「あー、さすがに疲れたわねー」  
 夜魔族のラミアはため息を吐いた。彼女の座るベッドの周囲には、男女様々の悪魔たちが折り重なって倒れている。皆、裸である。  
 今日の昼頃に始まった、性欲異常増加現象は、夜半に入ってようやく終わりの兆しを見せていた。  
 ラミア自身、盛りのついた獣のような男女十数人を相手にくんずほぐれつの生本番を終えたところであった。  
 性のエキスパートとして名高い夜魔族であり、齢三千を超えるベテランであるラミアでも、ここまでやると疲れを覚える。  
 疲れといっても、満足感のある心地よい疲労である。  
 周囲の悪魔達が、皆ラミアの手によって数度の絶頂を迎え、快楽の中で眠りについたからだ。  
 ラミアは、汗と精液の臭いでむせ返る室内を見渡し、上手く仕上がった絵画を眺めるような、満ち足りた心地で一つ頷いた。  
 「さて、と」  
 ラミアは、下着のような普段着を手早く身に着けた。夜魔としては標準的な、露出度の高い服装である。  
 周囲の悪魔達も、その内目覚めてそれぞれの部屋に帰るだろうから、放っておいても問題はあるまい。  
 「帰りますか」  
 呟き、ラミアは部屋を出た。自室ではなく、さっきまで相手をしていた者達の内の一人の居室である。  
 石壁をくり抜いただけの窓から差し込む月明かりが、静まり返った廊下を淡く照らし出している。  
 闇に閉ざされた世界と誤解を受けがちの魔界にも、昼と夜の区別ぐらいはあるのだ。  
 自室の方向へと歩き始めたラミアは、ふと足を止めた。  
 廊下の途中に、二人の女魔法使いがいた。壁に背に、互いに肩を寄せ合って座っている。  
 一人は顔見知りだったので、ラミアは笑顔で声をかけた。  
 「ララ」  
 呼ばれた赤魔法使いが振り向き、微笑んだ。  
 「こんばんは、ラミアさん」  
 「うん。そちらは、お弟子さんだったわよね?」  
 もう一人の顔を見ながら聞いたが、返事はなかった。  
 青魔法使いだった。露骨な警戒心を顔に表しながら、ラミアを睨みつけている。  
 ララは苦笑し、弟子の頭を撫でながら頷いた。  
 
 「そう、ナナって名前なの。ほら、挨拶なさいな、ナナ」  
 「……こんばんは」  
 青魔法使いのナナが、固い声で言いながらお辞儀をする。敵愾心を隠そうともしない態度だ。  
 ラミアは内心首を傾げたが、ナナがララの右腕に自分の両腕をギュッと絡ませているのを見て、敵意の理由に気がついた。  
 嫉妬しているのだ。ラミアが親しげにララに話しかけるものだから。  
 「ねえラミアさん、女が女を好きになるなんて、おかしいことよね」  
 旧知の仲であるララが、ラミアに相談を持ちかけてきたのは、一ヶ月ほど前のことだっただろうか。  
 ララにとっては弟子であり、手のかかる妹のような存在でもあったナナ。  
 そう思っていたが、いつしかララは、自分の心にそれ以上の感情が芽生えていたことに気付いたのだという。  
 ラミアは、とりあえず気持ちを伝えるだけ伝えてみたらどうかとアドバイスしたが、ララは思い悩んでいた様子だった。  
 だが、今日の二人の様子を見るに、どうやらその恋はいい結末を迎えられたようである。  
 「おめでとうね、ララ」  
 ラミアが笑ってそう言うと、ララは照れくさそうに笑った。  
 「ありがとう。まさか、この子もわたしと同じ気持ちだったなんて、思ってもみなかったけど」  
 「はい、大好きです、お姉さま」  
 うっとりと頬を上気させながら、ナナがララの腕に頬を摺り寄せる。ララも微笑みを浮かべて弟子の頭を撫でてやった。  
 「ナナは甘えん坊さんね。わたしも大好きよ、ナナ」  
 「お姉さま」  
 見詰め合うララとナナ。二人の世界に百合が咲く。満開である。さすがのラミアも苦笑を禁じえない。  
 「お幸せに、お二人さん。お休みね」  
 邪魔をするのも悪いし、何よりもナナを嫉妬させては可哀想だと思ったので、ラミアはそそくさとその場を後にした。  
 
 ララとナナを初めとして、ラミアはその日、彼女らの他にも何組もの男女を見かけることになった。  
 たとえば、僧侶セイラと四人の格闘家。  
 セイラは心優しく慈悲深い、僧侶の鑑のような女性である。  
 大乱戦で負傷者が続出した日、寝る間も惜しんで倒れるまで怪我人の看病に奮闘したこともあるほどだ。  
 弱った者を安心させる笑顔と、死者を悼む涙。彼女に看取られることは、魔王軍の者にとってはまさに地獄に仏、魔界に聖女なのである。  
 しかし、そんな彼女にも、自身すら認める困った一面があった。  
 それは、重度の筋肉好きという性癖だった。  
 「私、駄目なんです。殿方の鍛え抜かれた美しい肉体を見ているだけで、体が火照ってきてしまって……」  
 治療のときについついたくましい筋肉を触ってしまうだの、そういう欲望を抱く自分は僧侶失格なのではないかなどと、  
 性のエキスパートであるラミアに様々な相談を持ちかけてきたものだ。  
 「こんな変態趣味が知れたら、きっと皆さんにも嫌われてしまうわ」  
 そんな風に嘆いていたが、どうやら取り越し苦労だったようである。  
 今日の昼間、セイラは勢い余って格闘家たちに迫り、ほとんど逆レイプのような形で彼らとまぐわったらしい。  
 全てが終わり、性欲が治まったあとで、当然ながら彼女は激しい罪の意識に苛まれた。  
 僧侶である自分があんなことを、と。  
 しかし格闘家たちは優しかった。  
 むしろ、自分達の筋肉が憧れの僧侶に好かれていたと知って、喜んだほどだったそうだ。  
 「セイラさんはワシらの女神じゃけん」  
 と、何故か広島弁で嬉しそうに語る格闘家たちに囲まれ、セイラも赤い顔で幸せそうに笑っていた。  
 
 次に、僧侶ロディと四人のサキュバス。  
 以前から、ラミアはロディに泣きつかれていた。  
 四人のサキュバスが、日夜自分を誘惑してくるから何とかしてくれと。  
 夜魔族では最高位のリリスという種であるラミアは、いわばサキュバスの先輩のような立場である。  
 放っておくこともできず、ラミアは、遊び半分に聖職者をからかうなと四人のサキュバスたちに注意した。  
 サキュバスたちは何か言いたげに、それでも渋々引き下がったが、  
 今日の昼間にロディの性欲が増したのを好機と見て、ついに四人で組み敷いてしまったそうだ。  
 これも、結果としてはいい方向にまとまったようである。  
 「何でも、彼女達は私に恩返しがしたかったのだそうで」  
 と、四人のサキュバスに囲まれて、ロディは困ったように笑ってみせた。  
 「恩返し?」  
 「そうそう、そうなのよラミアさん」  
 「あたしたちね、前にロディ様に助けてもらったの」  
 「神の敵だー! とか言って追っかけてくるクソ坊主から、守ってもらったのよ」  
 「そのときから、何かお返ししなくちゃーと思ってたけど、やっと恩返しができたのね」  
 口々に姦しく喋ったあと、「ねー!」とお互いに笑いあうサキュバスたち。ロディは首を傾げた。  
 「お礼をして頂くほどのことをしたつもりはないのですが」  
 「まー、ロディ君にとってはそうかもしれないけどね」  
 ラミアは苦笑した。ロディに助けられたサキュバスたちの気持ちは、同じ夜魔であるラミアにも、痛いほどよく分かる。  
 混沌の魔界にあって神の道を説く僧侶にとって、堕落の象徴ともいえる夜魔族は天敵のようなものだ。  
 自分達のテリトリーである教会には絶対に近づけないし、時には積極的に夜魔狩りをしようという僧侶もいるほどである。  
 ラミア自身、突然数人の僧侶に囲まれて魔法を浴びせかけられたという苦い経験がある。  
 ロディは、本来なら仲間であるはずの他の僧侶から、こともあろうに天敵であるサキュバスたちを守ったのだ。  
 「確かに彼女たちは享楽的かもしれませんが、それだけでその本質まで悪だというのは間違いでしょう」  
 「だけど、聖書にはあたしたちみたいなのは存在自体が悪だー、みたいに書いてなかったっけ?」  
 「僧侶でもないのによくご存知ですね、ラミアさん」  
 「んー、昔、ちょっとそっちの方の知り合いがいてね」  
 「そうなのですか」  
 ロディは少し驚いたような顔をしたあと、かすかに微笑を浮かべた。  
 
 「確かに、天界から伝えられた聖書にはそう記されています。淫欲に狂い、人を堕落させる夜魔は悪であり、滅ぼさねばならないと。  
  ですが、ここは魔界です。魔界には魔界における神の道があり、それを探求することが私たち僧侶の役目だと、そう思っています」  
 静かに語るロディの顔は、謙虚な自信に満ちている。これではサキュバスたちが恩返しをしたがるのも無理はないと、ラミアは思った。  
 「ねえロディ君、許してあげてね。この子たち、他に男の人を喜ばせる方法を知らないだけなのよ」  
 ラミアがそう言うと、途端にサキュバスたちの顔が不安に曇った。  
 「え、ロディ様怒ってるの」  
 「やっぱり迷惑だったんだ」  
 「でも、あのときは苦しそうだったし」  
 「ごめんねロディ様」  
 口々に謝るサキュバスたちに、ロディは慌てて首を振った。  
 「いえそんな、怒るだなんて。私の身を思ってしてくれたことです。感謝こそすれ怒る理由などありませんよ」  
 優しい言葉と微笑に、サキュバスたちの顔が一気に明るくなった。  
 「きゃー、ありがとうロディ様!」  
 「ホントに優しいんだから」  
 「だから大好き!」  
 「もう何でもしてあげちゃう!」  
 四人のサキュバスに飛びつかれてロディの顔が真っ赤になるのを見ながら、ラミアは仕方ないなぁ、という気持ちで苦笑した。  
 「こらあなた達、折角許してもらったんだから、今度からは違うことでロディ君を喜ばせてあげるのよ」  
 「はーい!」  
 「でも、違うことってなぁに?」  
 「そりゃあんた、あれよ」  
 「夜のお相手とか?」  
 「だからそれは駄目だって」  
 本当に大丈夫か、と首をかしげながら、まあ何にしても悪い結果にはなるまいと思い、ラミアはその場を後にした。  
 
 他にも、様々な者達が一緒にいるのを見た。  
 今日の事件一つで、ずいぶんたくさんの恋人たちが生まれたわけだが、もちろんそれには理由がある。  
 前魔王の呼びかけや行動でいくらか変わりつつあるが、それでも魔界は力が全ての世界である。  
 相手が好きなら即襲え、気持ちなんて考える必要なし、という思想が一般的で、恋に悩むなど馬鹿のすることと言われているのだ。  
 だから、もしも相手を好いていても、なかなかそういう行動に踏み出せないのが、普通の悪魔というやつだ。  
 そういう、人間や天使の感覚で言えば普通、魔界では異常な恋愛に悩んでいた者達にとって、  
 今日の一幕は、きっかけが滅茶苦茶だったとは言え想いを伝えるのにはいいきっかけだったらしい。  
 飛ばしましょう恋の種、咲かせましょう愛の花と言わんばかりに、魔王城のそこかしこで数多の男女がいちゃついており、  
 正直暑苦しいほどだった。ハートマークが飛び交っている幻覚が見えそうなほどだ。  
 「何ていうか、すごいわねこのムード」  
 自室へ続く廊下の途上で、何組ものカップルが抱き合ったり、キスしたり愛を語らったりしている。  
 中には男同士または女同士の組み合わせがいたり、気分が高まりすぎて廊下の真ん中で第二ラウンドに突入しちゃっている者達もいた。  
 性のエキスパートであり、それこそ数え切れないほどの男または女たちと肌を重ね合わせてきたラミアだが、  
 「愛してるよ」「好き」「これからはずっと一緒だね」「ねえ、キスして」「いま、すごくしあわせ」  
 などという、愛の囁きには少しも慣れていない。  
 性交というのは、ラミアにとっては愛情の発露ではなく、欲望のはけ口として行われる行為だったから。  
 そんなことを考えると、何故だか少しだけ、胸が痛くなった。  
 「ちょっと、頭冷やそうかな」  
 ラミアは誰に言うでもなく呟き、くるりと足先を変えて歩き出した。  
 恋人たちが多くいる区画から遠ざかるように早足で歩き、いくつもの曲がり角を越える。  
 いつしかラミアは、魔王城上層の一角、「王妃様の展望台」と呼ばれる場所に来ていた。  
 その名が示すとおり、見晴らしのいい場所である。何せ、高い階の隅にある上に、壁が半分以上吹き飛んでいるのだから。  
 以前、魔王城が攻撃を受けた際に破壊された場所である。  
 前魔王クリチェフスコイはすぐさま修理するよう命じたが、前王妃の「ここから見える景色、好きだな」という言葉に、  
 即座に命令を撤回したというある種名物スポットのような場所だった。  
 しかもその後、星空も見えるように上の構造物まで取っ払ったという、豪快かつ呆れ返ってしまう説話も残っている。  
 前魔王生存時は常時薄い結界が張られて雨風を防いでいたが、  
 今はそれも消滅し、苔むした石の床と転がる瓦礫のみが昔日を懐かしむ、寂寥感の漂う場所になってしまっていた。  
 ここなら誰もいないだろうとほっと息を吐いたラミアだったが、先客がいた。  
 
 「ラミアさん?」  
 予期せず声をかけられハッとして振り向くと、薄い月明かりの中に二人の人影があった。  
 大柄な男と、小柄な少女。二人の顔には見覚えがあった。  
 「ロッテちゃん。それと、ゼン君?」  
 「はい」  
 微笑んで頷いてから、ロッテは首を傾げた。  
 「どうしたんですか、こんなところで」  
 「ん。ううん、別にただ、何となくね」  
 誤魔化すようにラミアが言うと、ロッテは追求する様子もなく「そうですか」と言って、少し赤い顔をした。  
 「大変でしたね、今日のお昼は」  
 「ん。まあ、そうね」  
 多分彼女の言う「大変」と自分の「大変」は意味が違うだろうな、と、ラミアは複雑な気持ちで頷いた。  
 「こちらにいらっしゃいませんか? 風が気持ちいいですよ」  
 暗がりにいるラミアを、月明かりに照らされたロッテが誘う。  
 ラミアは一度頷きかけてから、ロッテの両腕がゼンの左腕に絡められているのに気付き、笑って首を振った。  
 「ううん。いいわ。お邪魔しちゃ悪いもの」  
 ラミアの答えに、ロッテははっと表情を変え、慌てて頭を下げた。  
 「そうでした、わたし、ラミアさんにお礼を言わなくちゃ」  
 「いいよ。あたし、何にもしてないじゃない」  
 ラミアは笑って手を振った。  
 「でも」  
 「いいんだって。おめでとう、ロッテちゃん。それから、ゼン君も」  
 「ありがとうございます」  
 ロッテが照れ笑いを浮かべて小さく頭を下げ、ゼンも無言のまま、小さく頷いた。  
 ロッテが何故自分にお礼を言いたがったのか、ラミアはもちろん知っている。  
 ゼンはエトナの弟子でもある魔人で、ロッテはどこにでもいるような平凡なアーチャーだった。  
 エトナ曰くサンドバッグの一号とは違い、ゼンは純粋な戦闘用、あるいは護衛用に生み出された悪魔である。  
 その力は、魔王軍最強のフロンには及ばないものの、エトナやチャコ相手なら互角に戦えるとまで周囲には評価されていた。  
 その上に真面目で物を語らぬ性格だったため、ゼンに好んで近づく者はあまりいなかった。  
 ただ、一人を除いて。  
 
 「ゼンさん、本当は寂しいんじゃないかと思うんです」  
 思いつめた様子のロッテがラミアに相談を持ちかけてきたのは、ほんの三日ほど前のことだっただろうか。  
 物言わぬゼンの横顔がとても寂しげに感じられて、見るたびに胸が痛むとロッテは語っていた。  
 「だけどわたし、一体どうしたらいいのか分からないんです」  
 そう言って、ロッテはラミアの前で泣き崩れたのだった。  
 悪魔には珍しく心優しく、それ故に気弱な性格のロッテにとって、知り合いでもないゼンに話しかけることは難事なのだった。  
 そうやって自分の無力を嘆くロッテの力になってやりたかったラミアは、ゼンを見つけてこう言ってやった。  
 「ねえゼン君、あなた、とっても幸せな男だわ。きっと近いうちにいいことがあるわよ」  
 もちろん、ゼンは何のことだか分からずに眉をひそめていた。  
 ラミアとしては、こうして予言しておいて、後で何とかロッテを励ましてゼンに話しかけさせるつもりだったのである。  
 しかし、それも無用な心配りだったようだ。  
 どういった経緯を辿ったものかは想像できないが、とにかく、今日の昼に、ロッテは勇気を出してゼンに話しかけたらしい。  
 「これからは、わたし、ずっとゼンさんのそばにいてあげるんです」  
 ゼンのたくましい左腕を細い両腕で抱きしめ、ロッテは幸せそうに笑った。  
 ゼンは一見すると以前と変わらぬ厳しい顔つきだったが、  
 彼の全身から漂う雰囲気が幾分か和らいでいるのが、ラミアには分かった。  
 ふと、ロッテが城の外の方に顔を向けた。ラミアとゼンも、ロッテの見ている方向に目をやる。  
 半壊した壁の向こうに、緑よりも赤や茶色が多い魔界の大地と、それ故に冴え渡る星空が見えた。  
 「きれいですね」  
 「ああ」  
 ロッテが小さく呟き、ゼンもまた、ぼそりと答えた。  
 互いに身を寄せ合い、静かに星空を眺める二人の姿を、淡い月明かりが優しく包んでいる。  
 (いいなあ)  
 吐息のような感情が胸に湧いてくる。  
 ラミアは何故だか自分がいることに罪悪感のようなものを感じ、二人に気付かれないよう、そっとその場を後にした。  
 
 そうして自室に戻ったラミアは、ふと、大きな姿見に映っている自分の全身を眺めた。  
 青く長い髪、頭の両脇から生えている二本の角、起伏のある魅惑的な肢体。どこからどう見ても、立派な夜魔族である。  
 ラミアはベッドに体を投げ出し、眠るつもりもなく目を閉じた。  
 先ほど廊下で出会った悪魔達の姿が、次々に脳裏に浮かんでくる。  
 ララとナナ、セイラと格闘家たち、ロディとサキュバスたち、そしてゼンとロッテ。  
 皆、幸福感あふれる、満ち足りた顔をしていた。昨日までは浮かべたことがない、穏やかな表情ばかりだった。  
 一瞬、そんな彼らの姿が消えうせ、むせ返る体液の臭いの中で男達の相手をするラミア自身の姿が浮かんできた。  
 ラミアは目を開き、苦笑しながら首を振って、自分の想像をかき消した。  
 「……バカだな、あたし。今更そんなこと気にするだなんて」  
 呟き、さて、と気を取り直したラミアは、ベッドの上で体を起こし、腕を組んで考え始めた。  
 「どうやら、思ったよりもひどいことにはならなかったみたいね」  
 ラミアが見たところ、性欲の異常増加現象と言っても、誰彼構わず襲い掛かったような連中はほとんどいなかったようである。  
 相手がいなくて悶々としていた者にしてみても、そういう連中同士でまぐわったようなので、後に遺恨を残すようなことはあるまい。  
 「ま、一応調査して、今回の事件の結末をまとめとかなくちゃならないかなー」  
 ラミアは、頭の中でいろいろと情報を整頓し始めた。  
 彼女がそんなことを考えているのには、もちろん理由がある。  
 ラミアは、魔王ラハール唯一の弟子であるチャコの、そのまた弟子という立場にあった。  
 弟子というより、部下といった方が正しいだろう。  
 多くの男女と肌を重ね、様々な者達から相談を持ちかけられるラミアの顔の広さに、チャコは目をつけたのだ。  
 城内で、魔王ラハールに対する反乱の気配があればチャコに報告するのが、ラミアの役目だった。  
 チャコはその情報を元に調査を行い、反乱が真実であればそれを事前に潰すのだ。  
 魔王が最弱という奇妙な魔王軍の支配体制は、こうした陰の努力により保たれているのである。  
 そういう観点から見た場合、今回の事件はどうだろうか。  
 「誰かが魔力で城内の悪魔の性欲を掻き立てたのは間違いないだろうけど」  
 考え込むラミアの脳裏に、ふと一人の悪魔の顔が思い浮かんだ。  
 赤髪ツインテールに強気なつり目、そして口元の八重歯がチャーミングな女悪魔である。  
 「エトナちゃん、か。まあ可能性としては一番高いかなー」  
 性格的に、こういうことを面白がってやりそうではある。果たして、ここまでの混乱を巻き起こす魔力があるかは分からないが。  
 「とにかく、話だけでも聞いてみようかな」  
 今日はまだ眠れないみたいね、とため息を一つ吐き、ラミアは自室を後にした。  
 
 だだっ広い魔王城の、王座の間からそれ程離れていないエトナの自室に近づくにつれ、ラミアは違和感を覚えていた。  
 魔王城の湿っぽい空気に、何か異質なものが混じっている。  
 昼間の狂乱の名残で、精液の臭いでも残っているのかとも思ったが、違う。  
 「……血?」  
 ラミアの体が緊張に強張った。しかも、その臭いは、廊下のずっと先の方に見えるエトナの部屋から漂ってくるようだった。  
 五感を研ぎ澄ますように意識を集中し、ラミアは慎重にエトナの部屋に近寄る。  
 扉が半開きのままになっていた。中は真っ暗で、灯りはついていないようだ。  
 ラミアは部屋のすぐそばの壁に身を寄せ、半開きになった扉から部屋の中を覗き込み、息を呑んだ。  
 暗くてよく見えないが、部屋の中に誰かが血まみれで倒れている。  
 ラミアは慌てて部屋に飛び込むと、魔法で部屋を照らし出した。  
 やはり、人が倒れている。細く白い裸身は傷だらけで、至るところに赤い血が滲んでいた。  
 その背に一対の翼が生えているのを見たとき、一瞬、ラミアの頭を懐かしい誰かの姿が横切った。  
 (いやいや、思い出に浸ってる場合じゃないわ!)  
 慌てて感傷を打ち消し、ラミアは天使のそばに屈み込む。  
 裸で横たわる傷だらけの天使。だが、弱弱しいながらもまだ息がある。  
 確か名前は一号だったか、と記憶を呼び起こしながら、ラミアは一号の耳元で呼びかけた。  
 「一号ちゃん、大丈夫?」  
 反応がない。完全に意識を失っている様子だった。  
 ラミアは、一号と直接話したことがなかったが、彼女の素性はいくらか知っていた  
 エトナが、ただ虐め抜いてストレスを解消するためだけに作った天使兵。それが一号なのだと。  
 では、一号をこんな風にしたのは、エトナなのだろうか。  
 放っておけば死ぬような怪我を負わせて、自分はどこかに行ってしまったというのか。  
 「エトナちゃん……」  
 呟くラミアの脳裏に浮かぶのは、物陰にしゃがみ込んで弱弱しく泣きじゃくる、赤い髪の少女の姿だった。  
 だが、感傷的な気分に浸っている時間はない。  
 とりあえず今は一号を治療するべきだと判断し、ラミアは意識を集中した。  
 天使や僧侶ほど得意ではないが、夜魔族もイビルヒーリングという回復魔法が使えるのだ。  
 所々に血が滲んでいる一号の体を、淡い光が包み込む。だが、小さな傷が塞がった程度で、大きな傷には全く変化が見られない。  
 「ダメか」  
 ラミアは舌打ちした。回復魔法では間に合わず、薬も持っていない。となると、病院に運ぶしかなかった。  
 「ちょっと痛いと思うけど、我慢してね、一号ちゃん」  
 ラミアは、魔界病院を頭に思い浮かべながら、早口に転移魔法を唱える。  
 ぐったりとしている一号の体が、想像していたよりもずっと軽いことに、小さな驚きを覚えながら。  
 
 ラミアからの報告を聞き終え、チャコは目を開いた。  
 「では、まだ犯人は特定できないと?」  
 「そうね。今のところ、エトナちゃんが一番怪しいと思ってるんだけど」  
 背後から、ラミアの声が聞こえてくる。チャコは弟子の姿を見ることもなく答えた。  
 「どうだろうな。昼間の様子からすると、それはなさそうだったが」  
 「そう。でも、そうすると候補自体がほとんどいなくなっちゃうのよね」  
 悩むような声音。チャコは唇を舌で軽く濡らして考え始めた。  
 候補。つまり、あのような事態を引き起こすことができ、かつそれをする理由がある人物ということ。  
 「理由というよりは、目的か」  
 「面白半分でやった、っていうの以外には思い浮かばないけど」  
 「確かにな。あんなことをして利益を得る者がいるなど、想像もつかん」  
 結局、昼間から続いた騒動は、城の悪魔たちが乱痴気騒ぎを起こしただけに終始したようだった。  
 騒ぎに紛れて殺人や盗難が行われたという事実もない。少なくとも、ラミアの所見ではそうだという。  
 何よりも、手段が不明である。  
 あれだけ広範囲に、しかも男女種族無差別に性欲を高揚させられるほどの魔力の持ち主など、城内には一人しかいない。  
 「でも、まさかフロンちゃんがねぇ」  
 苦笑混じりに、ラミアが言う。  
 あの騒ぎを起こせる力量の持ち主、という点では犯人はフロン以外に考えられないが、そうなるとやはり動機が不明になってくる。  
 チャコ自身、少し暴走しがちだが根は清らかな天使であるフロンと、昼間のあの淫靡な城内の風景がどうしても結びつかないのだった。  
 「しかし、だとすれば、誰が……」  
 「んー、あたし、一人だけ心当たりがあるけど?」  
 チャコは驚き、思わず振り返った。  
 「本当か?」  
 「うん。フロンちゃんほどじゃないけど魔力があって、なおかつあんなことする理由がある人」  
 にやけた表情が想像できるような、楽しげな声だった。  
 ラミアが突然声の調子を変えたことに疑問を感じながらも、チャコは問う。  
 「誰だ、そいつは?」  
 「分かんない?」  
 「焦らすな」  
 「テクニックの一つよ」  
 「早く言え!」  
 「んもう、せっかちさんね。答えは」  
 と、ラミアが後ろからひょっこり首を出し、こちらに指先を向けた。  
 「あなたよ、チャコ」  
 
 怒鳴り声を上げかけて、チャコは慌てて口をふさいだ。  
 落ち着け、と心に言い聞かせながら、頭上のにやけ面を睨みつける。  
 「冗談はよせ、ラミア」  
 「え、そんなつもりないけど」  
 「馬鹿を言え、何故私がそんなことをせねばならん」  
 怒鳴りつけたい衝動を必死に抑えてそう言うチャコに、ラミアはからかうような笑みを浮かべて答える。  
 「またまた、分かってるくせに」  
 言いつつ、ラミアは無言で指を動かす。その先にチャコが視線を向けると、彼女自身の膝の上で眠るラハールの姿が。  
 そう、チャコは昼間からずっと眠り続けているラハールを膝枕したまま、ラミアの報告を聞いていたのだ。  
 ラミアを王座の後ろに立たせているのは、万一ラハールが目覚めたとき、起伏激しい肢体が彼の目に入らないようにするためである。  
 二人の会話など聞こえてもいないかのように、ラハールは健やかな寝息を立てている。  
 (……ああ、何て愛らしいのかしら、ラハール様)  
 一瞬緩みかけた頬を、チャコは慌てて引き締めた。  
 「きゃー、やっぱりラハールちゃんったら可愛いわねぇ。ほっぺたぷにぷにしてみたい」  
 王座の背もたれに寄りかかってこちらを覗き込みながら、ラミアが歓声を上げる。  
 チャコは肩越しに振り向き、弟子の顔をにらみつけた。  
 「馬鹿なことを言うな、そんなことをしたらラハール様は」  
 「分かってるわよ。ラハールちゃん、あたしたちみたいな体が苦手なのよね。  
  あーあ、こういうときだけはチャコみたいなぺったんこの体が羨ましいわー」  
 喧嘩売ってるのか貴様ァ! と叫びかけて、チャコは寸でのところで口を閉じた。  
 ラハールを起こしてしまっては元も子もないのである。そんなことになったら、この至福の時間が終わってしまうではないか。  
 チャコは軽く咳払いをすると、声をひそめてラミアに話しかけた。  
 「それで、どういう意味だ、さっきのは。何故私があんな乱痴気騒ぎを起こさねばならん」  
 「だって、城内が大混乱だったからこそでしょ、この状況」  
 チャコは反論できなかった。確かに、普段ならばこんな状況はありえないのだった。  
 だからこそ、チャコはラハールを起こすこともなく、眠っている彼のあどけない顔を思う存分眺めていられるのだから。  
 
 「それに、わたし盛ってますいつもとは違うんです許してごめんなさーいって言っちゃえば、もうやりたい放題だし」  
 「そんなはずがあるか!」  
 「そうかなー。ラハールちゃんって、照れ屋さんだけど優しいし、泣いて謝れば許してくれるんじゃない?」  
 確かにそうかもしれない、と一瞬同意しかけて、チャコは慌てて首を振った。  
 (聞くな、チャコ。私の役目はラハール様の純粋さを守ることであって、決して卑猥な目的でこの地位についている訳では)  
 「勿体ないと思うけどなー。ラハールちゃんだっていつまでもこのまんまじゃないんだし、何も知らない内にヤッちゃったら?」  
 黙れ、と、心の中で怒鳴りながら、チャコは唇を噛み締めた。  
 そんな師の葛藤など気にもしていないかのように、ラミアは体をくねらせ始めた。  
 「あれよ、女教師ものってやつ? あたしもときどき頼まれるのよねそういうプレイ。  
  『ラハール様、本日は私めが、魔王にとって必要不可欠な技術を伝授させていただきます』  
  『何だそれは。言ってみろ、チャコ』  
  『はい。それでは失礼いたします』  
  『な、何だ、何故服を脱ぐ!?』  
  『何も恐れることはありませんわラハール様。全て私にお任せくださればいいのです』  
  『う、うう……』  
  『ふふ、そんなに緊張しなくてもよろしいのですよ。これはとても気持ちいいことなのですから』  
  『し、しかし』  
  『ああ、可愛いですわラハール様。さ、肩の力を抜いて。チャコ先生が優しく教えてあげる』  
  『あ、ああ、チャコ!』  
  『ラハール様!』  
  こうして王座の間は愛と肉欲の宴会場と化したのだった……なんちゃって」  
 ゲラゲラと実に下品に笑うラミア。チャコはついに我慢できなくなり、小声でラミアを怒鳴りつける。  
 「止めんか貴様、今すぐ止めんと後でひどい目に……」  
 「チャコ、鼻血」  
 「ぐむ」  
 ついつい映像を想像して興奮してしまったらしい。チャコが鼻血を拭き取っていると、ラミアが王座の間の前に回りこんできた。  
 「チャコって真面目に見えて結構やらしいわよね」  
 「だ、誰が!」  
 「別に恥ずかしがることないじゃない。あたしも可愛いと思うわよ、ラハールちゃん」  
 そう言って肩をすくめると、ラミアは微笑みながらラハールの寝顔を覗き込んだ。  
 
 「おい!」  
 「何にもしないってば。うん、やっぱり可愛いわラハールちゃん。間近で見ると丸っきり子供だもんね」  
 「顔を離せと言っている、今ラハール様がお目覚めになったら」  
 「大丈夫だって。んー、さらさらの髪、すべすべのほっぺたにちっちゃな唇。もうあれよね、食べたいちゃいっていうの?」  
 「卑猥な表現はよせ!」  
 「またまた。チャコだって考えたことあるでしょ、そういうの」  
 言われて、思わずチャコは想像してしまう。  
 そりゃ、考えたことはある。  
 ラハールを膝に乗せて思う存分頭をなでなでしたいとか、耳をはむはむしてみたいとか、満足のいくまでキスしてみたいとか。  
 ああ駄目だ、そんなこと考えるとまた鼻血が出てくる。  
 チャコは必死に欲望と鼻を押さえこみ、ラミアをにらみつけて断言した。  
 「そんなことを考えたことは一度もない!」  
 「ごめん、正直全然説得力ない」  
 「ええい、うるさい! 報告はもう終わったのだろうが。さっさと去れ、さっさと!」  
 「あー、はいはい分かってますって」  
 腕を振り回すチャコから軽く身を引くと、ラミアは肩を竦めて転移魔法を唱え始めた。  
 「それじゃ、行くわ。一号ちゃんのことも心配だしね。調査続けて何か分かったらまた報告するから」  
 じゃあねー、と気楽に言い残し、ラミアの姿が王座の間から掻き消える。  
 「全く」  
 途端に王座の間が静まり返り、チャコは気疲れからため息を吐いてしまった。  
 情報収集能力が有能とは言え、あの夜魔のからかい癖には困ったものだ。気力がいくらあっても足りない。  
 そんなことを思いながら、ふと膝の上のラハールを見下ろす。  
 かなり騒いでしまったような気がしていたが、ラハールは全く気付かない様子で安らかな寝息を立てていた。  
 天使のような寝顔、などと形容するのは悪魔であるラハールにとっては失礼かもしれないが、それ以外に言い表しようがない。  
 ラミアに対する不愉快さなど一辺に忘れてしまったチャコは、うっとりした心地でラハールの頭を撫でた。  
 頭だけでは飽き足らず、その手を頬に、首筋に持っていく。  
 手の平に伝わる、どこまでも柔らかな至福の感触。チャコが涎を垂らしかけたそのとき、ラハールがくすぐったそうに微笑んだ。  
 ビッグバン。宇宙が生まれたときの大爆発である。  
 そんな意味不明な説明が頭に流れるほどの衝撃だった。  
 微笑んだ! 無防備に! あのラハールが!  
 思わず感嘆符を三連発してしまったほどである。まさに至宝、まさに奇跡。  
 チャコの人生は、本日このときに絶頂を迎えたといっても過言ではない。  
 
 (ああラハール様、チャコはもう一生あなた様についていきます)  
 改めて決意し直し、チャコは涙を流しながらじっとラハールの寝顔に見入った。  
 そして、ふと思う。  
 自分の膝の上で寝ている、小さなラハール。そんな彼も、いつかは立派な若者になり、王妃を娶るのだろうか。  
 王妃。その二文字を想像するだけで、チャコの心は重くなる。  
 愛などいらぬとどこかの聖帝ばりに宣言して幾星霜、相手が嫌がりゃ力で奪えが恋愛の基本の悪魔である。  
 しかし、前魔王クリチェフスコイが、まさにその愛という感情に基づいて人間の妻を娶ってからは、そういう思想も徐々に変わりつつある。  
 とすると、ラハールもそうなるのだろうか。  
 この、今はか細い両腕で誰かを抱きしめ、汚れを知らぬ肌を誰かと重ねあい、小さな唇で愛を囁くのか。  
 そうなるだろう。当たり前の話だが、キスしちゃったりもするかもしれない。  
 (そんなの嫌!)  
 などとチャコが思っても、それは動かしようのない事実である。  
 ラハールの寝顔を眺めながら悶々としだしたチャコの脳裏を、不意にある考えが掠めた。  
 (奪っちゃおうかな)  
 何を、などと心に問い返すまでもなく、チャコは小さな寝息を洩らすラハールの唇を凝視していた。  
 いや、別にいやらしい気持ちではないのだ。自分はただラハールのファーストキスが欲しいだけで  
 (ってそうじゃなくて)  
 これは予行練習だ。チャコは不意に、そう思いついた。  
 ラハールだっていつかは恋人とか王妃を持つだろう。そうなったときにうまくできなかったら困るジャン?  
 いや無理あるだろその理屈、と理性が警告してくるが、イノシシのように猛る本能の前には小鳥のさえずりである。  
 (行きます……!)  
 チャコは弓を射る気持ちで目を閉じ、そっとラハールの顔に自分の顔を近づけた。  
 心眼である。いちいち目を開かずとも、弓の達人であるチャコには目標がはっきりと見えている。  
 瑞々しい小さな果実のようなラハールの唇。その甘い感触に向かって、チャコの唇は真っ直ぐに突き進み、そして、  
 
 「あのー」  
 悲鳴を上げるかと思った。いや、むしろ絶叫していた。喉が引きつって声が出なかっただけだ。  
 目も口も一杯に見開いて、チャコは声の方向を見る。  
 王座の脇に、心底呆れた表情のラミアが立っていた。  
 「おま、おま、おま、おま……」  
 「あー、いいよ、無理して喋んなくても」  
 にっこり笑って止めてくるラミア。しかし、喋らずにはいられない。  
 「いつから!? いやむしろどこから!?」  
 「チャコがすっげー気持ちよさそうにラハールちゃんの頭を撫でだした辺りから」  
 ほとんど最初からじゃねぇか。  
 チャコは絶望的な気分になりながら、それでも必死に反論を試みた。  
 「違うんだ!」  
 「何が?」  
 冷静な切り返し。チャコはますますパニックに陥る。  
 「いやだからお前、違うんだよ別にやらしい気持ちの予行練習じゃなくてビッグバンが無防備に」  
 何を言っているのか自分でも分からないまま捲し立てるチャコに、ラミアはどこまでも優しい、有り体に言えば生温かい笑顔を浮かべた。  
 ぽんと肩を叩いて、穏やかな口調で言ってくる。  
 「素直になりなよ、チャコ」  
 その声音の優しさに毒気を抜かれてしまったのか、それとももう駄目だと心が悟ってしまったのか。  
 とにかくチャコはそれ以上何も言えなくなってしまい、そして、  
 
 突然目を潤ませ、顔を覆って泣き出したチャコを前に、さすがのラミアも絶句してしまった。  
 泣かすつもりはなかったのだ。ちょっと気になることがあって戻ってきたらチャコがあんなことしてたから、冷やかそうと思っただけで、  
 (それがなに、この状況)  
 しゃくり上げるチャコの嗚咽が、未だにのん気に寝ているラハールの寝息と混じって静かに響く。  
 さすがにこのまま突っ立っている訳にもいかず、どうにかして話しかけなきゃなーとラミアが考え始めたところで、  
 「分かってるもん」  
 と誰かが言った。拗ねた子供のような、幼い口調。一体誰かしら、とラミアは首を傾げてしまったが、本当は分かっていた。  
 「わたしだって、分かってるもん」  
 再び、涙に声を詰まらせながらチャコが言った。普段の凛とした武人の声ではなく、幼さの残る少女の声である。  
 (うわー、なんかいろんな意味でちょっとショック)  
 思いがけず師の別の顔を見てしまって複雑な心境のラミアに、チャコはなおも言ってくる。  
 「ラハールさまはわたしのことそういう対象として見てないもの……そんなの、自分でも分かってるもん」  
 「はあ、そうですか」  
 つい敬語になってしまったラミアを、チャコは涙目でキッと見上げた。  
 「ねえラミア、わたしっておかしい!?」  
 そりゃ今のあんたはね、と心の中で呟きながら、ラミアは何とか微笑らしきものを浮かべて、首を傾げた。  
 「ええと、何が?」  
 「そうよねおかしいわよね」  
 「無視かよ」  
 「そんなの自分でも分かってるの。でも仕方ないじゃない」  
 「いやだから、何が?」  
 「今まで三千年以上も生きてきて、こんな気持ちになったのなんて初めてなんだもん」  
 じっとラハールの顔を見下ろし、チャコは短いスカートの裾を握り締めながらたどたどしく呟く。  
 「そりゃ、わたしはラハールさまやフロンさまに比べたらずっとおばさんだし、弓以外には何のとりえもない女よ。  
  武骨だし気は利かないしまっ平らだし、その上身分の低い田舎者。こんな女、王妃どころか妾にだってなれっこないわよ」  
 「はあ」  
 「人間界にもあったわねそんな童話。シンデレラ。そう、シンデレラとかいうやつ。  
  下働きの女がトチ狂って、自分が貴族だと思い込むのよ。それで舞踏会に入り込もうとして衛兵に見つかって斬り殺されて、  
  そんでもって主人に発見された挙句に『あれま、下働きの女がシンデレラー』とか言われるっていう」  
 「なに、その救いようのない話」  
 「私もそれと同じなのよ。気狂いなの。叶うはずもない恋に憧れて一人で悶々としてる馬鹿な女なのよ!」  
 チャコは王座の肘掛に突っ伏して泣き出してしまった。そんな姿勢でも膝の上のラハールを落とさないのは驚異的である。  
 
 何だかもう逃げ出したいような気分だったが、ラミアはとりあえずチャコをなだめにかかった。  
 「あのねチャコ」  
 「何よ、笑いたきゃ笑いなさいよ! あれね、私みたいな馬鹿女にぴったりな悪口が人間界にあったわね、  
  『ショタコンウゼー、フジョシハコミケデサカッテロ』とかいうの。そんな文句で罵ればいいでしょ?」  
 「ショタ……なに? いや、そうじゃなくて、落ち着きなさいよチャコ」  
 「慰めなんかいらないわ。ほら、笑いなさいよ罵りなさいよ、夢見てんじゃねークソ女、ピザでも食ってろとか何とか言って」  
 「だから意味分かんないってば」  
 手のつけようがない荒れっぷりに呆れつつ、しかしラミアの胸には不思議と暖かい感情が生まれつつあった。  
 チャコの趣味には前から気付いていたが、それは単なる少年好きという、嗜好や性癖の類だと思っていた。  
 まさかここまで本気でラハールのことを想っていたとは、予想外だった。  
 あるいはその感情は、共感なのかもしれない。叶わぬ夢を追い続ける、一人の女としての。  
 (……確かに、往生際が悪いかもね、お互い)  
 胸の内で自嘲の笑みを浮かべながら、ラミアは突っ伏して泣き続けるチャコのそばに屈みこみ、彼女の頭を撫でてやった。  
 「そうね、確かにあなたは馬鹿かもしれないわ、チャコ」  
 チャコは一度、大きく肩を震わせた。でもね、とラミアは微笑みながら続ける。  
 「ラハールちゃんが好きだっていうその感情まで、馬鹿なものだって言って抑えつける必要はないのよ」  
 チャコはほんの少し顔を上げて、ちらりとラミアを見た。  
 「そう?」  
 「ええ。少なくとも私はそう思うわ。だって、どうやったって心は変えられないもの。  
  ラハールちゃんが好きだっていうその気持ちだって、そうなりたくてなった訳じゃないでしょ?  
  だったら、仕方ないじゃない。叶わなくたって馬鹿馬鹿しくたって、好きなものは好きなんだから」  
 そう、気持ちは気持ちだ。そんなもの、自分で変えられる訳がない。  
 周囲から見て馬鹿馬鹿しかろうが結果が見えていようが、恋は恋で夢は夢だ。  
 だから、いいのだ。自分から嘲笑って、それを心の奥に沈めてしまう必要などどこにもない。  
 「だからほら、涙を拭いて起き上がりなさいって。ラハールちゃんが好きなら、今までどおり守ってあげればいいじゃない。  
  何も、恋人になったり相手に好いてもらったりってだけが、成功した恋じゃないでしょう」  
 「……うん」  
 ようやく、チャコは身を起こした。ほっとするラミアの前で、涙を拭いてぎこちなく微笑む。  
 「ごめん、みっともないとこ見せちゃった」  
 「いいわよ。まあ驚いたのは本当だけど。そんなに好き、ラハールちゃん?」  
 「うん」  
 はにかむような微笑を浮かべ、チャコはラハールの頭をそっと撫で始めた。  
 
 「この人のためなら命を捨ててもいいって、本気で思えるの。そのぐらい、好き」  
 どこか夢見心地のようにも見える彼女の横顔に、ラミアは苦笑して声をかける。  
 「ま、過保護も程々にしときなさいよ。ラハールちゃんだって男の子なんだから」  
 「分かってる。ありがとうね、ラミア」  
 「どういたしまして」  
 ちっとも悪魔らしくない会話の末に、二人は微笑みあった。  
 王座の間に珍しく温かい雰囲気が流れる中、ふとチャコが眉をひそめた。  
 「そういえば」  
 「ん、なに?」  
 「どうして戻ってきたの、あなた」  
 言われてラミアは、ぽんと手を打った。すっかり忘れていた。  
 「いや、ちょっと気になることがあってね」  
 「なぁに?」  
 まだ気が抜けているらしく、チャコはおっとりと首を傾げる。  
 こんな状態のチャコに報告してもいいものか、と一瞬迷ったが、ラミアは結局伝えることにした。  
 「あのね、一号ちゃん見に病院に行く前に、何となくこの部屋の外を見てきたんだけど」  
 「うん」  
 「王座の間の扉に張り付いて『ラハールきゅんハァハァ』とか言ってる女が何人かいてね、一体どうするべきなのかと」  
 「吊るせ」  
 一瞬でチャコの表情が武人のそれ切り替わった。  
 あれ、さっきの純情な女の子はどこ行ったんですかと問いたくなるぐらいの凄まじい変転ぶりである。  
 さすがのラミアもこれには頬が引きつり、思わず一歩身を引いてしまったほどだ。  
 「えっと……チャコ?」  
 「いや、吊るすぐらいでは物足りんな。バラバラに切り刻み、まとめて大砲に詰め込んで宇宙めがけて発射しろ。  
  私が許可する。さあやれ。今すぐやれ。今すぐ。今すぐ。今すぐにだ!」  
 怒鳴りつけるような勢いである。気圧されたラミアが、反射的に「了解!」と叫んで敬礼してしまったほどだ。  
 こりゃ逃げなきゃマズイな、と思い、ラミアは早口で転移魔法を唱えた。  
 とりあえず、扉の向こうの女たちは放っておいても大丈夫だろう。どうせ、性欲異常増加の名残でおかしくなっているだけだろうから。  
 そんなことを考えながらその場を去る直前、ラミアの耳にチャコの優しげな声が聞こえてきた。  
 「ラハール様、ご安心下さい。あなたのことはこれからもこのチャコがお守りいたしますから」  
 やっぱり否定しておけばよかったかな、とげんなりしつつ、ラミアは王座の間から立ち去った。  
 
 ラハールが目を覚ましたのは、ラミアが王座の間を去ってすぐのことだった。  
 欠伸をして目を擦るラハールに、チャコが小さく声をかけた。  
 「ラハール様、ご気分はいかがですか」  
 「ん? ああ、悪くないぞ」  
 大口開けてもう一つ欠伸をしたラハールは、ふと怪訝な顔をして周囲を見回した。  
 「どうかなさいましたか?」  
 「ん。いや、さっき誰かと話してなかったか、お前」  
 ラミアのことだろう。チャコは慌てて首を振った。  
 「いえ、そんなことは。ここにはずっと、ラハール様と私の二人きりでしたよ」  
 「そうか。気のせいだったか」  
 少し納得いかない様子で首を傾げたあと、ラハールは王座から飛び降りた。  
 太ももに残るラハールの温もりに名残惜しさを感じながら、チャコは慌てて立ち上がる。  
 「ラハール様、どちらへ」  
 「どこって、自分の部屋に決まってるだろうが」  
 言って、ラハールは王座の間に隣接して存在する、自分の寝室の扉を指差した。  
 「ああ、そうですか」  
 外に出ると言い出さなくてよかった、とチャコはほっとした。  
 騒ぎはほとんど治まっただろうが、完全に危険が去ったという訳ではないだろうから。  
 「警護は任せる。さっきの魔法剣士みたいのが入ってこないように見張っておけ。もちろん、お前も入ってくるなよ」  
 「はい、分かりました。あ、ラハール様」  
 ふと思い出したことがあって、チャコはラハールを呼び止めた。  
 「先ほどの私の失態に対する罰は……」  
 言いかけると、ラハールは何のことだと言わんばかりに一瞬きょとんとしたが、やがて思い出したらしく、困ったように目線をそらした。  
 
 「あー、罰か。そうだな、確かに罰は必要だな」  
 「はい」  
 「それなら、俺様の部屋の警護を命ずる」  
 「え、でもそれは先ほど既に」  
 チャコが困惑しながら言いかけると、ラハールは急に怒り出した。  
 「ええい、うるさい! お前は黙って俺様に従っていればいいんだ」  
 要するに、罰を与えると言っただけで実際には何も考えていなかったらしい。チャコは微笑んだ。  
 「はい、分かりました、ラハール様」  
 「うむ」  
 満足げに頷いたあと、ラハールはふと眉をひそめ、チャコの顔をしげしげと見つめてきた。  
 「どうなさいました、ラハール様」  
 「ん。いや」  
 ラハールは心底不思議そうに首を傾げ、じっとチャコの顔を覗き込んだ。  
 「何かあったか、チャコ。いつもと様子が違うぞ」  
 「そうですか?」  
 自分の頬に手を当てて少し考え、チャコは目を細めてラハールを見返した。  
 「特別なことは、何もありませんでしたよ」  
 そう、特別なことなど何もない。  
 自分の気持ちは、全く変わっていないのだ。  
 「ラハール様」  
 チャコは、ラハールの前に膝を突いた。  
 「私チャコは、ラハール様のためなら命も捧げる所存。これからも、全身全霊であなた様をお守りします」  
 急にそんなことを言われて面食らうラハールの顔を上目遣いに見上げながら、チャコは微笑んだ。  
 それは、彼女にとっては不変の誓いだった。  
 何が起ころうとも、誰に否定されようとも、魂が消えてしまっても決して変わることはない、神聖な想い。  
 これまでも、そしてこれからも、ずっと。  
 

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