歴史に名を残す大事件というのも、元を辿ってみれば何でもないことが発端になっていたりする。  
魔王城を一時揺るがせた「女帝フロン」の降臨も、元はといえば些細な出来事がきっかけとなっていたのである。  
曰く、  
「ねーフロンちゃん、地下室の掃除してきてくれない?」  
という、エトナの一言である。  
「はい?」  
脈絡なく突然そんなことを言われて、フロンは目をぱちぱちさせた。  
ちなみに自室で戦隊物のビデオを見ている最中のことである。  
『行くぞ怪獣ゴキブリバルサン男! 腐りかけ大根アターック!』  
やたらと熱のこもったヒーローの叫びを背景に、エトナはぴらぴらと手を振ってみせた。  
「いやだからさ、地下室の掃除してほしいのよ、掃除」  
「……地下室、ですか?」  
「そ、ウチの城の地下部分ってやたらと広くてさー。時々大掃除やるんだけど、誰かが勝手に散らかしちゃうのよねー」  
「はぁ。それで、何故それを私がしないといけないんですか?」  
「居候じゃんフロンちゃん」  
「居候……」  
そういう立場なのだろうか。フロンは首を傾げた。  
「そーそーいそーろーなのよ。だからやって、掃除」  
「ええと、一人で、ですか?」  
「弟子に手伝ってもらってもいいよ」  
「うむむむ……」  
何となく納得がいかない。フロンは悩んだ。するとエトナが突然、  
「これも愛よ、フロンちゃん!」  
「愛!?」  
その単語には弱いフロンである。ついつい背筋を伸ばして聞いてしまう。  
「そう、愛。博愛。人類っつーか悪魔愛? 何かそーいうの。掃除すれば綺麗になって皆喜ぶ犬笑う、ほら愛じゃん」  
「おお、言われて見ればそのとおりなのです!」  
華奢な外見に似合わず行動力抜群のフロンである、エトナの煽り文句にメラメラ燃え上がり、早速立ち上がった。  
「エトナさん、私、やります!」  
「うんうん。あ、何か使えそうなものがあったらアタシに持ってきてね」  
「了解しましたー!」  
ピシッと敬礼を一つ残し、フロンは部屋を飛び出して駆け去っていく。  
「いってらっしゃーい」  
その背中を見送りながら、エトナはにししと笑った。  
 
「あのー、エトナ様?」  
「ん? どったの一号」  
エトナの背後に付き従っていた天使の少女が不安げに声をかける。  
ちなみに「一号」というのは名前であり、彼女は天使兵でも一番下のランクの「天使見習い」である。  
適当な名前と天使兵というクラスから、彼女はエトナがストレス解消用に生み出した弟子だというのが魔王軍内の定説である。  
ともかくその一号は眉根を寄せて、  
「あの、何故フロン様にお掃除を? いつもなら私に押し付け……いえ、命じてくださいますのに」  
一号の扱いはそんなものであった。有り体に言えばパシリである。  
彼女の役割は様々だ。牛乳とアンパン買って来いという類のまんまパシリな命令から、  
暇だからというたったそれだけの理由で発情期のドラゴンの巣に放り込まれたりと、その災難もバリエーションに富んでいる。  
それでもエトナに付き従う、いや付き従わざるを得ない悲しい身分の健気な娘、それが見習い天使一号である。  
「んー、まあ誰でも良かったんだけどね」  
「では何故?」  
「いや思いつきよ思いつき。フロンちゃんなら何か面白い物見つけてきてくれそうだし」  
「は?」  
一号は目を丸くした。掃除させるのではなかったのか。  
「いや、そんなのどうでもいいんだって。大体城が綺麗になったって悪魔のアタシらが喜ぶ訳ないでしょーが」  
「では……」  
「フロンちゃんが掘り出し物見つけてきてくれたらいい値で売れんじゃん」  
「……それだけのために、あんな危険なところに?」  
一号は青ざめた。魔王城の地下部分と言えば、城主ラハールすら何があるか把握していないという噂のデンジャラスゾーンである。  
某不思議のダンジョンもびっくり、これが魔界クオリティーというキャッチコピーも有名なのだ。  
「私、お止めしてきます!」  
と、駆け出しかけた一号の腕を、エトナががしっと掴んだ。  
「ダメ」  
「で、でも」  
「フロンちゃんなら大丈夫だって。レベル2000超えてるし、バールも斧で殴り倒すし」  
何やら常道から外れた育成プランで育てられた様子である。  
「でも、万一のことを考えて」  
「うっさいなぁ」  
 
面倒くさそうに呟きながら、エトナは手に力を込める。一号は短い悲鳴を上げた。  
「そんなにお仕置きされたい?」  
嗜虐的な笑みを浮かべて、エトナが一号の瞳を覗き込む。一号の全身に震えが走った。  
何せ彼女のレベルは未だに1。ちなみに転生後でも何でもない、生まれたてほやほやの状態である。  
一号がこういう状態で固定されているのも、エトナが彼女で遊ぶためだというのが魔王軍諸兄の見解である。  
顔を真っ青にしたまま硬直する一号など気にもとめず、エトナは鼻歌混じりに呟く。  
「何がいっかなー。ドラゴンの巣に放り込むのも熔岩の海に放り込むのも飽きたしー。そだ、あれやろうかなプリニーぶっつけゲーム」  
爆発する性質を持つプリニーを目標に投げるという危険極まりない遊びである。ちなみに当たらなくても爆風で死ぬ。  
「ねー一号ちゃんどれがいい?」  
エトナは可愛らしく首を傾げる。一号は見開いた目に涙を溜めて頭を下げた。  
「ごめんなさいエトナ様許して下さい!」  
「えー、折角考えたのにぃ」  
「いいいいいいえいえいえいえ、私などのためにエトナ様の素晴らしいお考えを使われることはございませんですはい」  
「そっか。じゃあいいや」  
あっさりと言い、エトナは一号の腕から手を放す。解放された一号はへなへなと床に崩れ落ちながら、必死になって祈った。  
(ああ……神様、どうかフロン様をお守り下さい……)  
いつも散々な目にあってはフロンに慰められている一号なのだった。  
 
 
場所は映って地下室。じめじめとした空気を突き破るように、天使の少女の声が響き渡る。  
「さー、張り切って行きますよー!」  
「……」  
やる気満々のフロンの後ろで、彼女の弟子二人はお互いの顔を見合わせてため息を吐いた。  
忍者のクラマと侍のトモエである。一時期ニンニン言ってたフロンの趣味が入りまくったメンバー構成とネーミングであった。  
(……またエトナ様に騙されたご様子だな)  
(……ああ。悪いお人ではないのだが、時々こうやってご病気を起こされるのには参る)  
愛マニアのフロンの弟子だから、二人の待遇は悪くない。むしろ天使見習い一号と比較すれば天国と地獄といった感じである。  
ただ、ときどき募金活動とか緑地化運動とかにつき合わされるのは勘弁してほしい二人なのだった。  
「おりょ、どうしたんですかお二人とも、元気がありませんよ?」  
「いえ、何でも」  
「ないです」  
「そうですか? ではもう一度、さー、張り切って行きますよー! オー!」  
「……オー」  
異口同音にやる気のない答えを返す二人。フロンはまた不思議そうに首を傾げたあと、  
「それにしても……」  
と周囲を見渡した。  
地下室とは言っても、無論一部屋ではない。  
むしろ底がないのではないかと思うぐらいに、魔王城の地下部分はだだっ広い。  
入る度に形の変わるランダム構造だったりしないだけマシというものだが、  
こんなところを三人で掃除したら悪魔の寿命使い切ったって足らんわボケェ! とちゃぶ台ひっくり返したくなる程度には、広い。  
「主殿」  
トモエがおそるおそる声をかける。  
「何ですか?」  
「ハッ、恐れながら申し上げます。こんなところをたったの三人で掃除するなど、土台無理な話なのではないかと」  
「……クラマさんもそう思いますか?」  
「……恐れながら」  
クラマも重々しく頷く。二人は瞳から「悪いこと言わんから止めとけ」というメッセージを放出しつつ、フロンの反応を見守った。  
フロンは少しの間腕を組んで考えていたが、やがて  
「そうです!」  
とポンと手を打った。フロン的には名案を思いついたといのポーズであり、弟子二人的には発病の狼煙である。  
「皆さんにも手伝っていただきましょう!」  
「は」  
「そうです、自分の住んでいるところを自分の手で掃除する、始めは散らかっている部屋が時が経つにつれて綺麗になっていく様を  
見て、  
 これからは綺麗な環境を整えるべく努力しようという住居への愛が芽生える……これです!」  
 
何でも愛に繋げるのはフロンの病気である。弟子二人は青ざめて、  
「フ、フロン様!」  
「それはお止めください!」  
とほとんど命がけの形相で平伏した。  
「ほへ? 何でですか?」  
フロンは不思議そうな顔だが、二人にしてみれば理由は言わずもがなである。  
フロンのすることに仲間を巻き込むなど、忍者と侍という「義」に生きる二人の性が許さないのだ。  
もちろん、後で仲間から仕返しされるのが怖いというのもある。  
今現在魔王軍最強の座を独占する斧戦士フロンに逆らえる者などいないため、自然と恨みは弟子二人に向く訳だ。  
「えーと、ほら、隠れてやった方がありがたみが増すというか」  
「えー」  
「そ、そうですよ。誰の得にもならないことを隠れてする姿勢! 素晴らしい、まさに博愛精神!」  
「愛?」  
やっぱりその言葉には弱いフロン。弟子二人はぶんぶん首を振りつつ、  
「そう、『隠れてこんなことしてくれるなんてフロン様はなんて立派なお人なんだ』」  
「『これからは俺達もフロン様を見習って心を入れ替えようぜ愛に生きようぜ』とこうなること請け合い!」  
捲し立てて、二人は固唾を飲んでフロンの反応を見守った。  
フロンは少し黙っていたが、やがてうっとりした表情で、  
「いいですねぇ、それ……」  
弟子二人はほっと息を吐く。フロン殺すに刃物はいらぬ、愛の一言あればいいとはよく言ったものである。  
「では当初の予定どおり三人で頑張りましょー! オー!」  
「オー!」  
ヤケクソ気味に腕を突き上げ、弟子二人は一番近い部屋に入っていくフロンに続いた。  
「……どうする?」  
クラマがトモエに聞く。トモエはげんなりした表情で、  
「気が済むまで付き合うしかあるまい」  
「……我等の体力が尽きるまで、か?」  
「それが『義』の道だろう」  
もって生まれた性が憎い。二人は心の中でさめざめと泣いた。  
 
「おっそうじおっそうじ楽しいなーっと」  
はたきをふりふり、フロンはご機嫌で鼻歌を歌っている。弟子二人はため息を吐き吐き黙って掃除を続けるばかりである。  
と、  
「む……?」  
乱雑に散らかされていた本の山を片付けていたトモエが、不意に顔をしかめて何かを拾い上げた。雑誌である。怪訝そうな顔でぺら  
 
ぺらとめくり、  
「卑猥な!」  
真っ赤な顔で閉じる。  
「どうした?」  
「何かありました?」  
クラマとフロンが寄ってきたので、トモエは慌ててそれを後ろに隠し、  
「い、いえ! 何でもありません!」  
「そのようには見えんが」  
「見えませんけど」  
必死な態度がかえって興味をそそってしまったらしく、フロンとクラマはさらにトモエに顔を寄せてくる。トモエは顔を赤くしたまま、  
「何でもないと言ったら何でもないのです! それともなんですか私が偽りを申しているとでも」  
「そのように見えるが」  
「見えるんですけど」  
容赦ない二人の突っ込みに、トモエはますます強情にそれを隠そうとする。フロンとクラマは一瞬視線をかわし、  
「……まあお前が言うならそうなのだろう」  
「そうなのでしょうね」  
と、あっさり引き下がった。トモエもほっとした様子で、  
「そ、そう、何でもないので……」  
気を緩めて言いかけた瞬間、トモエの手からそれが奪い去られる。忍者であるクラマの早業だった。  
「ああ!?」  
「すまんなトモエ。お前が何を隠したがっているのかは知らんが、フロン様が知りたがっておられる以上、そちらの方が優先だ」  
「ごめんなさいねトモエさん。でも私怒りませんよトモエさんが何を隠していてもっていやぁぁぁぁ!」  
それを受け取ってぱらぱらめくっていたフロンが、突然悲鳴を上げてそれを放り出した。  
「フロン様!?」  
驚くクラマだったが、床に投げ出されたそれの正体をよくよく見て、己の迂闊さを後悔することとなった。  
妄想たくましい諸兄ならもうお気づきだろうが、それは所謂エロ本だった。  
しかも混沌たる魔界らしく、内容も混沌でソフトなプレイからハードなプレイまで盛りだくさんの内容である。  
これを見ればブルカノもハァハァ言うこと請け合いだろう。  
 
「こ、こ、これは何なんですかー!?」  
投げ出した本を拾ってまたぱらぱらめくりながら、フロンは絶叫する。  
「卑猥です不潔です汚れてますー!」  
そこまで言うなら見なけりゃいいのだが、フロンの視線はエロ本の中身に釘付けである。  
見ちゃいけないと思いつつ、ついつい指の隙間からのぞいてしまうあの心理であろう。  
「男の人と女の人がこんな格好でくんずほぐれつ……」  
フロンはハッとして弟子二人を見る。  
「ま、まさかお二人も私のいないところではこんなことを……」  
弟子二人は思わずお互いに顔を見合わせ、それから同時に顔を真っ赤にしてぶんぶん勢いよく首を振った。  
『いえ、そのような事実は全くございません!』  
声が完璧に被った。そして二人とも、相手が力いっぱい否定したことにショックを受けて同時にへこむ。  
これだけ息が揃ってりゃお互いの気持ちにも気付きそうなものであるが、まあそれだけ二人が鈍いということだ。  
「本当ですか?」  
フロンは疑わしそうな目で弟子二人を見つめる。  
しかし実際そんな事実はないので、二人は何か悲しいものを覚えながらも首を振った。  
「そうですか……」  
まだいくらか疑わしそうだったが、とりあえずフロンは引き下がった。  
「でも、やっぱりこういうのは良くないです。間違ってます」  
眉間に皺を寄せて紙面に目を落としながら、フロンは全面否定の構えである。  
「……恐れながら」  
と、不意にトモエが言い出した。驚くクラマとフロンに構わず、続ける。  
「フロン様は完全に否定されていますが、その卑猥な書物に描かれていることは、我々がこの世に産み落とされる上で必要な過程で  
あることもまた事実です」  
「え、そうなんですか?」  
「そうです……一部の例外はあるものの、我々はその本に描かれているような行為の末に生まれてきたのです。まあ、そこに描かれ  
ているものがいささか常軌を逸しているのは確かですが」  
「うーん……クラマさんもそう思ってるんですか?」  
まだ納得のいかない様子のフロンが、それまで黙っていたクラマに訊ねる。  
クラマは一瞬迷った様子だったが、結局は静かに頷いた。  
「トモエの言っていることに虚実はございませぬ。無論フロン様の仰っているように、こういった行為が汚れた側面を持つことも事  
実ですが、心を通わせあった男女が肉体的に一つになろうという意味をも持っているのです。即ち是、愛の終着点の一つかと」  
珍しく熱弁を振るうクラマ。愛という単語をいれてフロンの心を揺さぶるのも忘れてはいない。  
「これも愛、ですか……」  
「そうです、愛です」  
「うむむむむ……」  
弟子二人に諭されて、フロンは難しそうに唸っていたが、  
「……とりあえず掃除を続けましょう」  
と、一旦話を打ち切った。しかしその動きはぎこちなく、先ほどのことについてあれこれと思案をめぐらせているのが人目で分かる。  
「……すまなかったな、トモエ」  
「気にするな……」  
部屋の片づけをする振りをしながら、二人は見つめ合う。  
フロンの下で語りつくせないほどの苦労を共にしてきた男女二人だから、まあいろいろ芽生えちゃったりするのは当然の成り行きなのだった。  
しかもフロンがやたらと愛愛騒ぎ立てるものだから、その思いは勝手に暴走していく訳で。  
「トモエ……」  
「クラマ……」  
と、二人が何やら怪しい雰囲気になりかけたそのとき、突如フロンの悲鳴が響き渡った。  
「フロン様!?」  
「主殿!?」  
それぞれに驚いて、二人は先ほどまでフロンが掃除していた方を見た。  
フロンは床に倒れていた。二人は顔を青くしながら自分たちの主のもとに駆け寄った。  
フロンは気絶していた。特に苦しそうな顔はしておらず呼吸も正常だったが、二人は同時に舌打ちを漏らす。  
「クッ……曲者に気付けなかったとは……不覚」  
「ああ……どうやら油断していたようだな」  
「しかし、一体何が?」  
「特に外傷は見当たらんが……ん?」  
不意に、トモエがフロンの傍に落ちている一冊の本を拾い上げ、  
「これは……」  
と、頬を引きつらせた。その意味を、クラマは瞬時に悟る。  
「魔術書、か?」  
「ああ。それも、何かが封印されていた、な。これは……何だ、淫魔の類か何かか?」  
「淫魔……」  
フロンとは相性の悪そうな悪魔である。  
「まさか、解き放たれたのか!?」  
「うむ……魔術の高い主様のことだ、無意識に封印を解除してしまったのだろう」  
「では……」  
「ああ」  
弟子二人はフロンに目をやる。フロンは先ほどと変わらず、穏やかな様子である。  
 
「……フロン様の精神に入り込まれたか?」  
「……おそらく」  
封印されていた悪魔、というのはまあ大概が精神体になっているので、解き放たれたとき一番近くにいた者の体を乗っ取ろうとするのは当然の帰結なのだった。  
「まずいな。フロン様なら大丈夫だろうが……」  
「うむ。このお方の魔力に敵う悪魔がそうそういるとは思えん……しかし」  
深刻な顔つきで相談しあう二人。そのとき、フロンが「ん……」とわずかに声を漏らし、起き上がる気配を見せた。  
二人は瞬時に飛び退り、フロンから距離を取る。  
魔力の高いフロンが精神的な勝負で負けたとは思えないが、万一ということもある。  
フロンが不審な様子を見せれば、刺し違えてでも斬る覚悟が二人にはあった。  
邪霊に乗っ取られて悪事を働くなど、愛を信奉するフロンが望むはずもない。  
緊張する二人の前で身を起こしたフロンはゆっくりと目を開き、  
「……どうしたんですかお二人とも?」  
と、張りつめた雰囲気の弟子二人を見て目を丸くした。自然な動きである。演技には見えない。  
(……どうやら)  
(余計な心配だった、か)  
二人はほっと息を吐き、フロンに歩み寄った。  
「いえ、何でもございませぬ」  
「主殿が突然お倒れになられましたので」  
「倒れた? 私がですか?」  
うーん、と唸るフロン。覚えていないようである。  
「お疲れになられているのでしょう」  
「今日はもう止めにして、お休みになられてはいかがですか?」  
弟子二人の提案に、フロンは首を傾げながらも、  
「……それもそうですね。じゃあ戻りましょうか」  
と立ち上がり、きちんとした足取りで扉に向かって歩き出した。  
どうやら本当に大丈夫らしい、と弟子二人はほっと息を吐く、と。  
「あ、そうです」  
と、フロンが突然振り返った。弟子二人は怪訝そうに眉をひそめる。  
「何か?」  
「あのですね、お二人は私のお弟子さんですよね?」  
「そうですが」  
何を今更、と言わんばかりに頷きながら、二人は何故か嫌な予感を覚えていた。  
それは幾多の戦場を駆け抜けてきた者達だけが感じることのできる感覚。  
磨き上げられた感性が叫んでいるのだ、「この場から逃げろ」と。  
しかし彼らはフロンの弟子だった。だから、逃げることなどできずにただフロンの言葉を待つしかない。  
 
「そうですよね。でしたら」  
と、フロンはやたら嬉しそうな顔で例のエロ本を指差し、  
「あれ、してみてください」  
「……は?」  
二人の目が点になった。師の言ったことが理解できないとでも言うように。  
フロンは不満げに頬を膨らまして、  
「どうしたんですか? 早くしてください」  
「いえ、あのフロン様? して、というのは……」  
「ですからー」  
と、フロンは例のエロ本を拾い上げて、  
「これとか」  
ライトなプレイのページ  
「これとか」  
ハードなプレイのページ  
「これとかですよー」  
ディープなプレイのページ、と順々に二人に突きつけてみせた。  
血なまぐさいことは平気でも、こういったことにはあまり耐性のない弟子二人、思わず顔を真っ赤にしてしまう。  
そんな二人を不満げに見ながら、  
「どうしたんですか二人とも? ほら早く早くー」  
「お、恐れながら!」  
「何故我等がそういったことをしなければならないのでしょうか?」  
二人の疑問に、フロンは「何言ってるんですか」と悩む様子もなく答えてみせる。  
「二人は私の弟子、つまり愛の使徒です」  
「あ、愛の使徒……」  
「愛の使徒だから世界に愛を振りまくのは当然のことなのです。ですからこれなのです」  
とまたエロ本を持ち上げる。弟子二人は当惑して顔を見合わせた。  
(……どうなっている?)  
(……先ほどのことが……何やらよからぬ影響を残しているようだが……)  
一時的とは言え淫魔が精神に入り込んだために思考回路が狂っているらしい。  
そんなことも知らぬげに、フロンはにこにこ笑ってエロ本を二人に突きつけている。  
(……ここでやれと?)  
(……こんなことを?)  
ウブな二人はそんなことを想像するだけで悶絶寸前である。  
 
もじもじする二人に、フロンはとうとう我慢ができなくなったらしい。  
「もう! そんなんじゃこの愛の天使フロンの弟子失格ですよー」  
「そ、そう仰られましても……弟子とは発展途上の身ゆえ」  
「で、弟子ゆえに愛が足りないというか……」  
そんな苦し紛れの言い訳を聞いたフロンは、一瞬納得しかけてから、  
「それでしたら!」  
と手をポンと打った。弟子二人の顔が引きつるのも構わず、何やら呪文を唱えだす。  
その詠唱が終わった途端、  
「う……!?」  
クラマが突然呻いて硬直した。  
「どうしたクラ……」  
振り向きかけたトモエがぎょっとする。  
先ほどまでの様子とは打って変わって、クラマは血走った目を見開いてハァハァ息を荒げるという野獣モードの真っ最中だった。  
その視線はトモエの体をなめ回すように上下に動いており、トモエは思わず顔を赤くして自分の体を両腕で隠してしまう。  
「い、一体これは……」  
「はい、愛が足りないというお話でしたので、クラマさんの心の奥底に眠る愛を呼び覚まして差し上げたんですよ」  
フロンが丁寧に解説する。  
どうやら現在の彼女の脳内では愛=性欲の図式が成り立っているらしかった。  
(で、ではこれがクラマの本性……!?)  
性欲を持て余している状態である。  
今まさに飛び掛らんとするクラマから、トモエはたまらず一歩身を引いてしまう。  
「や、止めろクラマ! いや、お前となら嫌ではないというのはあるがしかし物事には段階というものがあってだな」  
「もうトモエさんったら、そんなの愛があればノープロブレムですよ。そういう訳で、えいっ」  
と、フロンが指先をトモエに突きつける。  
その瞬間、トモエの全身にそれまで味わったことのない感覚が走った。  
脳髄をしびれさせ体の芯を熱く震わせるような、快楽の波。  
(う……ああ……)  
フロンによって内に宿る愛(性欲)を呼び覚まされたトモエは、感情の赴くままに両手を広げ、目の前のクラマに呼びかける。  
ただ一言、  
「きて」  
それだけでリミッターが完全に解除されたらしい。クラマは唸り声を上げてトモエに飛び掛った。  
 
「トモエ、トモエ、トモエェェェェェ!」  
「あっ、やっ、ダメっ! クラマ、もっとやさしくぅ……」  
目の前で獣のように何度も何度も体を重ね合わせる二人を見下ろして、フロンは嬉しそうに頷いた。  
「うんうん、これぞ究極の愛の形なのです」  
異常極まりない光景だが、そう言える人間はこの場にはいない。  
フロンは弟子二人の痴態を眺めながら、また例のエロ本に目を落とす。  
「うむぅ、これほど分かりやすい愛の入門書が存在しているだなんて、魔界は広いですね」  
やたらと感心した様子でエロ本を見つめるフロン。  
「この素晴らしさ、他の方々にも分けてあげなければ……」  
そう考えたとき、フロンの頭の中にパッと思い浮かんだのは、赤いツインテールの友人の姿。  
「そうです、エトナさんです!」  
常日頃エトナに対して「愛が足りない」だのと喚いては失笑を喰らっているフロンである。  
折角愛を育む手段を見つけたのだ、これをエトナに教えない手はないのだった。  
「トモエ、トモエ、トモエェェェェェ!」  
「やっ、そこはお尻……ふああぁぁーー!」  
いよいよ激しさを増していく弟子二人の「愛の営み」を横目に、フロンは熱心にエロ本のページをめくり、  
「……レズビアン……SとM……これです!」  
などと呟く。  
「幸いエトナさんには一号さんがいますから、エトナさんがSで一号さんがM……」  
そこまで考えて、ふと思う。エトナが一号をいじめるのではいつもと変わりがないと。  
「でしたら逆に一号さんがSでエトナさんがM……そうですこれです!  
 いじめられる側の気持ちになればエトナさんも愛に目覚めるはず! これで立派なレズビアンです!」  
一人勝手に盛り上がるフロンを止める人間はいない。  
いつもならその役割を担う二人は隣でギシギシアンアンの真っ最中である。  
「ええと、用意するものは……鞭と蝋燭とハイヒール? 何だか地味ですね」  
エロ本の内容に不満があったらしい。フロンは顔をしかめた。  
「どうせなら誰も来ない部屋に監禁してワイヤーで縛り上げて焼きゴテ押し付けて爪を剥がして、  
 泣き叫ぶエトナさんが『許して』って懇願するのを『どうしようかなぁ』と散々焦らしたあとに  
 『やっぱりダメ』と絶望感を与えつつ体の各所に釘を打ち込んでしまいには目玉を抉り出してみたり……  
 こ、これです! 究極のM、究極の愛! エトナさんも溢れんばかりの愛に満ちてくれること間違いなし!」  
いつもンなこと考えてんのかと突っ込みたくなるような妄想だが、やっぱりとめる人間はいない。  
「そうと決まれば早速実行なのです! ああ、エトナさんが愛に目覚めていく姿が目に浮かぶようです」  
背後から聞こえてくる獣のような嬌声を尻目に、フロンは上機嫌で部屋を出て行った。  
 
 

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