――十二月二十日。中身はほとんど空の鞄と油絵を小脇に抱え、いつもより早い時間に
家を飛び出した。学校へ向かう道中には同じ学校の制服を着た人の姿がぱらぱらとあった。
最後の準備をするつもりなんだと思う。考えることはみんな一緒みたいだ。
今日は待ちに待った学園祭の日。練習に費やした日々の集大成ということで、気合の入り
まくった監督の沢村さんの一声で二年B組も呼び出された。
――絶っっっ対に一位を獲るわよ!
とは沢村さんの言。クラスの出し物の中で、劇は審査員によって順位をつけられることに
なっている。沢村さんはどういうわけか異常に燃え上がり、他のクラスへの対抗心むき出し
で一位を狙うと宣言していた。おかげで僕も早朝から学校へ行くことになったわけだ。
他のクラスメイトはどう思ってるか知らないけど、僕にとってはすごくありがたい事だった。
この劇、『アイス・アンド・スノウ』だけは全力で打ち込みたかった。それがフリーデルトさんや
時の秒針、エリオットへの償いになるわけじゃないと思う。けど、
(僕には、これくらいしかできないから……)
上履きに履き替えて教室へ行く時、すでに幾つかのクラスは出し物の看板を教室の入り口
に張り出していた。お化け屋敷にリサイクルショップ、街の歴史展示場に漫画喫茶とメイド喫茶、
コスプレブースに同人誌即売会場……?
「……なんか」
見てはいけないものを見てしまった気がする。関わるのは怖いので、逃げるようにその場を
通り過ぎた。
(先生たちもよく許可出したなぁ)
そんなところで感心してしまった。
「ん?」
廊下の掲示板には劇を行うクラスの、客寄せのためのポスターがずらりと掲示されている。
結構な数だ。今年は劇が人気の出し物だったのかもしれない。
「うぅ、でもなぁ……」
あまりポスターの列を見たくなかった。なぜならその中には、あれがあるはずだからだ。
数日前に撮影された僕の写真がでかでかと載った、二年B組のポスターが。
見ないように努めていたはずなのに、それは視界の隅にちらっと映り、見たくない見たくない
と思いつつも視線はそちらに、引き寄せられてしまうように動いてしまった。
そこには僕が、話題性を集めるという名目のためにあんな格好をしてしまった僕が載るポス
ターがあった。
――今から数日前。
「っっんぼ、ぼ、ぼぼ、僕ががじょじょじょ女装ぅぅっっっ!!?」
「おう」
美術室に呼び出された僕に冴原が告げた言葉に、完全に気が動転した。
「んな、ななな、なななんでぇぇっっ!!」
「何でって、この前説明した時は二つ返事で承諾したじゃねえか?」
「この前って……――!」
覚えがない。なぜならその数日前、僕は意識不明でずっとベッドに寝ていたからだ。冴原が
何を言っているのか全然理解できなかったけど、そこではたと気付いた。
僕が『時の秒針』に連れて行かれていた間、学校にはウィズが変わりに出席していた。もし
かしたらウィズが勝手に冴原の悪巧みに頷いてしまい、僕に伝えることもせずにとばっちりを
受けてしまっているのかもしれない。というか、間違いない。
「ほら、客の興味引くにゃあそれなりの話題が必要だからお前の女装した姿でポスター作るって
説明したじゃねえか。お前、へらへら嬉しそうに笑って頷いたろ」
「う、嬉しくなんてっ――!!」
「大助」
抗議の声をあげる僕に、冴原がいきなり不似合いな真剣な声で語りかけた。
「お前、劇が失敗してもいいのか?」
「え……」
「みんなで一生懸命頑張って積み上げてきた努力の日々を、お前のわがまま一つで崩しちまっ
ていいのか?」
「あの……」
「お前だって成功させたいだろ? 『アイス・アンド・スノウ』、フリーデルトとエリオットの恋物語を」
「!!」
電撃に打たれたような衝撃。そうだ、僕は、僕はこの劇を成功させなきゃいけない。この前、雪
が降りしきる中で誓ったんだ。
「――分かった。分かったよ冴原、お前の気持ち!」
「分かってくれたか、友よ!」
硬く手を握り締め合い、僕と冴原は互いの決意を称えあった。
その日の練習が終わってから、美術準備室で福田さんと石井さんに手伝ってもらい、
僕は女装――とは言いたくない。劇に出るフリーデルトさんの衣装と、それにメイクもして
もらった。茶色がかったかつらが少しむず痒く感じる。
「…………」
「…………」
「あの、どうかした?」
惚けたように僕の顔を眺める二人に尋ねたけど返事はなく、いつまでも見られていそうな
雰囲気だった。
「………………可愛い」
「………………惚れそう」
「えぇっ!?」
突然の告白にまたまた気が動転、頭がパニックになってしまった。
「か、鏡で見てみて!」
「押し倒したいかもぉっ!」
「いい、どっちもいいよ! ぼ、僕、冴原のところに行ってくる!」
ずいずいと迫りくる二人の脇を鮮やかにすり抜け、美術室へ続く扉に手をかけた。
「冴原くんに押し倒されないようにねぇ」
最後に石井さんがかけてきた言葉に背筋が総毛立つのを感じながら、急いで準備室を後
にした。
「遅えぞ大助!」
「ごめんごめん。ちょっといろいろあって……」
美術室に入るなり冴原が怒気を孕んだ声で僕を責めるように怒鳴りつけた。
「いろいろってなあ、オレだって貴重な時間……割い……て…………」
冴原と目と目が合い、そしたら何故かその顔から怒りの色が見る見るうちに引いていき、
代わりにさっきまで二人の女子が浮かべていたのと同じものが浮かんできた。
「…………さ、冴原?」
石井さんにかけられた言葉が恐ろしいくらい頭に反響する。本能が警鐘を鳴らしている、
そんなな感覚に襲われた。
「はっ!? あ、ああ……」
その目にようやく正気が戻り、慌てたように愛用のカメラを構えた。
「そ、それじゃまずは立ち姿から撮ってみっか」
「う……うん」
心なしか冴原の声が裏返っている気がし、不安は拭えぬままポスターのための写真撮影
に取りかかった。真っ直ぐ突っ立っているところを冴原がカメラに収めていく。
「なんかポーズとってみろよ」
「ポーズ?」
「こう……なんてえかな、女っぽいやつ頼む。色気たっぷりの」
「い、色気……?」
「照れるなよ! 被写体の心の迷いはカメラを通して伝わるんだ! お前は今、フリーデルトだ!
らしくしろよなっっ!」
頭をがつんと殴られたような衝撃。忘れるところだった、僕はこの劇に全力を注いで、ちゃんと
成功させるんだった!
「そ、そうか。そうだね! 僕――いや『私』はフリーデルト!!」
「おおっっ! その通りだ!!」
私は今だけでもフリーデルトさんになりきることを決心し、彼女の立ち居振る舞いを記憶の中
から掻き集めた。
「こんなポーズはどうかな!?」
大胆な格好。詳細は割愛。
「お、おお! いいぞ大助!!」
「こんなのも需要ある!?」
「あるある! ありまくりだぁっっ!!」
過激な姿。詳細は割愛。
「上目遣い、上目遣いで頼む!」
「こう……?」
「っっっっくぅぅぅ!! さすが大助、打てば響くように返してくれるぜぇっっ!」
「ああ。素晴らしいぞ丹羽」
「日渡くんっっ!?」
「のわっ!! なんでてめえがここにいんだよっっ!!」
「気にするな。それより丹羽……いやフリーデルト、少し憂いに満ちた瞳で頼む」
「お、それいいな」
「えぇ……っと、こんな感じ?」
「やばいそれまじでやばい」
「ブラボーだ。なら次は鎖骨を、肩をちらっと出すんだ。できれば肩ひもは軽く乱れたように」
「肩ひもって……ぶ、ブラジャーなんてしてな」
「それはいかん! 今すぐ用意する」
「……それは本気で」
「無論だ」
「とりあえずまず脱げ! 脱ぐんだ大助!」
「ぬ、ヌードォ!? それはいろいろまずい」
「考えるな、感じるんだ!!」
「ちょっと待っ」
「安心しろ。フィルムはまだ大量にある」
「そういう問題じゃな」
「いやなのか!? それじゃお前ポスター無しで客呼んでみろよ!」
「うぅぅ……」
「ヌ・ー・ド、ヌ・ー・ド」
「ヌ・ー・ド、ヌ・ー・ド」
「うわぁぁぁぁぁぁっっっっ――」
「――あ、目眩いが……」
結局ヌードコールに応じてしまって……。片隅に追いやっていた数日前の悪夢がまざまざと
蘇ってきた。頭を振って早急にに頭から追い出す。けど半ば乗せられてやったことと
はいえ、
「よくあんな恥ずかしいことしちゃったよな……」
我ながら嫌なところで感心してしまう。ポスターに載る僕の姿は、自分で見ても艶かしく、
「いやいやいや」
また頭を振る。今度こそポスターを目にしないようにかなりの注意を払いながら教室へ向かった。
「おはよ」
教室に入ると、すでにいた何人かのクラスメイトが挨拶を返してくれた。
「おはよ。今日は頑張ろうね!」
駆け寄ってきたのは監督の沢村さんだった。並々ならぬ入れ込みようが言葉にも滲んで
いる。
「あたし達の出番が十一時だから、後大体三時間くらい暇があるの。それまでに大まかな
流れと、細かいところの最後の確認するからね」
「うん、分かったよ」
「衣装には本番前に着替えてもらうから。衣装は美術室で係の子が最終チェックと保管し
てるからそこで着替えてねそれから女の子が着替えるところ覗いちゃダメだからついでに
言っておくけどアーでも後でいっかそれじゃ今いる人だけで先にできることやっとこう!」
早口で捲くし立てる沢村さんに圧倒されてしまうけど、僕だってこの劇に賭ける意気込み
は負けてない。鞄から擦り切れるほど使い込まれた台本を取り出して荷物を机の上に置く
と、他の出演者と一緒になって台詞回しや動きの確認に勤しんだ。
「あれ? 原田さんはまだ来てないの?」
開始してすぐ、僕は主演の一人が未だ教室に姿を現していないことに気付いた。確認を
し合っていた人に訊いても首を傾げるだけで知らないらしい。
「沢村さんは知らないかな?」
今度は監督に訊ねたけど、その表情は晴れていなかった。
「自宅にも携帯にも電話してみたけど全然連絡取れないの」
「梨紅さんは? 梨紅さんなら知ってるかも」
「ダメ。姉妹揃って来てないの。梨紅にも連絡つかないし……」
これはかなりまずい状況かもしれない。理由はどうあれ主役が欠席となると、その穴は
とても大きい。
「けど丹羽くん達は気にしないで。あたしらの方で何とかするから、そっちはそっちで頑張っ
といて」
「うん……」
確かに沢村さんの言うとおり、今僕達がしなくちゃいけないのは原田さんの心配じゃない。
ここは監督を信じて、僕はできることをしっかりしよう。
――午前十時半。本番開始予定時間の三十分前となった。まだ練習し足りないという不
安はあったけど、遅れると監督が怖いので僕達はきっちりと切り上げて美術室に足を運んだ。
そのついでに家で描き上げた一枚の油絵を持って行くことにした。美術部員として本当な
ら雪原の絵を出展するはずだったけど、あの絵はこの前、『時の秒針』と『時の楔』と
ともにどこかに消え去ってしまった。その代わりとして先生に無理を言ってこの絵を
出すことを許可してもらった。人に見られるのはちょっと恥ずかしいけど、こうするの
がいいと思う。
美術室に向かう出演者の集団、その中に原田さんの姿はなかった。
「おっそいわねぇ」
美術室に入るなり監督の苛立った声を浴びせられ、僕達は震え上がった。
『もうしわけございませんでした』
まずは土下座して謝ってみる。美術室に入った僕達だけでなく、すでに室内にいた人
も全員で。もちろん額は床にべったり。
「え? あ、あららヤダってば! みんなに言ったわけじゃないから誤解しないで」
諸手を振って否定する監督様に、全員恐る恐る面を上げて彼女の顔をうかがってみる。
『……………………ほっ』
一斉に安堵する。どうやら本当に怒ってないらしい。
「でも、じゃあ誰に遅いって言ったの?」
「ん? ああ、こっちの方ね」
そう言って沢村さんは携帯電話を手にして僕に示した。何を意味しているか、すぐに
ピンと来た。
「まだ連絡つかないんだ」
「うん。念のためあたしの小間遣いを二人の自宅に送ったけど、やっぱり気になってね」
彼女はストラップを指にかけて携帯をくるくる回してみせる。そういえば校則じゃ携帯
の持ち込みは禁止されてたはず……。ところで小間遣いって、誰?
「んん…………、あっ!」
難しい顔で唸る沢村さんが突然動き出した。みんなから離れるように脱兎の如く部屋の
隅に移動し、なにやら一人で話し始めた。携帯に連絡が入ったようだ。
「ちょっと遅いよ! え? 今向かってる? それで……うん、うんうん。間に合うのね!?
……………………」
っっっっえええええぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!
その瞬間、室内にいた全員は耳を塞いだ。突然木霊した大音響に、僕は苦渋を顔に滲ま
せて膝をついた。
「こ、鼓膜がぁぁぁっっっ!!?」
「耳鳴りが……ひど、い……」
「ああっ、頭が痛いッッ!」
「時が……見える……」
苦痛に悶えている間も、沢村さんだけは元気に……というか慌てた様子で喋り続けていた。
ようやく頭に残る変な効果が抜けてきた頃、沢村さんの電話も終わった。
「一体、何?」
訊いても彼女は答えてくれない。僕の言葉に耳を傾けることなく携帯を胸ポケットにしまう
と、監督らしく堂々と尊大な雰囲気を醸し出して言い放った。
「出演者はさっさと着替えて! それから教室で待機、指示があるまで教室から出ちゃダメ
だからね!」
「何だその指示?」
「文句言わない! 早く着替える、時間は待ってくれないんだからね!」
「オレらには知る権利が」
「ないわ」
主張する関本はきっぱりと言い捨てられた。言葉に詰まってぐっと唸ったところに沢村さん
はたたみかけていく。聞くに堪えない罵詈雑言、ではないけど、何も言い返せずにどんどん
と責められる関本を見ているのは、見ているこっちが辛くなってきそうだった。
沢村さんの指示通りに美術準備室で着替えさせられ、そして原田さんを除く出演者全員は
二年B組の教室に軟禁されていた。
「じろり」
入り口で目を光らせているのは沢村さんの小間遣いこと、西村だ。
そんな状況ですることはないわけじゃなかった。僕達は台本を片手に携え、最終確認に余念
なく打ち込んでいた。台詞に諸動作、音響や照明とのタイミング等々。といっても僕と原田さん
以外の登場人物は僕と比べると出番は短いということもあり、ほとんど僕しか練習してないよう
な気分になってくる。今さらながらにほぼ出ずっぱりの主演は大変だなと不意に痛感した。本番
前にばててしまわないよう気をつけよう。
「おいお前らっっ!!」
練習をしていると、教室のドアが開かれた。そこから大声をあげるのは広報係の冴原だ。
「よぉぉぉやくヒロイン様が到着したぜ」
「本当!?」
「やっと梨紗来たんだ」
「結構ぎりぎりだったな」
「間に合ってよかったぁ」
冴原によってもたらされた吉報は練習と本番前の緊張でくたびれていた僕の心をすっと軽く
してくれた。舞台に上がる他の人も同じみたいで、みんなで視線を交わして顔を綻ばせた。
「それで原田さんはどこに?」
「着替え終わったらすぐ来んじゃねえか……っと」
冴原がやってきた方、つまり美術室へと向かう廊下に目をやると、何かを見つけたようだ。
「へへ、フリーデルトのお出ましだ」
開けられたドアから冴原が身体を引っ込めると、入れ替わりに別の人が姿を現した。衣装
係の人達が作ったドレスに身を包み、腰まである茶色がかった長いかつらを付けたフリーデ
ルト役の、原田さんだ。
「お、お、遅れてごめんなさいっ」
ぶわんと風を切る音が聞こえそうな勢いで原田さんが腰を折った。飛んでいきそうなかつら
を慌てて手で押さえながら顔を上げる。
「ホント、どうなるかと思っちゃったわ」
「こんな日に寝坊でもしたの? 神経太いんだから梨紗は」
「間に合ったんならいいけどさ。それより本番前の練習した方がいいんじゃないか?」
原田さんを迎え入れているところに、関本が忠告するようにそう訊いてきた。
「そ、そ、そうだね。あたしが一番頑張らないといけないからね」
「でもあんまり時間ないんじゃないかな?」
確か本番開始三十分前に着替えをしに美術室へ。それから教室に戻って最終調整。そして
ようやく原田さんと合流。ということは……。
「そろそろ舞台袖に集合してくれ」
小間遣いが投げかける無常な宣告。僕は、僕達は――特に原田さんは――顔を引きつら
せた。
劇の会場となる体育館。暗幕に覆われたその空間の中、壇上――劇のステージだけは
照明で燦々と照らされていた。
「――これで一年C組による劇『ブレンと愉快な抗体達』は終了です」
劇の終わりを告げるアナウンスとともに客席のあちこちから拍手が沸き起こった。なかな
か好評な劇だったらしい。
「小助さん、次よ次! いよいよ大ちゃんの出番よっ!」
「笑子さん落ち着いて……」
客席の最前列、丹羽ファミリーはちゃっかりそこに陣取っていた。
「はっはっは。大助にどれほど演劇の素質があるか楽しみじゃわい」
「あらあらおじいちゃま、あまり高笑いすると顎が外れてしまいますわ」
大助が練習する姿を影から監視……ではなく見守っていた家族が来ていることを大助は
知らされていない。来るとは察しているだろうが、まさか最前列とは思いもしないだろう。
「さっちゃんレムちゃん、そろそろ起きなさい」
小助は隣で眠りこける二人の幼女の身体を揺すった。いかがわしい他意はないのであし
からず。
「んん……んぅ」
「もぉ……食べれませんん……」
二人が大助の舞台姿を拝見したいと頼んだので、『時の秒針』の件の礼も兼ねて連れて
きたのだが、暗い世界でじっとしていることに退屈してしまった二人はいつの間にか熟睡し
ていた。
「せっかくだからそのままにしておきましょう」
「でも二人は大助を見に来たんだから……」
「その点は心配ないわ」
自身あり気に言い切る笑子は足元に置いた鞄を抱え、中をごそごそと探り何かを取り出
した。
「そんな時のためにビデオカメラを持ってきたの。二人には大ちゃんの姿を収めて後で見せ
ましょ」
「さすが笑子さん。用意がいいね」
いそいそうきうき楽しそうに、笑子はカメラの準備に取り掛かった。
「むにゅぅ……こらもっと優しく……」
「……太いぃですぅ……ふにゅ」
よだれを流して愛らしい寝顔を浮かべる二人の寝言は少し過激だったりする。
二年B組の前のクラスの劇が終わるのを舞台袖でスタンバイしている僕達は見ていた。
「案外……体育館って広いな」
「人があんなにいる……」
「拍手ってこんなに大きいの!? ダメ、緊張してきたぁ」
耳にざわざわと拍手、それに歓声もこびり付く。僕の胸は美術品を盗みに侵入している時
と同じくらいどくどくと大きく鳴っている。
「みんな、準備はいいわね?」
舞台袖には出演者に監督や音響係、もう仕事はほとんどない衣装係の人などが集まって
いる。
(そういえば梨紅さん、来たのかな……)
ふと彼女のことを思い出した。今日は朝から忙しかったし、彼女も遅刻していたし、な
んだかんだで一度も顔を合わせていなかった。この場に集まったクラスメイトの顔を見回し
てみるけど、梨紅さんはいない。
「いい? 一生に一度しかない劇なんだからね。気合入れなさいよ。……丹羽くんっ!」
「は、はいぃっっ!?」
監督の強い声に僕の身体はたちまち縮み上がった。想っていたことも綺麗さっぱり霧散し、
てっきり怒られるものだと思った。
「それと……梨紗。二人は主役なんだから、しっかりそれを自覚して舞台に立つのよ」
怒られる、と思ったのは僕の杞憂だった。沢村さんは僕と原田さんにだけそう言ってくれた。
「うん。一生懸命やるよ」
「あ、あたしもだよ」
みんなは互いに頷き合い、自然と円陣を組み始めた。
「それじゃ劇の成功を祈ってぇ………………ふぁいと」
「おおぉっ」
さすがに本番直前の舞台袖で大声は張り上げられないので、小さくみんなで声を揃えるだけ
にとどまった。そしてそれぞれの人は自分の持ち場へと赴いていった。
「原田さん」
体育館が暗転しいよいよ僕達の劇が始まるという時、もう一人の主役の女の子に声を
かけた。
「…………」
「原田さん」
「……………………」
「あの……原田さん?」
何度呼びかけても答えてくれず、つい焦れてしまい肩を叩いて原田さんの名前を読んだ。
「――ッ! な、な……あ、丹羽くん……」
彼女が息を呑むのが気配で分かった。驚かせてしまったみたいだ。
「さっきから呼んでたんだけど」
「そ……そうなの? ごめん、気が付かなくて」
僕は首を横に振った。
「あんまり最後に練習できなかったけど、大丈夫?」
「あぁ……多分、大丈夫だと思う」
「不安?」
「ちょっとね」
「今までの練習どおりやったらきっと上手くいくよ。頑張ろう」
「…………うん」
最後に頷く原田さんは、少し複雑な表情をしていた。
「それではただ今より、二年B組による劇『アイス・アンド・スノウ』を上演します」
アナウンスが始まりを告げ、舞台に照明が落とされる。いよいよ僕達の練習の集大成で
あり僕が彼女達に捧げる劇『アイス・アンド・スノウ』の幕が上がった。
刻は夜。辺りは陰に染まる中、月影(照明)が一人の村娘(役の石井真理)を照らし出す。
「まあなんて美しい月かしらっ」
上を眺め感嘆を漏らす彼女は後ろに控えている人物に呼びかけた。
「フリーデルト姫、はやくいらっしゃいなぁ」
村娘の声とともに月影に照らし出されたのは、茶色の髪(のかつら)をしたフリーデルト
(役の原田梨紗)である。
「夜の闇はきらいだわ」
フリーデルトの声は沈んでおり、その表情も晴れてはいない。
「とっても不安な気持ちにさせるんですもの」
(う、上手い……ッ)
度肝を抜かれる、とはまさにこのことだと痛感した。舞台へ上がる前は不安そうだったのに、
いざ本番ではあのデキだ。原田さんより自分の心配しとくべきだった。それに石井さんも普通
だ。それが次に舞台に上がる僕に大きなプレッシャーとなっている。
(いや、上手くいってるのはいいことなんだ。そうだそうだ)
言い聞かせて落ち着こうとするけど、心臓はばくばく拍動しっぱなしで一向に収まりそうにない。
「丹羽くん、出番よっ」
「ぅえッ! も、もう……?」
この期に及んで心が乱れてきた僕の背中を監督がばしばし叩いてきた。
「頑張ってね」
彼女の声援を受けた僕は、半ば押し出されるように袖から舞台上に続く階段を上らされた。
衣装のマントが、とてつもなく重く感じられた。
(あああ、後一段んッ……!)
これを上ってしまえばそこは逃げ出すことさえできない神聖な舞台。
(台詞……初めは何だったっけ、『僕はエリオット』だっけ? あわわわわわわわ――)
レムちゃんみたいな慌て方をし冷静さを欠いた僕がとうとう壇上に、
――ブンッ
「え……?」
といったところで突然視界が闇に閉ざされた。
「何これ?」
「効果じゃないの?」
観客席のいたる所から小さなどよめきが生まれる。けどそれ以上に騒がしくなったのは
舞台裏だった。
「どうしたの!?」
「照明が落ちたみたい!」
「誰か見て来いよっ!」
みんなが騒ぎ始めるのとほぼ同時、僕は照明があるステージ上に向かっていた。
(照明のところへは……この階段だ)
ほとんど真っ暗な状況だけど、これくらいの闇ならすぐ慣れることができる。照明の足場
とそこへ続く階段はアルミ製だけど、極力足音を立てないよう気を付けながら急いだ。
確かあの時点灯していた照明は一基、原田さんを照らすためのものだけだ。
(ということは)
網状の足場からステージに目を下ろすと、ちょうど僕の真下に原田さんのかつらに覆われ
た頭があった。
(ここだ)
端から三つ目の照明。そこを急いで点検する。
(……なんだ。接触の問題か)
コードとコードの接触が甘くなっていた。これくらいならすこしいじるだけで灯がともるはずだ。
(…………よしっ!)
照明が再び原田さんを照らしだした。けどここで新たな問題が発生した。
(早く舞台に上がらないと。けど戻ってる暇はないし……)
その時、僕は運よく見つけた。この足場の下、そこに舞台背景の後ろに取り付けられた
足場があった。
躊躇うことなくそこに向かって飛び降りた。
足場を破壊しつつも――実際飛び降りた衝撃に耐え切れずに折れた材木が激しく音を
立てた――舞台背景の後ろに着地することができた。
ぼろぼろになった身体を引きずって舞台背景の合間からステージに出ると、
「……………………」
不思議な、引きつったともいえる表情をした原田さんと目が合った。
「…………原田さん、台詞」
僕が声をかけ、ようやく原田さんが正気を取り戻したようにはっとした。
「あ、あなたは……?」
こんな登場の仕方をしてしまったせいか、彼女の声は上ずっていた。ごめん原田さん。
「僕はエリオット。君は?」
けど、あの時いの一番に駆け出したおかげで初めの気持ちが思い出せた。
「フリーデルトと、申します」
彼女達のためにこの劇を成功させる。その想いがやっと僕の中にあった心の乱れを拭い
去ってくれた。
それから僕は、
「音響の調子が悪いぞっ」
そう言われれば隙を見て音響の配線を正し、
「あっれ? 直った?」
(フリーデルトさん、時の秒針さん、エリオット。彼女達のためにっっ)
「うわぁ、セットが倒れるぞっ」
そう言われれば不自然な動作で舞台上を移動して倒れ来るセットを支え、
「どうしたのエリオット?」
「い、いや……壁側が大っ好きなんだ!!」
(この劇は、絶対成功させるんだっっっ!!)
「あなたっ、大ちゃんがいろいろテンパってるわ」
「……嬉しそうだね笑子さん」
客席最前列で嬉々としてビデオを回す笑子に、小助は苦笑いするのが精一杯だった。
ちなみに今起きている丹羽ファミリーは笑子と子助だけだった。幼女二人は未だに眠り
続け、つられるようにトワちゃんも――鳥姿で――二人の間で就寝していた。大樹も眠っ
たように死んでいた。
「わしゃまだ生きとるぞぉい」
奇妙な寝言を残して。
「なぜ逃げるんだ!」
舞台はすでに第二幕、佳境。フリーデルトとエリオット、互いの想いを告白するシーン。
「ダメよエリオット!」
緊張もすでになく、演じている僕自身エリオットになりきって劇にのめり込んでいた。
「あたし達は……身分違いの恋なんですもの」
びりっ
(……ん?)
研ぎ澄まされた五感が……聴覚が変な雑音を捉えた。
(何だ、今の?)
どの辺からしたか。そう問われればすぐ側からとしか答えられないくらい近くから聞こえた
気がする。
(ダメだダメだっ! 今は劇に集中しなく)
「ちゃぁッ!?」
口の中で考えていたことの最後が飛び跳ねた。
「?」
原田さんが怪訝な表情を浮かべ、事情が分かっていないらしい彼女の腕を掴んで力任せ
に引き寄せた。
「きゃッ――」
悲鳴をあげそうになる原田さんを胸で受け止め、マントで彼女の衣装が客席に見えないよう
に二人を包んだ。
(ににに、丹羽くッ)
「君を愛している」
芝居を続けながら、腕の中で狼狽える彼女に事情を説明した。
(動かないで。裂けてるんだ……)
(え?)
(スカート)
原田さんが自分の足元に視線を落とすと、
(うわぁぁぁぁっっっ!!)
二人にしか聞こえない悲鳴があがった。さっき劇に集中しようとした時、僕は彼女のスカート
が見事に立てに裂けているのを見つけてしまった。緊急事態と判断して急な手段を講じてなん
とか乗り切ろうと考えたけど、そこであっと思った。
次の演技はフリーデルトがエリオットの名前を呼んで、それから抱き合うというものだ。これ
じゃ演技の続行は不可能だと気付いた。二人が抱き合ったら場面の転換が始まって舞台が暗
転するからそれまで待てばよかったと、自分の浅はかな行動を後悔した。こうなったら監督の
采配を信じ、すぐにでも舞台の暗転が始まることを……。
「――エリオット」
「え?」
こんな状況でまだ劇を続けるつもりなのかと思った時には、僕と原田さんの顔は触れていた。
「――これで二年B組による劇『アイス・アンド・スノウ』は終了です」
アナウンスが終わりを告げると、僕はまずは原田さんの姿を探し始めた。何度も首を巡らす
けど、すでに舞台袖にはいない。
「沢村さんっ、原田さんは?」
「ん? あの子ならもう美術室に行っちゃったけど……」
「分かった。ありがと!」
「あ、待って丹羽くん……!」
呼び止めようとする沢村さんを振り切って全力で美術室へ走った。僕はどうしても確かめた
かった。どうして、原田さんがあんなことをしてきたのか。
あれから劇の最後まではまったく覚えてない。気が付いたら僕の出番は終わり、いつの間に
か終了のアナウンスが流れ始めていた。劇が成功のためにという想いは、原田さんのあれだ
けで頭から吹っ飛んでしまった。
成功は、していて欲しい。だけど、今の僕には、フリーデルトさん達よりも原田さんの方が気
になって仕方がなかった。
――あなたは……大切な人を手放さないで
(分かってるよ、フリーデルトさん! けど……)
彼女の言葉はよく分かる。分からないのは自分の気持ちだ。
僕が好きなのは、原田さん?それとも……。
考えているうちにとうとう美術室へ着いた。扉を開くと、そこに原田さんの姿はない。
やっぱり着替え始めてるんだ。着替えの場所は――美術準備室。
準備室の扉の前に立つと、身体が動かなくなりそうだ。それでも、確認したい。しなくちゃいけ
ない。彼女の心を。
扉を二回ノックする。
「はぁい」
中から聞こえてきたのは女の子の声。原田さんに違いない。
「……あの、丹羽だけど……」
「丹羽くん……」
「………………入って……いいかな」
「……………………うん」
――言葉が重い。僕と彼女の声は明らかに重い。劇で出していた威勢の良さの面影も
ないくらいに。
二回深呼吸し、目の前の扉を開いた。一歩足を踏み入れて彼女の姿を確認した。まだ
ステージにいた時と同じ、衣装姿の原田さんが中にいた。数メートルほどの距離が、今は
果てしなく遠く感じられる。
「あ、あの」
「お疲れ」
まるで僕が話すのを拒むように言葉を被せられた。
「いろいろあったけどいいデキだったんじゃないかな?」
「原田さ」
「あ。もちろん打ち上げ行くよね? なんたって主役なんだし」
「原田さんっ!」
僕に話させないように言葉を続けていた原田さんについ怒鳴ってしまった。彼女の瞳に
驚きと、そして僅かな恐れが浮かび、胸が苦しくなるけど、僕も引くわけにはいかない。
「その……最後の方、スカート裂けて……それから後のことだけど」
彼女は何も言わない。ただ真っ直ぐ僕を見つめている。潤んだ瞳で。正視に耐え切れず
に僕は視線を足元に落としたけど、言葉は続けた。
「どうして……キスみたいな真似……」
手で彼女の唇が触れた場所を押さえながら訊いた。そこは頬の横、唇のすぐ隣。傍から
見れば間違いなくキスだと判断するだろうけど、微かに場所はずれていた。
「……答えて。原田さん」
彼女は、何も、言わない。
「お願いだから、……原田ッ――」
顔を上げた僕は言葉を失った。彼女の双眸、そこから一筋だけ水滴が流れていた。
――なんで?
避けるように彼女は僕に背を向け、ゆっくりした動作でかつらを取った。そこから現れ
たのは腰まである流れるように綺麗な髪。じゃ、なかった。
「――――え?」
「梨紗じゃなくて、悪かったわね」
――なんで?
「着替えるから……」
――どうして?
「……出てって」
――君が、フリーデルトを……?
「早く出てって!」
「ッ!!」
完全に混乱に陥った思考は彼女の怒号に反応し、それに従うように準備室を飛び出して
いた。
(……なんでだ)
胸奥が焼き焦がれるように熱い。汗が噴き出し、喉も一気に干からびる。行き場を失った
僕は何も考えずにそこから走り出した。
(……なんで、どうして梨紅さんがっ!?)
とにかく逃げたかった。ただがむしゃらに、梨紅さんの傍から……。
二年B組の劇『アイス・アンド・スノウ』は好評に好評を呼び、総合二位という結果を
おさめた。監督は不服みたいだったけどみんなでなだめ、どうにか落ち着いて素直に
喜んでいた。
「…………」
本当ならこれから打ち上げだけど、到底参加できる気分じゃなかった。だからこうして
独り、とぼとぼを学校を後にしている。
今日の一件。梨紅さんがフリーデルトをしていたこと。あれから沢村さんが教えてくれた
けど、原田さんが今日になって風邪を引いてしまったらしい。そのために代役として急遽
梨紅さんを舞台に上げたと説明してくれた。毎日原田さんの練習に付き合っていたおかげ
で梨紅さんのデキが完璧に近かったことも、彼女を代役にした理由らしい。事前に出演者
に教えてくれなかったのは、みんなに余計な心配事を増やしたくないという梨紅さんの心
遣い……ということだけど、僕としては事前に言っておいて欲しかった。心臓が、まだ、ばく
ばくしている。
梨紅さんの唇の感触――触れたのは二回目だ。一回目は何ヶ月も前、初めてさっちゃん
と出逢った時。忘れていたものが今日のキスもどきのせいではっきりと思い出された。唇の
触れた箇所だけが不思議なほど熱い。舞台上で、瞳に映った僕の顔が見えるほどすぐ目の
前にあった彼女の顔が忘れられない。
「…………はぁ」
一番彼女の近くにいたのに、正体に気付くことなく最後まで原田さんと呼び続けていた自分
が情けないほど馬鹿だと思う。まだ彼女の真意を聞いてないし、だけど会う決心がつかない
でいるのもまた事実。
「…………原田さん大丈夫かな」
梨紅さんのことから逃げるように、一瞬脳裏を掠めた原田さんのことが気になった。帰り道、
トロッコを降りてしばらく、自宅へ向かう道と原田さんの家の方へ向かう道の分岐が近づくに
つれ、足取りが重くなっていく。生じた選択が家に帰ることを留まらせてしまう。
迷った末、僕の足は一つの道を選んだ。
玄関のドアに取り付けられた呼び鈴を一思いに押す。ここまで来てしまえば後は勢いに
任せるしかない。
「お待たせいたしました」
間もなくドアが開かれ、中から初老の男性が姿を現した。坪内さんだ。
「こんにちは」
「おや? あなたはお二人の同級生の……」
「あ、はい。丹羽です。あの、原田……梨紗さんが風邪だと聞いたのでお見舞いに」
そこまで言った時、僕は花もケーキも何も買ってきていないことに気付いた。自分の気の
利かなさを反省した。
「そうですか。どうぞ、お入りください」
坪内さんに誘われるまま屋敷の中に上げてもらい、原田さんの部屋の場所を説明しても
らいそこに向かった。
上階へと進み、幾つかの部屋の扉を見るとその一つに『面会者絶』と可愛らしい字で書か
れたプレートの下がっているのを目にした。ここに違いない。
小さく息を吐いて調子を整え、二回ノックする。
「…………ふぁぁい」
眠そうで死にそうな声が返ってきた。
「原田、さん? 僕……丹羽大助だけ」
「ににに丹羽くんっっ!? グェホグェホッ」
「原田さん! だ、大丈夫?」
「うん……エホッ。入っていいよ」
原田さんの許可が下り、そっと扉を開けて初めて原田さんの部屋にお邪魔した。もちろん
女性の部屋に入るのも初めてだ。
「来てくれたんだ……」
「うッ」
布団を被る原田さんが熱で潤んだ瞳をのぞかせて僕を見つめてくる。思わずぐっときて
しまった。
「どうかした?」
「い、いや……何でもないよ」
「そう? あ、椅子座っていいよ」
原田さんに薦められ、彼女の机から椅子を引っ張り出して座らせてもらった。
「……ねえ」
「うん?」
「あのさ、劇……どうだった?」
いきなりそれを訊かれ動揺しそうになった。彼女は主役だったんだから結果は訊かれる
だろうと思っていたから覚悟はしていたけど。
「二位で入賞したよ。沢村さんもどうにか納得してくれたし」
「あは。あの子、一位取りたかったんじゃない?」
「そうそう。おかげで主役の僕と…………」
言葉が詰まった。梨紅さんの名前を原田さんの前で出すのを躊躇ってしまったから。
「…………」
原田さんの眉が寄る。僕の様子が変わったことに彼女は気付いたに違いない。弁明しよう
にも何て言っていいか分からず、黙っているしかなかった。
「…………梨紅、」
「えっ」
その名を聞き、瞬間的に体温が沸騰した。
「ううん。何でもない」
それもすぐに収まり、それっきり僕達の会話は続かなかった。息が詰まりそうな沈黙、
そろそろ帰ると口にするだけでいいのに、きっかけが見出せないまま時間だけが流れていた。
「――あ」
「?」
やり場に困り宙を彷徨っていた視線が原田さんのベッドの枕元に止まった。小物が並んで
いるそこに、一つの写真立てがあった。
「この写真がどうしたの?」
原田さんが身体を起こして腕を伸ばして写真立てを手にし、不思議そうに僕と写真を交互
に見やった。
「どうもしないよ。ちょっと目新しくて見ただけだから」
それに写っていたのはウサギのぬいぐるみを抱えた髪の長い少女と、熊のぬいぐるみを
抱えた髪の短い少女だった。
「ふふん。可愛いでしょ?」
無邪気に笑って聞いてくる。
「うん。全然変わってないね、原田さんも梨紅さんも」
僕は何となく分かっていた。記憶の片隅に転がっている幼い頃の小さな思い出、そこに
いる二人の少女がこの姉妹だと。今までは漠然としか思っていなかったけど、原田さんの
部屋でこの写真を目にしてようやく確証した。
「えぇっ、結構変わったよ」
原田さんも咳をしなくなっている。体調がよくなってきたのかもしれないと思うと、胸が少し
だけ軽くなった。
「そうかな? 見た感じだと幼いってだけで、他は全部変わってないように見えるけど」
「そっか、丹羽くん勘違いしてるよ。私はこっちだよ」
「…………え」
その瞬間、腹底から得体の知れない何かが込み上げてくる不快感に襲われた。
「私、小さい頃は活発な子だったんだよ」
気持ちが、よくない…………この感じ、僕はよく知ってる。彼女が示したのが何か、見るの
が、怖い。
「小学校に入る時はすっかり梨紅の方が元気っ子になっちゃって」
自分の中の基盤が崩れる錯覚。奈落に突き堕とされた気分だった。一日に二度、同じ苦辛
を味わうとは微塵も思っていなかった。
「クマさんのぬいぐるみ、どこにしまったっけ……」
原田さんの指は……髪の短い少女を指していた。
――クマさんなら好きなんだけどね
――あたしウサギって大好きだし
――ぬいぐるみと違って暖かぁい
――梨紗じゃなくて、悪かったわね
次々と湧き出す梨紅さんの言葉一つ一つが、僕の心に重く圧し掛かった。
次回 パラレルANGEL FINAL STAGE St.White Memories