日渡怜は公園を歩きながら珍しく深刻そうな顔で考え事をしていた。考えていることは  
もちろん先程の梨紗からの告白まがいの提案である。  
 
 ――別に深く考えないでね? 本当に恋人が見つかるまでの予行演習?みたいな  
 
 そうは言われても変態だが根は真面目な日渡怜、口をついて出た第一声は「か、考え  
させてくれ」だった。梨紗は即答してもらえなかったことに対してやや批難がましい声を上  
げたが、  
 
 ――けどどうせお遊びみたいなものだし。適当に考えててね  
 
 笑って手の平をひらひらさせ風とともに去っていった。後半の怒涛の展開に圧倒されな  
がら、いつの間にか彼は一人公園を歩いていた。家族もいない、知り合いもいない一人暮  
らしの彼がすることなど散策か買い物か同人活動くらいのものである。  
「…………お遊びも必要、か」  
 木々を揺さぶり、頬を撫ですさる風の音を聞きながらふと笑みを浮かべた。肩に圧し掛  
かっていた重荷が降りたような、そんな清々しいお顔をなされていらっしゃる。  
 明日にでも返事をしてみるかと考えていたところ、彼の前方に何かが落ちてきた。いや  
落ちた、は適切な表現ではない。なぜならそれはしっかりと着地していたからだ。  
「丹羽か?」  
 思いがけない出会いに、なるべく逢いたくはないと言っていたにも拘らず反射的に声を  
かけていた。だが空より降ってきた彼は日渡に気付く様子もなく、着地の衝撃で舞う煙が  
晴れぬうちに強靭な脚力で駆け出し、あっという間に去っていった。  
「何だ、一体……」  
 目の前で起きたことが理解できないところにさらに何かが降ってきた。それは、災難。  
「――ァァァァアアアッッッ!!!」  
 
 話は数時遡る。  
 大助はリビングでごろごろ、まったく無意義な黄金週間前半の朝を過ごしていた。彼女  
がいない、友達がいない。それがこれほどまでにつまらないとは思っていなかった。去年  
の夏休みは何だかんだでドタバタとしていて楽しかった記憶がある。それは彼の傍にいつ  
も一緒にいてくれる人がいたからだ。  
「……」  
 寂しい。率直な感想。だから明日、梨紅が帰って来ることを大変心待ちにしていた。永ら  
く――数日だが――お預けを食らっていた紅いご飯を頂きたくお思いであられた。  
 昼前の半端な時間に玄関のチャイムが鳴らされた。  
「小助くん、お客さんじゃぞ」  
 リビングでお茶を啜りながらソファに腰かけていた大樹が、同じくソファに座りテレビを見  
ていた小助に告げた。  
「笑子さん、誰か来たよ」  
「あらあら。トワちゃん出てちょうだい」  
 今までダイニングテーブルについていたはずの笑子はいつの間にやら昼食の準備を始め  
ていた。笑子の対面にいたはずのトワちゃんもいつの間にやらキッチンに立っていた。  
「分かりましたわ。大助、お願いしますわ」  
「…………はぁい」  
 一番暇そうに床をごろごろしていた大助はのそりと立ち上がった。その脚で玄関に向かう。  
付け足しておくと怪盗業に一区切りついた丹羽家では罠の類は外してあるのでお客さんも  
一安心だ。  
「はい、どちら様」  
「遊びに来たゾヨ」  
 返事をすべて聞く前に開けたドアを閉め施錠する。リビングに戻る際に丹羽家特製トラッ  
プの起動ボタンを押していく。これで泥棒対策も万全だ。  
「大助。お客さんは?」  
 話し声など聞こえなかったのを怪訝に思った小助が戻ってきた大助に訊ねた。  
「うん、別に何でもなか」  
「ダイスケッ!!」  
「へぶしっ」  
 大助が戻ってきたリビングの戸から闖入してくる者がいた。その人物に抱き倒された大助  
が顔面から危険な倒れ方をし、聞き苦しい声を漏らした。  
 
「まあみおちゃん。いらっしゃい」  
「ダイスケのママン! お久しゅうごぜいまスル」  
 一週間前に来たばかりじゃないのと笑い合うママンとみおは非常に親しげな雰囲気が  
ある。昏倒しかけの大助を放ってお辞儀をするみお。さりげなく礼儀正しさをアピール、  
である。  
「大助、大丈夫か?」  
「うん……」  
 意識はあるようで大樹の声にしっかり答える。上げた顔は額と鼻頭が赤くなっていた。  
「桧尾さん! どうしてそう頻繁に来ちゃうのさ!?」  
「愛しい彼にアイに来るのは当然でヤンス」  
 自分は間違っていないという自信が言葉全体から滲み出ている。  
「だからっ……! 僕にはもうお付き合いしてる女の子が……!」  
「ムーンッ、ちょっと障害があった方が恋は燃え上がるノネー!」  
「違ぁぁう!!」  
「はいはい二人とも! お昼ができるまで外で遊んでてね」  
 いつもの二人の掛け合いに笑子が割って入った。にこやかにみおに手渡すのは、片側  
に輪を作ったロープだった。  
「ホワイ、マム? これは一体何ゾヤ?」  
「それで遊んでてね。お昼までに大ちゃんが捕まったら、明日一日桧尾さんの好きにして  
いいわ」  
「ええっ!?」  
「オゥ、レアリー? アターシ本気でハントしますですヨ?」  
「もちろん」  
 もちろん大助の家族はみおが何をしているのか知っている。知った上でこんなことを言  
い出しているのだ。  
 
「ま、待ってヨ母さん! ぁあ、ちょっと癖が移ってる……」  
「食前の運動と思って行って来るといいヨ」  
「昼までには帰って来るんジャゾ?」  
「まさか捕まっちゃったりしませんわよネ?」  
「ほら、早く行きなさい。十秒したら桧尾さんがスタートするワ」  
「みんなのバカー!!」  
 大助は綺麗な涙を撒き散らしながらリビングの戸から出て行った。ズガズガと己が仕掛  
けたトラップを作動させながら。  
「どうやって突破してきたんだヨー!!」  
 多少のタイムロスを生じさせ、大助が玄関を飛び出した。きっかり十秒後、みおも彼の後  
を追った。  
「頑張ってね。桧尾さんの分もお昼、用意しておくから」  
「センキュー、ママン!」  
 大助が通った廊下の跡を飛び越え、みおは丹羽家から姿を消した。  
「――これで静かになったわ。さ、ゆっくりお昼の用意しましょ」  
「はい。今日はちょっと腕によりをかけて作りますわっ」  
 そうして平穏な時間が丹羽家に戻った。  
 十二時前のことであった。  
 
 大助は本当にひいひい言いながら逃げていた。  
「待っつのダー! 素直にアタシに捕まりやがれってンダ!!」  
「い、嫌だぁ!」  
 全力で逃げているはずである。なのに、なぜ、彼女はあれほどまで元気に追いかけてく  
るのだろうか。酸欠に喘ぐ頭で考える。  
「チェェェスト!!」  
 容赦なく繰り出される縄を払いのけ、大助は人家の上を疾走する。  
「諦めてなるカ! 絶対ダイスケをお縄に頂戴するナリ!」  
「諦めてぇぇっっ!!」  
 みおの攻め手をネオもびっくりなアクロバティックな動きでかわしていく。誰も知らぬ  
屋根の上で人智を超えた闘いが展開されていた。  
 だがしかし、追われる立場の大助は精神面において追う立場のみおよりも不利、疲労の  
蓄積が幾分早い。現に彼の息は上がりかけているのに対し、彼女は元気に高笑いを上げな  
がら追ってくる。縄も相変わらず容赦なく飛んでくる。  
「――よし」  
 前方を見据えた。そこは屋根伝いの終わり。自由という大空へ誘う離発着点。街の構造は、  
現在自分がどこにいるのかはしっかりと把握している。そして大助は跳んだ。  
 どこまでも飛んでいってしまいそうな跳躍。その背には、大きく羽ばたく翼が生えてい  
たのかもしれない。  
 自由への跳躍は終わりを迎える。着地点となるだろう眼下の公園に人影は見えない。も  
っと遠くに、もっと遠くにと唱えながら、地面にぶつかった。両の脚が大地を踏みしめる。  
衝撃は感じたが痺れてない、動けると判断するとすぐに駆け出した。  
「ワオ、ワンダホー!!」  
 後を追っていたみおは素直に感嘆した。もちろんこれで追撃を止める彼女ではない。同  
じ怪盗を生業としている以上、大助の跳躍に負けてはいられないのだ。  
「ウーン! アタシも負けてらんねーゼ!」  
 みおも跳ぶ。優雅に舞う。縄が複雑怪奇に絡まった。そして、堕ちた。  
 
 
 絶叫が日渡の頭上に降ってきた。見上げた彼の顔面に固いものが激突した。  
「…………」  
 小さく呻いた後、ぶつかったものの正体を探し、それはすぐ目の前にいた。衝撃でぐる  
ぐる目を回しへたり込む、縄に絡まった同年代らしい少女である。  
「ハレぇ〜〜っ……」  
 彼は今しがた去っていった少年に思い巡らせた。何か関連があるのでは、と鋭く推察し  
ていた。  
「お、オぅ……ソーリーソーリー……」  
 目を回しぶつかって痛む頭を押さえながらみおは深々と頭を下げた。  
「ん? これはいけない」  
 彼女の頭にはマンガのようなたんこぶができていた。日渡は素早く懐から絆創膏を取り  
出し、彼女の頭に十字をぺったりと貼り付けた。  
「大丈夫かい?」  
「あ……センキュゥ……」  
 日渡の顔を目にした途端、みおの動きはぴたりと止まってしまった。  
「次からは気をつけたまえ」  
 言い残して颯爽と去る彼の後姿にみおの視線は釘付けになっていた。この感じ、初めて  
大助に逢った時と同じものだと思い至った。彼女はただただ日渡の後姿をずっと見つめて  
いた。小さな後姿を目にしたままどうしていいか分からず、ずっと見つめていた。気が付  
けば彼のマンションの前。  
 尾けていた。  
 彼がマンションに入る。後を追う。彼がエレベーターに乗る。後ろに貼りつく。マンション内  
を歩く。気配を絶って尾ける。彼が部屋の鍵を開けた。  
「エイッ」  
「うおっ!?」  
 縄で首を絞め、堕とした。そのまま家の中へ引きずり込んだ。  
 お昼をちょっと過ぎた頃のことであった。  
 
 

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