――夢を見ていた。  
 幼い頃の朧げな記憶。  
 僕がいて、  
 小さな女の子がいて、  
 ウサギのぬいぐるみがあって……。  
 
 ……はっきりとしない情景。何度か見たけど、その度に鮮明さが失われていくような気がする。だけどはっきりとしているのは、僕はその子のことが気になって、だからあんな真似をしたに違いないということだ。  
 それは初恋だったせいなのかもしれないと、最近になって何気に思う時がある。あの時、あの子を助けた時に抱いた気持ちが、今の僕の気持ちと少しだけ重なっている気がする。  
 僕は今、恋をしてる。そんな確信染みたものがある。僕は誰に恋をしているのか、それも朧げで、影を捉えるくらい不確かなもの。だけど影を捉えられるくらい近く、影の主が側にいるんだと思えた。それが誰なのか、なんとなく分かる気がする……――  
 
(――ごっしゅじんさまぁッッ!)  
「んぁッ!?」  
 頭の中に舌っ足らずな幼い声が響き渡った。気持ちよく寝ていた僕は叩き起こされ、変な声を出して身体を震わせた。  
「? どうした」  
 顔を上げると、隣の席の冴原が僕の方を見ていた。  
「あ、いや……」  
 何でもないよと告げると、冴原は特に気にしてくる事もせず、窓から見える大海原に視線を向けた。フェリーに乗る前、窓側の席に座ろうとした僕を制し、強引にその席を奪われたことを思い出した。  
 そう、僕らは今、フェリーに乗っている。夏休みが終わってすぐ、東野第二中学校の二年生は、南の島へと五泊六日の修学旅行にきていたのだ。本当は別のところに行く予定だったけど、今年はプールが使えなくなったせいで急遽予定を変更したらしいと聞いた。  
 二-Bのクラスメイトは肩身の狭い思いをしつつ――原因は僕、じゃなくてさっちゃんのせいだけど――この修学旅行に臨んだ。  
 今はそんな状況だ。ところで、  
(なにレムちゃん?)  
(はいっ。ご主人様、そろそろ時間なのです)  
(時間って、もうすぐフェリーが着くの?)  
(はいです。そろそろ到着予定時間の一時半です)  
 言われてフェリーの中に時計を求めて視線を巡らせたけど、なかった。  
(どうやって時間が分かったの?)  
(体内時計でありますっ!)  
 少しの間、頭の中が空っぽになった。手元のバッグの中から腕時計を取り出して時間を確認した。――十二時。ちなみにフェリーに乗ったのは十一時半。  
(……お休み)  
(はわっ!? 何故ですかぁ?)  
 相変わらずどこか抜けているなと思いつつ、再び瞼を閉じた。  
 
「おい大助!」  
「いたッ?!」  
 急に声がしたと同時に、頭に鋭い衝撃が走った。瞼を開けると、冴原が拳をかざしている姿が目に入った。  
「痛いなぁ……。なんで叩くのさ?」  
「なんでじゃねえよ。ほら、甲板に行くぞ」  
「なんで?」  
「もうすぐ着くからに決まってんだろ?」  
 周囲を見回すと、みんながバッグを手に席を立ち始めていた。どうやら今度は本当に着くらしい。  
「ぐずぐずしてっと置いてくぞ」  
「あ、すぐ行くよ」  
 席の前を少し空けて冴原を先に行かせ、僕もバッグを手に席を立った。大きなバッグは乗る前に貨物室に預けたので、小さなバッグしか持って行かなくていい。筆記具にしおり、その他よく使うもの以外に、バッグの中には淡く光を放つ丸い鏡――ということにして持ってきた――が入っていた。  
「レムちゃん、着いたら起こしてって言ったのに」  
 周りにほとんど人がいないのを確認し、小声でバッグの中に話しかけた。けれど返事はなく、  
「すぅ……すぅ……」  
 小さくて可愛らしい寝息だけが耳に届いてきた。  
 
 その呑気さに呆れつつ、僕も甲板へ向かった。  
「っ……」  
 顔にぶつかってくる清涼な風と、降り注いでくる陽光の眩しさに手をかざした。一瞬だけ白くなった視界が回復し、辺り一面、それこそ無限に続くかと思えるほど大きくて青い海原が広がっていた。  
「ふわぁぁぁ」  
 レムちゃんが感嘆の声をあげた。僕はその光景に言葉も出なかった。  
「おっ。来たか」  
「冴原」  
「どうだよこれ。寝てばっかじゃぜってぇ拝めねえ眺めだぜ」  
 手を広げてそう説く冴原の言葉に素直に頷いた。言われたとおり、起きてよかったと思った。手すりの側まで行き、眼下から彼方にまで続いている海を呑み込むつもりで大きく深呼吸した。鼻をくすぐる磯の香りに、胸の奥まで洗われるような気分になる。海から空に照り返す海光が、天光と相まって瞳に痛いほど美しく世界に光を与えていた。  
 視線をフェリーが行く先に向けると、まさに緑に覆われたとしか言いようのないリゾート島が近づいてくるのが見える。  
「あそこが目的の地ですね?」  
「うん。綺麗なとこだね」  
「はいっ。さっちゃんにも見せてあげたかったです」  
 レムちゃんの言葉に、少しだけ今朝の記憶が呼び起こされた。家に帰ったら何て言われるか、考えただけで気が滅入った。  
 
「ま、まあ土産話でもするよ。は、はははは……」  
「なに独りで喋ってるの?」  
 背後から声が降りかかり、心臓が口から飛び出るほど身体を縮み上がらせた。  
「――ッり、梨紅さんっ!」  
 振り返ると、さっきの眩しさとはまた違った光を持った褐色の肌をした赤いショートヘアの女子が立っていた。  
「独り言なんて感心しないぞ?」  
 彼女は子どもに接するような優しい口調で咎めながら、僕の傍に立って手すりにもたれかかった。  
「すごい眺めだよねー。あたし感動しちゃうよ」  
「そうだね。海って、街からだとちょっとしか見えないし、こんなに広がる水平線なんて滅多に見る機会ないもんね」  
「そうそう。丹羽くんは海、好き?」  
「好きだよ。一度でいいからこんな大海原を描いてみたいよ」  
「描きなよっ。あたし、丹羽くんの描く絵好きだよ」  
 目を煌めかせてそう言われ、ちょっと気恥ずかしくなって視線を落とした。  
 
 あの日を境に、僕と梨紅さんはよく顔を合わせるようになった。偶然……じゃない。多分、僕が知らず知らずのうちに彼女と逢うように時間と場所を調整していたんだ。  
 
「今日はどこまで進んだの?」  
 公園のベンチに腰掛けて風景を描いていた僕の横に、部活帰りの梨紅さんが声をかけてきた。日に日に肌の色が黒く染まっていく彼女を見ていると、熱心にがんばっているんだなと感心させられる。  
「昨日は下書きだったけど、今日は一応清書してみたんだ」  
「どれどれ見せて」  
 知り合いに絵を見せるという習慣があまりなかった僕にとって、梨紅さんに絵を見せるというのは恥ずかしく、最初のうちはかなり抵抗があった。  
「うっわぁ! すごい上手!」  
 けど、顔を輝かせて素直に褒めてくれる彼女を見ていると、次第に抵抗はなくなり、後には恥ずかしさと、ちょっとばかりの喜びが残った。  
「うまく言えないけど、とっても暖かい感じがするよ」  
 その感想だけで十分すぎる。人に褒めてもらえることの嬉しさを、本当の意味で知ったような気がした。  
 そんな事をぼんやりと考えていると、梨紅さんとは反対のところに置いているバッグがもぞもぞと動く気配がした。怪訝に思った瞬間、  
「ウッキュ」  
「ウィズ!?」  
 バッグの中から家に残してきたはずの白い毛玉の塊が飛び出し、僕の膝の上を越え、梨紅さんめがけて跳躍した。  
 
「きゃッ!」  
 彼女が小さく声をあげ、自分の膝の上に跳んできた物体に視線を移した。  
「に、丹羽くん! これなに!?」  
「わわっ! ごめん、すぐに退けるよ」  
 突然のことに軽く慌てている梨紅さんの膝から、ウィズの首根っこを掴んで引き剥がそうとした。  
「ウッキュゥゥゥ」  
 けど何故かウィズも必死に抵抗し、梨紅さんのスカートにしがみついて堪えている。  
「ウィズ、ダメだってば!」  
 さらに力を込めて引き剥がそうとすると、  
「いやぁッ! 丹羽くん待って待ってぇ!」  
 どういうわけか聞こえてきたのは梨紅さんの悲鳴だった。  
「どうしたの梨紅さ――ッ、わぁぁッ! ごめんなさぁぁいっっ!」  
 すぐに理解した。ウィズがしがみついているせいでスカートが捲れ、梨紅さんの美脚が付け根の近くまで見えていた。  
 急いでウィズから手を離すと梨紅さんの膝の上に落ちた。そのまま気持ちよさそうにすりすりと顔を埋めようとしている。――正直言って羨ましい。  
 などとバカな考えは置いておき、梨紅さんの顔をばつの悪い思いで窺ってみると、顔を真っ赤にして俯いていた。  
「ごめん……」  
 それだけ言うのが精一杯だった。後は、ただ梨紅さんの言葉を待った。しばらく、といっても時間を計ることさえ忘れて待っていたので、長いか短いかも定かじゃないほどの時間の後、  
「この子ってウサギ?」  
「え? ウィズのこと?」  
「うん。そっか、きみはウィズっていうのか」  
 梨紅さんが膝で丸くなっているウィズに手を伸ばすと、いとも簡単に抱えあげた。ウィズのやつもどことなく嬉しそうだ。  
「うん。ウサギだよ。耳が垂れてるのが特徴なんだ」  
 少しウィズに腹を立てながらも梨紅さんに説明した。まさか使い魔と教えるわけにもいかない。  
「珍しー。あたし、ウサギ好きなんだ」  
 ウィズを抱きしめて頬を寄せる彼女の姿に、ほのかに暖かく、懐かしくも新鮮な思いがよぎった。  
 
「丹羽くん、そろそろ着くよ」  
 梨紅さんの声にはっとして顔を上げると、いつの間にか島が間近にあった。ホテルとなる建造物から浜辺にいる人影まではっきりと見てとれる。  
「先に行くから。また後で」  
「あ。うん」  
 手を振って離れていく梨紅さんに僕も振り返していると、レムちゃんがうきうきと弾む声で話しかけてきた。  
「ごっしゅじっんさまぁ」  
「どうしたの?」  
「むふふっ。今から夜が楽しみですぅっ」  
「夜って、まさか修学旅行中もするの!?」  
「当たり前ですよぉ」  
 至極当然といった調子で言われ、僕は困った。  
「ダメだよ! 同じ部屋の人に射精してるのがばれたらどうするのさ?」  
「ばれなきゃ平気なのですっ」  
「簡単に言わないでよ。それに旅行中は控えてもらうから昨日あんなにいっぱいしたじゃないか」  
「それはさっちゃんも一緒でしたよ。わたしはご主人様と一対一でしたいのです」  
「ダメっ! ダメったらダメ!」  
「ひっ、ひどいです。わたしが餓死してもよいのですね!?」  
 レムちゃんが泣き崩れるのが分かり、小さく嘆息した。  
「はぁ……。あれ?」  
 どこか遠くから視線を感じたのでそちらに首を向けると、栗色のロングヘアを海から来る強風になびかせる女子と目が合った。  
「原田さん……」  
 名前を呼んだのが聞こえたわけがないだろうけど、そう呟くと同時に彼女は踵を返して歩いていった。そういえば夏休みの後半に会った時もどこかよそよそしくて、一学期ほどの親しさがなかった気がする。  
「大助、さっさと降りる準備しとけよ」  
 考え込む暇もなく、遠くから呼びかけてくる冴原に手をあげて応えた。  
「ご主人さまぁ……」  
 レムちゃんの甘い声の訴えに耳を貸すのはやめておいた。  
 
 ホテルに入ると、さっそく熱血家庭科教師・加世田先生からありがたい言葉をいただいた。  
 
「男子は一階。女子は二階。男子は絶対二階に上がらないように!」  
 
 その言葉にちらほらと嘆きの声があがったのは言うまでもない。僕も少しだけ残念だと思った。  
 部屋に入ると、まずその清潔感溢れる内装に感心した。そして入り口のドアの向かいには外の景色が広く展望できるガラス張りの窓。もっと安っぽい造りかと思っていたけど、なかなかどうして立派だ。ベッドまで人数分きちんとある。  
「おお! なかなかどうして立派な部屋じゃないか」  
 後から同室の冴原が部屋に入ってきてほぼ僕と同じ感想を高らかに述べた。  
「へえ。なかなかどうして立派な部屋だな」  
 続いて入ってきたのは関本だった。こっちも僕と同じ感想を口にした。  
「ふむ。なかなかどうし」  
「お前は別部屋だろーがっ!」  
 さり気なく進入してこようとした日渡くんが関本に追い返され、室内には平穏な空気が流れた。旅行用の大きなバッグと手提げのバッグをベッドの上に置き、窓を開けてベランダに出た。ここから海が見渡せ、潮の香りも漂ってくる。  
「いい所だね」  
「いやまったくだ」  
「うん……ってうあぁぁぁッッッ!!」  
 一人で呟いたのに誰かに相槌を打たれて驚いた。隣室とのベランダの仕切りの向こうから声が聞こえてきたと思ったら、にょきっと日渡くんの顔が現れた。  
「失礼な。何をそんなに驚く必要がある?」  
「い、いきなり声かけられたら誰でも驚くって……」  
 相変わらず神出鬼没だ。僕の心臓がばくばく音を立てている。  
 
「しかし、この仕切りは邪魔だと思わないか?」  
「そうかな?」  
「そうだとも。まるで俺と君の行く手を阻むぅぉぉぉッッ――」  
 何かやばそうなことを言いかけた日渡くんが、突然引き込まれるようにして視界から姿を消し、代わりに別の人物の顔が現れた。  
「よお」  
「西村。日渡くんと同じ部屋なんだ」  
「ああ。いないといろいろまずいからな」  
 そのとおりだ。心の中で同意した。  
「そうだ。ついでにそっちの部屋の連中に連絡伝えといてくれ」  
「連絡? いいよ」  
「五時まで自由行動。泳ぐ人は先生に申し込んでから。以上」  
「了解。西村も行くの?」  
「当たり前だろ? なんせオレは今回にかけてるんだからな」  
「? かけるって何を?」  
「ん、ま、まぁ、いろいろとだよ」  
 その事を訊いた途端、急に西村の挙動が怪しくなった。何か隠し事でもしてるんだろうか? そう思わざるをえなかった。  
「じゃあそういうことだからさ! 頼んだぞ」  
 そう言ってさっさと切り上げて去っていった。未だ、頭には疑問符が渦巻いていた。けど本人が話したくなさそうだったから、訊かないでいた方がいいな。  
 そう考えながら部屋に戻ると、そこには一人しかいなかった。  
「あれ? 関本はどこ行ったの?」  
 これから連絡があるのにタイミングが悪いなと思っていると、  
「あいつならさっさと水着に着替えて海に行ったぞ」  
 冴原の答えに驚き、すでに冴原も着替え終えていることに二重で驚いた。  
「オレも先行くけど、先生への申し込みの方は頼んだぞっ、大助くん!」  
 カメラを片手に駆け出す冴原を止めようとしたけど時すでに遅し、だった。きっとあんなのやそんなのを撮るんだろうなと思うと気が重くなった。  
「ばれたらどうするんだよ……」  
「ばれなきゃ平気なのですってばぁ!」  
 レムちゃんの言葉がとても虚しく心に響いた。  
 
 
「――つまらん」  
 丹羽家の大助の部屋、ベッドの側にかけられた刃渡り八十センチほどの両刃の剣。  
「つまらんつまらんつまらんつまらん」  
 炎が揺らめく様を象った柄とアームガード、刀身まで薄っすら紅く染まっている。  
「つまらんつまらんつまらんつまらんつまらんつまらんつまらんつまらん」  
 紅円の剣に宿されたサッキュバスことさっちゃんはただひたすらにぼやいていた。  
「なぜだっ! なぜ我だけがこのような思いをせねばならん!?」  
 答えは単純にして明快。銃刀法違反になってしまうからである。そういうわけで修学旅行にはウィズとレムちゃんだけが連れて行かれたのだ。  
 しかしそれに納得できるわけもなく、彼女は延々と飽きることなくぼやき続けていた。そしてそんな彼女の不平不満を抑えるべく、一人の勇者が大助の部屋に向かった。  
「やあ」  
 聞こえてきた声の方にさっちゃんの意識が集まり、声の主を捉えた。  
「おお。親父殿か」  
 大助の父であり、丹羽家の中で唯一、さっちゃんとレムちゃんの存在を知る人物・丹羽小助が姿を見せた。  
「何用か?」  
「さっちゃんが一人で退屈してると思ってね。遊びに来たんだけど、邪魔かな?」  
「そんなことはない、大歓迎だッ! 嬉しいぞ親父殿!」  
 退屈がしのげる。そう分かり、さっちゃんは喜び勇んで小助に擦り寄った。――気分だけだが。  
 
「む? 親父殿、その手にしている物はなんだ?」  
 さっちゃんは小助の手に小瓶が握られていることに気付いた。中には虹色に光り輝く不思議な液体が波打っている。小助はまだ何も言わず、黙って紅円の剣を壁からとり、床に置いた。  
「なにをするつもりだ?」  
「ちょっとね。試してみたい事があるんだ」  
 そう言って小瓶の蓋を外し、虹色の液体を一粒、剣の刀身に滴らせた。  
「おわっ!?」  
 さっちゃんが叫んだ次の瞬間、軽い爆発音とともに部屋中に煙が充満した。もくもくと渦巻く煙を窓を開け逃がし、次第に部屋の中の様子が窺えてきた。  
「げはっ、げはっ! お、親父殿、何をした?」  
 煙が完全になくなると、紅円の剣の上に一人の幼女がいた。ライトパープルのロングヘア。悪戯に釣り上がった目に口の端から覗く牙に肌の露出が多い際どい衣装。以前、淫夢の短剣から魔力が溢れ出し、魔力多過が原因で一度だけ現れた幼女さっちゃんである。  
「お、おおっ!?」  
 その姿に驚いたのはさっちゃん本人である。小助はというと、これこそが目的と言わんばかりに、にこにこと微笑んでいた。  
「親父殿、これはどういうことだ?」  
 舌っ足らずな口調でさっちゃんが問いただした。  
「うん。さっきの薬はちょっとした秘薬でね。一時的に対象の魔力を増幅させることができるんだ」  
 小助は嬉しそうに続ける。  
「だからさっちゃんに使って、またその姿を現してもらったんだ」  
「なるほど。しかし、どうせしてくれるのならもっと魔力を増幅してくれた方がセクシーな容姿になったのだがなぁ」  
「さっちゃん。世の中にはこういう人もいるんだよ」  
 どこから取り出したか、小助は園児服やスモールサイズのスクール水着にナース服。その他諸々を手にしていた。  
 
 
 
 と、いうわけで、僕は冴原と関本から少し遅れて海へ出た。フェリーから、ベランダからと見た海ではあるけど、砂浜で目にするのもまた違ったインパクトがある。  
「おう! やっと来たか」  
 声のした方を振り向くと、すでにビーチパラソルを広げその下で独りくつろぐ冴原の姿があった。その様子を見、少し腑に落ちない点があったので近づいて話しかけた。  
「関本は? 一緒じゃないの?」  
「いやそれがよ、あいつの後追って走ったんだけどさっさとどっか行っちまいやがってさ」  
「えーっ! ちょっとまずいよ。行動は班単位でしろって先生に言われたのに」  
「構いやしねえよ。ばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃよ」  
 何をやってもな、と最後に付け足す冴原の顔が、非常にどす黒く歪んだことに気付き、また変な事――あれしかないけど――をするつもりだと直感した。  
 
「冴原っ、盗撮は――」  
 冴原の悪行を止めようとし、それより早く冴原が動いた。  
「うるさぁぁぁいッッッ」  
「うわっ、あ、ああぁ……っ?」  
 顔に粉末状のものを振りかけられて鼻や口から直接吸い込んでしまったかと思うと、一瞬で身体の自由が効かなくなり、腰がすとんと落ちてしまった。  
「なッ!」  
 それだけじゃない。意識もしていないのに下半身のものが大きく膨張し、海水パンツを押し上げようとしていた。突然の身体の変調にうろたえていると、頭上から声が降ってきた。  
「ふっふっふ、驚いたか! 驚いたろ? そうかそうか驚いたかっ!」  
 独りで満足そうに高笑いする冴原に何をしたか問いただすと、  
「夏休みにな、オレの身に文字通り災難が降りかかったわけよ。これを見ろ!」  
 眼前に突き出された手には小さなビニール袋が握られ、中に収められているピンク色の粉末がはっきりと見えた。僕は、その粉を見たことがある。  
「成分は企業秘密だが、これを吸い込むと身体がむふふな状態になるんだぜっ!」  
 聞けば聞くほど確信していく。あの夏休み中のほろ苦くて甘酸っぱい青春の日々が脳裏をかすめていく。  
「……成分って、お前も分かってないんじゃないの?」  
「口の減らない悪い子は君かなぁ?」  
「うぎゃッッッ――」  
 図星を突いただろうその言葉が気に障ったのか、冴原が僕の両足を掴み股間に足を当てて遠慮なしの全開電気アンマを放ってきた。  
 丹羽大助十四歳、悶死。  
 
「――じゃあ邪魔すんなよ。って言ってもその状態じゃ手出しできねえけどな」  
 冴原の言葉が遠い。身体も動かない。というよりこの状態じゃ動かせない。僕の身体にはは冴原の手によって砂がてんこ盛りにかけられている。股間の異常がばれないよう、冴原曰く、武士の情けらしい。  
 先程の悪魔の所業により僕のあれはひどい痛手を負っていた。粉のせいでぎんぎん、先走りまで垂れているけど感覚がない。代わりに下腹部に締めつけられるような鈍痛が響いている。  
「三十分くらいしたら戻ってきてやるよ。そん頃にゃ体調も治ってるだろ」  
 冴原はカメラと袋を手に遠くへ繰り出して行った。僕は泣きたくなるほどの痛みと、独りの寂しさに打ちひしがれていた。  
 目を閉じてしくしくと泣いた真似をしていると、瞼を通して降り注いでくる陽光が不意にかげった。訝しく思って目を開くと、  
「うわッッ!」  
「何を驚く? 失礼な」  
 視線の先に日渡くんの顔があった。その出で立ちは水着にパーカー付きの薄手のパーカーにサングラスという、明らかに場所にそぐわないファッションだった。そんな格好をされれば誰だって驚くはずだ。  
 この状況で日渡くんと交わす言葉が見つからずに口を閉じていると、彼は僕の側にしゃがんで砂を払い始めた。  
「日渡くん?」  
「動けないんだろ? だったら」  
 普段から変態じみた行動で迫ってくるだけに、この時は彼の心遣いに素直に感謝した。  
「ってこらぁぁぁッッッ!! 何してるの!?」  
「見れば分かるだろう。怒張を造っているんだ」  
 てっきり払ってくれているとばかり思っていた彼の手元を見た瞬間、僕の感謝の気持ちは粉微塵に砕け散った。彼は払うどころか逆に砂を積み上げていた。一ヶ所だけ、重点的に太く、長く。  
 
「止めて、止めてって! そんなの造っても恥ずかしいだけだよ!」  
「そうか? 少なくとも俺には立派な彫像に見えるぞ。よしできた」  
「早っ! ていうかキモイよこれ!」  
 僕の上には、何というか、一言で現せば『リアル』なものが悠然と屹立していた。しわの一つ一つから亀頭の形、雁のくびれまでそれはもうグロテスクなほど生々しく。  
 これは、やばい代物だ。  
「早くこれ壊してよッ!」  
「何を言う。お楽しみはこれからじゃないか」  
 未だに自由が効かない僕の身体を日渡くんが跨いで立ち、サングラスの奥でその瞳が輝いる、気がした。  
「さあ、行くぞ」  
 そう言うと日渡くんの腰が少しずつ下がってきた。  
「ひいいぃぃぃぃぃっっっ!」  
 桁外れの威圧感を、プレッシャーをまとった日渡くんと、僕の身体から生えたペニスを模した砂の造形との距離が次第に小さくなっていく。  
「いやだぁぁっっ! こんなのいやだぁぁぁぁぁッッッ!!」  
 もがけどもがけど、砂の身体はびくともしない。それどころかその様を目にした日渡くんが嬉しそうに、にやりと微笑した。  
「ふふっ。触れるぞ?」  
「うわあぁぁぁぁぁ――」  
 犯される。――本能がその単語を僕に与えてきた。もうダメだ。僕の純潔はこんなところで散ってしまうんだと観念し、諦めかけた。  
 
「ぉ前はぁぁッッ」  
 白紙になりかけた頭の中へ、遠くから近づいてくる人の声が聞こえた。その声は僕のよく知っている人物のものだ。  
「ヴァカかあぁぁぁぁぁぁッッッッッ!!」  
 近づいていた日渡くんの顔が、左頬から波打つようにして歪んでいき、有り得ないくらい首が曲がり、折れ、吹き飛んでいった。  
「西村ぁぁぁぁぅぅぁぁぁあっっっ」  
 颯爽と駆けつけてくれた西村の  
「泣くな。大丈夫か丹羽? 変な事されてないか?」  
「変も何も、股間のそれをどうにかしてっ!」  
 僕の股間部からそそり立つそれを目にし、西村の顔が微かに、いやかなり引きつった。  
「またろくでもない事を……」  
「とにかく早く何とかしてっ」  
「任せろ」  
 脚が一閃し怒張を模した造形は根元からぼきりと折れた。  
「ああッ! 丹羽の逸物が!!」  
「僕のじゃなぁいッッ!」  
 感情に任せて折れた造形を日渡くんめがけて投げつけた。顔面に見事的中し、日渡くんと造形が仲良く崩れ落ちた。  
「……に、丹羽の、が……かお、にぃ……」  
 彼が事切れる寸前、どことなく幸せそうだったのは気のせいだろうか。けど、とにかく貞操を守りきれたことを喜んだ。  
 
「ありがと。助かったよ」  
「なに、気にするなって」  
 これも委員長としての責務だ、とは西村の弁。彼の仕事熱心な面に今回は助けられた。しかしどうにも胸に引っかかるものがあった。  
「ねえ。関本どこにいるか知らない?」  
「ん? いや見てないけど」  
 そう。いつも日渡くんの奇行を喰い止めてくれるはずの関本が現れなかったのは珍しいことだ。やはりどこか遠くに行ってしまったのかもしれない。  
「そのままじゃ不便だろ。出してやるよ」  
「うん。ん、あー……上半身だけでいいよ」  
「? そうか」  
 少しだけ疑わしそうな視線を向けられたけど、それだけだった。しつこく追求はせずに上半身を覆う砂を払い落としてくれた。  
「んーッ、生き返ったぁ」  
 上半身のみだけどようやく動きが取れるようになり大きく伸びをした。固まっていた身体中の筋肉が程よくほぐれた。  
 こういう時、持つべきものはやはり友だ。  
「西村はこれからどうする?」  
「班員があれじゃあな、動くに動けないよ」  
 西村が動かした視線の先には、まだ気絶している日渡くんの姿があった。  
「あれ? でも班って男子は三人じゃなかったっけ?」  
 そう訊くとひどく重苦しく覇気のない、がっかりしたような溜め息を漏らされた。  
「ムッシュが仕事とか何とか言って休んじゃったんだよ」  
「宮本くんが?」  
 宮本くんとは、いつも変な関西弁と『おまえおまえおまえぇ』という絶叫を繰り返しているお茶目な歌手志望のクラスメイトだ。  
「ああ。だからあれの面倒をオレ独りで見なくちゃいけないんだよ……」  
 だから気分がどんよりしているのか。理解した。確かに独りで日渡くんを手なずけるのは不可能に近い。  
「それは……ご愁傷様」  
 そうとしか言えなかった。  
 
 男二人でする事もなくぼんやりと砂浜に座っていると、   
「あー、いたいた。ねえ丹羽くーん」  
 遠くからまた聞きなれた声がして西村とともにそちらを振り向くと、水着姿の四人組の女子――原田さん、沢村さん、福田さん、梨紅さんが並んでこちらに向かってきていた。  
 声をかけてきたのは沢村さんで、右手を振って存在を示している。水着から伸びる腕の付け根、脇の下辺りについつい目がいってしまう。  
「――はっ!?」  
 無言の圧力を感じ、すぐさま視線をそこから逸らした。横の方からちくちくと刺すような痛みが突いてくる。僕の視線に気付いたせいで怒っているんだろう、好きな人をそんな目で見られるのは嫌に違いない。  
「やっ」  
 沢村さんの挨拶に手を挙げて返し、西村も同じようにするのが横目に映った。  
「何か用?」  
「うん。ちょっと丹羽くんに訊きたい事があって」  
「……オレもいるんだけどな」  
「何か言った?」  
 ぎろっと一瞥され、西村が口を閉ざして小さくなっていった。西村の気持ちが分かっているから余計に気の毒に思える。見ているだけというのも悪く、急いで合いの手を差し伸べた。  
「そ、それで訊きたい事って?」  
「あ。そうそう」  
 何事もなかったように話を戻してくれたけど、これはこれで西村にはきついものがある。  
「真理の姿が見えないんだけど、どっかで見てないかな?」  
「石井さん? ううん、見てないけど……」  
 そこまで口にして、嫌な予感が脳裏をよぎった。  
 
「……関本もいないんだけど、見てない?」  
「関……っ」  
 沢村さんが気付いたように顔をはっとさせて福田さんに視線を向けた。彼女も顔を微かに引きつらせ、僕らと同じことを考えついたようだ。  
「関本くんがどうかしたの?」  
 原田さんが横から口を挟んできたけど僕と、沢村さんと福田さんはただ笑ってごまかすしかなかった。疑わしげに原田さん、梨紅さんと西村に見つめられ、笑い声が苦しいものになってきた。  
 咳払いを一つして改めて四人の女子を見回した。原田さん、ビキニタイプの黄色い水着は露出が高すぎ、胸の谷間も見えて目に入れるのが痛いくらいだ。見るに見れないとはこのことだ。沢村さん、原田さんと同じセパレーツ型でスカイブルーのカラーに右肩にしかないストラップのワンショルダー、白光の元にさらけ出された左肩がなんとも言えないエロスを  
「ぐるるぅ……ッ」  
 野獣のように低い唸り声とともに強烈なプレッシャーを察知し、すぐさま次に移った。福田さん、二人とは対照的なワンピースのピンクで赤い花柄をあしらっていて、一件地味に見えるけど二人と比べて若干背の高い彼女にはすらりとして見えていいかもしれない。梨紅さん、  
「あれ?」  
 彼女はぶかぶかのシャツを着ていた。シャツには首にかかる紐のラインが浮かび、下にはライトグリーンのタイトなトランクスを着けているから水着を着ているのは確かだ。  
「梨紅さんは泳ぐ気ないの?」  
 そう訊ねると彼女が声を詰まらせた。  
「に、丹羽くんには関係ないよ」  
 顔を背けて怒られてしまった。心なしかその焼けた頬が少し紅くなった気がする。あまり確証はないけど。  
 
「気になる? 気になる? 気になるよね?」  
 思い過ごしか、少しだけ声を弾ませている福田さんがそう訊いてきたので僕は小さく首を縦に振った。すると福田さんと沢村さんは何も言わずに梨紅さんを両脇から挟み、  
「ちょっ、何よ二人とも!」  
 にっこりと、ではなくにやりと笑みを浮かべ、梨紅さんを砂の上に押し倒した。  
「わッ――、こらこらぁっ、やめなさいよ!」  
「まあまあ。せっかく海に来たんだから泳がないと損だよ」  
「大人しく脱いじゃいなさい」  
 脚をばたつかせて足掻く梨紅さんを二人が愉しそうにレイ――もとい押さえ込んで身体を絡ませ合い、  
「取ったぞー!」  
 沢村さんが梨紅さんから剥ぎ取ったシャツを手にした右拳を突き上げ、どこかのレスラーのように力強く、雄々しく咆哮した。  
「か、返しなさぁぁいっっ!」  
 福田さんに抱きつかれた梨紅さんが沢村さんの脚にしがみつき、懸命にシャツを取り返そうとしていた。その彼女の肌を見た時、瞬きさえ忘れてしまったように僕の瞳は釘付けになり、目線を動かすことができなくなった。梨紅さん、肌にフィットした短いトランクスに、ホルターネックのライトグリーンのツーピースとここまでは他の人と対して変わらない水着姿だけど、僕が凝視しているのは水着じゃなく、彼女の肌だった。  
 首の付け根と上腕の中ほどにはっきりと日焼けの跡がついている。線で綺麗に区切られたそこを境に、小麦色の肌と白い肌が見事なコントラストで身体を彩り、他の三人より地の肌の白さを際立たせていた。  
 
 これは…………いい。  
「は、原田さんって、いいな」  
 うわなんだろう。西村の台詞がめちゃくちゃ気に入らない。  
「? どうした、そんな怖い顔して」  
「え……、そんな顔してた?」  
 鼻の下を伸ばした西村が頷き、自分がそんな顔をしていたのかと初めて気付いた。  
「んもぉーっ、梨紅ってば可愛いぃ」  
「きゃッ!」  
 福田さんがじゃれつき、梨紅さんの脚が伸びるパンツの脇を少し捲った。  
「うわっ」  
 そこも鮮やかなほど白く、砂の中に埋もれた僕のあれが正直に反応した。どくどくと、  
(出てるぅぅぅっっ!?)  
 これはあまりに予想外の出来事だ。薬のせいで思った以上に感度がよくなりすぎているみたいだ。これは急いでどうにかする必要がある。後で海に飛び込んで人目を気にしながら洗い流そう。  
「ねえ!」  
 三人の女子から距離を置いていた原田さんが唐突に声を出し、女子だけじゃなく僕と西村もそちらを見やった。  
「こっちの方で遊ぼうよ!」  
 そう言う彼女はビーチボールを抱えて、大きく手を振って三人を呼んでいた。  
「そだね。行こっか」  
「うん。梨紅も早く」  
「う、うん……」  
 それじゃあと言い残してあっという間に女子は去り、まだ諸々の事情で動くことができない僕と西村、余計かもしれないが遠くでのびている日渡くんだけになった。  
 
「…………決めた」  
 いきなり、まるで独り言のように西村が呟いた。  
「何を?」  
 僕が訊くと、西村は僕の肩に手を置き、熱く語りかけてきた。  
「決めた! オレは今夜、やるぞっっ!」  
「何を……っていうか熱いよ西村」  
 すさまじい熱気だ。よく分からない気迫だけど身体に叩きつけられてくる。  
「これはオレの誓いだ! お前がその証人になってくれ!」  
「全然分からないけど……まあ、いいよ」  
「よく言ってくれた! それじゃ誓うぞ。オレは今夜、やるぞっっっ!!」  
 さっきと一緒じゃないか、と心の中で突っ込んでおいた。  
「今夜って…………あれかな?」  
「そう、あれだ。その時、やるぞっっっ!」  
「う、うん。頑張って」  
 西村の気迫に圧され、そんな適当な励ましの言葉しか出てこなかった。それでもその言葉が胸に染み入ったのか、西村は一言僕にお礼を言ってから息巻いて宿泊先のホテルへ戻っていった。  
「泳がないのー?」  
 見る見るうちに小さくなっていく彼の背中に、無駄だと分かりながらも一応そう言った。  
もちろん答えは返ってこなかった。  
 
 
 今夜のあれ――計画したのは噂によると西村、その他男子数名、らしい。  
 それは2-B全員、男女ペアで行う肝試しのことだ。  
 
 
 日も暮れて夕食の時間も終わり、風呂も上がって夜の帳が降りた頃、僕ら2-Bの生徒はホテルを出て森の側に来ていた。  
「西村ぁ。スタートはこの辺からでいいよな」  
 場所が近づいてきたのか、西村の周りにクラスのほぼ全員の男子が人だかりを作っていた。  
 僕と残りわずかな男子を除いた全員が少し離れたところでこそこそと打ち合わせをし、それが終わったらしく、  
「あー、あー。それじゃ準備の方ができたからまずは女子からこのくじを引いてくれ」  
 西村が言うと、まるで手下のように男子が手際よく女子を一列に並べていく。  
 ペアの決め方は簡単で、まずは女子が一から八までのくじを引き、次に男子が同じようにくじを引き、番号が一致した男女がペアになるということだ。  
「こらそこ! お前だお前、男は列から出ろ!」  
「俺はここでいいぞうわ何をするやめろっっ!」  
 日渡くんが列からつまみ出され、男子の輪の中へ放り込まれた。激しい打撃音が響き渡るけど僕は何も見てないし聞いてない。  
 
(けど、そこまで怒る必要もないんじゃないかな?)  
 胸中で独りごちていると声をかけられた。  
「なあ。どう思う?」  
「関本」  
 見ると、関本が傍に立って僕の意見を求めるように目を向けていた。  
「その前にさ、昼はどこに」  
「訊かなくても分かるだろ?」  
 関本が首を動かしてそちらの方を見るように促がした。それに従って視線を移動させると、列に並ぶ石井さんの姿があった。興奮気味に顔が紅色に染まり、肌もつやつやと輝いているのがはっきりと分かる。  
「いや参った参った。今日も芯までしゃぶられたけどまだ満足してな」  
「もういいよ……」  
 すべて聞く前にこちらの方がげんなりとしてしまいそうだ。元気に話す関本がとても逞しく見える。  
「そうか? なら次はオレの質問に答えてくれよ」  
 質問とはさっきのどう思うのことだろう。  
「どう思うって言われても……」  
 周りの様子を見て思うのは、男子が多少乱暴に日渡くんの狼藉を咎めていること、乱暴を働いている男子の目が多少血走っていることと、女子を並べている男子の顔が多少にやけていることと、多少涎を垂らしていることと、多少野獣のような雰囲気をかもし出していることくらいだ。  
「……やばいかも」  
 
 関本も同じことを感じたのか、その言葉に頷いた。そしてその疑念は、女子のくじ引き  
が終わって男子の番になった時、確信に変わった、  
「さっさと引けぇぇっっ! 時間が惜しいんだよっっ!」  
 普段割りと温厚な西村が大声を張り上げ、男子に怒号を飛ばしている。それに応じるようにみんな素早くくじを引いていく。  
「丹羽、関本ぉ! 後はお前らだけだぞ!」  
 昼とは少し異なった西村の迫力に気圧され、急いでくじを引いた。手にしたくじを開くと、 
  
 適当にペア組め  
 
 とだけ書かれていた。  
「…………えーっと」  
 しばらく思考を巡らせ、こんな時に頼れる関本の答えを聞くのが一番だという答えに行き着いた。僕に続いてくじを引き終え、その中を見た関本の表情が固まった。  
「…………えーっと」  
 僕と同じく関本も言葉を詰まらせた。  
「ん」  
 と言ってこちらに突き出してきたくじには、やはり同じ文字が書かれていた。  
「……つまり、こういうことか」  
「んー、どうするつもりか分からないけど、これはよくないことだよ、ね?」  
 もちろん関本は頷いた。二人だけでこそっと相談し、こういう状況で頼りになる女子、沢村さんに教えようと結論づけた。  
「しっかし、何か男子がいやに興奮してる気がするな」  
「うん。薬でもやったみたいに」  
 その時、僕の首に何かが巻きついてきた。  
「おっ二人さん」  
 弾む声が耳に届いたと思うと、僕と関本の間に西村がぬっと顔を挟ませてきた。首に回されたのは彼の腕で、関本にもそうしている。  
 
「西村……、お前なんだってこんなの企画してんだよ?」  
「そうだよ。らしくない――」  
 溜め息交じりで告げる関本に続いて言葉を口にし、そこで西村の異変に気付いた。西村の顔は目尻がだらしなく下がり瞳も虚ろ、鼻の下も昼のように伸びているし口も半開きで少し涎が垂れている、明らかに普通じゃない様子が分かって言葉を切った。  
 さらに鼻を突く匂いに顔をしかめた。この刺激臭は、よく知っている。そして瞬時に思い至った。今回の企画の黒幕は、  
「冴原ぁぁぁぁっっっっ!!」  
 叫んで周囲を見回すけど、姿はどこにも見当たらなかった。逃げたのかもしれない。おそらく、企画参画者全員に微量な薬を与えたに違いない。  
「丹羽ぁ、そう怒鳴るなって」  
「西村、正気に戻ってよ。今夜やるんじゃなかったの!?」  
 何かを。その何かは知らないけど。  
「やる? …………知らねえ」  
「あの誓いは嘘だったの!?」  
 必死に西村に訴えるけど、もう彼の心に僕の言葉は届かなかった。  
「――だからさ、二人が黙認してくれればこれはばれない完璧な作戦なんだよ」  
 口の端をつり上げて顔を歪める西村が僕と関本を説得しようとするけど、理性を保っている僕らはそれを呑む気はない。面と向かって沢村さんに今回の悪事を伝える旨を西村に伝えた。  
「なんだよお前らっ! もうちょっと協力的になってくれていいだろ!!」  
「いや、さすがにこんなやり方で女子とペアになって仲良く……なんて間違ってるだろ」  
 さすが彼女を持つ男の言葉。まったくもって正論だ。  
 
「けっ、勝手に言ってろ! けどな、オレ達男子は――」  
「あ」  
「あ」  
 僕と関本はほぼ同時に西村の背後に立つ影に気付いた。西村自身はまだ気付いた様子もなく熱弁を奮っている。  
「――というわけでさっさと決行する……?」  
 すでに僕らが話を聞いていないことに気付いたのか、西村の表情が曇った。  
「おい、聞いてるのか?」  
 僕らが答えるよりも先に、西村の背後に立つ人物が彼の肩を軽く指で叩いて振り返らせた。  
「なんだよ」  
 その言葉を吐いた刹那、西村の身体は宙に舞っていた。  
「……おお」  
 関本が感嘆の声を漏らし、森の木々の遥か上を飛ぶ西村を目で追った。ドリルのようにスクリューし、落下。頭部が多少地面に埋まっている。  
 視線を戻すと、そこには光速の拳をくりだした沢村さんが技を放ったままの格好で立っていた。  
「全部、日渡くんから聞いたよ」  
 女子の輪の中に、ぼろくずのようにずたずたのけちょんけちょんで犯されてしまったかのように穢されている日渡くんがいた。足元もおぼつかず、小刻みに震えている。  
「ふ、俺の邪魔をした……罰……だ」  
 気丈に言ってのけ、やはり力尽きてしまったのか、崩れ落ちた。  
 
「――とまあそんなわけで」  
 ごほんと咳払いを一つし、沢村さんが言葉を続けた。  
「肝試しの主催は急遽あたしが引き受けることになったから」  
 女子全員と無傷の男子――僕と関本が大きく頷いた。他の男子はというと、日渡くんと西村以外は比較的軽い引っ掻き傷や痣などで済んでいる。  
「じゃあ今度は男子から引きに来て」  
 男子は、負い目があるせいかなかなか動こうとせず、仕方なく僕と関本が最初に向かった。くじ箱の中に手を入れ、八枚しかない紙のうち一つを手にした。少し離れて折られた紙を開くと、  
「二番か……」  
「えッ」  
 耳に届いた小さな声に驚き後ろを振り向いた。が、変わった様子は何もなく、ただ関本がくじを引いているところだった。  
(今の声……)  
 もちろん知った人の声だ。くじを引いた時、番号を見られただろうか?ちなみに番号は当たっている。二番だ。  
(いや、でもあの人がそんな不正染みたことするはずないし)  
 西村の不正にいの一番に怒りの鉄拳を喰らわせたあの人に限ってそんなことはない。きっと僕の気のせいだろうと言い聞かせた。  
 
(二番よ)  
 みゆきはくじ箱の下で右手の親指と人差し指を立てて念を送った。  
(二番ね)  
 律子は見事その念を受信し、親指を小さく突き立てた。オーケーのサインだ。  
(二番、あたしが引いても怨まないでね)  
(それはこっちの台詞よ)  
 みゆきと律子の間で激しい意思の疎通が行われてた。互いに闘争心剥き出しだが、協力できるところではしっかり手を組んでいた。  
 みゆきと律子の恋愛同盟規約其の壱・対等な条件で頑張る。次回もツイン――……。  
 
 
 全員くじが引き終わると、ペアに分かれ始めた。  
「あの、二番って誰かな?」  
 女子の方に向かってそう呼びかけると、全員一斉に手にしたくじに視線を落とし、ほぼ同時に大きく溜め息を吐いた。  
「いないの、かな……」  
 小さく漏らした時、後ろから声をかけられた。  
「……二番、あたし」  
 その声を聞き、胸が一度だけ大きく打った。ゆっくりと振り返ると、胸の鼓動は一度といわず二度といわず、ただひたすらに打ち出した。  
「梨紅さん…………あ、あの、よろしく……」  
 喉につっかえそうになりながらもどうにか言葉をひり出すと、梨紅さんは小さく縦に首を振った。  
 
 
「まあ、こういうこともあるよね」  
「うん、こういうこともあるよね」  
 律子とみゆきは肩を落としていたが、めげてはいなかった。なぜならきっと次回もあると信じているからだ。  
「みゆきは何番引いたの?」  
「あたしは六番。律子は?」  
「一番。惜しかったんだけどなぁ」  
「一番? じゃあオレとか」  
 二人の会話が偶然耳に入った関本が歩み寄り、律子に自分のくじを見せた。  
「それじゃあよろしく」  
 割りと外れじゃないな、と心の中で少しだけ喜んだが、すでに彼は彼女持ちだということも知っており、そう素直に感情を露わにできなかった。  
「ああ。ちなみにこいつは六番だ」  
 関本が腕を伸ばすと、六番の首根っこを掴んで引き寄せた。  
「冴原くんか」  
 みゆきは思った。外れだと。冴原は事件の黒幕という事実を隠すかのようにすっ呆けた表情をしており、関本もそのことにそれ以上言及する気はないらしい。もうごたごたは御免らしい。  
「というわけだ。よろしく頼むぜ、委員長」  
 冴原は思った。いい絵が撮れるかもしれないと。  
 
 
 彼女の番号は三番だった。何度見ても二ではなく、その間に一本線が入っている。その線を怨めしげに睨みつけても、何も変わりはしない。分かっているが、このもやもやと渦巻く感情をどうにかしたかった。  
 視線を上げると、その先には気恥ずかしそうに語り合う丹羽大助と、姉がいる。この現実が、受け入れ、られない。  
(――嫌だよ、こんなの……)  
 夏休みから溜め続けた感情は、近いうちに、破滅への扉を開くことになる。  
「原田さん。俺と君がペアだ」  
 まだ誰ともペアを組んでいない日渡は、同じく独りでいた梨紗の番号を横目で盗み見し、自分の番号と照らし合わせてペアだと確認してから近づいた。  
「不本意だが、まあこれもしょうがない。諦めて君とペアを組んで」  
「うるっさいわねぇぇぇっっっ!!」  
 夏休み中に鍛え上げた豪腕が唸り、風を斬り、日渡怜のメガネを打ち砕いた。  
 
「――ところでさ」  
 梨紅さんと話していた時、ふと湧いた疑問を口にした。  
「肝試しなんだからお化け役の人がいるんじゃないのかな?」  
「普通はそうなんじゃないの」  
「でも、クラスメイトは全員ここにいるよ?」  
 その言葉の意味を理解したのか、梨紅さんは周りにいる人数をかぞえ始めた。二人一組の八ペア、計十六人。欠席していり宮本くんを除いて、間違いなく全員この場にいる。  
「ホントだ。じゃあ肝試しって何するんだろ?」  
「その辺は抜かりないぜ」  
 僕らの間にいきなり冴原が割り込んできた。そういえば、こいつが黒幕だったんだ。それはともかく僕と梨紅さんの間から退いて欲しい。  
「抜かりないってどういうこと?」  
 梨紅さんが訊くと、冴原は得意気に含み笑いしだした。  
「オレ達が今からそれぞれのペアで向かうゴールの神社までの道は、今まで何人も行方不明者やその他諸々が出ているらしい」  
「諸々が一番気になるんだけど……」  
「細かいことは気にするな。とにかくそんな噂がどこからともなくオレの情報網にかかってな、  
雰囲気だけなら十分だろ」  
 その説明を聞いて危険はなさそうだと、僕と梨紅さんは顔を見合わせてほっとした。  
「それと、熊が出るから出遭ったら急いで逃げろよ」  
『嘘ぉぉぉぉっっっ!!?』  
 
 冴原が最後に宣告した台詞に怯えながら、僕と梨紅さんは規定の道を歩いていた。舗装されていないけど、獣道というほどひどくなく、足元もしっかり見える。  
 空を振り仰ぐと、悠然とそそり立つ木々が伸ばす無数の枝葉が月光を遮り、一面に青い影を落としていた。  
「ちょっと待ってよーっ!」  
 呼び止められて振り向くと、梨紅さんがこちらに小走りで駆け寄ってきた。  
「あ、あんまり、一人で先に行かないでよ」  
「う……ごめん」  
 周囲が暗く不安もあるためか、 彼女が息を切らせて膝に手をつき、僕を上目遣いに見てきた。月光を微かなに反射する瞳に、吸い込まれそうになる。  
「そ、そう言えばっ、先に行った関本たちは大丈夫かな」  
 話題をふると同時に目を逸らし、先へと続く道を見た。数十メートル先は闇に呑まれ、月の明かりでは十分に照らし出されていない。  
「福田さんとペアだっけ?」  
「うん。あんまり見ない組み合わせだよね」  
 確かに。みんなで一緒にいて顔を合わせることはよくあるけど、あの二人のツーショットはあまり想像したことがなかった。  
「関本くんならしっかりしてるから、平気だよね」  
 そう訊かれて少し考えた。というのも、不安が満ち溢れるこの状況でしっかりと福田さんを支えてあげられるのかということと、男女二人だけの状況で福田さんに手を出してあんなことやそんなことをしてしまう心配がないという二つの意味が頭をよぎったからだ。もしかしたら二つの意味も孕んでいるかもしれない。ともあれ、このまま黙りこくるわけにもいかなかった。  
「うん。関本はしっかりしてるからね。きっと平気だよ」  
 その言葉に嘘はない。と、思う。  
 
 
「きゃッ――」  
「? おいどうした?」  
 突然律子にしがみつかれ、関本は多少驚きの混ざった声で訊ねた。  
「いい、今、あっちの方から音がしたぁぁ!」  
 言いながら彼女が指差す方に注意を向けた。目を凝らし、耳を澄ませていると、木の葉と木の葉が擦れ合う微かな音が聞こえ、生暖かな空気が頬を撫でた。  
「なんだ。ただの風じゃないか」  
 彼は短く息を吐き、何事もなかったようにすたすたと先を急いだ。  
「あ、待ってよ置いてかないでよ!」  
 自分だけ取り残されそうになり、律子は慌てて関本の後を追った。  
「! あ――」  
 踏み出そうとした爪先に何かが引っかかり、彼女は前のめりに激しく倒れた。彼女の足元には大きな石が転がっている。月明かりの中で見落としていたらしい。  
「おい、大丈夫か!」  
 先行していた関本が駆け寄り、倒れた律子の傍に腰を落とした。  
「うん、平気平気」  
 つまずいたことが恥ずかしく彼女は顔を少し赤くして先に立ちあがった。先に立ち上がろうとし、そのままへたり込んだ。  
「どうした?」  
「へ? あ、うん……」  
 
 もう一度立ちあがろうとし、今度は彼にも見てとれるように顔を歪め、左足首を押さえてうずくまった。すぐに思い至った彼は、彼女が制止しようとする声も聞かずに靴を脱がせ取り、靴下を下げて彼女の足首の状態を調べた。  
「やっぱり。ちょっと腫れてんじゃねえか」  
 ほら、と言うと彼は律子の左腕を首にかけて立ち上がった。  
「わ! い、いいって。平気って言ったでしょ?!」  
「あのなぁ、ここで放っておいて怪我がひどくなったらオレが悪者にされるの」  
 そう言ってのける彼の横顔を彼女は盗み見た。  
「それにこれなら先に行っちまうこともないしな」  
 ばつの悪そうな彼の表情に、胸が小さく鼓動した。  
(――はっ!? なに、感じ……)  
「っそ、そろそろ真里も出発したかな?」  
 自分の抱いた感情に狼狽え、彼女はその名前を口にした。彼は真里の恋人で、私が好きな人は別の男の子だ。自分自身に言い聞かせた。  
「あいつは四番だったな。そろそろ出発したんじゃねえの?」  
 
 
「きゃー、こわーいッ」  
「いぃっ、い、石井さん!?」  
 突然抱きつかれた西村は耳たぶまで真っ赤にして、裏返った声で彼女の名を呼んだ。彼女はというと、彼に抱きついたまま嬉しそうに身体をすり寄せていた。  
「どどっ、どうしたの?」  
 そう訊く彼の声は高音を維持したままだ。  
「あのね。向こうの方に何かいる気がしたのぉ」  
 猫撫で声で甘えられ、さらに体温が上昇するのを自覚した。彼女が言う方に視線を向けるが、今の彼に冷静に判断することができないのは明らかだった。  
「だだっ、大丈夫さ! たたた、ただの風だよっっ!」  
 適当に言うことしかできなかった。  
(ここっ、これは嬉しいけど! けどぉっっ!!)  
 相手が真里でなく、みゆきならばと彼は心の奥底で嘆いた。もちろん真里でも十分嬉しいのだが。  
「西村くぅん……」  
 柔らかな胸が彼の胸に触れてきた。その感触に彼は頭が熱くなり、視界も揺らぎ、耳鳴りまでしてきた。  
「わたし、胸が苦しいのぉ」  
「ッ――」  
 彼の身体に回される腕に力が込められ、二人の身体が密着した瞬間、彼は興奮のあまり全身の力が抜けて後ろに倒れ込んだ。  
「いってぇ……」  
 その拍子に後頭部を大地にぶつけ、締めつけられるように痛むそこをさすった。  
「え゛……?」  
 さすっていた腕がもの凄い力で掴まれた。どうなっているのかと思い目を開き、瞳に飛び込んできた光景に言葉を失った。いつの間にか彼女の顔がすぐ眼前に迫っていた。  
「西村くぅん」  
 咄嗟に逃げようと身体をよじるが、真里にマウントポジションを取られ、彼女の下から抜け出すことができない。  
「あ、や、あ、ちょ、ちょっ、ちょっと待っ――」  
 
 
「ひぃぃッッッ!!」  
 森中に響き渡った雄叫びのような動物の鳴き声に冴原は身体を縮み上がらせた。  
「何びびってんの?」  
 冴原の前方、勇猛な足取りで進むみゆきが怯えている彼を振り返って一瞥した。  
「だ、だって熊かもしれないだろ!!」  
「あんたねえ、分かってて企画したんでしょ?」  
 呆れたように告げると、冴原は涙を一杯に溜めて熱弁を奮いだした。  
「オレはなあ! こんな暗がりの世界で怯えおののく可憐な女の子の写真を撮りたかったんだ!! それがおめえみてえな男女――」  
 
 
 僕らの後方で動物の鳴き声が聞こえたかと思うと、今度はそのさらに遥か後方で鳥が一斉に羽ばたき、森の静寂を打ち破った。  
「何? 何が起こったの?」  
 横を歩く梨紅さんが不安に満ちた声を漏らした。  
「も、もしかして熊が出たのかな……」  
 その可能性は否定できない。けど、認めてしまうと彼女の不安はもっと大きくなるはずだ。  
「悪く考えない方がいいよ。きっとみんな大丈夫だから」  
「うん……」  
 頷く声にはやはり元気がない。こんな危険な企画を開いた冴原たちを少しだけ怨めしく思った。  
「やっぱり熊が出るなんて嫌だよね」  
 こんな状況だけど梨紅さんと二人っきり。何も話さないのはもったいない気がして間を持たせるために適当なことを口にした。  
「ん、クマさんなら好きなんだけどね」  
「クマさん?」  
「そ。クマのぬいぐるみ。小さい頃におばあちゃんがウサギのぬいぐるみと一緒にくれたの、  
……あたしと梨紗に」  
「じゃあここに出てくる熊もぬいぐるみみたいに可愛かったらいいのにね」  
 梨紅さんのことが少しだけ知ることができ、嬉しくなった僕はそんな言葉が自然に口からこぼれ出していた。  
「あ、じゃあ小熊だったらどうかな? ころころして抱きかかえたりしちゃうの」  
「それならいいかも。でも小熊ってどれくらい大きいのかな?」  
「うーん……このくらい、かな」  
「そうかなぁ。これくらいかも」  
「えー。そんなに小さくないって。ウィズに喰われちゃうよ」  
 
 それからしばらくの間、小熊談議に花を咲かせた。熊に詳しいわけでもなく、ああだこうだと勝手な妄想をして意見を交わして、そんな楽しい時間はすぐに過ぎていった。  
「丹羽くん。あれってゴールの神社かな?」  
 梨紅さんに言われて前方を見ると、道の切れ目、その先に小さな広場のようなところがあり、さらにその向こうに神社が見えた。神社の中には微かに明かりが灯っている。電気が通っているのかもしれない。  
「福田さんと関本くんがいるかも」  
「急ごう」  
 僕らは残りわずかな道のりを少し早足で駆け抜けた。  
「熊が出なくて本当によかったよ。これも梨紅さんのクマのおかげかな?」  
 そう言うと梨紅さんは小さく噴き出した。  
「なにバカなこと言ってるの。そんなことないって」  
 僕も彼女につられるように噴き出し、笑いが込み上げてきた。  
「それに熊はあたしのじゃないし……」  
「?」  
 いきなり付け足すように言葉が続けられ、何を言ったか理解できなかった。  
「何?」  
 そう訊いたけど梨紅さんは首を横に振り、  
「ううん。気にしないで。ほら、急ご」  
 言うが早いか、横にいた梨紅さんは駆け足というより走るようにして神社へ向かった。  
少し釈然としない思いを抱きながら、僕も彼女の後ろに続いた。  
 それからしばらくし、彼女の言った言葉の意味がなんとなく分かってきた。――幼い頃の記憶との繋がり。あの時、梨紅さんがどうしていたのか。  
「……そ、っか。クマさんは原田さんに……」  
 少しお姉さんぶった彼女のあの時の行動が、薄れかけていた記憶を微かに、蘇らせた。 
それは悪いことじゃないはずなのに、ツインテールの女の子を思い出すと、胸が少し、痛む。  
 
「原田さん」  
「……」  
「原田さん」  
「……」  
「原田さん」  
「……」  
「原田さん」  
「……」  
「原田さん」  
「……」  
「原田さん」  
「……」  
 呼べども呼べども、日渡怜は原田梨紗にしかとされ続け、彼の中には何故だろうという疑念が浮かんでいた。  
(確かに俺は変態だ、今のところ。自覚している。だがここまで無視しなくてもいいじゃないか)  
 自覚しているところが、たちの悪い気がするが、彼も女性に無視されて傷つくという一面があるところは新たな発見である。ような気がする。  
「…………」  
 ともあれ、今の原田梨紗には誰が声をかけてもその耳に届かないだろう。それほど、彼女の胸中は、彼への想いで、あの女への嫉妬で、裂壊しそうなほど溢れていた。  
 
 
「――えー、ということで」  
 全員の注目を一身に受けながら、沢村さんが最後の点呼を行おうとしていた。その前に、僕は視線を巡らせ、知った顔の様子を確認した。  
 今回ペアだった梨紅さんはすぐ横にいる。  
「あ……」  
 見ていることに気付いたのか、彼女が顔を上げて視線が交わり、自然な笑みを浮かべられた。少し恥ずかしくなり、微笑み返すとすぐに顔を背けた。  
 関本はペアだった福田さんではなく、石井さんの傍に立っている。福田さんとは何事もなかったようだ。けど、なぜか石井さんの肌はてかてかしている。なんだか、まあ、どう説明するのかと言われれば、やっちゃった後のように満足そうだ。  
(まさか、ねえ……)  
 そう思って西村を捜すと、クラスの輪から少しはみ出したところにげっそりと頬が削げた西村がいた。なんだか、まあ、どう説明するのかと言われれば、やられちゃった後のように何かが抜けている。  
(まさか、ねえ…………)  
 自信がなくなってきた。放っておけない事態のように思えるけど、今は置いておき他の人を捜した。  
「ん?」  
 関本から離れたところに福田さんはいた。その目は一点を見つめている。その軌跡を追ってみると、その先には石井さんと仲良く手を繋ぐ関本がいる。  
(…………)  
 なんだかとんでもない事態になっているように思えるけど、とにかく今は置いておき他の人を捜した。  
「うわ……」  
 思わず悲鳴をあげてしまったのは、沢村さんと一緒だった冴原の顔がひどく腫れている、というかこぶが憑りついたようになっていたからだ。一体なにをしでかせばあんな顔になるのだろうか。  
 
 さらに視線を移すと、原田さんとペアだった日渡くんが肩を落とし、すごく脱力しているのが見ていて痛いほど伝わってきた。原田さんに、いや女子に傷つくことでもされたのだろうかと思うと、少なからずまだ男の部分があるんじゃないかと嬉しくなった。  
 そして日渡くんの横には原田さんがいた。こちらも日渡くんに負けず劣らず落ち込んでいるようだ。長い髪に隠れて表情は分からないけど、日渡くんに何かされたんじゃないかと心配になってきた。  
(一体何を……)  
 数瞬考えてみたけど、全然思いつかなかった。  
「全員いるか数えるから並んでー」  
 沢村さんの声に従ってみんなが顔を彼女に向けた。彼女は小さく数を呟きながら二人ずつカウントしていった。  
「……十六、と。うん、全員いるね」  
 端から端までの十六人を数え終え、こちらに固まっている人の顔をもう一度見回した。全員いることに安心して満足そうに頷く彼女に、横にいた梨紅さんがふと気付いたように口を開いた。  
「あれ? 沢村さん、自分数に入れてないよ」  
 梨紅さんに言われて「あっ」と小さく声を上げ、  
「ホントだ。ごめーん」  
 照れたように頬を二、三度掻いた。  
「もう、みゆきっておっちょこちょいなんだから」  
 石井さんがそうはやしたて、あちこちからみんなの笑い声がわっはっはと沸き起こった。  
沢村さんも自分のミスに恥ずかしそうに笑い、  
「ひぃッ――!!」  
 瞬時に顔を強張らせた。あちこちからは笑いに変わり、彼女の豹変ぶりを怪訝に思う声が飛んだ。  
「どうしたの?」  
「沢村さん?」  
「おーい」  
 
 僕もどうしたのか訊こうとした時、沢村さんが震える腕をゆっくりと上げ、僕らの背後を指差した。がたがたとぶれる指先を追って後ろを振り向くと、そこには巨大な壁があった。  
――いや、それを壁と思ったのは、今は夜で暗く、そしてそれがあまりにも大きく高く、沢村さんが指し示しているそれの顔がはっきりと視認できなかったからだ。  
 僕らが見上げた先には、  
「っぽぉ」  
 全長二メートル九センチはあろうかという巨大な  
『熊あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっ!!!!!』  
 がいた。  
 蜘蛛の子を散らすように、僕らはがむしゃらにその場から逃げ出した。  
 
 
 
次回 パラレルANGEL STAGE-13 永遠の標  

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