Dクラッカーズ  

「……千絵ちゃん」  
「何?」  
「いつもこんなことしてんの?」  
「毎週じゃないけどね」  
 ようやく冬を抜け出した季節は寒さも緩み始めていたが、夕刻を過ぎるとまた真冬に戻ったように  
冷たい空気が地上を支配していた。  
 夜の街。ネオンと雑多な人々に彩られたビル群は空へ近くなるほど暗さを増し、ちっぽけな  
自分達を嘲笑っているかのようだ。フラッシュがたかれるように目の前の光が明滅していく交差点。  
 海野千絵はデジタルカメラの画像をチェックしながら隣を歩く水原勇司に声を掛けた。  
「今日はここまでね……。お疲れさま、水原」  
「……日曜日が丸一日オヤジの尾行で終わるたあ、流石に思ってなかったよ……マジ疲れた」  
 水原は肩を落として疲れた声を出した。本来ならこの場には千絵の相棒である梓がいる筈だった  
のだが、彼女は急用ができてキャンセルしたため、急遽水原が駆り出されたのだ。  
 千絵は高校で自身が設立した「実践捜査研究会」活動の一環として、高校生でも比較的実現可能な  
依頼を受けてはこなすという、探偵事務所のようなことをしていた。話を聞くに、今日の活動は  
どうやら浮気の素行調査らしい。  
「何で浮気調査なんて正義の探偵が受けなさそーな依頼受けたの?」  
「依頼主は子供が四人」  
「……」  
「夫はろくに家に帰ってこない。生活費も雀の涙。大酒のみで暴力を振るう」  
「…………」  
「おおむね嘘じゃないことは調査済み。どう?」  
「……千絵ちゃんってさあ、なんつーか、カッコイイねー……色んな意味で」  
 千絵は既に一端の探偵だった。知識も実践も学生の探偵ごっこレベルではない。別々に同一人物を  
尾行するという方法をとったが、地図を持った千絵の、携帯越しの水原への指示は的確だった。  
唯一の難点は運動神経の無さか。元来それをフォローしているのが梓だが、今回はその役割が  
水原に回ってきた形になる。  
「そういえば、まともに千絵ちゃんと組んだのって初めてかな」  
 クリスマスに二人であちこち走り回ったことはあったが、その頃は何しろ切羽詰まった状況で  
「組む」などという生易しいものではなかった。だからこうして普通に『協力して事に当たる』  
というほんの少し楽しみも混じった作業は、二人きりでは初めてなのだ。  
「なあ、千絵ちゃん。もうこんな時間だからさ、どっか店に入って食事でもどう?」  
 千絵は白い眼で水原を凝視した。入り込む隙の無い波動に、う、と水原がわずかに身構えた。  
彼女はしばらくそうしていたが、不意にその眼を和らげた。  
「まあ、食事くらいなら構わないけど。今日は連れ回したし、おごるわ」  
 水原は会心の笑みを浮かべた。  
「いーや、女の子に食事代払わせるなんて水原勇司の男が廃る。俺が出すから何でも好きなモン食べてよ」  
「嫌よ。あなたに借りは作りたくないの」  
 千絵はあっさりと水原の笑みを打ち砕いた。更に追い打ちを掛ける。  
「じゃ、あそこのファミレスで」  
「……千絵ちゃん……」  
 滂沱の涙を流す水原。わかっていたことだったが千絵のガードには一ミクロンの隙間もなかった。  
 千絵は水原を見て可笑しそうに笑うと、その素直さに免じて情状酌量の措置をとった。  
「冗談よ。そうね、イタリアンがいいかな」  
「よし、決定!イタリアンならいい店知ってるよ」  
 水原は情けない顔から一転、勝者の顔でぱちんと指を鳴らす。その様子を見て千絵はああ、と  
納得した。成る程このあけすけさは不快ではない。以前は「何でこんな奴がモテるんだろう」と  
不思議に思っていたものだが。  
 もっとも、裏の顔をすれば話は別だけど──とも付け加える。表面上は軽いこの男の内面を  
知っていることは、実のところ千絵にとっての密かな誇りだった。人がひとつの本性を封じる  
には長い年月と──もしそれが間違っていたとしても──努力と忍耐力が必要になる。それを  
至らしめたというのは彼女の中で立派にひとつの評価として水原勇司という人間の評価に上乗せ  
されている。昔は自分とまるきり違う考え方の人間として毛嫌いしているだけだったが、今は違った。  
ともすれば狭量になる危険のある彼女の視野を拡げてくれたという意味では、実は水原は千絵に  
とって梓や景より存在が大きい。  
 水原が立ち止まった。千絵は止まった足元を見てどうしたのかと顔を上げた。そして硬直した。  
「……」  
 水原は『裏の顔』を見せていた。その横顔はぱっと見、何処がどうというわけではない。ごく普通の  
表情だ。しかし普段は死ぬほど落ち着きのないこの男が一人だけ時間の流れから切り離されたかのように  
そこにいるのはそれだけで千絵の心を打った。  
 普段の緩んだ表情が一掃され、その顔は何処か愁いを帯びているようにも見えた。目元の泣き黒子が  
今にも本物の涙となってこぼれ落ちそうな気がした。  
 その水原が、不意にぱっとこちらを振り向いた。  
「──」  
 どきりとした。  
 千絵は手にしたデジタルカメラをつるりと滑らせた。  
「わわっ!」  
 それを見た水原が慌てて両手を伸ばす。デジカメはその両手を行ったり来たりしてようやく  
受け止められた。  
「──……」  
「千絵ちゃん、相変わらずトロいなあ……」  
 水原はそう言って笑ったが千絵は笑わなかった。ただきょとんとしていた。水原は苦笑しながら  
千絵の手にデジカメを握らせた。  
「……なあ、千絵ちゃん。俺、ずっと考えてたんだけど」  
「え!あ、ああ。何?」  
「大丈夫?珍しいねー、千絵ちゃんがぼーっとしてるなんて」  
「…………」  
 あなたの所為よ、とは口が裂けても言えない。  
「飯喰ったら、もう一箇所付き合ってくんないかな。見せたいモンがあるんだ──無理にとは  
言わないけど」  
「?何処へ」  
 水原はにへら、と笑ったが、未だに憂いの表情は拭い切れていなかった。  
「俺んち」  

   ◇◆◇◆◇  

「……」  
 通された水原の部屋で、千絵は所在なく正座していた。水原がコーヒーを淹れてくれた。  
千絵は失礼にならない程度に部屋を見渡した。物が多いが、意外にまめなのかきちんと片づけられて  
いて印象は良い。  
「親御さんは?」  
「ああ、今日は留守だよ」  
 言いながら、水原は小さなローテーブルにミルクとシュガーポットを置く。シュガーポットには  
砂糖がこれでもかと入れられていた──千絵はいつもブラックを好むが、それはあくまで  
スタイルだ。余裕のない時や外聞を気にしていられない時などは砂糖を大量に使う。そんな事まで  
読まれているようで、千絵は少し居心地が悪くなり身じろぎをした。水原が向かいに座るのを待って  
話を切り出す。  
「私に見せたいものって、何なの?」  
 水原はわざわざ自分だけを呼んだ。何故だろう?景や梓と比べて、自分だけが特に水原と関係が  
深いわけではない。むしろ昔から組んでいたぶん、景の方が親しい筈だ。その疑問に、既に水原は  
気付いているようだった。答える。  
「兄貴の部屋」  
 千絵は言葉を失った。水原は頭を掻くと、少し視線を逸らしながら後を続けた。  
「なんつーかさ。千絵ちゃん、マジで探偵目指してるわけじゃん?んで、最初は  
たった一人でカプセル追っかけ始めてさ。そのことで千絵ちゃんがすんげー苦労  
したのは俺も知ってるけど、まあ、何だかんだでさ。俺達、最後まで千絵ちゃんの  
ことのけものみたいにしちまって」  
「……」  
「千絵ちゃんがずーっと追っかけてきた事件の……始まりの場所っていうの?それがさ、  
ここの隣の部屋なわけよ。だからせめて、千絵ちゃんだけにはと思ってさ。俺もやっと──  
踏ん切りが付いたって言うか」  
「……」  
「こっち。ついてきなよ」  
 水原はテーブルに手を付いて立ち上がろうとしたが、千絵はその手に自分の手を重ねた。  
彼女は静かにかぶりを振った。  
「いいわ、やめておく。カプセルは嫌いだけど、お兄さんのことはそっとしておきたいわ」  
 やっと終わったのだ。秋から誰もかもこの一大事件に奔走してきて、やっと過去から未来へ  
視線を向けられたのだ。水原の心中を掘り返すような真似はしたくなかった。それは自身の邁進する  
カプセル撲滅運動より、間違いなく優先すべき事柄だ──  
 物思いに耽ったその時、ふと彼女の顔に影が差した。千絵は目を丸くした。何があったのだろうと  
思った時には、水原の顔がすぐそこにあった。  
 唇が触れ合った。  
「──」  
 身体が驚くほどの反応を示した。びくんと大きく撥ね、テーブルの上の手を引こうとする。しかし  
いつの間にかその手は水原のもう一方の手によって強く押さえられていた。唇が離れた後の水原の  
言葉は簡潔そのものだった。  
「俺のことどう思ってんの?」  
「……」  
 絶句していると次の攻撃が来た。  
「正直、こうも簡単に部屋について来られちゃうと、男ってオッケーなもんと思っちゃうんだけど」  
「──な、な、な」  
 何言ってんのよ、と冗談にするには、相手の表情は真剣すぎた。触れていた手が離れた。水原が  
テーブルを迂回してすぐ隣に来るまで、千絵は全く動けなかった。白状すると、頭の中が真っ白だったのだ。  
「千絵ちゃん」  
 名前を呼ばれて、彼女は逃げ出す機会を失った。  
「千絵ちゃんがあんまり優しいからさ……」  
 耳元で囁かれる。  

「惚れちまったよ。責任、取ってくれる?」  
 もう一度唇を吸われる。今度は長く。両手首を掴まれて身動きが出来ない。一体どうすればいいのか  
混乱の極致に遭い、千絵はそのキスを受け続けた。みるみるうちに思考が奪われていった。  
 気が付くとベッドの上に投げ出されていた。水原の手がニットの上着の下に入ってきた。身体が勝手に  
反応する。  
「あ……!んんっ」  
「千絵ちゃん、感じるとかわいー声出るんだな」  
「なっ……ち……違うっ……」  
 乳房を揉みしだかれて彼女は喘いだ。軟派師を自称しているだけあって、水原の手つきは巧みだった。  
すぐに千絵の弱いところを探り出し、そこを責め立てた。  
「やあ……っ、駄目ぇっ」  
 耐性の無さから過敏に反応してしまう。目が潤むのが自分でもわかった。  
「これだけ感じてくれるとやりがいあるなあ」  
「っ……!バカっ!」  
 力が入らないながらも頬を張ろうとした手を、水原はあっさりといなした。千絵の運動神経の鈍さは  
折り紙付きで、その行動は結果的に隙を作ってしまった。手首を掴まれて更に身動きがとれなくなる。  
水原は下腹部に手を伸ばしてきた。  
「──っ!」  
 腰のベルトを外され、下着の下に指が滑り込んできた。逃れようと暴れるが組み伏せられていて  
ろくに身動きがとれない。再び唇が塞がれた。舌が入ってくる。  
「ん……んっ……」  
 下着に入れられた手はすぐに目当ての場所を見つけ出した。湿り始めているそこに触れ、優しく  
擦り上げる。大きく体が跳ねたが彼女の舌が解放されることはなく、上と下から同時に犯されて  
千絵は口内で声を上げた。  
 指の動きが段々激しくなっていった。それに合わせて千絵の反応も大きくなる。水原の行為に  
完全に引きずり込まれ、千絵は重なった唇の隙間から吐息を漏らした。舌を絡め取られ肉芽を  
転がされて、何も出来ずされるがままになっていく。  
 唇と手が離れてすぐに着ているものを全て脱がされる。水原も上着を脱ぎ、上半身を晒した。  
千絵の首筋にキスを落としながらもう一度囁く。  
「千絵ちゃん、俺のことどう思ってる?」  
「……」  
 理性をかき乱されていて、それが真面目な質問だとしても、彼女はまともに考えることが  
出来なかった。吸い付くようなキスをされ、答えを責め立てられて、彼女はやっとのことで喘いだ。  
「……わから、ないわ……わからない……」  
 その答えに、水原は微苦笑を浮かべた。それがひどく悲しげに見えて千絵はますます困惑した。  
「……じゃ、それでいいや。今んとこは」  
 いちおー拒否はされてないみたいだし、と、水原は心の中で付け加えた。足を開かせると、  
蜜の溢れるそこに口づける。  
「ん、あっ」  
 千絵の身体がびくんと跳ね上がり、水原の頭にその手が押し付けられた。いやいやを  
するように頭を振る。  
「そ、そんなの、駄目っ……」  
「じゃ、こーいうのは?」  
 言うなりそこを舐め上げる。  
「あんっ!」  
 千絵が身体をのけ反らせた。頭に乗せられていた手が離れたと同時に、水原は更に舌を差し込んだ。  
掻き回すように舌を動かし、溢れ出る液を絡め取る。そのたび千絵は身体を捩って声を上げた。  
秘裂に指をゆっくり入れていくと、千絵は泣き声のような声を漏らした。  
「っ、ああっ……」  
 ずぶずぶと沈んでいく指に、千絵が身を震わせた。わざと内側に触れながら、指を折ってくにくにと  
刺激する。  
「やぁんっ!あっ、ああっ」  
 千絵が肢体をくねらせるたび、黒い長髪が流れて渦を作った。何度も指を抜き差しすると、彼女の  
身体からはすっかり力が抜けていた。ひくひくと震えて蜜を吐き出している秘裂に、水原はズボンを  
下ろすと、自分の熱く膨張したモノを押し当てた。  
「──ふあっ!?ああああっ!」  
 シーツを掴んで、千絵は泣き声を上げた。侵入させたそれを締め付けられて水原は声を漏らした。  
女性経験は何度もある水原だったが、彼女の中は予想以上にきつかった。彼女が声を上げるたび、  
内壁が容赦なく締め付けてくる。  
「……っ」  
 根本まで入れると、千絵の声がひときわ大きくなった。眦から涙が溢れている。優しく拭ってやると  
彼女はうっすらと目を開けた。  
「千絵ちゃん……すっげー可愛い」  
「あ……みず……はらっ」  
 脇のすぐ下に両手をついた、半分覆い被さるような体勢の水原を見上げ、千絵が思い出したように  
赤面した。視線を感じ、慌てて両手で胸を隠す。水原が苦笑いした。  
「今更隠すことないでしょ」  
「わかってるわよ、そんなことっ」  
 改めて自分の中に入っているそれを感じてしまい、千絵は耳まで真っ赤になった。ようやく普段の  
自分を取り戻し、千絵は水原を睨み付けた。  
「……っ、こんな、ことしてっ……覚悟はできてるんでしょうね……」  
「当たり前だろ?」  
 即答され、千絵は言葉に詰まった。水原は畳み掛けるように言った。  
「千絵ちゃんモノにできるなら何だってするよ。千絵ちゃん、自覚してないかも知れないけど、マジで  
いい女だよ?見境の無い探偵業はもうちょっと自重すべきだね」  
「……」  
 千絵は体が熱くなるのを感じた。まともに顔を見られない。やっとの事で答える。  
「……その言い回し、すごく卑怯よ……女の弱みにつけ込んでる感じ」  
「だから、千絵ちゃんモノにできるなら何だってするって言っただろ?ヒキョーだろうが何だろうが  
好きに言ってよ。こっちはマジなんだから」  
 目が合ってしまった。真剣な、言葉通りの顔だった。普段彼の作り上げているふざけた顔の隙間から  
時折垣間見える、水原のもう一つの顔。  
 もしかしたらこの顔だって作られたものなのかも知れない。千絵はふと思った。  
──でも、この顔になら騙されてもいいと思った。  
「好き……」  
 千絵の中から自然に言葉が流れ出てきた。  
「私、あなたのこと、好きよ」  
「千絵ちゃん……」  
 水原が驚いた表情を浮かべる。こんな顔も珍しい。千絵は恥ずかしそうにふふ、と笑った。  
「私があなたにこんな事言うなんて……おかしいわよね」  
 言い終わらないうちに唇を奪われる。  
「んっ……」  
 ごく自然に、千絵の両手が水原の首に回った。どちらからともなく唇を放す。水原が腰を使い始めた。  
「あっ、はあっ!」  
 水原の肩を掻き抱いて千絵は声を上げた。その手にわずかに力がこもるのを察して水原は言った。  
「爪、立ててもいいよ、千絵ちゃん……っ」  
 引っかかれても構わなかった。むしろ望むところだった。それは自分が彼女と交わった証だからだ。しかし  
千絵はそうしなかった。腰を打ち付けるたび千絵の手には力が入ったが、絶対に爪を立てたり引っ掻いたり  
しなかった。それどころか彼女の手は優しかった。突かれるたびに仰け反り、今にも耐えきれなくなるといった  
声を上げていながら、その手だけは羽毛に触れるように背中を抱きしめていた。まるで彼女に包まれているような  
感覚だった。  
(……こりゃ、負けかな。俺の)  
 彼女を勝ち得たつもりでいたが、どうやらそうではなかったらしい。  
「んっ、あっ、やっ!」  
 激しくなっていく突き上げに千絵は絶頂を迎えつつあった。水原ももう限界だった。水原はその動きを速め、  
彼女をさらに絶頂へと誘った。  
「ッ……千絵ちゃんっ……!」  
「あっ、だ、駄目っ、水原っ……!あ、はあっ、あああああっ!」  
 水原が彼女の中に全てを放つと、千絵は張りつめていた緊張が破れたかのように大きく痙攣した。そのまま糸が  
切れるようにベッドに倒れ込む。挿入していたものを抜くとどろりとしたものが溢れ出た。  
「千絵ちゃん、大丈夫?」  
 爪を立てまいと必死に律していた反動か、千絵は意識を失ったように昏倒していた。長い黒髪は  
大きく広がり、数本が身体に張り付いている。体力を使い果たしたのか、大きく息を付いていた。  
「無理するから……ま、そこが可愛いんだけどな」  
 水原は呆れたように苦笑して、彼女の四肢を直して上から毛布を掛けてやった。  

 □■□■□■  

「……騙されたわ」  
 学校の屋上で千絵は渋い顔をして言った──あの時は騙されても良いと思ったが、こうもあからさまだと  
流石に腹が立つ。千絵は隣に座っている水原を見た。  
「え?何?千絵ちゃん♪」  
 へらへらと笑いながら水原が応じる。その表情に昨晩彼女を捕らえた表情は欠片もなかった。  
変わり過ぎよ。千絵は心中で呟くと近付いてきた横っ面を軽くひっぱたいた。  
「騙されたって言ったの」  
「俺に?何でよ、千絵ちゃん」  
「もういい……お願いだからあんまりまとわりつかないで頂戴、違うクラスなんだから」  
「いいじゃん、同じ部なんだから」  
「同じ部の人と昼休みに一緒にお弁当食べなきゃならないなんて規則はないわ」  
「冷たいなあ」  
 そこへ遅れて梓がやってきた。千絵達の姿を見つけるとぱたぱたと駆け寄る。  
「ごめんねー、遅れて」  
「いいわよ、梓さん」  
「あれ?」  
 梓は並んだ二人を交互に見比べた。  
「どうしたの?」  
「……なんか……」  
 梓は不意に弁当を持った両手を広げた。一メートルほどの距離を表す。  
「いつもはこのくらいなのに」  
 そう言うと、今度はその三分の二程度の距離を示してみせる。  
「今日はこのくらいね」  
「……何が?」  
 梓の場合その事実の示す意味に気が付かない程度に鈍かったため、気を遣って口をつぐむという  
選択肢は選べなかった。千絵が訝しげに眉をひそめると梓はあっさり言い放った。  
「二人の座ってる間の距離」  
「……!!」  
 千絵が手にしていた箸を取り落とした。水原は魚が水を得たように梓に向かって身を乗り出した。  
「あ、わかる、梓ちゃん?実はさ──」  
「水原あっ!!」  
 怒声と共に水原の顔面を千絵の拳が直撃した。  

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