まだ機会はあると思っていた。だが、そんなものありはしないのだと突きつけられた。
「…………」
天井を見つめるともなく、ベッドの上でただ惚けっとしながら宙を眺めている。広い室内
の中で音を立てる物はない。独りだけの寂寥感を抱く梨紗だけがそこにいた。
梨紅が合宿に行き、その間にもしかしたら丹羽くんと何か進展しちゃったりするかもなど
という期待が多少なりともあったのだが、すぐ横の姉の部屋で二人がいちゃいちゃすると
ころを聞いてしまったからにはさすがに関係進展云々という考えはできなくなっていた。
大助と遊ぶつもりだったので連休の予定はまさにすっからかん。律子も真里もみゆきも
連絡がつかない状況なので、どうしようもなく暇を持て余していた。我知らず溜め息が漏れる。
「…………」
のっそり起き上がるとクローゼットを漁りだす。外出着を取り出すと飾り気のない無地の
ワンピースを脱ぎ捨て着替え始めた。バッグを手にし玄関に向かい、
「ちょっと出かけてくるね」
まだまだ休まず働いてくれている坪内さんが残る邸内に声をかける。リビングから姿を
現した坪内さんは柔和な物腰でお辞儀をする。
「行ってらっしゃいませ。昼食はどうなさいますか?」
「ん、いい。外で済ませてくるから」
「分かりました」
それじゃあと言い残し、梨紗は街へと繰り出した。週末の太陽はまだ高い。
丈八分のパンツにTシャツとカーディガンという格好であてもなく街を歩く梨紗の姿を真上
で輝くお天道様が見ていた。
「ちょおっと暑いかなぁ……」
この日は四月末にしてはなかなかに気温が高かった。左手にバッグを提げ時折り右手で
パタパタ仰ぐ行為を繰り返しながらとりあえず街の中心部へ行き、ただ彷徨い続けた。
私は独りで何を寂しくしてるのだろう、と思うと気が滅入るのでなるべくしない。ぶらぶらと
ウィンドウショッピングをして回っているとたちまち空腹が押し寄せてきた。
どこか適当なお店はないかと周囲を見回して目に付くのは男女のペアに男女のペアに男女
のペア……。
黄金週間の昼間に何をやっているのだろう、と考えてしまう。やはり独りは淋しい。とともに
腹立たしくなってきた。考えるのが億劫になってきたので昼をとるのはいつものカフェに決め
る。さっさとこの忌々しげなオーラを放つ空間から去るべく脚を向かわせようとした時、思わず
声を張り上げた。
「あっ! 日渡くん!?」
視線の先にいたのは髪と同じ色のチェックのシャツを着た、梨紗同様あてもなく街をうろつく
日渡怜だった。
「ん?」
眠たげな半眼をメガネの奥から覗かせ振り返った彼は、梨紗の姿を確認した。
梨紗にとっては馴染みの店。最近では律子とみゆきと一緒にここのオープンテラスで
井戸端会議をするために利用することが多い。
「日渡くんも暇人なんだね。一人でぶらぶらしちゃって」
ただし今日は違っていた。梨紗と同じテーブルについているのは日渡である。いつもの
二人が目撃したなら批難轟々だろう。
「ああ。知り合いのほとんどはゴールデンウィーク初日に出かけていてね」
手元のコーヒーを優雅に啜りながら答える。もちろん自腹だ。
「私も私も」
この店のお薦めであるティラミスを頬張りながら相槌を打つ。もちろん自腹だ。
偶然にも似た状況で遭遇した日渡に近親感を感を抱いた梨紗は暇そうな彼を誘ってみた。
断られるかと考え期待は五分だったのだが、彼は意外なほどすんなりと申し出を受けた。
彼がなぜ受けたかは、することもなく暇で小腹が空いたからだという理由であり、それ以上
の理由はない。もちろん梨紗もそうなのだが、わずかに感じた仲間意識のために少しだけ
喜んでいた。
「律子も真里もみゆきもみんな家族とどっか行っちゃってさ。遊ぶに遊べないんだ」
残念そうにうな垂れてから顔を上げて訊ねる。
「日渡くんは家族とどっかに行かないの?」
「俺か?」
不意に話を振られ、口にカップを運ぶのを止める。
「両親はいないんだ」
「え……」
ひどく落ち着いた声音で告げられ、言葉の真意が一瞬掴めなかったがすぐに察した。
聞いてはいけないことを聞いてしまった気が、
「海外に行っててね。今は一人暮らしなんだ」
「…………あ、そう」
考えすぎだった。咳を一つし、気を取り直す。
「でも海外でお仕事なんて、日渡くんのご両親って世界を行き来しちゃうすっごいエリート?
みたいな?」
その問いに日渡は小さく口の端を上げた。嘲笑ではなく、ただおかしくてしたような表情に
梨紗は眉を寄せた。
「いいや。今はただのボランティアさ」
「ボランティア?」
「そう。父は君が言うとおり、前は世界中を飛んで回ってたんだ。母ともその時知り合ったらし
い。そうしてる内に世界の惨状ってやつを目の当たりにして、ある時僕と母にこう言ったんだ」
そこで拳を握り、芝居がかった声音で小さく力説する。
「『今が世界中の困ってる人を助けるために立ち上がる時なんだよ!』……ってね」
「へ、へぇ……。熱い……お父さんなんだね」
「思い込みが激しいんだと思うけどね。もちろん俺は『なんだってぇ!?』……って言って止め
ようとしたさ。けど母さんは違った。『一緒について行くわ』……だってさ」
呆れた調子で梨紗が相槌を打つ。実際呆れているのだろう。
「そういうわけなんで今は一人暮らし。家族と旅行なんかできないんだ」
話はそこで終わりらしく、日渡は再びカップに手を付けた。梨紗はというと頬杖を付いて若干
身を乗り出すように彼の話に聞き入っていた。
「そういう君はどうなんだ? 君の家族は?」
「私?」
日渡から話を振り返さたことが意外だったのか声が裏返りそうになりながら答えた。
「私も日渡くんと一緒よ。親は海外、と言ってもこっちはちゃんとしたお仕事だけどね」
「なるほど。だから坪内執事がおられるのか」
坪内さんの存在は友人にはよく知られている。が、原田姉妹の両親不在の理由を知ってい
る男子はそういない。このことを話したのは近親感を覚えているせいだろう。
「うん。梨紅もいるし、親がいなくても別に問題らしい問題はないかな? ねえ、一人暮らしっ
てやっぱり大変?」
「ん……そうでもない。もう慣れたからね。ただ、そうだな……やはり」
――少し淋しいかな――俯いて呟く彼に、梨紗は胸の奥に変な感じがぽっと湧いたのを
悟った。
「そう……」
彼女の声もつられるように沈んだものになった。刹那的な沈黙が二人がつくテーブルを
取り囲んだ。
「……姉とは一緒に過ごさないのかい?」
「え? 梨紅?」
「ああ。友人がいなくても姉がいるんじゃないのか?」
「ダメダメ、あの子昨日から部活の合宿行ってるもの」
「ほお。原田姉は合宿か」
「そう。おかげで私一人が退屈な時を過ごしてるの」
「なら丹羽に連絡してみたらどうだ?」
テーブルにぐったりと体重を預けていた梨紗の身体が跳ね起き、声を荒げて日渡に詰め
寄った。
「丹羽くんいるのっ!?」
「あまり大声で騒ぐな。……いるかどうかは知らない。丹羽の休日の予定を知らないから、
もしかしたらいるんじゃないかと思ってね」
「知り合い全員どっか行ってるんじゃなかったの?」
「いや、てっきり原田姉と一緒に休みを過ごしてると思っていたんで丹羽には連絡とってない
んだ」
「ふぅん。案外気ぃ遣ってるんだ?」
感嘆して言う梨紗に対し、日渡は肩を竦めてみせた。彼の顔には自嘲めいた繊細な笑み
が浮かんでいた。
「そういうわけでもない。少し丹羽と距離を置こうと考えただけだ」
「? なんで? 今まで丹羽くん一筋ぃっ! って感じだったのに」
「自分でもそう思ってたんだが、君の姉と付き合いだしたと知ってから……冷めたということ
じゃないが……思うところがあったのかな、自分を見つめ直してみるつもりでそうしようと決め
たんだ」
腕を組んで朗々とした声で言葉を紡ぐ様は年不相応に大人びていた。そんな彼を見てい
ると彼女の胸にある変なものがもやもやと、さらに大きくなるのだった。不安なのか何なの
か、今は説明できるほど明確な形を成していないが、それは確かに在る。
「なんか大人って感じするなぁ、日渡くん」
「そうか?」
縦に頷く梨紗の口からいきなり突拍子もない提案がなされた。
「そうだ! よかったらさ、私たちちょっとだけ付き合ってみない?」
日渡が口に含みかけたコーヒーを寸前で噴き出しそうになる。彼にしては珍しく表情が歪
んでいた。梨紗は右手の人差し指と親指でわずかな隙間を作り「ちょっと」を示し、無邪気
な微笑みで彼にウインクを投げかけていた。