天界と魔界との間に、数千年ぶりに交流が開かれて数年後のこと。  
 今後さらに自由化するであろう両界間の交通を見越して、魔王ラハールと大天使ラミントン  
は、互いに使節団を交換し合うことに合意。  
 天界からも、五人の若者が魔界に派遣された。  
 その使節団の中の一人ロウは、魔界城の廊下の窓枠にもたれかかりながら、空を見上げてい  
た。理由などない。ただ、何となくだ。  
 「せ、先輩!」  
 声をかけられて振り向くと、イルがいた。小柄な体格と金髪の巻き毛、さらに少女のような  
童顔が、彼の性別にも関わらず可愛らしい印象を与える天使の少年である。彼もまた、ロウ同  
様魔界に派遣された使節団の一人だった。  
 イルはやたらと切羽詰った顔をしている。いちいち聞かずとも、ロウは彼が何をしているの  
かおおよその察しがついた。  
「逃げてるのか?」  
「ええ、シーラさんから。この辺にはいませんよね?」  
「ああ、多分ね」  
 ロウの言葉を聞いて、イルは深いため息を吐いた。  
「魔界の女の人たちって、どうしてああも積極的なんですかね」  
「いや、積極的とかそういう問題じゃないだろ」  
「まあそうですけど。ああ先輩ごめんなさい、ゆっくりしてる暇はないんですよ僕」  
 イルはこわごわ周囲を見回した。  
「どこから出てくるか分かんないですもん、シーラさん」  
「大変だな」  
「ええ」  
 と、そこまで話したところで  
「イルちゃん」  
 という声が、どこからか聞こえてきた。イルが肩を震わせ、さっとロウの背後に隠れる。  
「シ、シーラさん」  
「うん、わたし」  
 ロウはイルを背後、窓枠のそばにかばいながら、周囲を見回す。しかし、声が聞こえるだけ  
で誰の姿も見えない。  
「どこですか?」  
「ここよ」  
 声が聞こえた瞬間、背後のイルが悲鳴を上げた。ロウがはっとして振り返ると、窓枠の下か  
ら伸びた手が、イルの首をがっしりとつかまえていた。  
 
「そんな、ここ十三階なのに!」  
「ふふふ、愛に不可能はないのよ」  
 囁くような声と共に、窓の向こうから上半身を突き出したのは、縦巻きロールが特徴的なア  
ーチャーの女だった。名をシーラというこのアーチャー、使節団が魔界に来て以降ずっとイル  
に熱を上げているのである。  
「反則ですよシーラさん!」  
「だって、イルちゃん逃げるんだもん」  
 シーラは可愛らしく頬を膨らませる。しかし、彼女の体は相変わらず窓の外にある。イルは  
慌てた。  
「あ、危ないですよシーラさん、落ちたら大怪我しますよ」  
「離したら逃げるでしょイルちゃん」  
「逃げませんから、早く入ってきてください!」  
「あら本当?」  
 嬉しそうに言い、シーラは一度イルから手を離し、廊下に入ってきた。  
 ロウはちらりとシーラの股のあたりを確認する。スカートに不自然な盛り上がりがある。  
(今日もか)  
 こっそりとため息を吐く。しかしイルはそんなことには気付かぬ様子で、シーラに詰め寄っ  
ていた。  
「何であんなところに」  
「うん、イルちゃん、きっと一度はロウ君のところに来ると思って」  
 二人の会話を横目にロウが窓枠から下を覗くと、すぐ真下の壁に小さなでっぱりがあった。  
どうやら、そこを足場にして隠れていたらしい。  
(何て女だ)  
 改めて感心するやら呆れるやらである。  
「あ」  
 と、不意にイルがシーラの腕を取った。  
「怪我してるじゃないですかシーラさん」  
「ああ、ここに隠れるときにね。大した傷じゃないわ」  
「ダメです、ちゃんと治さないとばい菌入りますよ、もう」  
 叱るように言い、イルはシーラの白い腕の擦り傷に手を当てる。短く詠唱すると、手の平か  
ら光が発せられた。光が収まったあとイルが手を外すと、先ほどの傷はきれいに塞がっていた。  
「今度からはこういう無茶は止めてくださいよ」  
 説教するイルに、しかしシーラは答えを返さない。見ると、なにやら感動した様子で目を潤  
ませている。  
 
「イルちゃん」  
「ど、どうしたんですかシーラさん」  
「やっとわたしの愛を受け入れてくれる気になったのね!」  
 シーラは飛びつくようにイルを抱きしめた。  
「ちょ、苦しいですよシーラさん」  
「イルちゃん、イルちゃん」  
 熱っぽい、あるいは艶っぽい声で呟くシーラは、己の両腕で抱きしめたイルの体に、しきり  
に股間をこすりつけている。息も荒く頬を紅潮させ、口元から涎を垂らしているその顔からは、  
理性というものが完全に消え失せていた。  
「せ、先輩、助け」  
 シーラの胸の中でもがきながら、イルが助けを求めてくる。ロウは内心やれやれとため息を  
吐きながら、シーラの肩に手を置き、怒鳴るように話しかけた。  
「シーラさん、落ち着いてください!」  
 途端に、シーラの瞳に理性の色が戻ってくる。  
「あ、ごめんねイルちゃん」  
 慌ててイルの体を離し、シーラはぽっと頬を染めた。  
「物事には順序っていうものがあるわよね」  
「いや、そうじゃなくて」  
 息も絶え絶えに、イルが否定するように手を振る。  
「別に、シーラさんのそういう要求に答えようっていうんじゃなくて」  
「えー」  
「っていうか、今の感触……まさか、あれ、つけてるんですか?」  
「もちろんよ。見る?」  
 誘惑するように言いながら、シーラは自分のスカートの裾をつかみ、持ち上げる。止める間  
もなく、シーラのスカートの下が外気に晒された。  
「う」  
 イルが顔を引きつらせてうめく。シーラが履いているのは純白の下着で、それだけを見ると  
悪魔らしくなく清純な雰囲気すらある。  
 しかし、その上につけているものが凶悪だった。ゴム製の、黒い突起物。もっと正確に言え  
ば男性器を模したそれは、いわゆるペニスバンドというやつだった。  
 
「な、何でこんなときにまで」  
「だって、イルちゃんが可愛いすぎるんだもん」  
 答えになっていないが、本人の中では筋が通っているらしい。シーラは「イルちゃん」とま  
た艶っぽい声で呟き、また息を荒げ出した。屹立しているようなペニスバンドと相まって、ま  
るで男が異性を前にして興奮しているようにも見える。しかしシーラは可愛らしいとすら表現  
できる、アーチャーの少女である。相変わらず倒錯した雰囲気に、ロウは気持ち悪いようなそ  
うでもないような、妙な気分になった。  
「し、しまってくださいよ!」  
 イルが慌ててそう言うと、シーラは案外素直にスカートを下げた  
「もう、どうしてこういうところでそういうことするかなぁ」  
 ぼやくイルに、シーラはにっこりと笑ってみせる。  
「だって、イルちゃんに見て欲しかったんだもん」  
 要するに、シーラはそういう性癖の持ち主なのだった。可愛らしい男の子を作り物の性器で  
犯すというのに、異常なほどの興奮を感じるのだという。  
「他の人に見られたらどうするんですか」  
「いいわよ別に。イルちゃんが見てくれれば、他はどうでも」  
 つまり自分もその他の中の一人ということか、とロウがどうでもいいことを考えたとき、  
「止めてくださいよ、そういうの!」  
 突然、イルが怒鳴り声を上げた。天界にいたころから付き合いのあるロウはもちろんのこと、  
シーラも驚いた様子だった。  
「イルちゃん?」  
「僕は見られたくないです」  
「え」  
「シーラさんの、そういうの」  
 そういうの、というのが何を指すのかはいちいち説明するまでもない。  
「どうして」  
「当たり前じゃないですか。シーラさん、自分が陰で何て言われてるか」  
「変態」  
「そうですよ」  
「ホントのことじゃない」  
「でも僕は嫌なんです。それに、さっきだって腕に怪我までして。もっと自分を大事にしてく  
 ださいよ、シーラさん」  
 
 それきり、二人は押し黙ってしまった。イルは硬く口を引き結んでいるし、シーラは何を言  
っていいのか分からない様子だった。  
 自分が口を出していいものかどうか迷いながらも、ロウは沈黙を破った。  
「なあイル、お前、ひょっとして」  
 言いかけると、イルは白い頬を赤く染めた。ああやっぱりな、と思いつつ、ロウはちらりと  
シーラを見やった。さぞかし喜んでいるだろうなと予想したが、しかしシーラは目に涙を溜め  
ていた。  
「し、シーラさん?」  
「ごめん」  
 驚くイルに、シーラは笑いながら目元の涙を拭った。  
「嬉しくて、つい、ね」  
「え、嬉しいって」  
 イルは怪訝な顔をしたあと、慌てて両手を振った。  
「か、勘違いしないでくださいよ、そういうのを許すっていう意味じゃ」  
 そういうの、というのが何を示しているのかは、今さら言うまでもない。それでもなお、シ  
ーラは嬉しそうに微笑んでみせた。  
「でも、私がそういうのしたいっていうのは知ってるんでしょ?」  
「それはもちろん」  
「だから、嬉しいの。ありがとう、イルちゃん」  
 でも、とシーラは少し意地悪そうに笑った。  
「ちゃんと聞かせてほしいかな」  
 イルはまた頬を染めて、ちらちらとロウの方を見てきた。ロウは苦笑し、手を振る。  
「分かってるよ、僕は消えるさ」  
「すみません」  
「いやいや。とりあえずおめでとうと言っておこうかな」  
「はい」  
「ありがとう、ロウ君」  
 それじゃ、と片手を上げ、ロウはその場を後にした。  
(それにしても)  
 歩きながら、苦笑する。  
 あれだけ嫌がっていたのに、その上でああいう選択肢を選ぶとは。  
(嬉しそうだったな、シーラさん)  
 本来、優しく繊細な女性なのである。ときどき今日のように暴走することを除けば、天界に  
来てからずっと、イルだけでなくロウにも親切にしてくれた。  
(まあ、当然の結果といえば当然の結果、か)  
 とは言え、思いが通じ合った以上、イルが尻をさすりながらロウの前に現れる日もそう遠く  
はないだろう、とも思う。  
(ああいう性癖がある上で好きになったんだものな、イルは)  
 使節団員の男が処女喪失というのは問題だろうが、まあこれも魔界の風習を学ぶっていう名  
目でいいよな、と気楽に考えつつ、ロウは鼻歌混じりに廊下を歩いていった。  
 

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