魔王ラハールの弟子として生み出された彼女の心は、今日も鬱々とした思いに満たされてい  
た。  
 殿下が笑ってくれない。  
 無論、ラハール曰く「魔王らしい」高笑いなら何度も聞いたことがある。  
 しかし、ラハールは彼女に対して安らいだ笑みを見せてくれたことがないのだった。  
 それはあるいは悪魔らしくはないのかもしれないが、ラハールに心からの忠誠を誓う彼女と  
しては、是非とも彼に笑って欲しかったのだ。  
 しかし、彼女がラハールを喜ばせようとして何かをするたび、彼は彼女につらく当たるのだ  
った。  
 (一体どうしてなの……)  
 思い悩む彼女の枕が、涙で濡れない夜はなかった。  
 そんな状況は、ある夜を境に一転する。  
 赤い月が輝くその晩、数人の部下と共にどこかに出かけて戻ってきたラハールから、ギスギ  
スした雰囲気が和らいでいたのである。  
 いつもラハールを見ていた彼女には、その微妙な変化が手に取るようにわかったのだった。  
(殿下に何があったの?)  
 その疑問には、すぐ答えが出た。  
 彼女は目撃してしまったのである。  
 数ヶ月前から城にいついていた天使の少女とラハールが、楽しそうに会話しているところを。  
 それは本人達にとっては何でもない日常の一コマだったのかもしれないが、しかし彼女には  
深刻な衝撃をもたらした。  
(私が数年かかってできなかったことを、あの女はああもたやすく……!)  
 一体いかなる手段を用いたのかは検討もつかない。  
 確実なのは、あの夜あの天使の少女が何かをして、ラハールは幾分優しさを見せるようにな  
ったのだ、という一点。  
 彼女の胸の奥で嫉妬の炎が踊り狂った。  
 
 天使見習いフロンが呼び止められたのは、魔王城の廊下の途中、人気のない場所だった。  
 振り返ると、鬼気迫る表情をした女が一人。ラハールの弟子の一人で、見知った顔だった。  
 どうしたのか、と訊ねるのはためらわれた。それぐらい危険で深刻な気配が、女から漂って  
きていたから。  
 殺意。その言葉がふさわしい感情が、女の瞳から放たれて真っ直ぐにフロンに向かってくる。  
 しかし、フロンはその激しい光の向こうに、何か悲しいものが秘められているのを見抜いた。  
 剣を振りかぶるその女に、フロンは歩み寄る。  
「どうなさったのですか?」  
 女は答えない。だが、殺意と憎悪の色が瞳から若干薄らいでいくのが、フロンには分かった。  
「何故そんなに苦しまれているのですか? 私では助けになれないかもしれないですけど、お  
 話ししてくださいませんか?」  
 女は剣を取り落とし、涙を流してフロンにすがりつく。  
 そして、この数年間胸に秘めてきた思いの丈を、全てフロンに打ち明けた。  
 ラハールの心を開きたいと思っていたこと。  
 いくら努力してもそれが敵わなかったこと。  
 ラハールが少し一緒にいただけのフロンに心を許したのが悔しかったこと。  
 フロンは黙って女がしゃくり上げながらそれらを話すのを、ただ黙って聞いていた。  
「でも……当然ですよね、ラハール殿下が私に心を開かなかったのは。だって、私はあなた様  
 と違ってこんなにも心が醜いんですもの」  
 泣きながらそうしめくくった女に、天使見習いの少女は穏やかな微笑みで答えた。  
「あなたは三つ勘違いをしていらっしゃいます。まず一つ、ラハールさんが心を開き始めてい  
 るのは、私が何かしたからではありません。二つ、あなたの心は醜くなんかありません。だ  
 って、こんなにも一生懸命に他人のことを思って、涙を流すことができるんですもの」  
「……そうでしょうか」  
「ええ。あなたは愛に満ち溢れた素晴らしい方だと思います。あなたのような人が傍にいてく  
 れて、ラハールさんはとても幸せだと思いますよ?」  
 微笑むフロンに、しかし女は顔を曇らせる。  
「でも、殿下は私が何かすると苛立たれるばかりで……」  
「えーと、それなんですけど」  
 と、フロンは歯切れ悪く言った。  
「三つ目の勘違いです。多分、あなたが何かしたから苛立ってるんじゃないと思いますよ、ラ  
 ハールさん」  
「え、それでは一体?」  
 答えを返す代わりに、フロンは女の体を改めて上から下まで眺めた。  
 山あり谷あり。そんな形容が似合う体つき。  
 ラハールの弟子であるその女は、立派なサキュバスなのだった。  
 彼女が数度の転生の末に僧侶(♀)となったのは、それからすぐ後のことである。  
 
 

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