日渡怜の朝はひどい。低血圧からくる目覚めの悪さは本人も自覚しているが、だから  
こそどうしようもない。  
「……」  
 起きるのを拒むように布団の中で何度ももぞつき、動きすぎたためにベッドから転がり  
落ちた。受身もとれずに顔面を強打してようやく思考の電源が入った。  
「……」  
 老人を思わせる緩慢な動作で立ち上がり、ふと全身に寒気がよぎりくしゃみをした。もう  
五月の初旬なのに。そう思っているとどうもおかしいことに気付いた。頭がぼんやりと回り  
出してから妙に肌寒い。何故か。全裸だからであった。  
「……」  
 自分の体を見下ろし、生殖器がかぴかぴしているのが目に留まった。カピカピ、である。  
夢精か、珍しい。などという考えはベッドに視線を向けた途端掻き消えた。  
「……」  
 布団がぽっこり盛り上がっている。彼が出てきた跡ではない、明らかに下に何かあって  
できている珍妙な形の盛り上がり。人が膝を抱えて横になっているような形である。  
「……」  
 無言で布団を捲ると、やはりそこに人がいた。すやすやと小さな寝息を立て、彼と同じ  
く全裸というあられもない格好の少女が、彼と同じベッドに寝ていた。  
「……」  
 さて朝に弱い彼は面にこそ出さないが、内心は混乱の極みであった。  
 何故。  
 何故。  
 何故。  
 朝に弱い頭を酷使してやっと記憶が蘇ってきた。さあどうしようか。独り呟き、下のもの  
をぷらぷらさせながらある物を求めに行った。  
 
 
 ぷるるるる  
 ぷるるるる  
 
 軽快な電子音が丹羽家の廊下にこだまする。  
「はいはい、今出ますわ」  
 キッチンで食器の方付けを手伝っていたトワちゃんが、今日もメイドらしくはない慌しい  
様相で、受話器を取り上げる。  
「はいもしもし。丹羽ですわ」  
 受話器の向こうにいる相手に嫌な印象を与えないように、なるべく綺麗な声を出すように、  
一オクターブ声を上げるのがメイドのたしなみ。  
 もちろん、うっかり声が裏返るなどといった、はしたない失敗はしようはずもない。  
「…………はい、はい。少々お待ちください。大助、お電話ですわよ!」  
 今日は梨紅がラクロス部の合宿から帰ってくる予定の日である。いつもより余計に長く  
鏡の前に立ち、心を弾ませていた大助は水を差された気になった。  
 朝から誰だろう。受話器を構えるトワちゃんに穂を踏み出して近づくほどに、どういうわけ  
か胸の内がざわつき出した。先刻までのうきうき気分はすっかり翳を潜めてしまっていた。  
「誰から?」  
「日渡くんですわ」  
 伸ばしかけた手を止めてしまう、がトワちゃんはにっこり微笑んで大介の手に受話器を  
収めた。  
「さあさあ、早くお片づけを手伝いませんと」  
 
 トワちゃんはぱたぱたと駆け去り、ひどく進まない気分であったが大介はそれを耳に  
当てた。  
「……日渡くん? どうしたの、こんな朝から」  
『少し訊きたいことがあってね。君は昨日公園にいたか? いや、この問いは無意味だな。  
俺は昨日君を公園で見たんだ』  
 大助は息を呑んだ。確かに昨日、彼は桧尾みおの追走から逃れるために街中を縦横  
無尽に走り抜けた。その甲斐あって彼女をいつの間にやら撒くことができた。その過程で、  
恐らくは公園も通っていたかもしれない。大助自身よく覚えていないのではあるが。  
 大助は即答しかね、それを肯定と受け取った日渡の言葉は続いた。  
『実は昨日から妙な女に付きまとわれていてね。公園からなんだ。かくかく』  
「しかじか?」  
『かくかくしかじか』  
 みおが日渡に迷惑をかけていると知らされ、溜め息とともに頭を抱えた。  
「何て言うか…………ホントごめん」  
『いいや。彼女の素性を教えてもらえただけで十分だ。後は何とかする』  
「それじゃ悪いよ! 僕にも責任あるし、何かしてあげられることない?」  
「そうか? じゃあ二時頃に噴水公園の方に来てくれないか。そこで話があるんだ」  
 大助は一瞬躊躇してから頷いた。  
 受話器を置いて今日の予定を再確認した。梨紅が帰ってくるのは午後五時。全然余裕  
である。一日のスケジュールを多少変更せねばならないが、綺麗にまとまりそうなのでさっ  
ぱりとしたいい気分で日渡に会えそうであった。  
 
   
 ぷるるるる  
 ぷるるるる  
 
 透き通る電子の音が原田邸の廊下にこだまする。  
「おやおや」  
 その辺の家庭とは一味も二味も三味も違う簡素だがそれでいて優美な食器類を片付け  
ていた坪内執事が、今日も執事らしく落ち着いた様相で、受話器を取り上げる。  
「お電話承りました。原田でございます」  
 受話器の向こうにいる相手に失礼のないように、恭しい口調で、礼儀を尽くすのが執事  
のたしなみ。  
 もちろん、もしもしなどという俗語を使うといった、はしたない失敗はしようはずもない。  
「…………はい、分かりました。少々お待ちください。梨紗様、お電話でございます」  
 今日は何もない日である。強いてあげるならば、双子の姉が部活の合宿から帰って来る  
だけである。いつもより余計に長くベッドで横になって夢の世界にいたところを遮られ、  
気だるさここに極まりといった足取りで梨紗は階下に向かう。  
「だぁれぇぇ?」  
「日渡様でござい」  
 
 ころしてでもうばいとる。などという選択肢が浮かびそうな動きで坪内執事の手から受話  
器を奪い取った。坪内執事は梨紗の逞しい成長に微笑ましい思いで感無量である。  
「日渡くん?! どうしたの家に電話なんて! もしかして、でぃ、デートの誘いかしら?  
 お化粧は? そりゃした方がいいわよねああでもその前に昨日の返事かしら? オッケ?  
 オッケー? どうなのはっきりしなさいよ!」  
 寝起きに日渡から電話がかかってきたせいでどうにも梨紗の調子がおかしい。言ってい  
ることに自身の勝手な妄想が混じっている。坪内執事は姿を消し、受話器の向こうでは日  
渡が言葉に窮していた。  
『…………もういいか?』  
「何が?」  
 思わず溜め息を吐きそうになるが、ぐっと堪えて口を開いた。  
『少し話がしたいんだ。良ければ今日会わないか?』  
「電話じゃダメなの?」  
『会って直接言った方が』  
「分かったわ! あなたの言いたいことはよっっっっく分かった! 会いましょう! 会って  
私に思いをぶつけて!」  
「…………ああ」  
 電話を切ると梨紗は脱兎の如く部屋に向かった。女性のおめかしには何かと時間がかか  
るのだ。  
「目の前で告白したいなんて、ンモー! 日渡くんったら案外素敵じゃない!」  
 嬉々とする梨紗。そんな彼女をドアの翳から見つめる一人の紳士がいた。  
「梨紗様……すっかり大人になられて」  
 ほろりとこぼれる涙には一体どんな意味が込められているのか、その真意を知る者はい  
ない。  
 
 
「――さて、と」  
 下準備は終えた。後は約束の時刻に約束の場所へ向かうだけだ。そう、いつも判断は素  
早く適切に下してきた俺じゃないか、いつまでも釈然としない気持ちでいるのはまっぴらだ、  
丁度いい、丹羽の前で話を聞いてもらおうじゃないか。  
 日渡の決意は固かった。落ち着くために一息吐き、開いた眼に宿る光は凛として輝いて  
いる。  
「とりあえず…………退いてくれないか?」  
 日渡の声は、いつの間にか軟体動物の如くに体にまとわりつくみおに向けられていた。  
 
 
 時刻は二時前、律儀な大助は遅刻などしないよう早めに噴水公園へ着いた。ざっと辺り  
を見回すが、日渡らしき人影はない。噴水の縁に腰掛けて思うのは、日渡から受けた電話  
の内容だった。  
 何故そうなったかひどく謎だが、みおの追走が途絶えたことと日渡が彼女の存在を知っ  
ていることを考えれば、二人の間に何かあったのは間違いない。そこに体の関係、らしき  
ものがあったとまではさすがに考えが及んではいないが。  
 頭を抱えて日渡が来るのを待っているところに一人、彼をよく見知った人物が歩み寄っ  
てきた。  
「丹羽くん? どうしたのこんなところで……」  
「原田さん! おはよ」  
 う、まで発せなかったのは、なんというか、彼女が化粧をしていたからだ。それも気合十分  
に。一瞬別人かと思ってしまうほどだった。  
「おはよう。それにしてもここで会うなんて偶然。てっきり梨紅が帰ってくるの待ってるかと  
思ってた」  
「そうしたかったんだけど、ちょっと日渡くんに呼ばれて……」  
 梨紗の頭上を雷が貫いた。そのままよろよろと後退して地面に崩れ落ちた。  
「そ、そんなまさか……!」  
 最悪だ!梨紗は嘆いた。そうかそういうことだったのね今日呼び出されたのは私の思い  
を振って丹羽くんへの一途な思いを貫こうという決意を告げるつもりだったのねひどいわ  
私の思いを踏みにじっていや別に本気じゃなかったからいいんだけどでもやっぱり男の子  
に負けるっていうのは釈然としないけどああでもやっぱり丹羽くんって可愛らしいから日  
渡くんがそう思うのも仕方ないかななんて思うけどこんな気合入れてメイクしてきて私って、  
「……バカみたいね!」  
「ひっ」  
 地球に向けて梨紗が吼えた。心配して近づいた大助は思わず腰を抜かしてしまうところ  
だった。周りにいた何人かが視線をやり、そしてすぐに外して去って行く。人の数が少ない  
のがせめてもの救いか。  
 
「二人とも何をしているんだ?」  
 再び聞き覚えのある声が大助にかけられた。振り向いて彼の名を呼ぼうとするが、振り  
向いた瞬間に言葉を詰まらせた。日渡の横にべったりと隙間なくくっつく女性がいたからだ。  
「ダイスケ! こんなところでナニをしておますカ?」  
 不自然なイントネーション、言い回しは昨日彼を追いかけていた女性のそれだった。  
「いや……人を待ってたんだけど」  
 二人の――というかみおの一方的なまでに過激で熱烈で周りの人にこれでもかというほ  
どはっきりありありと分かってしまう日渡へのスキンシップを目の当たりにし、どうしたらいい  
のか思考が止まってしまい、どうしようもなくなる。  
 大助が困り果てる横で、日渡に呼び出されたもう一人の人物は三人の顔を代わる代わる  
見回していた。あれ?丹羽くんは日渡くんに告白されるために呼び出されてそれなのにどう  
して日渡くんには女の子がそれも見知らぬ女の子が絡み付いているのかなっていうかあん  
た誰よと思ったけどもしかしてこれはあの三人の痴情のもつれかしらそれを私は見せ付け  
られているのかしらきっとそうねどうしてそんな真似をするの日渡くんあんた最低よでも一番  
最低なのは勘違いしてるんるん気分でここまできた私だわぁ……。  
「俺が丹羽を呼んだんだ」  
「? どうしてこんな中古品を呼んだりシターノ?」  
「中古……」  
「……いい機会だから、二人にまとめて言っておこうと思ってね」  
 日渡が大助の傍らを通り過ぎるとあら不思議、今まで彼に蛸のように吸い付いていたみ  
おが大助の体に移動したではないか。  
「うわわっ!? なに、変なマジック使ってるの?」  
「ダイスケ……そんなにアタシと一緒にいたかったのでアルか?」  
 誤解だ何だと言い合う二人をよそに日渡は彼女の元に歩み寄った。勘違いしたと思い込  
みひどく惨めで恥ずかしい感情をいっぱい胸に溜め込み、この場からどんなトリックを使  
って消失しようかと試行錯誤している彼女を、この場から逃がさないとでも言いたげに肩に  
手を置き捕まえる。日渡の気配に何か感じた二人の怪盗の目が彼の眸と交わり、肩を抱  
く女性を指し示して、これまで見せたことの無い不遜な態度で二人に告げた。  
 
 
「紹介しよう。俺の彼女だ。…………ってねぇ、いきなりそんなこと言っちゃう!?」  
「問題があったか?」  
 公園の中を歩く一組のカップルは、仲良さげにとは言い難い口論を展開していた。  
「大アリ! 丹羽くんなんて思いっきり引いてたじゃない!」  
 梨紗はつい先ほどの赤髪の少年の顔を鮮明に思い出す。口を大きく開いた間抜けな表情  
は驚き以外の何物でもなかった。  
「そうか? 仲良くしろと、最後には言ってくれたじゃないか」  
「声が引きつってたでしょうが!!」  
「気がつかなかった」  
「なんで!?」  
「緊張していたから」  
 並んで歩く梨紗の瞳をじっと覗き込みながらそんな台詞をさらりと吐いた。一般大衆の  
評価によるとかなり美形の部類に入る彼にまっすぐと見据えられ、梨紗の胸は詰まった。  
「なんてね」  
 酷薄の微笑を浮かべたかと思うと、彼はすたすた歩いていく。見つめられ、不覚にもどき  
りとしてしまった梨紗は立ち尽くしたまま、日渡の背中を眺めていた。  
「……」  
 とりあえず、なんという意味も無いのだが、タタッと駆け出し、無表情を貼り付けた顔をして  
彼の無防備な背中を蹴っていた。  
 
 
 分かれたカップルがいちゃいちゃしているほぼ同時刻、別の方向へ歩き去っていた男女  
はただただ驚嘆していた。  
「OH! マサカ日渡にガールフレンドがいたなんテ……」  
「原田さん……いつの間に……」  
 昨日今日の間である。突然のカミングアウトに日渡と梨紗のことが頭を巡ってばかりいた  
が、恋人同士という単語がよぎった時、はたと気付いた。というか思い出した。  
「そうだ、梨紅さんを迎えに行かなきゃ」  
 ぽんと手を叩いて一旦家へ戻ろうとみおに別れを告げようとして、  
「ウムム、忘れるトコロであったのダ!」  
「え?」  
「ダイスケ! 今ーカラちょっとアテークシに付き合ッテ!」  
「い? 今から?」  
 大助の了承も得ぬままみおは腕をぐいぐい引っぱっていこうとする。  
「待って待って! 何でっ!? ああ僕今から用事が……!!」  
「ンー、気にスルナ! さあさ行くのデござる!」  
 どこへ行くかも告げられぬまま、大助の叫び虚しく連行されていった。思わぬところで今日  
のスケジュールは狂っていくのであった。  
 
 
 
 

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