っていた。気がつけば、校舎裏から一気に部活動まっさかりの校庭脇まで走りついていたのだ。  
 
 梨紗を抱き上げた大助を前に呆然と立ち尽くす梨紅。  
「り……梨紅さ……」  
「梨紅……ちょっと……誤解……」  
 ぱっと梨紗を地面に下ろし、ふたりでわたわたと弁解にかかる。  
「……もういい」  
 梨紅がうつむいてそれだけ呟いた。なんだかその背に"ゴゴゴゴ"と書き文字が。  
「あたし本当は不安だった……」  
「はい?」  
「ホントは……」  
 顔をあげて見つめる瞳には、光る涙が湛えられていた。  
「ホントは丹羽くんは、あたしが梨紗と『同じ』だから好きになったんじゃないかって!!」  
「いや、だからね――」  
 いきなりそんなシーンを再現されても。  
「丹羽大助の」  
 夕日をバックに、ラクロススティックが大きく振りかぶられた。  
「うわきものーッ!!」  
「ひいっ!?」  
 唸りをあげる横殴りの凶器を、間一髪しゃがんで避けたその瞬間。  
 ごっ。  
 大助の頭があった位置で重い殴打音が鳴った。  
 水面を跳ねとぶ平たい小石のように、激しくきりもみしつつグランドを吹き飛び転がっていく加世田先生。  
「あれ?」  
 大助ではない別の何かを殴りとばしたと気づき、梨紅はけげんな表情を浮かべた。  
 額に手をかざして梨紗もひと言。  
「ないすしょっと」  
「……アレ、ひょっとして加世田先生?」  
「うん」  
「うんって……うわっ、あたしとんでもないことをっ!」  
 というか、加世田先生であの有様、もし自分が喰らっていたらとんでもないでは済まなかった気がするんですけど。心臓が早鐘のような鼓動を刻む中、ふるえつつそう思わずにはいられない大助だった。  
 
「あー、だいじょうぶそうよ、ほら」  
 梨紗が指差した先では、前のめりに地面に伏していた加世田先生が、強化骨格と人工皮膚で出来た人造人間、あるいはホラー映画の不死身系殺人鬼さながらにゆっくり起き上がりかけているところだった。  
「ああ、よかったあ」  
「よくない!」  
 我に返った大助は勢いよく立ち上がって叫んだ。  
「早く逃げないと!」  
「なんで?」  
 きょとんとした表情を浮かべる梨紅。  
「あのね」  
 説明終了。  
「そうなんだ」  
「だから、原田さん抱えてたのもしょうがなくて――いや、そんなことより!」  
 見れば加世田先生、早くもダメージから回復したらしく、完全に立ち上がってこちらを視認していた。  
「待って、丹羽くん」  
 せかす大助を梨紗が止めた。  
「ここで先生を止めないと」  
「はい?」  
 なんだか生真面目な顔でそんなことを言う。  
「わたし達が逃げたら、被害は学校中に広がるでしょ」  
 確かに、校庭はラクロス部をはじめさまざまな部が活動している。ここに暴走加世田先生を解き放ってしまえばどれほどの惨劇を呼ぶものやら。  
「でもどうやって……」  
 あのタフネス無尽蔵の怪物をどうにかできる手段も自信も大助にはない。  
「だーいじょうぶ、まーかせて」  
 妙に自信たっぷりな梨紗の笑顔に、大助はなぜか悪寒を覚えた。  
 
「梨紅、こうなったらアレを呼ぶわよ」  
「アレって……まさか、アレ?」  
「そう、アレ」  
「ええええ〜」  
 梨紅はむちゃくちゃ嫌そうだ。  
「アレ以外にどうやってこの状況を収められるっていうの?」  
「いやでも、アレは……なんだかもっとひどいことになりそうで」  
「今はそんなこと言ってられないわ。毒には毒、無敵の盾には最強の矛!」  
 毒? 盾と矛?  
「う……わかった、呼べばいいんでしょ呼べば」  
 真っ赤な顔で恥ずかしそうに、不承々々右手を天に伸ばした。  
 その掌に、傍らに立った梨紗が左手を伸ばして合わせる。  
 きっ、と空を見上げ、ふたり同時大きくひと声。  
「「坪内さーん、カァームヒアッ!」」  
 その名前。銃声を耳にした小動物のごとく、大助はびくっと身をすくめた。忘れたくとも忘れられない、深層心理に墨痕淋漓と極太明朝体で刻み込まれた恐怖の言霊。  
 夕闇の迫り始めた空の一点、きらりと光芒が生じ、徐々にこちらへ近づき遂には――。  
 衝撃音高く原田姉妹の前に落下した。  
 地面に小型のクレーターが生じ、その中心、もうもうと立ち込める土ぼこりをまとい立つ影。  
「鉄の拳に怒りをのせて、護れふたりのお嬢様。  
執事坪内、お呼びに応えてただ今見参」  
 恭しくひざまずいた鉄拳執事、その人であった。  
 
 
「なんなりとお申しつけください、お嬢様方」  
 いつものごとく漆黒のタキシードに身を包んだ坪内さんは、粛然かつ泰然と口を切った。  
「あのね」「承知しました」  
 梨紗の言葉をそれだけ聴くや立ち上がり、傍らで腰を抜かして言葉もなく震える大助を眼鏡越しにぎろりと見据えた。  
「成敗」  
「ごめんなさいごめんなさい!」  
「それちがうから」  
 すこーん。  
 つかつかと大助に迫る坪内さんの側頭部を、スティックで引っぱたいて梨紅が止めた。  
「見事な打ち込みでございます、梨紅お嬢様。して、この小僧めがまたふらちな真似を働いた訳ではないのですか?」  
「じゃなくて」  
 その時、彼らに凄絶な鬼気が吹きつけた。  
 坪内さんが目を細め、ゆっくりとその発生源を振り向く。  
「ほう……人間相手にこれほどの圧力を受けるのはひさびさ」  
 抑えきれない悦びを言外ににじませた坪内さん、表情こそ常と変わらぬものながら、なにかこわいものが皮下に張り詰めているようだ。  
 加世田先生も本能のうちに容易ならざる相手を迎えたと悟ったか、じっと身構える様には高駆動のモンスターマシンが低くエンジンをふかしているかのような不気味な静けさがあった。  
 龍虎相争。  
 夕暮れの気配立ち込める中、人にして人の果てを踏み越えんとするものふたり、今ここに対峙した。  
 
 左足を前に半身となり、体重は肩幅に開いた両脚に均等に乗せる。顔は首を据えて相手に向け、顎を引きその下に右拳を据えつつ、左腕は肘を湾曲90度に保って脇につけた。坪内さんのとった構えは、意外にも近代ボクシングにおいてデトロイトスタイルと称されるそれに近い。  
 対する加世田先生は構えらしいポーズもなく、ただ正面を向いて腰を落とし猫背気味に上半身は屈め、両腕をだらりと垂らしたままだ。  
 曲げた左腕――さながら死神の鎌をひゅん、ひゅんと左右に揺らしつつ、軽いが浮ついてはいないステップを踏んで、坪内さんが間をつめる。  
 左拳がほとばしった。  
 コンパクトでスナッピーなジャブを一発、そこから放った左拳をもどしきることなく軌跡を変えて二発、さらに三発。  
 その三連打、フリッカージャブのトリプルを加世田先生は避けるでもなく、真正面から顔、いや額で受け――三発目と同時に踏み込んで右の拳を突き上げた。  
 かろうじて直撃をスウェーでかわした坪内さんの紅い蝶ネクタイを、かすめた拳圧がちぎりとばす。  
 お互いに軽く後退、距離をとった。  
 カウンターと呼ぶなら相手の打撃を避けてこそ、まともに喰らいながら狙う攻撃、それは相打ちだ。しかも、牽制とはいえ坪内さんのジャブは決して手ぬるい小手先の技ではない。だが、加世田先生の額は赤く腫れ軽い出血こそ見られるものの、それ以上のダメージはなさそうだ。前に出ることでインパクトポイントをずらしたうえ、残る衝撃をみっちりと太い首が吸収してしまったのだろう。あらかじめリスクを覚悟しつつ、ハイリターンを狙った相打ちだったのだ。  
 坪内さんも右揚げ突きを避けた際、左の爪先を下からとばして下腹を襲ったが、やはりポイントをずらされた上に硬質ゴムのような腹筋を固めて受けられた。もっとも、これはダメージを狙ったものではなく、追撃をふせぐ出足止め目的だったので構わない。  
 それにしても、後退を選択させられたのは久しぶりのことだ。  
 
「ふむ」  
 軽く吐息を漏らした坪内さんは、ちぎれて首に絡まった蝶ネクタイを外して襟元をくつろげ、くるりと身を転じた。  
「お嬢様、これをおねがいします」  
 蝶ネクタイを丁寧に内ポケットに納めてから、銀縁の眼鏡を外して梨紅に手渡すと相手に向き直り、再び先と同じ構えをとった。  
「坪内さんが眼鏡を外すなんて……」  
「初めてみたわ……」  
「そ、そうなの?」  
 梨紅と梨紗の言葉にどう反応したものかとまどう大助。  
『ひょっとして、僕達解説役?』  
 そんな外野は尻目に、  
「この身体は当然至極、さらには身に着けたもの一片余さず我が主、原田の家に捧ぐもの」  
重々しく、坪内さんが口を切る。  
「それを汚し傷つけられるは己が未熟。されど……」  
 すう、と息を吸い、石を投げつけるようなひと言。  
「手を下した貴様の罪もまた、異様に、重い」  
 宣告終了直後、鉄拳執事と格闘教師は、磁石の異極が引き合うごとく互いに間合いを詰めていった。  
 
 一足一拳の間境を踏み越えるや、まったく同時に顔面めがけて右の鉄拳と剛拳が火を噴き合う。ごつりと骨が骨を打つ鈍い激突音もまた同時。固めた拳を額で受け合ったふたりは、さらに逡巡なく左拳による二撃目、鉤突きを空いた脇腹へ繰り出したが、これもまた、水を吸った油粘土、それを隙なく詰め込んだような腹筋を締めて、ダメージを遮断し合う。  
 三撃目、加世田先生の顔が迫る。大きく口を開き、歯茎までむき出して。  
 かみつき。  
 だが、坪内さんにとっては格別驚くべき行為でもない。無造作に頭突きを相手の鼻っ柱にめり込ませて退けた。たまらずのけぞる加世田先生。初めて与えられたダメージらしいダメージであり、また逃すべくもない戦機。崩れた態勢を立て直そうとする人体は、自然と吸気を行なう。そこへ打突を与えれば、衝撃はいくぶんも減じられることなくそのまま浸透する原理、それすなわち、いかなる打たれ強さを誇ろうが、この瞬間の耐性は零にひとしい。  
 迷いなく、畳みかけに放った右直拳はしかし、グローブめいた掌に捕捉されていた。  
 坪内さんの前腕を、加世田先生両の手がしっかりとつかみ――なおつかみしめた。  
『む――』  
 投げ技でも逆技でもないそれは、握力による圧力。  
 万力のごとく握られた腕、その肉と血管が異様な膨張を始めたと察する前に坪内さんは応じていた。落とした重心、地面から還る力を腰から肩、腕へと波状に伝え、全身を連動、協調させ、雑巾を絞るように一気に内へひねる。  
 加世田先生の両足が地を離れた。巨体が握った右腕を中心にぎゅるりと空中を一回転、大きく跳ねてやや距離をおいた地点に着地していた。  
 頭から地に落とすはずだったが、相手自ら跳んで流れに乗ってやり過ごしたのだ。  
 改めて、力だけの者ではない、ということか。  
 
『今のって』  
 目の前で展開した一連の攻防に、視覚で追いつくだけで精一杯だった大助は、いっとき生じたこの間に脳内で整理していく。  
 先ずは二発、常人、例えば自分ならそのうち一発だけでも致命打になりかねない打撃を互いに打ち込み合い、そこから加世田先生のかみつき。それを造作もなく坪内さんが頭突きでしのぎ、追い撃ちと繰り出した突きは受けられ――次だ。  
 加世田先生は坪内さんの前腕を両手で握り締めた。それだけだが、それが途方もなかった。握った手と手の間で坪内さんの腕がほんの一瞬、異様に膨張しかけていた。  
 つまり、常識を逸した握力による同時圧搾が生む人体破壊。それが正体だ。  
 あのまま続けていたら、坪内さんの腕は内側から内側から爆ぜたように……。  
 だが、対する坪内さんの切り返しもまた常軌を逸していた。  
 右腕を内にひねる――内旋させただけで加世田先生が宙に舞ったように見えた。おそらくは、一部の技術体系において"合気"と呼ばれる技法と等質の身体操法。そういう身体と力の使い方と、かくあらしめる課程があると知ってはいる。それでも、  
「デタラメ人間万国びっくりショーだよね」  
冗談じみた攻防に苦笑せずにはいられない。  
 
 かつて慣れ親しんでいた衝動が坪内さんを駆り立てる。  
 相手を測りこそすれ、見くびったことなどない。ものごころついてより、そうでなければ生き抜けない世を渡ってきた。  
 だが、仕えるべき主を、家を見出し、穏やかな陽光射し込む世界に生きるようになってこのかた、確かに社会常識に合わせて己を律し、枷を課してはきていたのだ。  
 しかし、この対手、強敵と書いて好敵手と呼ぶにふさわしいこの者に対しては、そのくびきを解いても構わないらしい。  
 何十年ぶりか。  
 笑みが浮かぶ。それは、原田家に仕えるようになってこのかた、ことに双子の姉妹を世話するようになってからは見せたこともない、凶獰な歓喜の笑みだった。  
 封印した獣の性を、いまひとたび。  
 
 大気の質が変わったような気がした。  
「ちょっと、梨紗」  
「うん、梨紅」  
 大助と並んで怪獣大決戦を見守っていた梨紅と梨紗も、なにやらひそひそささやき合う。  
「な、なに?」  
 訊きたくないけど尋ねてみた。  
「うん、えーと」  
 梨紅もすごく言い難そうだ。  
「坪内さん、きれちゃったみたい」  
「きれ――」  
 大助、絶句。  
「ええええぇぇぇぇっ!?」  
「丹羽くん、落ち着いて」  
「梨紗、あんたは少し慌てなさい」  
「きれたって……」  
「きれたっていうか、リミッター解除っていうか」  
「もう誰にも止められないってことね」  
 ぴっと人差し指を立てて、にこやかに梨紗が結論付けた。  
「そんな――」  
 ごがあぁぁぁん。  
 破砕音が轟いた。  
 
「!?」  
 目をやれば、校舎の壁に砲弾でも打ち込まれたな大穴がぽっかり空いている。  
 タックルで坪内さんを捕らえた加世田先生は、勢いを殺さず相手を壁に押し当て、空いた手で殴りつけたところをかわされ壁面を打ち抜いたところ、その腕を取られて背負い投げで穴の空いた壁めがけて背中から叩きつけられたのだ。だが、もうもうと立ち込める粉塵の中、加世田先生はこたえた風もなく立ち上がると坪内さんに躍りかかっていく。  
「ああ、去年の地震にも耐えた校舎のコンクリート壁が、まるで豆腐のように」  
 再び繰り返されるはた迷惑な死闘に頭を抱える大助だったが、気を取り直して思考を巡らせにかかった。  
 どうにかしなければ、戦火は広がるばかりだ。  
『坪内さんだけなら、梨紅さん達で正気に戻せるかも知れないけど』  
 全力稼動のディスポーザーと化した闘いの場に、ふたりを放り込む危険は冒させられない。  
 と、いうことは。  
 深いため息が漏れる。  
 それでも、大助は覚悟を決めて修羅の戦場へと足を踏み出した。  
「丹羽くん、どこいくの!?」  
 驚いた梨紅の声。  
「ええと、やっぱりこのままにはしておけないかなあって」  
 困ったような微苦笑を浮かべてみせた。  
「それはそうだけど……丹羽くんが行っても――」  
「役には立たないよね」  
 梨紅の言葉に梨紗が結論を継ぎ、大助にダメージを与えた。  
「ていうか、人間には無理だと思う」  
「警察か軍隊の出番よ、もう」  
 さらりと人間扱いしてないし。  
 
「それは……」  
 そうかも、と納得しかけて頭を振る大助。  
 闘争による破壊が続く校舎では、さすがに他の生徒達も気付いて取り巻いたり、二階三階の窓から顔を出している数が続々増えていく。  
 冴原がさっそくスクープ写真を撮ろうと近づいて――あ、巻き込まれて吹き飛んだ。  
 しばし惨状に目をやっていた大助だが、ふっと肩の力を抜くと、梨紅を振り返った。  
「梨紅さん、時間ある? 明日」  
 まっすぐに見つめて、尋ねる。  
「え?」  
「また明日、逢いたい」  
「ん……」  
 真摯な眼差しに、少しだけとまどった表情を見せたものの、  
「うん! 約束だよ」  
 すぐに満面の笑顔で梨紅はうなづいた。  
 大助も笑顔を浮かべる。  
「ぅあぁっつうぅ〜」  
「うわっ!?」  
 ほのぼのフィールドを展開するふたりの間に、ずい、と梨紗が首をつっこんだ。  
「冬なのに、この辺だけやんなっちゃうぐらいあっついのよねえもぉ〜」  
 目も据わってすっかりラブコメ死ね死ね団と化している。  
「とにかくっ!」  
 顔を真っ赤にして大助は叫んだ。  
「僕がどうにかしてなんとかするから、梨紅さん達は安全なところへ!」  
「そんな、丹羽くんひとりで行かせるなんて――」  
「むー、ラブコメきんし〜」  
「ですわ〜」  
「大ちゃんかっこいいわよ〜」  
「だからそうじゃなくて――って、ええっ!?」  
 増えた。  
 
「好きな子のために危険に飛び込む……大ちゃんすっかりおとなになって、母さんちょっとさびしいけどうれしいわぁ」  
「おとなの階段ですわね〜」  
「か、母さんにトワちゃん、なんで学校に!?」  
「それはもう、母さんいつでも大ちゃんを見守っ」「お夕食の買い出し帰りですわ」  
世迷言を口走りかける笑子の台詞を、買い物袋を両手いっぱいにぶら下げたトワちゃんがにこやかに遮る。  
「そばを通りかかったので覗いてみたら、なにやら楽しげな皆さんを見かけましたので」  
 楽しげですかそうですか。  
 脱力する大助の背後でまた破壊音。  
 加世田先生が壁を突き破って校庭に転がり出していた。さしてダメージを受けた風もなく、受け身をとって身軽に立ち上がる。続いて、空いたばかりの大穴の向こうから、坪内さんが、ずい、と現れた。  
「あら、あの方達は?」  
 状況を察しているやら、笑子の質問はのんきなものだ。  
「あ、家庭科の加世田先生と」  
「うちの執事の坪内さんです」  
 梨紗と梨紅が複雑な表情を浮かべながら順に指差して応える。  
「あらあら、それじゃあご挨拶しとかないと」  
 さらりとそんな言葉を残し、対峙するふたりのもとへ歩き出した。  
「……かっ……母さんっ!?」  
 息子として母の突飛な行動はこの14年間身に染みていたとはいえ、ここまでとは。  
 あまりの事態に固まる大助を尻目に、笑子はすいすい加世田先生に歩み寄ると、  
「初めまして、わたくしこちらでお世話になっております丹羽だ――」  
 ぶん、と加世田先生の丸太のような右腕が無造作に外向きになぎ払われ――地響きを立ててその巨体は仰向けに倒れていた。  
 
「先生、暴力はいけませんわ」  
 変わらずにこやかに、笑子がいさめる。  
 大助は、母と加世田先生の間に割って入りかけていた動きのまま、事態が呑み込めず未だに硬直していた。  
 つかむ、という風でもなく、加世田先生の右手に添えられた笑子の両手は比べるまでもなく、細い。その手が迫る右腕をいなし、勢いを乗せて相手を崩し引き倒したのだ。  
 丹羽笑子。彼女もまた丹羽の血と技を受けた者だった。  
 彼女の繊手による制圧を払いのけて加世田先生が跳ね起きた。  
「あら?」  
 笑子の声には、驚きとけげんな響きがあった。蛮力では外せない自分の抑え、それを見事に抜けた力量を読み取ったのだ。  
 加世田先生の右脚が大きく後ろに振り上げられた。まるでシュートを決めるように、思い切り。  
 ぶんっ。  
 蹴り上げた。  
 無造作な、あからさまに過ぎるテレホンキックはしかしまっすぐ標的の中心を捉え、躱しも許さず受ければ打ち砕かれるものだった。  
 笑子の身体が翔んだ。  
「か――」  
 あさん、と叫びかけた大助は、直後に悟って言葉を切った。  
 高々と校舎の2階まで打ち上げられた笑子は、すとん、と、窓枠のわずかな出っ張りに着地。内側から校庭を覗いていた学生の唖然とした視線に、  
「はぁい」  
と笑顔を返してみせた。  
 加世田先生の蹴りを"受け止めた"のではなく"乗った"のだ。大助はそう見て取った。かつて、大助自身も坪内さんの蹴りに対してこの借力法で逃れたことがあった。しかし、いくら母が軽量とはいえ、校舎の2階まで達したあたりは加世田先生の力量をさすがと称するべきか。  
 その笑子が窓枠にとどまったのも一瞬、身をひねりつつ踏み切った。  
 ふわりと舞い降りゆく先は、加世田先生の頭上。  
 対する先生は、対空迎撃体勢を整えていた。スタンスを大きくとって腰を深く落とし、全身を限界までひねりたわめ、右拳は砲丸投げさながら顎脇につける。  
 天より舞い降りる笑子と、地にて迎え撃つ加世田先生。  
 両者の接触はすみやかに訪れた。激突音も破壊音もなく、ただ静かに。  
 
「うそ……」  
 我が目を疑う大助。  
 笑子は突き出された加世田先生の拳に乗っていた。突き上げられた巨拳の上に片膝をつくように屈み、両掌で柔らかく包み込んで。落下しながら高射砲じみた一撃を吸収したのだった。  
「失礼しますね、先生」  
 闘争の場にはそぐわない言葉が囁かれたその時、笑子は伸びた腕をするすると伝って移動していた。はっと気付いて振り払おうとしても既に遅く。笑子のしなやかな両脚が太い首に絡みつき、そこから身をひねりつつ勢いよく背後に倒れていく。  
「っ!」  
 頚動脈を両側から圧迫されながらもこらえようとする加世田先生の片脚を、ぶら下がる速度はそのままに笑子の両手が刈った。  
 軸を失い上半身が持っていかれる。  
 ぐるんと反転した。  
 地響き。  
「よいしょ」  
 冗談のごとく頭で地面に突き刺さった加世田先生から、笑子が身軽に跳び離れた。  
 自分の両脚で首を絞めながら倒れ込み、同時に脚の関節を捉え極めつつ頭から地面に叩きつける。いかに不死身のタフネスを誇る加世田先生とはいえこれは――。  
「ぬうううぅぅぅぁぁぁあああっ!!」  
 復活した。ぼこりと地面から頭を引っこ抜き、窓を震わせ土くれを舞い上げる雄叫び。  
「あらあら」  
 目を丸くした笑子の声はさすがにびっくりしたようである。が、それもいっとき。すぐに新たな微笑を浮かべ、滑るように歩み寄っていった。エアホッケーのパックが進むような、速さを感じさせない、しかし相手の知覚反射を偸んだ隙間にするすると滑り込む歩法。  
 
「ぬ――」  
 無造作に間境を踏み越え眼前に現れた相手めがけて、反射的に拳を放とうと重心を前脚に移して踏み込みかけた加世田先生の前足膝頭に。  
 とん、と。  
 笑子が踏み乗っていた。階段を登るように片脚を掛けて、そこから加世田先生から遠ざかるように翔ぶ。身をひねり、クロスした両脚先で相手の頭部をはさみつつ。  
 ひゅぱっ。  
 空気を裂く音。  
 夕日を遮って笑子が宙を舞い、ふわりと地に降り立つと同時に、加世田先生ががくりと膝をつく。白目をむいて完全に失神していた。  
 頭部をはさんだ両脚が一気に開かれ、頭を揺らして脳の働きを断ち切ったのだ。肉体の耐久力を誇るならば、その意識を絶ち切る。相手の動き、そのおこりに合わせた刹那の絶技だった。  
「ええっと」  
 笑子は困ったように口を開いた。  
「やっぱりそちらの方も?」  
 振り返った先に、異様な拳気を発散し続ける坪内さんの姿があった。  
 加世田先生を、自らの獲物にして好敵手を倒した笑子を、完全に標的と見なしてしまっているのだ。  
 坪内さんは歩幅を広くとると、すっと腰を落として左前半身に構える。上半身は腰から頭頂までまっすぐに、右拳は脇腹につけ、左手は自然に開いて左膝前付近に置く。  
「あれは……」  
「音速拳の構え……」  
 梨紗と梨紅が交互に口を開く。  
「おんそくけん?」  
「全身関節の協調加速によって生み出される、まさに音速にも匹敵する突きよ」  
「あの技は、相手のどんな接近、攻撃すべてにカウンターをとれるの。いくら丹羽くんのお母さんでも……」  
 梨紅さん達、すっかり解説役にはまってるなあ。いや、それより坪内さんから何を教わっているのか本気で心配になってくる大助だったが、ともあれ今度という今度こそ母の危機である。  
 
数メートルの距離をおいて向かい合う笑子と坪内さんの間に、乾いた風が吹き流れた。  
 じり、と。動いたのは坪内さんだ。足指で含むように、わずかではあるが確実に間合いを詰めに掛かる。  
 対する笑子はといえば『困ったわねえ』とでもいいたげな様子だ。加世田先生の間合いを偸んだあの歩法は、一度見られた以上は通じまい。つまり、動けば狙われる。だが、動かずともこのままでは捉えられる。あとほんのひと足踏み込むだけで。  
 一触即発の対峙空間に、有りえざる影が差し掛かったのはその時だった。  
 加世田先生が立ち上がっていた。  
 意識は失ったまま、ただ闘争の気配にその肉体が反応したものか。  
 吹きつけた闘気に応じずにはいられなかったのは、やはり純粋な闘鬼たる坪内さんだった。  
 ほんの一瞬、須叟と呼ばれる間の空白、それこそを突いて。  
 笑子は坪内さんの目前に立っていた。  
「ぬうっ!」  
 音速の拳が――。  
 ひゅぱっ。  
 主婦の両脚が、鉄拳執事の頭部をはさみ刈った。  
「あら?」  
 その両脚に覚える違和感。  
 着地から振り返った笑子が見たものは、音速拳を打ち出しかけた姿勢のまま、首がいろいろ問題ある方向にひん曲がり、顔が背中向きになった坪内さんの姿だった。  
「あらあらあら」  
「うわーっ! うわーっ! うわーっ!」  
 さすがに目をみはる笑子と、度肝を抜かれて声をあげる大助。  
 
「あー、丹羽くんだいじょうぶだから」  
 投げやり気味にそう告げた梨紅は、未だに構えを崩さず音速拳を放とうと間合いを詰めている坪内さんに近づいていった  
 ラクロススティックを大きく振りかぶって。  
「せーの」  
 ぱこーん。  
 思い切り頭部をひっぱたいた。  
 ぎゅるん、と180度反転していた坪内さんの頭部が元にもどる。  
「お」  
「気がついた、坪内さん?」  
「……梨紅お嬢様、なぜ私はこのようなところに?」  
 穏やかに問い掛けるその眼差しからは、先ほどまでの拳気は失せてしまっている。  
「あ……お……ええ!?」  
「あのね、坪内さん、首の骨はずすくらいどうってことないんだって」  
 こともなげな梨紗の説明。ああ、それで母さんの技による衝撃を逃がして――いや、いくらなんでもソレは無茶というものでは。  
「やっぱり人間じゃない……」  
 どっと疲れを覚える大助だった。  
 
 
 さて、以下はてん末。  
 気を失った加世田先生は大助の手で保健室まで運ばれたが、後ほど目覚めると、資材小屋以降の出来事はきれいさっぱり都合よく忘却してしまっていた。  
 坪内さんも同様に、首をひねりつつ原田家に帰っていった。  
 笑子も「いい運動したわねー」などと、相変わらずのん気な言葉を残してトワちゃんと帰宅。  
 こうして学校の一部に爪痕を刻みながら、二大怪獣の激闘プラスアルファは終結した。  
 なお、後日牛のキャサリンは学校で飼うことになり、生徒達によって世話をされていたりする。  
 
 その晩の原田家。  
「りーくー、料理おしえて〜」  
「いいけど、どうしたの? 自分から言ってくるなんて熱心じゃない」  
「えーと、ちょっとね」  
「ひょっとして、加世田先生の特訓の成果?」  
「うーん、まあそんなとこかな。あ、坪内さん、後で練習見てほしいんだけど、いい?」  
「もちろん喜んで。毎日の積み重ねこそが、功夫を高める唯一にして最善の道ですからな」  
「うん、お願いね」  
 
 
 一方丹羽家、大助はというと。  
「大ちゃ〜ん、ごはんよ〜」  
「はぁーい」  
 笑子の呼ぶ声に返事をする。  
 食堂に入ると、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。  
「今日の晩ご飯、なに?」  
 テーブルに食器を並べていたトワちゃんに尋ねる。  
 大助の問い掛けに、トワちゃんはにっこりと微笑むと、  
「今日のメニューは、笑子さまとわたしで腕によりを掛けて作った」  
ぴっと人差し指を立ててこう応えた。  
「ハンバーグですわ〜」  
「……え?」  
 ひきっ、と大助が固まった。  
「あら、どうしましたの?」  
「な……なんでもないなんでもない。あはは、い、いただきまーす」  
 またしてもトラウマが増えていたりするのだった。  
 

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