受話器を置くとつい溜め息が出てしまった。  
「どうしたのかな梨紅お姉さま?」  
「ひ……っ!?」  
 後ろから耳にふうっと吐息を吹きかけられ、原田梨紅の身体は面白いように縮み上がった。  
「あ、……あんたねえ」  
 背後にいる原田梨紗を半眼で睨みつけるが、彼女は臆した様子もなくにこにこと満面の笑み  
を浮かべている。  
「気色悪いからやめなよ。ったくぅ」  
「あら? 愛しい彼と話せなかったからって八つ当たりはしないで貰いたいわ」  
 途端に梨紅の顔は熱く沸騰し、冷笑を浮かべる梨紗にわたわたと反論した。  
「別にっ、そんなんじゃないもん! 人の電話盗み聞きなんかしないで!」  
「おほほ。あまりカリカリしてるとしわが増えてよ、お姉さま?」  
 さらに高笑い。どこかの女学園にいそうでいない耳障りなお嬢様笑いを残し、梨紗はリビング  
へ戻った。  
「………………冷やかしとかしにこんでよか」  
 去り行く梨紗の背中にぼそりと呟きまた溜め息。思ったように彼と上手くいかずに少しへこんで  
いたりする。まさか初デートがあのようなかたちで遮られるとは……。  
(でもこんな時間に出かけるなんて…………。家にいなくちゃいけないはずなのに)  
 電話に出たおじさん、というよりお兄さんのした説明が今頃になって腑に落ちなくなっていた。  
抜けてる自分を少し悔やんだ。  
(……電話に出た人誰かな? もしかして、丹羽くんのお父さん――?)  
 どうしよう、愛想良くしてたかな?ぶっきらぼうじゃなかったかな?ああ、もっと声作っとくべきだっ  
たぁ!と今更ながら強く後悔し、悶え苦しむ原田梨紅十四歳。  
 しかし頭を抱えてしゃがみ込む彼女が最後に懸念したのは、やはり彼のことだった。  
(丹羽くん、どうしちゃったのかな? 何か会ったのかな?)  
 
 そんな梨紅をリビングから垣間見ているのは梨紗。某家政婦よろしく見事な覗きっぷりである。  
(なに? なに? もしかしてまだ私にもチャンスあるの?)  
 事情を知らない彼女の瞳は爛々と輝いていた。  
 
 
 眼が開き、霞んでいた視界に飛び込んできたのは、普段あまり目にせず、毎日見ているはず  
のものだった。  
「…………ここは」  
 リビングの天井がはっきり捉えられるようになり、自分が横になっているんだと考えて初めて  
身体がその感覚を伝えてきた。  
「……そうだ――ッ!?」  
 何でここに?という疑問が浮かんだけど、さっきまで対峙していた者の姿が鮮明に思い出され、  
寝ている場合じゃないと身体を起こした。起こした瞬間、全身を駆け巡る鋭敏な痛みに息が詰ま  
り、身体が動かせなくなった。  
「!? 大助」  
 あまりの痛みに塞ぎ込みそうな五感の一つがその音を聞き取り、さらにもう一つでその音源を  
見やった。人影が駆け寄ってきて傍に座り、心配げに様子を窺ってくる。  
「父……さん」  
「黙って。まだ横になっていた方がいい」  
 少し我慢してくれと言うと、父さんはそっと僕の身体を横たえてくれた。ソファに寝ているのだと  
その時になって気付いた。  
 身体を走る痛みは背中から広がるように全身を蝕んでいるけど、何とか話せる程度にはなって  
きた。  
「どうして僕は……」  
「大助が出て行ってからしばらくして、傷ついたウィズが大助とさっちゃん、レムちゃんを家まで運  
んできたんだ」  
「ウィズが……、ウィズは?」  
 父さんが指を下に示す。もちろん身体は動かしづらいので目だけを動かすけど、やはり見えない。と、  
「キュウ」  
 指の下から白い包帯に巻かれた白い毛玉がぴょこんと飛び出し、僕のお腹の上にぽすりと  
乗ってきた。包帯だらけだけど、動きは悪そうじゃない。  
 
「よかった……」  
 無事じゃないんだろうけど、深刻でもなさそうで本当によかった。  
「キュゥ?」  
「大丈夫だよ。少し疲れてるだけだから」  
 心配して見つめてくるウィズにできるだけ笑みを浮かべた。どれくらい笑えているだろう、  
引きつってるのかもしれない。  
「父さん、さっちゃんとレムちゃんは?」  
「大助の部屋にいるよ。二人とも無事だけど……」  
「? だけど」  
「少し様子がおかしくてね。何かあったのかい?」  
「…………そう」  
 あの時クラッドが言っていたことが圧し掛かり、胸が苦しくなる。二人は本当に……。  
それ以上考えることができず、違うことを父さんに訊ねた。  
「僕は、どれくらい眠っていたの?」  
「半日以上、今は三十一日の午後二時だよ」  
「そんなに……」  
 居ても立ってもいられず身体を動かすけど、鋭痛に遮られる。  
 
「無理はしちゃいけない。寝ているんだ」  
「ダメだよっ……! うかうかしてたら、あいつが来ちゃう」  
「あいつ?」  
「父さん達も早く、避難して……ここから離れて」  
 言葉足らずで上手くできていない説明に父さんは怪訝な顔をしている。それでも僕は早く、  
身体が満足に動かせるなら背中を押して父さん達を避難させたかった。  
「落ち着くんだ。ちゃんと説明してくれないと分からないし、それにお父さんの帰りも待たなく  
てはいけない」  
「じいちゃん? 家にいないの?」  
「ああ。中央警察署へね」  
「捕まっちゃったの!?」  
「いやいや違うよ。状況が切迫してきたことを警視庁長官に伝えにいったんだよ」  
 未だに父さんの言っていることが理解できない。家は怪盗の家系なのに、そんな警察に  
なんて行ったりしたら捕まって……。  
「僕も詳しく知らないけど、お父さんとその人は古い知り合いらしくてね。今回の警察の避難  
命令も父さんの助言から出されたそうだよ」  
 あまり信じられない。これなら捕まってしまったの方が信じられたかもしれない。  
「――話を戻そう。何があったか、話してくれないか?」  
 
 
 話し終えると、父さんは深刻な声音で訊いてきた。  
「大助はどうする気だい?」  
「僕?」  
「さっき僕と父さんが早く逃げるよう言っただろう。だったら大助はどうするんだい?」  
「僕は行くよ。中央美術館に」  
「本当にいいのかい? もしまたクラッドに負ければ……」  
「逃げてもクラッドはきっと来る。だったら僕が行くから、その間に父さん達は……!」  
 父さんの腕を掴んで必死に訴える手をそっと離し、  
「今はゆっくりしてるんだ。お父さんもそろそろ帰ってくる頃だ。さっちゃんとレムちゃ  
んのところには僕が行ってこよう」  
「……うん」  
 起こした身体を再び寝せると父さんは立ち上がり、その時ウィズがちょろちょろと父さんの  
頭に上っていった。ウィズも二人に会いに行きたいらしい。父さんはリビングを出、階段を静  
かに上がっていった。残された僕は静寂の下り立つリビングで一人、独りということにやるせ  
ない思いに陥った。  
「…………」  
 どうしよう。このままここにいたら、二人のことばかり考えてしまう。それも悪い方にばかり。  
 静寂が耳鳴りのように響いていると、それを打ち壊して電子音がリビングにまで聞こえてきた。  
「電話?」  
 
 
 呆然としていた二人は突然の訪来者に身を震わせた――といっても実体はなかったのだが。  
「入るよ」  
 二人は声の主を一瞥し、気まずさのあまり視線を下に向けた……のだろう、多分。ウィズは  
小助の頭から飛び降りて大助のベッドに駆け上がり、二つの美術品がかけられる壁の前で丸  
くなった。  
「大助が起きたよ。元気そうだった」  
 ありのままを言えばさらに二人が塞ぎこむと考えてか少しだけ嘘をつくが、二人の反応は返っ  
てこなかった。  
「事情は聞いたよ。大助からね」  
 ようやく空気がかすかに揺らいだ。やはり二人の様子がおかしい原因はそこにあるのだろうと  
小助は察した。  
「……二人は僕と父さんと一緒にここを離れることにしたよ」  
「ご主人様は?」  
 初めて口を開いたレムちゃんには疑問が色濃く浮かんでいた。  
「中央美術館に行く気だよ」  
「そんなっ!?」  
 さっちゃんもやっと言葉を発したが、そこには動揺が走っていた。  
「無謀だと思うかい?」  
 小助の問いかけに、そんな二人は答えなかった。答えることができないのではなく、答えが  
明確すぎるのだ。  
 
「二人が思ったとおりだよ。僕も、父さんや笑子さん、トワちゃんだってそう思うだろう。けど、  
大助は行くよ」  
 言葉を切ると電話のコール音がタイミングよく割り込んできた。しばらく鳴り響く音が途絶え  
ると、小助は続けた。  
「大助は優しいからね。自分が傷ついたことで二人を責めたりはしないよ。むしろ二人が傷つ  
くのが嫌だったから、独りで行くつもりなんだと思う」  
 二人は黙って小助の言葉に耳を傾けていた。一言一言がやけに胸に突き刺さってくるのを  
堪らないほど辛く感じている。  
「はは、これ以上話すと説教臭くなりそうだからこの辺にしておくよ」  
 僅かに沈んでいた調子を整えるためにわざとらしく明るい声を出し、小助は部屋を去ろうとした。  
「待ってくれ……」  
 消え入りそうなさっちゃんの声が小助の耳に届いた。気勢の感じられない声に、小助が優しい  
口調で訊ねると、二人は初めて心の内を露わにした。  
「我らは、どうすればいい?」  
「どうしたらいいのか、全然分かりません……」  
 答えが見つけられずにいる二人の悩み苦しみが手に取るようにはっきりと滲み出ている。  
「僕からは答えられそうにないけど」  
 前置きに続く言葉を、二人はじっと息もせずに待っていた。  
「大助にも君達にも、後悔するような選択はして欲しくない。君達がどうしたいか……何を望むの  
かが一番大事なことだと僕は思うよ」  
 四時頃に家を出ると付け足し、小助は大助の部屋を去った。残された二人は小助の言葉を黙っ  
て噛み締めた。  
 時刻は二時半。答えを出すにはあまりにも短い一時間と半刻である。  
 
 
 身体を動かすことにまだ不整合な痛みを感じていたけど、じっとしたまま沈みこんだ  
思いでいたくなかった。  
「丹羽くん?! よかった、やっとつながった」  
「梨紅さん!」  
 電話に出て正解だった。受話器から聞こえてきた彼女の声に、僕の暗い気持ちはさっ  
と吹き飛んでいった。  
「ずっとかけてたのに全然つながらなくて心配で…………ああでも、よかった」  
 安堵しているのが受話器越しでもよく分かる。彼女の優しさに胸が、  
「ってやっぱりよくなぁい!」  
「つう……」  
 咄嗟に受話器を遠ざけ、梨紅さんの大声量から逃れる。耳が潰れるかと思った。  
「もう二時半だよ! 早く街出ないといけないじゃん!」  
「あ、そだね、うん」  
「そだねじゃないよお。早くしなきゃ、よく分かんないけど大変なことになりそうだし  
……」  
 彼女は知らない。僕がその「大変なこと」の真っ只中にいることを。東野町全体に渦巻く  
悪意の中心にいることを。  
「……丹羽くん?」  
「ん? うん。梨紅さんはもう街を離れたの?」  
「うん。お昼頃に。今は春日井中学にいるよ。石井ちゃんや福田さん達も一緒。日渡くんや  
冴原くんもいるよ」  
「そっか……皆無事に避難できたんだね」  
「そう、後は丹羽くんだけだよ。早く来て」  
「そっか…………無事、なんだね」  
 皆は無事、知ることができなかったみんなのことを知り、安心した。  
 
「皆心配してるよ? だから丹羽くん」  
「ごめん梨紅さん」  
「――え」  
「まだそっちに行けそうにないんだ」  
「ち、ちょっとぉ! なんで、どうして!?」  
「しなきゃいけないことがあるんだ」  
「しなきゃって……っ!」  
「大丈夫。終わったらすぐ梨紅さんに会いに行くから。だから」  
 クラッドに言われたことがふとよぎる。けど、別れの言葉なんて口にするのは憚られる。  
彼女の傍に……いたいから。  
「だから、ちょっと行って来るね」  
「!? 待って、待ってよ丹――」  
 雑音が混じったかと思うと一瞬で通話が途切れた。電波障害が再び強まったのか。  
 
「大助、起きて平気かい?」  
 声は二階から降りてきた父さんのものだった。  
「うん。寝てると考えが暗くなるだけだし」  
「そうかい。……電話は誰からだったのかな? もしかして原田梨紅ちゃんかい?」  
「ええっ?! 何でぇっっ?」  
 梨紅さんとの付き合いは気恥ずかしさが邪魔してまだ誰にも言ってないのに、一体  
どうして?  
(ま、まさか母さんが!?)  
 などという考えが浮かんでしまうけど、  
「昨日その子から電話があってね。とても心配そうだったからまたかかってくるかと思っ  
てたんだ」  
 父さんの説明で納得いった。  
「なんだ、そうだったんだ……」  
「それでその梨紅ちゃんとはどんな関係なんだい?」  
「あっあの、それは」  
 面と向かってそう聞かれると、やはり恥ずかしくってはっきり言えそうにない。しどろもどろ  
にごまかそうとしていると、  
「今は言いづらいかい? いいよ、心の準備が整ったらで。笑子さんと一緒に聞いてあげるよ」  
 ウインクしながら微笑む。そういう仕草が不自然じゃないのが父さんらしい。  
「うん…………これが終わったらちゃんと言うから、帰ってくるから」  
 梨紅さんとの電話で抱いた決意を口にした時、玄関の扉が開かれた。  
「おお二人とも。今帰ったぞい」  
 そこには昨日と同じくスーツ姿のじいちゃんがいた。  
 
 先ほどじいちゃんから譲り受けた黒のロングコートに身を包み自転車を引っ張り出し、  
向かう準備は万端だ。  
「じいちゃん、父さん」  
 玄関で二人を前に、出かける前の挨拶をしていた。  
「ちゃんと帰ってくるから、また後で。母さんとトワちゃんにもよろしくって」  
「うむ。大助、忘れるでないぞ。お前は一人で戦うのではない、わしらもついとる」  
「うん」  
 コートの襟を強く握り締めながら頷いた。少しだけ力が漲ってくるような気がする。  
「僕からはこれくらいしか渡せないけど、持って行ってくれ」  
 父さんがズボンのポケットから取り出したのは、何度かさっちゃんレムちゃんに使った  
ことのある秘薬だった。  
「すまない。使えそうな物はそれしかなかった」  
「ううん、ありがと。大事に使うよ……っと」  
 コートの内ポケットにしまい停めてある自転車に歩み寄ろうとした時、父さんに呼び止め  
られた。  
「大助。二人には、本当に会わなくていいのかい?」  
 さっきもよぎった二人の姿が脳裏に浮かんで、そして消した。  
「いいんだ。会っちゃったら、きっと二人に頼ろうとしちゃうから」  
「……そうか」  
「それじゃ、行ってきます」  
 再び歩み自転車に飛び乗ると、玄関先で見送っているじいちゃん父さんを振り返らずに  
全力でペダルを漕ぎ出した。  
 大丈夫、きっとまた会えるから……帰るから、変に感傷的にならなくていい。  
「大丈夫、絶対!」  
 
 
「…………行ってしまいましたね」  
「ああ。なに、大助のことじゃ。きっと大丈夫じゃて」  
「もちろん、そう信じてますよ」  
「そうじゃ。……わしらもそろそろ行こうか、笑子さん達が待っておるじゃろう」  
「じゃあ荷物を持ってきます。すぐに出ましょう」  
 小助は一足先に家に駆け込み、大助の部屋へ向かった。そこにいる二人と一匹を連れて  
行かなくてはならなかったからだ。  
「二人とも……?」  
 室内に一歩踏み込んだ時、微かな違和を肌で感じた。空気がそよそよと動いている。動い  
ているのは空気だけではない、カーテンもたなびいている。  
 バルコニーへ歩み出る前にちらりと大助のベッド脇の壁を見やるが、そこには剣も盾も  
なかった。無論ウィズも。  
 バルコニーに吹く風は冬の冷気とは別の寒気を孕んでいた。小助は大助が通って行ったで  
あろう道を目で追い、  
「ん……?」  
 視線の先、その上方には宙を舞う一線の黒い影があった……気がした。見送る小助の瞳は  
希望不安、様々な思惑を内包していた。  
 
 
 オレンジに染まりかけの空と、冬の冷たい空気とは別の寒気の降りる街の中を自転車  
で駆け抜ける。人の気配はほとんどない、映画に出てきそうなゴーストタウンというのを  
思い起こさせる。警察の人までいないなんて、じいちゃんが何かしたのだろうか。詳しく  
聞いていなかった。  
「……それにしても」  
 今日は自転車のペダルがいやに重く感じられる。僕の中にある不安がそうさせているの  
か……。  
 ウィズがいれば、と思うと一緒に二人の顔まで浮かびそうになり、慌てて頭を振ってそれ  
を拭い去った。  
 今は僕しか、いないのだから。僕だけなのだから。  
 知らなかった、一人がこんなに淋しいなんて。  
 身体が泥の底に沈みこみそうに重い……脚が止まりそうだ。それが嫌で、僕は必死に  
ペダルを漕いだ。できるだけ早く、できるだけ遠くに。家から離れないと、そうしなきゃいけない。  
 十分離れていると思う。それでもまだダメだ。せめて中央美術館が近くで確認できるくらい  
まで行かなくちゃ、  
「……ん?」  
 不意に世界が翳った。雲がかかったのかなと思ったけど、少し不自然なことに気付いた。  
空に雲はかかってないし、美しい赤黄色に染まっている。  
 僕の周りだけが、切り抜かれたように綺麗な三日月形に影を成していた。自転車のスピ  
ードをほんの少し落として空を見上げると、傾きかけた日の中に黒い影は在った。見紛う  
はずはない、いつも僕とともにいてくれた黒い翼が空に――。  
   
 

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