「ただいまぁ」
玄関で靴を脱いでいると、奥から母さんが足音を響かせて姿を見せた。
「お帰り大ちゃん。ママ寂しかったわぁ」
いきなり抱きつかれ、重い荷物を肩に下げているため倒れそうになった。どうにか堪えた直後、顔中に母さんのキスの嵐が降り注いできた。
「ちょっとちょっと! 止めてよ母さん」
「そんなこと言わないの。この数日間どれだけ心配してたか分かる?」
しばらくの間、母さんに必要以上にスキンシップを求められた。しぶしぶ応じ、ようやく開放された後に、思い出したように母さんが口を開いた。
「そうそう。『永遠の標』ちゃんとウィズが届けてくれたわよ。大ちゃんお疲れ様」
「そっか。あの、母さん。それで……」
「分かってるわよ。トワちゃんのことでしょう?」
頷くと、母さんは二階を指差し、
「大ちゃんの部屋にいるから、荷物置いてくるついでに会ってらっしゃい」
「うん」
「小助さんも一緒よ。母さんお夕飯の準備してるから、後でみんなで降りてらっしゃい」
母さんより先に家の奥へ向かい、リビングでお茶をすするじいちゃんにただいまを言ってから二階へ急いだ。
「ただいま。父さん、トワちゃん」
部屋先から中を覗くと、三人の人影が床に腰を下ろして湯飲みと茶菓子を囲んでいた。
「よお。お帰り大助」
「お帰りなさいませ。ちょっとお邪魔させてもらってますわ」
「久しぶりだの、主」
三人の挨拶を受けて部屋に入って荷物を机の側に置くと、父さんが声をかけてきた。
「こっちに来て座りなさい。いろいろ聞かせてくれると嬉しいな」
「さあさ。お茶も入りましたわよ」
「茶菓子もあるぞ。うむ、美味美味」
「うん、ありがと。っと、レムちゃんも……」
蒼月の盾を出そうとして手を止めた。よくない汗が背中を伝った。
「? どうかしたかい」
「ううん、何でもない、何でもないよ」
乾いた笑いを浮かべながら三人の輪の中に入れてもらった。左手の方では父さんがにこにこ笑っている。
右手の方にいるトワちゃんが差し出してくれたお茶を一口含み、
「何でさっちゃんがいるの!!」
正面で茶菓子を頬張っているミニナース服を着た幼女さっちゃんに怒鳴り立てて突っ込んだ。さっちゃんは、僕が一週間近く相手をしていなかったことを微塵も気にしていないように、にこやかだった。湯飲みを呷り、幼女らしからぬ落ち着きというか渋みを醸し出しながらゆっくりと語った。
「うむ。主がいない間な、親父殿にいろいろと遊んでもらっていたのだ」
「いろいろ!? いろいろって何をされたの! 何をしたの父さん!?」
「いろいろだよ。ねえさっちゃん?」
「いろいろだな。のう親父殿?」
あああああ、絶対あんなことやそんなことしかイメージに浮かんでこない。健全なものは皆無だ。父さん、あなたはどうしてそうなっちゃったの?
「親父殿。また(ごにょごにょ)してくだされ」
「うんうん。大助がいなかったらまた(ごにょごにょ)してあげるよ」
「ごにょごにょ何?! そこには何が入るの!!」
「ほらほら落ち着いてください。茶菓子でも食べてカルシウムを」
「茶菓子カルシウムない! いや、あるのもあるかもしれないけどない! ああもう何言ってるか分かんないよ!」
「たっだいまぁ」
玄関の扉を勢いよく開け放ち、原田梨紗は自宅へ足を踏み入れた。
「ただいまあ。ほら梨紗、靴ちゃんと並べて上がんなさいよ」
母親のように梨紗の行儀の悪さを咎めようとするが、親の心子知らずか、梨紗はとっとことリビングに向かった。入れ替わりに坪内がそこから姿を現した。
「梨紗様お帰りなさいませ。梨紅様も早くお上がりになられてください」
「はぁい」
玄関にある靴をきちんと並べ、梨紗と同じくリビングに入った。すでに梨紗はソファに横になり、非常にだらけた雰囲気を出している。
「まったく……しゃんとなさいっての。ん?」
小言を口にしていた梨紅は、ソファの上でごろごろしている梨紗の手に数枚の紙が握られていることに気付いた。そろそろと近づき、悪いと知りつつもちょこっとだけ覗き見ると、その紙は写真だった。写っているのはもちろん、
「丹羽くんじゃないのっ! な、な、な、な、何であんたがそんな写真持ってんの!?」
思いがけないものを目にした梨紅は狼狽し、そんな彼女を梨紗はじと目で見やり、
「冴原くんから買ったの。一枚二百円。……欲しい?」
不敵に口元を歪め、挑むように梨紅に訊いた。
「ほ、ほ、ほ、ほ、欲しいわけないじゃん! 何で、そんなこと訊くわけ!?」
「だってえ、梨紅って丹羽くんが好きなんでしょ?」
いきなり突然唐突に何の前触れもなく、妹に直隠しにしていたはずのことをずばり言い当てられ、梨紅は言葉を詰まらせてあっという間に赤面した。
「あ? やっぱり図星?」
体温がさらに上昇していくのを梨紅は感じた。どうしようもないほど汗が噴き出し、今どう思っているか誰が見ても明らかだろう。
「んもぉ。私が気付かないとでも思った? 隠し事が下手なんだからあ」
あっけらかんと話していた梨紗が不意に表情を引き締めた。
「けど、梨紅に負ける気ないから」
それは断固たる決意。梨紗が唯一譲りたくない気持ち。姉と向き合い、その上で掴み取りたい人への、想い。
「まあそういうわけだけど、欲しいの? 欲しくないの?」
一瞬後にその顔は元のしまりのないにへらにへらしたものに戻っていた。梨紅を釣るように写真をひらひらしてみせる。
「あ、あう……あう……」
ふらふらと催眠術にでもかかったように写真に吸い寄せられる。
「ほおら。こっちよこっち」
梨紗はソファの上に立ち、梨紅の頭上で写真をひらつかせる。ネコじゃらしにじゃれつく子猫のごとく、梨紅は写真に手を伸ばす。何度かネコパンチ、もとい梨紅パンチを繰り出すが、写真にはかすりもしなかった。
「そんなに欲しい? しょうがないなあ」
ほら、と言って梨紗が写真を一枚落とした。空気を切り裂く梨紅パンチ。見事に写真をゲットした。
ちょっと顔を綻ばせ、どんな姿が写っているか胸を高鳴らせつつ手にした写真に目を落とすと、そこにはビーチで砂に埋められ、股間に大きな一物を携えた彼の姿が、
「よりによってこんな写真かいっっ!!」
突っ込んだ時には梨紗の姿は煙のように消えていた。やられた、と心の中で呟きながら再び写真に目を落とした。
一目見た時は確かにひどい写真だったが、よく見るとちゃんと大助の顔も写っており、画質もよい。彼の顔をじっくりと見つめ、、視線を少し下半身の方へ移し、穴が開くほど凝視した。
「……………………はっ!? い、今あたしは何をッ!」
顔を真っ赤に染め熱く火照った頬を手で押さえ、ちょっと危ない妄想を抱いた自分をはしたなく感じた。
原田梨紅、イけないことに興味を覚えるお年頃だった。
「はあ。まったくまったく」
自室で開かれているお喋り会から一足先に抜け出してリビングに向かっていた。楽しいお喋りだったはずなのに、何故か異様に気を遣って疲れてしまった。理由は、やはり父さんとさっちゃんのコンビのせいだ。そこにトワちゃんまで加わったらもう楽しいだけじゃ済まなかった。話が幼女の方向に向きだそうとするといち早く修正し、それでも父さんはさりげなくしつこく僕の邪魔を……。
(もう、考えるのはよそう)
僕が疲れるだけだ。
とんでもないことばかりしている父さんだけど、家族にはさっちゃんの存在がばれないようにうまく立ち回っていたらしい。母さんもじいちゃんもさっちゃんとレムちゃんがいることは知らない。ばれるといろいろと大変そうだし、このままがいいんだと思う。父さんという協力者がいてくれて助かっていると言えばそうだけど、どうもさっちゃんを見る目が……。
(いやいや、もうよそう)
早々に思案を打ち切った。
トワちゃんの処遇については僕と約束したということもあり、母さんがあれこれ考えた結果、丹羽家のメイドさんとして働いてもらうことになっていた。ウィズが家に着いたその日のうちに決まったらしい。人手が増えて母さんも喜んでいるらしい。
リビングではじいちゃんが今もお茶をすすりながらテレビを見ている。キッチンからは包丁の軽快なリズムが聞こえてくる。
「あら、もう来ちゃったの? まだできてないわよ」
僕が入ってきたことに気付いた母さんがこちらに背を向けたまま言ってきた。包丁の音は止まらない。
「夕飯は何?」
「カレーよ。まだしばらくかかるわ。あ、大ちゃん、トワちゃん呼んできてくれる?」
家事に慣れてもらわないといけないからと付け加えてきた。返事をしてから部屋を出ようとすると、また母さんが声をかけてきた。
「それから、小助さんに趣味はほどほどに。って伝えてきて」
「…………え」
僕の身体、血液、思考、一瞬すべてが凍りつき、すぐさま猛烈な勢いで動き出した。軽快な包丁の音は続く。
「…………趣味、って」
「分かるでしょ?」
たんたんたんたんたんたんたんたん――。
「…………父さんの」
「私が知らないと思ってた?」
どくどくどくどくどくどくどくどく――。
「…………僕が言ってくるの?」
「他に誰かいる?」
じいちゃんは――我関せずといった様子でお茶をすすり続けている。一瞬見えた湯呑みの中に何も入っていなかったのは間違いない。
母さんはさっちゃんのことを知ってるのか?けど、もし見つかってるならさっちゃんがそう言ってくると思う。ということは、ただ純粋に父さんの趣味とやらに忠告しているのだろうか。いや、そう信じるしかない。
「…………けど」
「なに?」
だんだんだんだんだんだんだんだん――。
「…………ぼ」
ダンッッ!!
「あらあらまな板が割れちゃったわ」
「いってきます」
壮絶なプレッシャーが一気に膨れ上がるのを感じた僕はじいちゃんをリビングに独り残して飛び出した。
「ま、待たんか大す」
心の中でごめんと呟き、ドアを閉ざした。残されたじいちゃんからすれば死刑宣告に等しいに違いない。
僕はただただ、これからの父さんの日々の暮らしに、ささやかながら幸福が訪れることを願うばかりだ。
僕は何回くらいえっちをしたんだろうか、とふっと考えてみた。現実でしたことがあるのは本当に数えるほどしかない。この歳で数えるほどあるのはすごいことだと思うけど、あくまで現実での話だ。今、この世界でした回数は、それこそ星の数ほど。つまり、数えきれないということだ。
「ご主人様ぁ。気が入ってませんよお?」
レムちゃんのあそこをじゅるじゅるとすすりながら考えていたら、上から彼女の声が降ってきた。
「ごめんごめん」
真上にあるレムちゃんの幼い割れ目に舌を挿し入れた。小さな悲鳴とともに舌先が微かに締めつけられ、粘液が口に顔にと垂れてくる。
「こら。我の方もしっかり相手をせぬか」
僕の腰に跨っているさっちゃんが不服そうにしている。同じようにごめんと言い、軽く腰を上下に動かした。ぶつくさと何か言っている気がしたけど、僕の動きに合わせて上のさっちゃんも腰を振り始めた。
「はぁぁ……。我ら二人をはべらかせ、主は幸せ者だな。ンっ」
「幸せすぎてイッちゃいそうです……はぅんッ」
これが現実だったら手放しで喜べるんだけどね、と胸中で呟いた。二人と夢の中で絡むようになった当初は僕も無我夢中で愉しんでいたけど、ここ最近は夢という虚しさを感じるようになっていた。
「っひぐしょんッッ!」
鼻がむずむずしたかと思うと、次の瞬間にはレムちゃんの股の下で盛大なくしゃみをしてしまった。
「はぎゃッ!?」
突然の衝撃に驚いたレムちゃんが鳴き、股が眼前から姿を消した。
「な、何事ですかぁッ」
「これ抱きつくな」
僕の上には裸の女性が二人。目に涙を浮かべて見開いているレムちゃんが、迷惑そうな顔をしているさっちゃんに抱きついている。もちろんさっちゃんの腰は止まらない。
「あそこがひりひりしちゃいましたぁ」
「ごめんね。ちょっと風邪気味で……」
身体を起こしてずずっと鼻を鳴らした。12月になって寒さが厳しくなったせいで身体に少しばかり影響が現れていた。
「大丈夫ですか?」
レムちゃんが首に腕を回し、額をごちんと合わせてきた。頭がくらっとした。
「ちょっと熱いかもです。もっと詳しく調べますよぉ」
嬉しそうに言いながら今度は唇を合わせてきた。熱をチェックするように、舌が僕の口内をぬちゃぬちゃと舐め回す。
「平気だよ、平気」
彼女の体を押して口を離すと、頬を膨らませて拗ねたみたいだ。
「くぉらレム」
「ひゃいッ?」
レムちゃんの背後から二本の腕が絡みついて羽交い絞めにした。苦しそうに呻くレムちゃんにさっちゃんが告げる。
「独り占めするな。我に少し分けよ」
片手でレムちゃんの口を開かせ、中にさっちゃんの舌が滑り込んでいった。
「うわぁ……」
目の前で行われる女の子同士の濃厚なキスに釘付けになった。絡み合う舌が立てるいやらしい水音が下半身の充血を煽ってくる。
微妙な変化に気付いたのか、さっちゃんが動かす腰のリズムが速くなってきた。視覚からくる刺激と相まって、胎内で軽くイッてしまった。
「ぷふぅ、風邪だと言いながら結構出したではないか」
さっちゃんがくいっと腰を上げると、べとべとに濡れた僕のに彼女の中から漏れ出した体液が幾筋か降り注いだ。確かに結構出したかもしれない。
一息吐くつもりで二人の下から這い出し、僕抜きで愉しむ二人の姿を眺めた。
ライトパープルの長髪、悪戯っぽく釣り上がった瞳に口の端からのぞく牙。小悪魔、という形容が似合う彼女はスタイルがよく、お姉さん好きにはたまらない、と思う。人とどこが違うかを挙げるなら、背中についたコウモリのような羽根と、頭から生える二本の小さな角くらいだ。
対して、緑の短髪、いつもにこにこ笑っている目に口。まさに絵に描いたようなロリ体型はその道の人にはたまらない、と思う。父さんがレムちゃんの姿を知らなくて心底よかったと思える。外見は、人と違うところはない。
まったく対極に位置している二人が艶めかしく絡む様は、見ていて非常に欲情してくる。夢は虚しいと言っていたけど、湧き上がる性欲に勝てるはずもなく、僕は二人に飛びかかった。
布団の中にいるはずなのにひどく寒い。――下半身が。
「おはようございます丹羽大助」
目を開けて確認するまでもない、いつものことだった。それでも目を開けないといつまでも起きれないので開けるしかない。
「うん……おはよお」
まだ覚醒しきっていない頭を掻きながら、僕のあれをぺろんと出して夢精の始末をしてくれているトワちゃんに挨拶を返した。萎えたものを口に含んでいたトワちゃんが顔を上げ、目と目が合った。
「はい、お掃除終わりましたわよ。お粗末さまでした」
最後に口の周りにこびりつく粘液を舐め取り、トワちゃん曰く朝のお勤めが終了した。トワちゃんがうちに来てから間もなくの頃、毎朝の僕の惨状を聞いたトワちゃんが自信満々にお任せあれと言ったのでお任せしたところ、これが始まった。
「大助も手を煩わせることがありませんし、わたくしも日々力が補給できて一石二鳥ですわ」
とは本人談である。最初は少し引いたけど、慣れとは怖いものだ。そして僕が夢の世界に虚しさを感じだしたのもこれが始まってからだ。やっぱり現実でしてもらった方が嬉しいというか気持ちいいというか、本物という気がしていい。
(と思いつつ夢の中でいっぱいしちゃうんだけどね……)
病みつきで止められないというのが本音だった。
「ひっくし」
「あらあら風邪ですか?」
「ううん、ちょっとね」
トワちゃんが顔を鼻の先まで寄せて僕の額にひんやりとした手を当てた。
「少し熱いですわね」
熱いのは風邪のせいだけじゃないんだけどと思いながら、すぐ側で動くトワちゃんの唇に目がいく。女の人とこんなに近づくのは、現実ではまだまだ慣れていない。
「お薬持ってきますわ」
メイド服のスカートを翻し、トワちゃんがベッドから降りてとてとてと部屋を出て行くのを見送った。
「むうう、気に喰わん」
横になっているところにさっちゃんの不満気な声が届いてきた。
「なにが?」
「トワが、だ」
「トワちゃんがどうしましたか?」
「どうもこうも、我らが毎朝毎朝汁水垂らして絞り取ったものを、トワは毎朝毎朝労せずに口にしているのだ。これが腹を立てずにいられるか」
尋ねる僕とレムちゃんに怒りをぶつけるように告げてくる。そう言われると確かに理不尽な気がしないでもない。
「けど、僕はそうしてもらった方がありがたいんだけどな」
「主がよくても我らがよくない。レムもそう思っとるはずだ」
「わたしはご主人様が喜んでるならそれでいいですよ」
さっちゃん、しばし沈黙。
「うがあああああぁぁぁぁッッッッ!!」
そして咆哮。ずきずき頭に響いて顔をしかめた。
「さっちゃん……静かに、してぇ」
ベッドでころころ転がり、もう勘弁してと意思表示をした。
「分かっておらん、誰も彼も分かっておらん!」
「さっちゃんお静かにぃぃッ」
「そうですわ。翼主に迷惑をかけるなんて使い魔の風上にも置けませんわね」
いつの間にそこにいたのか、トワちゃんが薬とコップ、水差しを乗せたお盆を片手に部屋の入り口にもたれかかっていた。さっちゃんがむっとするのが気配で分かった。トワちゃんはトワちゃんで、得意気な表情で挑発している。
毎朝恒例となりつつある二人の罵り合いが始まる前に部屋を出たかった。
「はあ。まったくまったく」
ぼやきながらダイニングテーブルに着いた。
「おはよう」
「おはよう父さん」
向かいに座る父さんと挨拶を交わすと、母さんが目の前にトーストを置いてくれた。
「お薬飲んだ? 大丈夫? 無理してない? 学校お休みする?」
「大丈夫だよ」
心配してくれるのは嬉しいけど、母さんが言うほどひどくない。薬も飲んだし、しばらくしたら治るだろう。
「それに今日は休めないんだ」
そう、そうなのだ。今日は十二月二十日に行われる学園祭の出し物を朝一に決めなきゃいけないのだ。
「そういうばもうそんな季節ねえ。お母さんたちも見に行くわよ。久しぶりに小助さんとデートしちゃおっかしら」
「デートって……。どうです父さんも?」
苦笑いを浮かべる父さんが、いつものようにリビングでお茶を飲みながらテレビを見ているじいちゃんに話しかけた。
「そうじゃのお……。おお、どうかねトワちゃんも?」
お盆を手にしたトワちゃんがリビングに入ってくるなりじいちゃんが話を振り、当然のようにトワちゃんは疑問符を浮かべた。母さんが事情を説明すると、
「興味ありますわ。でも……わたくし、こんな服しか持ってませんし」
「それじゃ今度、女だけでお買い物に行きましょ。私がトワちゃんにぴったりな服を選んであげるわ」
「まあ! ありがとうございます奥様。わたくし、感激で前が見えませんわ」
大袈裟な仕草で喜びを現すトワちゃん。そういえばトワちゃんのために買い物をしたことは、僕の知る限りではなかった。本当に嬉しいんだろう。
(でも、じゃあトワちゃんのメイド服ってどこから……)
考えようとしてすぐに打ち切った。考えて行き着く先が、ちょっと怖かった。
そう思ってトーストを齧りながら父さんの方を見ていると、その手で長方体のものをもてあそんでいた。
「父さん、それ何?」
「これかい? タロットカードみたいなものだよ」
父さんがそれを扇状に開いてみせる。長方体に見えたのはそれがひと塊になっていたせいだ。
「そんなものどこにあったの?」
「部屋の掃除をしていたらね、偶然出てきたんだ」
「大助、一つ小助君に占ってもらったらどうじゃ?」
母さんと父さんの間にじいちゃんが口を挟んできた。
「え? でも」
「あらあらいいじゃありませんか。わたくしも興味津々ですわ」
「あ、えぇ……っと」
「ははっ、簡単なことしかできないけどね」
トワちゃんの合いの手が入り、僕の意思を聞く間もなく話が進展してしまった。父さんもすっかりその気だ。嫌じゃないけど、僕の言うことも少しくらい聞いて欲しかった。
「ほら。この中から一枚選んでごらん。自分で絵を見ないようにね」
カードを数回切り、それを広げて背が上になるように僕の方に差し出してきた。
「うぅん……」
二十枚ほどの厚めのカードからどれを選ぼうかしばらく逡巡し、思い切って真ん中のを選んでみた。
「どれどれ」
カードの背を上に向けたまま父さんに手渡した。後ろから覗き込もうとする母さんやトワちゃん、じいちゃんに気をつけながら父さんだけがそのカードの絵柄を見た。
「ふむ……」
小さく唸ってから、そのカードをその他の上に重ね、それでとんとんとテーブルを叩いた。
「父さん、どんなカードだったの?」
八つの瞳が注目する中、父さんがカードを一枚手にしてこちらに絵柄を見せてきた。
「『ライトフェアリー』。健康を司る心優しい妖精のカードだよ」
そこには、見ていると胸の内が温かくなるような、可愛らしい小さな妖精さんが描かれていた。
「きっと大助の風邪が早く治るっていう啓示だよ。よかったね」
父さんが片目を閉じ、にやっとして僕に言ってきた。
「なんか、得した気分」
実は内心では、もっととんでもないものが出てきたらどうしようかと少し不安だった。
「あら、そろそろ学校に行かなくていいの?」
「え? あ、ホントだ!」
時計を見ると大分時間が経っていた。残りのトーストを口に放り込み、ミルクを流し込んで席を立った。急がなくても出し物を決める話し合いには間に合いそうだけど、用心に超したことはない。
「行ってきまぁす」
四人の言葉を背に受けながら、転がるように家を飛び出した。風邪を悪化させないよう気を遣いながら、少し抑えて学校まで走った。
大助がいなくなった丹羽家では、それぞれ思い思いに動いていた。笑子はキッチンで後片付け、トワちゃんも笑子に倣って家事を。大樹は相変わらずリビングのソファに腰掛けてお茶をすすっていた。
そんな中、小助だけがダイニングテーブルに着いたまま難しい顔をしていた。タロットカードの束の上から一枚カードを手に取り、その絵柄を確認した。
妖艶な女性の横顔が描かれたそれこそが、大助の引いたカードだった。
――「ダーククイーン」……。最低最悪の、破滅のカード。
「何事もなければいいが……」
誰にともなく呟き、天を振り仰いだ。今はただ、息子の安否を気遣うことしかできなかった。
「おめでとう丹羽大助くん。いやいやおめでとうおめでとう」
めでた過ぎて殺意が湧いてきちゃうよ。教室のドアを開けるなり冴原が怒気たっぷりに迫ってきた。
「えっと、何が?」
「何がじゃねえ!」
冴原が首に腕を回し、激しく頭を揺すってくる。
「ああああッ! やめ、やめぇ」
「ん? ちょっち熱いぞ」
ごすんと頭突きが飛んできた。だから止めろって言ってるのに。
「風邪で三十七度」
「うつすなよ!! 風邪は嫌いだ!!」
ずさっと後退り、教室の端まで逃げて行った。
「一体何なの……」
まったく状況が呑み込めないでいると、肩に何かが乗ってきた。
「あれ見てみ」
関本が僕の肩に手をかけてある方向を指差し、指先を追うように視線を向けると、黒板にでかでかと文字が書いてある。
「『アイス・アンド・スノウ。配役主役エリオット丹羽大助』ってええぇ!?」
横で関本がうんうんと頷いている。一体どういうことか訊くと、
「今八時半。集合八時。お前三十分遅刻。その間にとんとん話が進んで」
「こういうわけだ。悲しいことだが」
日渡くんが僕と関本の間に身体を割り込ませてきた。その横顔は苦渋に満ちている。
「すまない丹羽。俺にもっと力があれば、お前をフリーデルトに」
「気にすんな。さっきからこの調子だ」
「そもそもだ! 何故『アイス・アンド・スノウ』なんだッ! ここは話題性を掴むためにも俺が最初に推していた『がんだむ○ーど』をうわなにをするやめろッッ!!」
日渡くんは………………大人の事情でどこかに連れ去られてしまった。
「……まあそういうわけだ。主役がんばれ」
「なんか釈然としないけど。それにどうして冴原の奴、あんなに怒ってたの?」
「それは黒板をよく見れば分かる」
言われて再び黒板をじっくりと見た。さっきは自分の名前しか見えなかったけど、その横に冴原の名前が、しかも下には『一』とだけ記されていた。
「お前、女子の票独占」
「納得したよ……」
「あいつ、目立ちたがり屋だかんなぁ」
僕と関本がしみじみとしていると、沢村さんがつかつかと歩み寄ってきた。
「沢村、現場監督な」
「丹羽くんこれ。キャスト書いた紙と、大まかな話の流れ。童話のとはちょっと違ってるところあるから目ぇ通してね。『アイス・アンド・スノウ』は知ってるよね?」
関本が説明してくれるのを聞きながら、沢村さんからプリントを二枚受け取った。
「知ってるよ」
アイス・アンド・スノウ。この街に文化改革以前から伝わる、とても有名な童話である。幼い頃に誰もが一度は聞かされたことがあるほどだ。
「じゃあいいわ。季節的にもぴったりだし、なんといっても泣けるほど切ないストーリー。ああ、きっとみんなに大受けよ」
沢村さんはうっとりとした表情で語るだけ語り、ふわふわと女子の輪の中に入っていった。ふと見るとほとんどの女子がうっとりふわふわ状態だ。
「女ってこのテの話好きな……」
「オレはサブい……」
関本と西村が口を揃えてぶつくさ言うけど、それを気に留めるのは僕だけだった。
「決まっちゃったものはしょうがないよ」
とは言ってみたけど、僕がいないうちに、それも主役に祭り上げられていたのはやはり納得しがたい。渡された紙をとりとめもなく目にしていると、
「ん? んえ? えええっ!」
あるところで目が動かせなくなった。それはキャストの欄、僕の次の欄。つまり、アイス・アンド・スノウのヒロイン、フリーデルト役のところだ。
主役フリーデルト――原田梨紗。
心臓がどきっとするのに合わせて顔を上げて彼女の姿を探すと、すぐに見つかった。女子の輪の中、楽しそうに談笑する中で同じようにくすくすと笑っている。
「あ」
僕の視線に勘付いてしまったのか、原田さんがこちらを振り向き、目が合った。こっちが恥ずかしくなるくらい原田さんにじっと見つめられ、顔を逸らす機を掴めずにいると、彼女に微笑みかけられた。
かあっと頬と胸が熱くなるのを感じ、ようやく俯いて顔を伏せた。
「うっしゃ! 今日の放課後から早速練習始めっからな。主役様は特に気合入れてけよ!」
な、と冴原がプレッシャーをかけてきた。この時ばかりは、声をかけてもらって正直ほっとした。
「分かったよ分かったよ」
適当に返事をして逃げるように席に着いた。これから学園祭本番までのことを思うと、期待と不安が半々だ。
(どうなっちゃうんだろ……)
何かと大変なことになりそうだと予感しながら放課後を待った。
「『も、もう貴方を放さない……』」
「『ああッ、エリオット!!』」
僕――エリオットが原田さん――フリーデルトに歩み寄ろうとすると、同じだけ彼女が下がる。
「『なぜ逃げるんだ?』」
「『ダメよエリオット。私たちは……身分違いの恋なんですもの』」
フリーデルトは情緒をたっぷりと込め、大袈裟な身振りで向かい合う僕から身体を背ける。足を止め、腕を広げながら彼女に告げる。
「『あ……あな、あなたを愛してい』」
「『エリオット――』」
台詞をすべて言い終える前に原田さんが勢いよく僕の腕の中に飛び込み、強く抱きついてきた。
「カァァァァット!!」
理性が飛んでいきそうになるのも時間の問題だという時に、救いの一声がかけられた。
「ぐああぁぁっ、もう! なんでちゃんとしねえんだよ!!」
忙しい監督から演技指導を任されている冴原がずかずかと肩を怒らせて近づいてくる。さり気なく原田さんの腕から抜け出し、数歩間合いを取った。
「私はちゃんとしてるわよ。冴原くんの目って節穴?」
「抱きつくのが早すぎんだよ! もっと間を取れ、雰囲気作れ!」
抱きつかれる僕としては、その演技そのものを削除して欲しい。嬉しいんだけど……恥ずかしい。
「愛しい彼が目の前にいるのよ? そんなの我慢できるわけないでしょ」
周りで好奇の目をして見ていた何人かの女子がそうよそうよと援護射撃を送り、冴原が完全に悪者にされてしまった。
「ちっくしょぉぉ……。こらてめぇ、お前は笑ってんじゃねえよ!」
「僕?」
その様子を離れてみていた僕にいきなり矛先が向いた。無意識に顔が緩んでいたのか。
「原田妹は、まあいいとしてだ」
結局女子に負けたんだね。
「大助、お前はダイコンすぎ」
ずばりと言われて声が詰まってしまった。
「どヘタ。ヤル気あんのかよ?」
「そう言われたって、主役なんだし、緊張くらいするよ」
「練習で緊張してどうすんだよ。原田妹は恥をかなぐり捨ててフリーデルトやってんだぞ?」
「うわ、なんかその言い方ムカッてきた」
きつく睨みつける原田さんを無視し、冴原は僕の演技についてあれこれダメ出しをしてきた。冴原の気迫は伝わってきたけど、内容の半分以上は役に立たない虐めのようなものだった。
放課後の練習を始めて早数日。教室で行う僕と原田さんの周りには、常に誰かしらの目があった。もちろん冷やかし目的で、だ。
「あんなに見られてちゃ集中できるものもできないよ」
壁にもたれ、づるづると床に座り込んで一時休憩を取った。独り言のように愚痴が溜め息とともに漏れる。
「…………ん?」
「お疲れぇ」
視界がかげり、頭上から声が降ってきた。
「元気ないね。どうしたの?」
顔を上げるより先に原田さんが膝を折り、僕を下から覗き込んできた。
「平気だよ、平気。ちょっと反省してただけ」
彼女がしゃがんだ時、スカートの奥から白いものが見えた気がする。ごまかすように笑いながら彼女の顔に目を移した。
「冴原くんに言われたこと、気にしてるんだ?」
「うん……。何日も練習してるのにちっとも巧くならないから」
原田さんは大丈夫だよと言ってくれるけど、自分の演技がよくなるとはあまり思えない。
「ありがと。それにしても原田さんってお芝居上手だね」
彼女の演技は本当に上手い。感情がすごく満ちていて、僕なんて完全に喰われてしまっている。とても芝居とは思えない。まるで本気で台詞を口にしているような錯覚を覚えてしまう。
「そんなことないよ。私なんていっぱいいっぱいで、いつ台詞間違えちゃうかびくびくしてるんだから」
全然そうは思えない。多少間違えてしまっても、誰もが彼女の一挙手一投足に見とれてそんなことなんて気にしないだろう。
「気にせずやろうよ。まだまだ時間あるんだから」
「原田さん……」
ぐっと拳を握って明るく励ましてくれる彼女から元気をもらったような気がした。頷くと同時に冴原が僕らを呼んだ。練習再開のようだ。
「さ、いこ」
「うん」
彼女の背を追うように僕も腰を上げ、練習へ戻った。
日が傾く時間になってようやく今日の練習から解放された僕は、独り美術室に来ていた。
「ふむぅ……」
椅子に腰掛け、側に画材を散らしてキャンバスに描いた絵と睨み合いながら唸っていたけど、
「うん、完成」
ようやく納得がいった。その絵を見ながら満足気に何度か頷いた。
学園祭の出し物として僕がしなくちゃいけないことはクラスの『アイス・アンド・スノウ』だけじゃない。美術部として作品を一つ出展しなくちゃいけなかった。
僕が描いたのは、奇しくもクラスの出し物と同じ雪を題材にしたものだった。キャンバス一面に広がる雪原の銀世界。それが僕の作品だ。
完成したことに得意になっていると、入り口の方から扉をノックする音が室内に響いた。ん、と思ってそちらを振り向くと、梨紅さんが扉を開けて顔を覗かせていた。
「梨紅さん。どうしたのこんなところに?」
この時間なら部活をしてるんじゃないかと思ったけど、彼女は制服を着ている。もう終えたのか、それとも劇の準備をしていたのかのどっちかだと思う。
「監督が丹羽くんに話があるからいたら呼んできてって」
「分かった。すぐ行くよ」
「でも絵描いてたんでしょ? 無理して今日中にしなくてもいいよ」
「丁度終わったところなんだ。片付けたら行くよ」
梨紅さんはふうん、と漏らし、そのまま動かなかった。どうしたんだろうと怪訝に思ったのに、僕も同じように動く機を見つけられなかった。そのまま視線が交差し、奇妙な沈黙が続いた。
「……………………うぅ、と、え、え、そだ! ちょっと絵見てもいい?」
「あ? う、うんいいよいいよ」
ようやく口を開いた僕はしどろもどろに梨紅さんを室内に招き入れた。何故かお邪魔しますと蚊の鳴くような声で断りをいれて梨紅さんは入ってきた。
「すごぉい!!」
側に立った彼女の第一声はそれだった。
「そ、そう?」
「うん! とっても綺麗」
今まで目の前でそんなに褒められたことのない僕は、胸の奥が非常にこそばゆくなった。小声でありがとうと呟くのが精一杯だった。
「丹羽くんの描く雪って青いんだ?」
「そうだよ。知ってる? 本当に綺麗な雪の影って、灰色じゃなくて青なんだよ。誰かに見られるわけじゃない。青い影を落とした雪原が、ただ、そこにあるんだ。…………って、あんまり面白くないよね」
調子に乗ってくさいことを言ってしまったのに気付いたら、急に顔が熱くなってきた。梨紅さんも口をぽかんと開けて、僕の方を不思議そうに見ている。
「さ、さあ! そろそろ片付けよっと」
放っておくとどんどん膨らんでくる恥ずかしさを押し殺すようにわざと声をあげて腰を上げた。
勢いよく立ち上がった時、足元で何かがばさっと散らばる音がした。
「うわ。しまった」
そこには倒れた鞄があり、中身が散乱していた。椅子の側に置いているのを忘れて倒してしまった。
「手伝うよ」
片付けを始めると、梨紅さんもしゃがんで教科書等を拾い集めてくれた。しゃがんだ時、スカートの奥から白いものが見えた気がした。
「ありがと」
どういたしましてと言って拾ってくれたものを手渡された。彼女の優しさに小さく感動しつつ、散らかしたものを鞄に入れようとすると、中から白い何かが飛び出した。
「きゃッ!?」
その物体は梨紅さんの胸にびったりと取り付いた。
「キュゥ」
「あは、ウィズだぁ」
「ウィズゥッ??」
梨紅さんの胸で鳴いているのは、紛れもなくウィズだった。気持ちよさそうに顔を埋めている。ちょっと殺意。
「久しぶりぃ。元気にしてたかぁ?」
梨紅さんが嬉しそうに抱きしめているせいで、ウィズを引き剥がす機会を失ってしまった。
あいつ、朝からずっと鞄の中にいたのか?
「どうして鞄の中にいたんだよ。ウィズ」
「ムキュゥゥゥッッッ」
「いいじゃないそんなこと。あたしウサギって大好きだし。ぬいぐるみと違って暖かぁい」
「ムキュキュ」
「そういうことじゃなくて……。おいウィズってば」
「ムッキュ」
ウィズは僕の問いかけに答えることなく、梨紅さんが放すまでずっとその胸の谷間に顔を埋めていた。
(ウィズのスケベ。一体誰に似たんだよ?)
……………………僕か。
少しだけ、悲しくなった。
その日、家に帰ると母さんがニコニコして出迎えてくれた。
「お帰りなさい大ちゃん。急だけど夕飯終わったらお仕事行って頂戴ね」
いつものことながら母さんは突然すぎる。
「はあい。何時にどこで何を盗んでくるの?」
そう思っても断れるはずもなく、僕は受け入れるしかない。もう慣れたからそんなに気にならないし。
「九時にクライン教会で『時の秒針』を盗んできてね」
母さんが差し出してきた写真には巨大な氷柱みたいな台にかけられた、蒼月の盾より一回り小さい赤い鏡のような美術品が写されていた。写真を受け取ると、あることを思い出した。
「クライン教会? あそこの美術品って全部博物館に寄贈されたんじゃないの?」
つい先日のことだったはずだ。僕だって怪盗の家系で育つ人間だ。それくらいのことはチェックしている。
「安心なさい。これは確かな筋からの情報よ」
「不安だなぁ……」
「まあまあ。行ってみなくちゃ分からないでしょ。さ、ご飯食べちゃって」
母さんの後に続いてダイニングへ向かった。行ってみなくちゃ分からない――それってあるかないか分からないってことじゃないの?とは、とてもじゃないが怖くて訊けなかった。
「あ! もう八時じゃないか」
リビングの時計の針はもうそんなところを差していた。がたがたと椅子に着き、少し速いペースでご飯をかき込んだ。
「あんまり慌てると牛になっちゃうわよ」
「っんぐ……、でも芝居の練習だってあるし、時間が勿体無いよ」
「人間余裕が肝心じゃぞ」
朝と同じところに座るじいちゃんがテレビを見ながら口を出してきた。
「じいちゃんまで……」
注意されたからというわけじゃないけど、なんとなく箸を運ぶペース落とし、それでも気は急いていた。
「ごちそおさまッ!」
椅子を跳ね飛ばすほどの勢いで立ち上がり、部屋に行こうとした。
「大助」
対面にいた父さんに出し抜けに声をかけられて間抜けな顔をしていると、
「気をつけて行きなさい」
和やかな食卓には似つかわしくない張り詰めた表情で言われた。父さんがどういうつもりでそう言ったのか真意が掴めず、曖昧に返事をするしかなかった。
予告したとおりの時間にクライン教会に着くと、周囲があまりにも静かなことに多少驚いた。
「警察の人がいませんでしたねぇ」
教会の通路を進んでいると、レムちゃんが不思議そうに言ってきた。
「ここの美術品は全部博物館に寄贈されたってことだからね。警察も動く必要がないんじゃないかな」
でも怪盗ダークが予告状を出したんだから、体裁だけでも取り繕って警備した方がいいのではないかと思う。僕はしてなくてありがたいと言えばそうなのだけど。
「大体、本当にあるのか? ああ……何と言ったか」
「『時の秒針』」
「そう、それだ。今のところまったく魔力も感じぬ。無駄足だったのではないか?」
唸りながら足を進めた。確かにそうかもしれない。母さんも、言葉は自信満々だったけど、実際は非常に怪しいことを口走っていた。
「……とにかく、しらみつぶしに捜すしかないね」
「この教会、結構広いですよ?」
「二人とも何も感じない?」
返事はどちらも否定的だった。微かでも魔力を放っているなら二人に任せてそこに行けるんだけど、それが使えないとなると、いよいよ脚を使ってのしらみつぶししかない。
「この広さなら急いで一時間ってところかな」
家に帰ったら劇の練習もしなくちゃいけない。結構ハードだ。
「そういえば主が今度演じる劇にも『時の秒針』がでてきておらんかったか?」
頷いた。童話のアイス・アンド・スノウには『時の秒針』がでてくる。母さんが言うには、『時の秒針』の持つ不思議な力にまつわる話が元になってアイス・アンド・スノウが描かれたらしい。
もっともそれが本当のことかどうか証明する手立ては、文化改革の混乱に紛れてしまっていて存在していないと父さんが言っていた。
「へえぇ、ちょっと興味があります。聞かせて下さいご主人様」
「いいよ。でも僕が知ってるのは『時の秒針』がアイス・アンド・スノウに出てくるってことだけだから、
話すのは童話のアイス・アンド・スノウになっちゃうけど」
「構いませんッ。早く聞かせて下さい」
咳払いを一つし、調子をとった。幼い頃の記憶とつい最近読んだ台本の内容を合わせ、何とか言葉にして紡ぎだした。
「じゃあ始めるよ。アイス・アンド・スノウは領主の息子エリオットと村娘フリーデルトの、身分違いの恋人同士の話なんだ」
「私と丹羽くんはいつも幸せだったの。でも、そんな私たちを引き裂いたのは周囲の反対じゃなくて」
そこで小さく間を取り、ベッドに腰掛ける姉をびしりと指差した。
「戦争だったのよ!」
「なぁんであたしを指差す? ちゅうか丹羽くんじゃなくてエリオットでしょうが」
梨紅の不平もなんのその。原田梨紗はなおも続けた。
「必ず生きて戻ってくるという丹羽くんの言葉を信じて、私は彼の無事を信じて毎日教会で祈り続けるのであった!」
こんな調子で梨紗の言葉は物語の終わりまで続いた。聞かされる方はあまりにも疲れるので省略させてください。
「――そして私と丹羽くんの愛は永遠に続き、『時の秒針』は今もなお村を見守るのであった!」
言葉が止まったことに気付き、原田梨紅は顔を上げた。そこには拳を握り締め、話の余韻に浸る原田梨紗がいた。
「どうどう? いいお話でしょ?」
梨紗は目を輝かせて梨紅に寄るが、彼女は非常に迷惑な顔をしていた。
「梨紗ぁ、もう耳タコだよそれ。どうして練習入る前にいつもそれ言うの?」
「あんたに当てつけるためよ!」
びしっと言い切られ、リアクションに困ったのは梨紅だった。
「…………まあ、いいけど」
「よくない! そこを気にしてくれないと、梨紅が丹羽くんに寄りついちゃうでしょ?」
「何その言い草! あたしが害虫みたいじゃん!」
それからしばらく二人の聞くに堪えない罵詈雑言が飛び交った後、ようやく劇の練習を開始した。梨紗の部屋が小さな練習場へと姿を変えた。
「『なぜ逃げるんだ』」
抑揚のない梨紅の声が読み上げるのは中盤の山場、戦争に向かう前にフリーデルトに告白するエリオットの台詞だ。ここは初めてやる場面である。
「『ダメよエリオット。私たちは……身分違いの恋なんですもの』」
梨紗の演技は相手が梨紅だろうと手を抜くことはなかった。
「『あなたを愛している』」
「『エリオット――』」
抱きつかれた瞬間、梨紅の眉根がぴくっと動いた。この演技を本番でもやるということは、大観衆が見守る中で丹羽大助と抱き合うことになる。そう思うと歯痒い気持ちでいっぱいだったが、今は渋々と演技に付き合い、梨紗の身体に腕を回した。
二人の身体が完全にくっつくと、梨紗の手が梨紅の頬を挟み込んだ。梨紅は怪訝に思ったが時すでに遅し。梨紗の唇がそっと梨紅の顔に触れた。
「んなぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
梨紅の身体が後方に弾け飛び、ベッドにぼすっと倒れた。
「ちょっとぉ、真剣にやってよ」
不満そうに梨紗は漏らすが、梨紅はそれどころではなかった。
「んな、んな、んな、なんばすっとかぁぁっっっ!!」
「何ってキスよキス。接吻」
さらっと言ってのけられ、梨紅の動揺はさらにひどくなった。
「そんな演技どこにもないでしょ! いきなりするなんてどういうつもりよ!?」
唇を服の袖で拭きながら言葉をぶつける。幸いにも梨紗が触れたのは唇のすぐ横であり、梨紅のファーストキス――と本人は思い込んでいるだけだが――は奪われずにすんだ。
「だっていきなりやらないと意味ないでしょ」
「意味ってなん……!」
そこで梨紅の動きがはたと止まった。そう、彼女は気付いたのだ。妹の恐ろしい計画に。
「んふふ、分かった? そう! 本番で、みんなが見てる前で丹羽くんの唇を奪っちゃうのよ!!」
「あ、あんたねえっ」
「既成事実さえ作っちゃえばこっちのものよ!」
「そっ、そんなの、お姉さん許さないからね!」
「あら? 邪魔をして劇を台無しにする気、お姉様?」
このシーンは山場の一つとなっている。クラス全員が団結している中、梨紅一人が何かしでかせばそれだけで劇はおしまいだ。このシーンを演じている時は、まさに舞台上にいる二人だけの世界となるのだ。誰にも邪魔されない二人だけの空間を利用し、梨紗はすんごいことをしでかすつもりだった。
高笑いする梨紗の姿が、梨紅には悪女に見えた。
(お父さんお母さんっ!! 梨紗が不良になってます――――ッ!!)
「っていうお話。分かった?」
何とか童話どおりに話を伝えられたと思う。
「い、い、いいお話ですぅ」
レムちゃんは鼻声だ。多分、泣いているんだと思う。
「…………」
対してさっちゃんは無言だ。どうかしたのか訊ねようとすると、先にさっちゃんがぼそりと呟いた。
「綺麗すぎるな」
「え?」
「この教会がですか? わたしはもっと綺麗な方が落ち着きますけど」
「バカモノ。この話がだ」
「アイス・アンド・スノウが?」
さっちゃんは大仰に頷いて話を続ける。
「童話とは、人間の残忍性、残虐さや傲慢さ、そのような陰の部分から成っていてな。それが広く受け入れられるようにと丸くなったものが今の童話だ」
「陰、ですか?」
「アイス・アンド・スノウ――『氷雪』。雪とは『純粋さ』の象徴だ」
「いかにもそんなイメージだよね」
「しかし、だ。これにも陰の意味があってな」
「また陰ですか」
「『死』。『純粋』と『死』、まったくもって面白い取り合わせではないか?」
「面白いって……」
その声は少しだけ楽しんでいるような、悪戯っぽいものに聞こえた。さっちゃんに言われたことを噛み締めながら、僕は昼間に完成させた絵のことを考えた。あの絵は、ただ純粋に季節にあっていると思ったから描いたんだけど、さっきの言葉を聞くとそう気安く描いてよかったのかどうか、少しだけ考えさせられた。
(けど、いちいち絵のモチーフで考え込むっていうのも……)
「主っ!」
「え? 何?」
突然さっちゃんに力を込めて名前を呼ばれ、考えを中断した。
「正面、来るぞ!」
その声は闘いの時のものだった。鬼気迫るほどに叫ばれ、腰を落として正面を見据えた。
のに、そこは行き止まりで何もなかった。
「何もないよ。どうしたの?」
少しホールのように広くなっているところを見ると、何かを展示していたのかもしれない。
「な……、あれが見えとらんのか!」
「あれって?」
「ご主人様ッ!」
「間に合わん! レムッッ!」
さっちゃんの呼びかけに応えてレムちゃんが周囲を包むように防壁を張り巡らせ、同時に、僕の周りの空間が震えた。
「な、なにがッ……」
「本当に分からんのか!?」
「だ、ダメっ、押されますぅぅっっ」
僕だけ取り残され、状況は変化しているみたいだ。それでも二人の様子から分かるのは、これが尋常じゃない事態だということだ。
「主っ、気合を入れよ! 押し破られる!」
「分かった!」
言われるままに盾を真正面に構え、体中を緊張させた。多少楽になったのか、レムちゃんが小さく溜め息を吐くのが聞こえた。
「どうなってるの? 全然分からないよ」
「正面にいる小娘がこちらに向けて多量の花びらを撒き散らしてきとる。それにしても何故主だけ見えん? ……人間、だからか?」
「さ、さあ」
取り残された気分は拭えないまま、次の異変が起きた。今度は大地を震わせ、地鳴りのような音が辺りに響き渡った。
「今度は何――っ」
その変化は僕にも捉えることができた。目の前、何もなかった空間に、床から巨大な何かがせり上がってきた。
「! 『時の秒針』!?」
「なにっ、あれがか」
競りあがってきた巨大な氷柱にかかる赤い円盤状の物体。母さんから見せてもらったものに間違いない。
「きゃッ――」
「レム!?」
周囲からの圧力が増大し、僕の腕からレムちゃんが、蒼月の盾が吹き飛ばされた。
(外されたっ!?――)
「うわあぁぁっっっ!」
盾の加護を失い、強烈な風が身体中を叩きのめしていく。
「あるじ――」
「キュウ――」
レムちゃんと同じく、さっちゃんとウィズが後方に吹き飛ばされ、僕だけがその場に残った。
「なんでッ」
僕だけ吹き飛ばされないんだ!言いかけて、みんなとは逆に『時の秒針』の方へ吸い寄せられていくのに気付き、倒れ込んで必死に床に喰らいついた。
「うぁ?!」
身体がふわっと浮くような錯覚に襲われ、それが本当に浮いていると頭で分かった時には、すべてが遅かった。
「主ぃッ!」
「ご主人様ぁ!」
「キュウゥゥッ!」
風で消されそうなほど小さなみんなの声が届いたのが最後だった。
「な…………」
「さ、さっちゃんあれって……」
風、いや二人からすれば花吹雪がやみ、静寂が戻ったホール。その中央の光景に、二人は愕然とした。
「キュウッ!」
ただ一匹動けるウィズはホール中央の氷柱に駆け寄り、懸命にそれを引っ掻いた。翼主を助けるために。
氷柱の中、そこには丹羽大助が封じられていた。『時の秒針』は丹羽大助を連れて行き、翼主を失った翼だけが無惨にも取り残された。
一匹の掻き続ける音と二人の慟哭が、静寂の中に木霊した。