「……」
「……」
「……」
何もする気が起きない。
「…………」
「…………」
「…………」
考えることさえ億劫になってる。
「………………」
「………………アー」
「………………エー」
突きつけられた現実は、これまで僕が積み上げてきた彼女への想いを粉々に砕いた。
「……………………」
「……………………アールジー」
「……………………ゴッシュジッンサマー」
砕けた欠片を集めても、そこに現れたのは彼女じゃない。彼女の――。
膝を抱えてしゃがみ込む大助から十分離れたところで二人の裸の幼女が緊急会議を開いて
いた。最近この格好が気に入ったらしく、夢の中でも幼女形態でいることが多くなって
いる。
「うむぅ。やはりやはりとは思っていたが」
「これはじゅう症ですねえ」
「大体のじじょうは夢をのぞいてわかったが」
「どうしたらいいんでしょうねえ」
ここ数日の大助の落ち込みようには流石の二人も手を焼いていた。ので、二人は何かしなく
てはと思いつつも、何もできていなかったしされてもいなかった。
「ふぅむ……」
「うぅん……」
こうして話し合うのも三回目であるが、いい案は出ていなかった。
「…………ふぅ」
さっちゃんがしょうがないといった風に立ち上がると、その姿はいつの間にか背の高い大人の
女性へと変わっていた。
「さっちゃん?」
レムちゃんも後を追って立つと元の姿に…………別段変わったようには見えなかった。
「――主」
いきなり背後から腕を回されて身体が小さく竦み上がった。耳元で囁かれた声はさっちゃん
のものだ。
「迷っているのか?」
塞ぎ込もうとしていた僕の心にさっちゃんの言葉がずばりと突き刺さった。
「……」
夢の中でさっちゃんに隠し事など意味がない。震えるくらいに首を縦に振って彼女の台詞を
認めた。
「そうか」
呟くさっちゃんの声はとても穏やかだった。
「主は優しいからな。いろいろあの小娘等に思うこともあるだろう」
ここ数日まったく話していなかったのに、さっちゃんの言葉は不思議と胸の深いところまで
届いてくる。ここではさっちゃんの力が強いからなのか。
「だが迷ってばかりでよいのか?」
それとも、僕が彼女に助けを求めているからなのか。
「我も主に言いたいことは幾つかある」
彼女の言葉に、期待しているのだろうか。
「だがな。やはりこの決着は主が自分でつけるべきだ」
「……え」
僕の期待はあっさりと見捨てられた。この数日間ずっと独りで考えて、それでも答えはでな
かったのに、
「…………僕には」
無理だ。二人のうち一人を選ぶ、というのは。
「違うな。答えはもう出ているはずだ」
「! そんな……」
後ろを振り返り、はっとした。
「出ているさ」
僕を射抜くさっちゃんの瞳はとても真っ直ぐ、曇りのない色をしていた。なんだろう、心の奥底
まで見透かされているような居た堪れない思いにさせられ、つい顔を逸らしてしまう。
「…………」
――分かっている。さっちゃんに言われるまでもなく、自分の気持ちくらい。
「だけど、僕は原田さんが……」
好きだったはずだ。その思いが、僕に答えを出させるのを躊躇わせている。
「初めて好いた者をずっと好いていなくてはならん道理はない」
僕は、僕の想いは、原田さんに縛られていた。
「あのぉ」
その声に、レムちゃんの顔がすぐ正面まで近づいていたことにようやく気付いた。僕を
覗き込む瞳は純粋で、穢れてない。
「わたしは難しく考えるのは下手なので単純なことしか言えませんが」
「中身がすかすかだからな」
愉快そうなさっちゃんの一言にレムちゃんの頬が少し膨らんだけど、すぐさま思い出した
ように言葉を続けてきた。
「自分の気持ちに正直になった方がよいと思いますです」
「正直に……」
正直に言うと、答えは出ている。今、僕が好きなのは彼女だ。学園祭、修学旅行、初めて
のデートの時か、それより前の学校で起きた事件、バーベキュー、料理対決、いやもっと前、
初めてさっちゃんと出会った時、それとも昔、初めて彼女に会った時から、好きだったのかも
しれない。
「………………答え」
「決まったのか?」
「決まりましたか?」
ずっと好きでいる必要はない……
正直になればいい……
二人の言葉が胸の奥まで染み入る。彼女達が僕の友達で、本当によかった。
「うん」
僕は力いっぱい頷いた。その途端、
「よしっ! では次は我らの番だ!」
「え」
「早く横になってください……もう! じれったいのです、押し倒すのです!」
「ええ」
僕は二人に慣れた手つきで押し倒されてしまった。
「ちょ、ちょ、何ぃ?」
「何?ではない。主が深刻な鬱だったせいで三日間も我慢していたのだぞ」
「もう喉がからからなのですよっ。早くするのです」
さっきまで僕を心配していた様相は微塵も見せず、ちょっと怖さを感じさせる血走った
眼をして貪られていく。
「な、何だこれ! 結局そういうオチなの!?」
「黙れ黙れ。口を動かしていらん体力を使うと、死ぬぞ?」
「ええぇッッ!?」
「久しぶりに限界ギリギリまで搾り取ってみますよ」
「待ってよ! もう少し決意を抱いた余韻とかそんなのに浸らせてくれてもいいじゃない
かっ!!」
『却下』
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ――」
二人の言葉は心に酷く沁みる。彼女達が僕の友達で、本当に苦労した。
(あ、でもえっちは気持ちいいことだし、これはこれでいいのかも……)
と前向きに考えてみたけど、数分後にはそんな甘い考えはまったくもって根底から否定した。
「大ちゃん!!」
玄関で靴を履き替えていると、家の中から母さんに声をかけられた。
「なに?」
立ち上がりながら振り返り、母さんが傍に駆け寄ってくるのを待った。
「忘れ物」
はいと言いながら母さんが差し出したのは白いリボンだった。
「……僕、リボンなんてしないし」
「何言ってるの? 女の子へのプレゼント用に決まってるじゃないの」
「ええっ!?」
「どうしちゃったの驚いて? セントホワイト祭の風習くらいしってるでしょ?」
「それは知ってるけど……」
今日は十二月二十三日。僕は明日行われるセントホワイト祭の実行委員として学校に行く
ところだ。前日の準備ということで、今は規定の全身真っ白な服じゃなくて制服を着ている。
セントホワイト祭には好きな人に白いものを送るという、ある種の伝統みたいな慣わしがある。
「今年は白いリボンが流行りみたいなの」
「どこからそんな情報を……」
「だから持って行きなさい。どうせ買ってないんでしょ?」
明日の本番は今日以上に忙しく立ち回らなくてはいけないので、実行委員がプレゼントを渡す
のは今日がいいと母さんに教えてもらっていた。だけどここ数日、ずっと気落ちしていたのです
っかりプレゼントの準備を忘れていた。
「ほらほら照れないで持っていきなさいよ」
「いいよっ! 自分で買っていくから」
拒否すると母さんの目が丸くなり、そして輝きだした。
「んまぁっ! やっぱり大ちゃんにも好きな子がちゃんといたのね!」
「あ……」
やられた、と思った時には母さんが一人で自分のことのように舞い上がっていた。これ以上ここ
にいると絶対母さんに絡まれると察し、いそいで玄関を飛び出した。
「い、行ってきまぁっす」
「頑張ってくるのよぉ」
母さんが手をひらひらさせて涙を浮かべてにやにやしているのが、振り返らずとも容易に想像できた。
外は雲がかかっていて少し暗かった。この時期なら雪が降り出すかもしれない。
「さ。急ごっ」
「白いリボン?」
制服に身を包んだ梨紅が尻上がりに聞き返すと、梨紗の表情は見る間に外の天気と同じ
になっていった。
「……知らないの?」
「うん」
「……本当に?」
「だから知らないってば」
「ええぇぇぇぇっっっ!!?」
教室内に誰かいたならば間違いなくその視線を引いただろう。今は梨紅と梨紗しかいない
ため、梨紅が耳を塞いで顔をしかめるだけだった。
「なによそれっ! あんた女じゃないわ!」
「そこまで言うかぁこの妹はっ!?」
取っ組み合いを始めそうな勢いだが、仲良し姉妹はそんな野暮なことはしなかった。
「まあいいわ。梨紅を女にするために私が直々に教えてあげる」
「うわぁ……全然教えてもらいたくない言い方」
「黙って聞く。いい? セントホワイト祭では好きな人からプレゼントが貰えるのよ。今年の流行は
ずばり白いリボンっ! 結んでもらったら両思いになれて万々歳なの、分かった?ってちょっと
待ちなさいってば!!」
奏でるように言葉を紡いでいた梨紗を見捨て、梨紅はさっさと教室を出ていた。
「実行委員の仕事が忙しいから。じゃね」
「待ちなさいって」
両手いっぱいに荷物を抱えた梨紅の後ろ姿を慌てて追った。実行委員の仕事を助けるために
クラスメイト男女何名かが助っ人としているのだが、梨紗は先程から喋ってばかりで手を動かし
ていなかった。
「実行委員で思い出したけど、丹羽くんも実行委員なんだよねぇ」
「ん……うん」
あっけらかんと彼の名を出された梨紅は曖昧な返事をするだけだった。先日の一件以来、今ま
で以上に大助を意識してしまう反面、梨紗に対してどうしようもなく申し訳なく感じてしまう自分も
いる。その板ばさみを避けてまったく彼の話はしていなかったのに、梨紗から話を振ってくるとは
思っていなかった。
「……梨紅、気にしてるの?」
聞かれるまでもない。梨紗の問いかけに重々しく頷く。
「そんなに沈まないでよ。私まで気分が重くなっちゃうじゃない」
言ってくる梨紗の声は明るいものだった。
「それに、気にするくらいなら初めからチューなんてしなきゃよかったのよ」
「チューって……」
おばさん臭いよ、と軽口を叩きかけるも、言葉は喉の奥に引っ込んでいった。
「あ、あんたの方こそ、気にしたり……してないの?」
苦し紛れに話の矛先を妹へと向けると、梨紗は人差し指を唇に当てて考え込む仕草をした。
軽い調子で唸っているのが真剣に考えているのかどうかを怪しくさせる。と、
「私はそんなに気にしないよ」
意外な一言に梨紅は目を丸くした。
「だってさ、梨紅も丹羽くんが好きなんだから、何かあることくらい覚悟してたし」
梨紗の落ち着き払った言い様に胸が熱くなるのを自覚した。
ああ……この子って、強いな。
自分じゃそう考えられない。気持ちをすっぱりと切り捨てられない。梨紗の強さを、とても
羨ましく思う。
「あ、いたいた」
梨紗のことを深く心に感じていると、後ろから呼ばれる声に二人は振り返った。
「梨紅、ちょっと私達の方手伝ってくれない?」
呼んでいるのは助っ人の福田律子だった。
「オッケー。でもちょっと待ってて。これ運ばないと……」
「いいよ。私が持ってくから」
梨紅の腕の中から荷物を取ったのは何も手にしていなかった梨紗である。
「あんたが働くの? 珍しい」
「失礼ね! 私だってやるときはやる女なんだから」
「そうなの? じゃあ頼むね」
「それじゃちょっと借りてくね」
姉妹の会話が終わると律子が梨紗に断りを入れて梨紅を連れて行った。荷物を抱きしめ、
手の先だけ振って笑顔で二人を見送り、後姿が廊下の角へ消えていった。
「…………」
ようやく梨紗が手を止めると顔に張り付いていた笑みは剥がれ落ち、瞬く間に表情がしお
れていった。
「……気にしないわけ……ないでしょ」
荷物を抱える腕に頼りないほどの力を込め、胸に刻まれた痛みを懸命に堪えていた。
「ふぅ……っ」
と一息。
「実行委員は楽じゃないよ」
学校に着いてからずっと動いてばかりいたけどようやく暇ができた。と言ってもここに置き
忘れてあった暗幕を新聞部にまで持って行かなくちゃならないのでそれほどゆっくりもでき
ない。適当に出した椅子に座って、このまま立ち上がりたくないと誰かにねだりたくなるけど
そうもいかない。足元の塊に視線を落とし、
「冴原のやつ、僕に押しつけたんじゃないの?」
文句の一つでも言ってやった。美術室に暗幕を忘れたので取ってきてくれだなんて、僕の
仕事じゃないのに頼まれた。第一なんで美術室に忘れるのかが理解できない。
オレ仕出しで手が離せねえんだ
仕出しって何のだよ?聞く前に逃げられてしまった。忙しかったからなのか、それとも……。
「はぁ……」
と溜め息。
「よしっ――?」
気合を入れて立ち上がった時、美術室後ろの壁に並べて展示されている絵に気付いた。
「あの絵……」
その中の一つに目が留まった。見間違えるはずがない。僕が描いた絵だから。そう変わら
ない歳の女の子が二人描かれたその絵、学園祭からいろいろあったせいで飾ってある姿を
見たのは今日が初めてだった。
「……」
僕が描いた絵のはずなのに、絵の中の二人の少女はその双眸で僕を真っ直ぐと見据えて
いるような気がした。僕の心なんてお見通しだと言わんばかりである。
「……分かってる。心配しないで」
その瞬間、二人がそこにいるような気がした。しばらく二人の目を見つめ返し、そろそろ行か
なくちゃと思い立って足元で丸まっている暗幕を抱えて美術室を出た。
二人に会えたことだけは、冴原に感謝してもいいかな。
美術室から超特急で写真部へ向かっていた。暗幕のせいで前は非常に見づらいけど、少
しだけでも視界が確保できているので誰かとぶつかることはないと思っていた。しかし、
やっぱり気をつけるべきだった。
「きゃっ!」
「うわっ!」
廊下の曲がり角、出会い頭に衝突してしまった。衝撃で手から暗幕が放れてしまったけど、
ぶつかった人に謝ることを先にした。
「すみませんっ! 大丈夫です、か……?」
身体を九の字に曲げてから顔を上げると、そこには誰もいなかった。狐につままれたよ
うな気分になったのも束の間、すぐ下からくぐもった声が響いてきた。見ると、そこには
当たり前だけど暗幕が落ちている、のだけどそれがもぞもぞもぞもぞ奇妙に動いていた。
「……! あわわわわっ?! すすす、すみませんっっ!」
誰かが下にいると気付くのに数瞬かかり、急いで暗幕を拾い上げた。
「本当にすみませんっ! 怪我とかしてないですか? ――あ」
ぶつかった人を心配し、忙しくせっせと動かしていた手が思いがけず止まった。
「あ。丹羽くん」
「原田……さん」
どんっ
心臓が大きく飛び跳ねた。今まで彼女に感じていたどきどきとは違う、胸騒ぎに似たものだった。
「……」
皆がセントホワイト祭の準備に追われれ忙しなく廊下を行き来する中、彼は心ここに
あらずであった。
(……どうしたものか)
彼が考えていることは言うまでもなくセントホワイト祭のことである。すなわち、どうやっ
て大助に白いリボンを渡すのか。
(やはり正面から思いをぶつけるべきか)
何度も脳内で渡す際の台詞を練習しているのだが、どれもしっくりときていなかった。
考えに考え、彼はあの告白を採用することにした。
(……俺は、少し変態と言われるような不器用な男だ。だから、こんな風にしか言えない……。
俺は、丹羽が……丹羽が…………丹羽が好きだぁっ!)
「お前が欲しいぃぃぃ、丹羽ぁぁぁぁぁっっっっ!!」
「黙れ変態が」
突然絶叫した日渡怜の脳天に関本のチョップが見事に炸裂した。
「どうした?」
「いや、変態を一人成敗しただけだ」
傍で作業をする冴原に聞かれ、事も無げにそう言ってのけた。足元には頭上にできた
たんこぶから煙を噴く変態が一名。それをどう処分するか考えていると、遠くから声をか
けられた。
「ねえ、ちょっといい?」
「何か用か? 原田姉」
声の主が原田梨紅であることを確認すると、冴原が作業の手を止めて応えた。
「丹羽くん見なかった?」
「大助か。あいつなら写真部の部室に暗幕運んでるはずだぜ」
「そなんだ、ありがと……って何で丹羽くんが写真部の手伝いしてるの?」
「あっ、や、その……」
「冴原が大助に押し付けたんだってさ」
「関本! てめぇ余計なこと言ってんじゃ」
「冴原くんっっ!」
作業の手を止めずにこれまた事も無げに言ってのけた関本に冴原が突っかかろうとするが、
梨紅の大声によって制された。
「丹羽くんは実行委員の仕事がいっぱいあるんだからね!」
「わ、わぁったわぁったって。それよりさっさと大助探しに行った方がいいんじゃねえの?」
眉を吊り上げて詰め寄ってくる梨紅に低姿勢で謝りながらも話の矛先を変えようとする冴原
に対し、
「…………それもそっか。じゃあ行くね。作業頑張ってね」
「おぉう」
どうにか変えることができ、
「ほっ」
っと一息、
「冴原くんは他の人の三倍は頑張るように。分かった?」
吐くことも許されなかった。
「ちぇ、わぁったよ。じゃあな」
去り行く梨紅の背中に恨みがましい視線を向けて見送った。その際、梨紅が日渡の背中を
踏みつけたりなんかしたが誰も気に留めなかった。
梨紅は不安だった。
律子に頼まれた手伝いを終えてから梨紗の姿を捜し求めていたが、どこに行ったかも
分からずに会えずじまい。同じ頃、実行委員の大助も姿を消してしまっていた。
(…………まさかね)
そう思っても、一度芽生えた不安は簡単には去ってくれなかった。廊下を進む足も心の
焦燥とともに速くなる。
「どこ行っちゃったのよ二人ともぉ」
渦巻く不安が言葉となり外へ漏れる。また足の速さが上がった。向かう先は本校舎を少し
離れた部室棟にある写真部部室である。
暗幕を抱え、写真部部室を目指す。ついさっきまではかなりの速さで駆けていたけど、
今はゆっくりと歩いて向かっていた。自信過剰になってまた誰かにぶつかることを避ける
という意味もある。
「……」
「……」
けど最も大きなな理由は、彼女のペースに合わせているからだ。どういうわけか、原田
さんは僕について来ていた。もちろん最初は断った。一緒に行くなんて原田さんに申し訳
ないし、何より今朝決心したばかりだから彼女に――それも不意に会ってしまったことに
すごく動揺したからだ。だけど彼女は断る僕の言葉を飄々とかわし、いつの間にやら一緒
に行くことが決定していた。
「……」
「……」
一緒に行くと決めた時は元気溌剌としていたのに、二人並んで歩き出してから彼女の気
があからさまに変わり、口を開かなくなっていた。僕から声をかけるのも気が引け、おかげ
で無言の時間が僕達の間に流れていた。早く写真部部室に向かいたいと思いは急き、しかし
歩調を合わせているせいでそれは叶わず、沈黙の重圧はどんどん大きくなっていた。
数時間は続いた気がする沈黙は、部室棟に着いてようやく終わりを告げた。
「写真部は……あそこだね」
小走りになってペースを上げ部室へ急いだ。ドアノブを回すと、途中でがちりと音を立てて
それ以上回らなくなった。
「鍵かかってるじゃないか。まったく……」
部室の鍵は特別教室のものとは違い、至って普通の施錠式のものだ。いつもの調子で開け
ようかとも考えたけど、原田さんが一緒なのでそうせずに暗幕を部室の前に置いておくことにした。
「終わったの?」
「うん。それじゃみんなのところに戻ろっか。人手が足りないと思うから。……だけど」
周囲を見回しても人の姿はない。さっきまでいた校舎では忙しなくみんなが行き交って
いたのに、ここだけが異様に静かだった。ゴーストタウン、という単語がよぎった。
「なんか、静かだね」
「セントホワイト祭の準備が忙しいから部室に用事がある人ってそういないんじゃない?」
「…………それもそっか」
学園祭と違って部の出し物があるわけじゃない。だとしたら僕が暗幕を運ばされたのは、
ただ体のいい遣いっぱしりということ、なのか?
「…………冴原ぁ」
後で文句の一つでも言ってやろうと思いながら、用件は済んだのでその場を離れようと
した。
「じゃあ行こう」
「うん……」
原田さんの横を通り先に立って来た道を戻ろうとした時、背後から呼び止められた。
「……やっぱり待って!」
「何? どうかしたの?」
振り向いて訊ねると、原田さんの視線がそわそわとして定まっていないことに気付いた。
さらに訊いても、まるで僕の声が届いていないみたいだ。
「原田さん?」
「あ、うん……その……ね。今しか、言う機会ないと思うから」
原田さんは深呼吸を繰り返し、怪訝に見つめている僕に告げてきた。
「言うって僕に? 何を?」
聞き返すと、原田さんはやはり視線を泳がせ、それから僕を真っ直ぐに見据えた。いつも
と違う雰囲気に、さっき彼女と出会った時と同じく心臓が騒ぎ始めた。
「丹羽くんは、白いリボン持ってきた?」
「リボン? 僕は持ってきてないよ」
「……そっか」
今朝母さんから受け取るのを拒否したから持っているわけがなかった。だけど学校に来る
途中、別の白いものを用意していた。無意識に手がズボンの後ろポケットに伸びる。少しだけ
感じる盛り上がりが、その存在を主張している。
「なら……私のこれ」
「え?」
ポケットに向けていた顔を上げた時、僕の目が彼女の差し出していたものに止まった。
「受け取ってくれますか……」
原田さんの手の平には、純白のリボンが乗せられていた。
「え……」
「一度、丹羽くんの告白断っちゃったけど」
彼女の言葉が、決まっていたはずの僕の気持ちを大きく揺り動かそうとした。
「勝手かもしれないけど……これが今の私の気持ちです」
――僕は、自分の気持ちにけじめをつける。彼女に会って、ポケットの中のものを渡して
告白する。好きだった人への想いを吹っ切ってそうする。
そのつもりだった。
なのにその人は、その人からの告白は、僕の決心なんて簡単にぐらつかせた。
喉がざらつく。
唾も出てこない。
動悸が嫌なほど音を立てる。
こんな心中になるのはいつ以来だろう。これは…………。
そこで、やっと僕の気持ちは決まった。なんでこんなに不安なのか。こんなに動揺して
しまうのか。
梨紅さんへの想いが阻まれてしまうこと。それが、怖かったんだ。嫌だったんだ。
「原田さん」
そうだ。僕の心はもう決まっていたんだ。僕はもう、迷わない。
「……僕は」
彼女にはっきりと伝えよう。向き合うのを拒んでいた顔を原田さんに向かわせた時、
「――梨紅」
原田さんが呟いた。彼女の目は僕を越えて背後、ずっと後ろの方を捉えていた。導か
れるように振り返ると、そこにいた彼女と視線が交わった。
「梨紅さんっ!?」
大声に驚いたように彼女が姿を消す。一瞬しか見つめ合わず、しかも遠目だったけど
確かに梨紅さんだった。
「待って……!」
すぐに後を追おうと駆け出した足は、上体に引っ張られて止めざるを得なかった。
「原田……さん」
僕の右手は原田さんの両手にリボンとともに掴まれていた。僕を見つめる彼女の瞳は、
訴えかけるように悲しく潤んでいる。
「先に返事、聞かせて」
「あっ」
「お願いだから……」
彼女は痛いほど僕の手を握り締めている。返事を聞くまで、離してくれないだろう。すでに
答えを決めていた僕は気持ちを奮い立たせ、沈黙していたら引っ込んでしまいそうなその
答えを口にした。
「ごめん……」
言った瞬間、ふっと彼女の手から力が抜けるのが分かった。衝撃に打たれた表情の彼女
から、そっと手を引きぬいた。
「僕は、原田さんの気持ちに応えられない」
返事をしてわずかの後、原田さんは急に顔を晴らした。
「丹羽くん、早く行きなよ。梨紅の後追うんでしょ?」
「へ? あれ? あの」
「あ、ゴメーン。丹羽くんが梨紅のこと好きなの知っててちょっとからかってみただけだから、
本気にしなくていいよ」
さっきまでの様子との急なギャップについていけない頭は狂った機械みたいにひどく混乱した。
「んもぉ、丹羽くんっ!」
「あ、はいっ」
「早く行かないとあの子見失っちゃうよ? 後悔しちゃうよ? それでいいの!?」
「よ……よくない」
「だったら! 早く行って」
「う、うん。あの……ありがとう」
よく分からないけど原田さんに、止まっている僕の背中を押されている気がしてついそう
言ってしまった。にこにこ好奇の笑顔を浮かべて手を振る原田さんに手を振り返し、急いで
梨紅さんの後を追いかけた。
早く大助の背中が視界から消えてくれないかと、笑顔の梨紗は強く願った。彼が見えな
くなるまでは泣かないと決めていたのに、彼が梨紅の後を追うために走り出した時からず
っと双眸から雫が溢れていたからだ。
大助は一度も振り返ることなくあっという間に廊下の角へと姿を消した。
「…………」
しばらくしてから手を振るのをやめ、膝を折ってしゃがみ込んだ。彼女は、大助の手が
離れた時に一緒に床に落ちた白いリボンを拾い上げた。役目を終えたリボンを強く胸に抱
きしめ、ようやく声を上げて泣き出した。
一つの恋が、終幕を迎えた。
いつからだろう。彼女を好きになったのは。夢の中でも考えたことだ。
「福田さん、石井さん、梨紅さん見かけなかった!?」
「梨紅? 私は見てないけど。真里は?」
「わたしも見てないよ。うわ、丹羽くん汗かきすぎ」
「ありがと、じゃあっ」
「…………なんか、頑張ってるね」
「ふむぅ、青春ね青春」
14歳の誕生日、初めて梨紅さんとえっちをしてしまった時。予期せぬ事態とはいえ、あの
時から僕の中で大きな変化が起きていた。
「沢村ぁぁっ!」
「ん? 何か用?」
「あっ、あのだなっっっ、そのっっっっっ」
「西村、沢村さんっ」
「丹羽くん!? あたしに何か用なの? もしかして白いリボン?」
「梨紅さん見かけなかった!?」
「原田姉さんか? オレは見てないぞ。っていうかオレの邪魔をするな」
「ありがと、じゃあっ」
「どうしよう、あたしリボン貰う気なんてないんだけど、まあ丹羽くんがどうしてもって言うなら……」
「貰ってくれるのか!? マジか沢村っっっ!!?」
「あんたじゃないわよっっっっっ!!!」
長かった……。あの時から今日まで、とっても。答えを見つけるのに、時間をかけすぎたの
かもしれない。
「冴原、関本、梨紅さん見かけなかった!?」
「原田姉? さっきお前のこと捜してたぞ」
「そういやさっき向こうの方に走ってったぞ。冴原は見てなかったのか?」
「悪りぃな。俺は自分の仕事だけで手一杯だ」
「ありがと、じゃあっ」
「…………なんか必死だな」
「ま、いいんじゃねえの?」
「ところで丹羽、俺に白いリボンをくれないか?」
『寝てろよ変態』
今は早く、少しでも早く、すぐにでも胸の内にある想いを伝えたい。
梨紅さんを追いかけ、僕は外に飛び出していた。いつ降り始めたのか、雪が微かに地面
に降り積もっている。すぐにでも土に解けて還りそうな雪の上に、まだ新しい靴跡が残って
いる。考えもせずにその跡を追っていくと、それは校舎の裏手、人気のない方へと続いてい
た。そこはついさっき原田さんにからかわれ、そして彼女を追い始めた部室棟の雰囲気と
似ていた。
そしてそこに、足跡の終着点に彼女はいた。背を向けているけど、紅い短髪は彼女に違い
ない。呼吸を整え、足を進めた。
「丹羽くん……」
足音で気付かれたのか、それとも気配を感じたのか、梨紅さんは背を向けたままだ。
「梨紅さん、あの」
「どうして?」
「どうし……?」
「どうして追ってきたりするの……」
「それは」
「梨紗に告白されたんでしょ! だったらそれでいいじゃん!」
「それで……よくなんかないよ」
「なんで!? 丹羽くんは……丹羽くんは梨紗が好きなんでしょ!」
「違うよっ!」
彼女が息を呑むのが聞こえた。少しの沈黙、僕はそれを破った。
「今……今僕が好きなのは、梨紅さんだよ」
――それからまた沈黙、次にそれを破ったのは、梨紅さんのしゃくり上げる声だった。
「り、梨紅さん!? なな、何で泣いて……! もしかして嫌だった」
「やじゃないわよ! …………嫌じゃないからぁ、泣いてるんのっ」
最後にバカ、と涙声で付け足された。泣きじゃくる女性の扱いなんて知らない僕は原田
さんにからかわれた時と同じくらいどうしていいか分からなくなってしまった。
「あ、あ、あ、そうだ!」
ズボンのポケットに手を突っ込み、梨紅さんに渡すつもりのものを取り出して彼女に歩み
寄った。
「あのこれ、これで涙拭いて……っ!」
身体を小さく震わせる梨紅さんが肩越しに僕を見やった。赤く染まる瞳と顔に、降り続ける
雪を溶かしてしまいそうなくらい僕の身体は熱くなった。僕を見る彼女の目が手にしている
ものに移る。
「……ハンカチ?」
「あ、うん。本当はリボンがいいかなって思ったけど、実は売り切れちゃってて……」
母さんの申し出を断ったくせに白いリボンを探したけど、結局見つからずにハンカチに
してしまった。けど、ハンカチのおかげで梨紅さんに白い贈り物を渡すきっかけができた。
涙を手の甲で拭って向き直る彼女に訊いた。
「受け取って……くれますか」
今まで見たことのないとびっきりの彼女の笑顔を僕は目にした。
「はいっ」
二人が抱き合うところを、雪だけが暖かく見守っていた。
季節は冬、誰もが胸を躍らせる年に一度のSt.Whiteの前日のことだった――