エトナは、狂乱の淵にある城内を鼻歌交じりに歩いていた。  
 そこかしこから生臭い臭いが漂い、その中を嬌声が絶えることなく飛び交っている。  
 体の芯が熱くなっているのを自覚しながら、エトナはこの後のことを思い浮かべる。  
 一号はきっと自分の部屋にいるはずだ。横暴な主がいなくなって、ほっとしていることだろう。  
 「でも、すぐに帰ってくるんだな、これが」  
 エトナは口の中で笑いをかみ殺した。  
 安心しきっている一号の前に悠然と姿を現し、慌てる天使を思う存分辱めてやろう。  
 (そういや、あの子ってまだ処女だったっけ)  
 今更ながらふと確認し、エトナは驚いた。  
 何故自分は、今まで一号を犯さなかったのだろう。  
 清らかな天使の処女膜を穢れた玩具で破り、汚れを知らぬ体に鞭をいれ、鎖で拘束して自分の足を舐めさせる。  
 想像するだけでも興奮してしまう。だというのに、一号を犯してやろうと考えたことは今まで一度もなかった。  
 奴隷だの矮小な生き物だのと本人に言わせて喜んでいたのも、お約束とか躾の類である。プレイという次元のものではない。  
 そういうことができない訳ではないのだ。エトナさえその気になれば、いつでも一号の服を引き裂き、悲鳴を上げて泣き叫ぶ彼女を犯す  
ことができる。抵抗されたって、どうしようもないクズの上に生まれたての状態のような一号だ。エトナの興奮がさらに掻き立てられるだ  
けだろう。  
 だというのに、そういう行為をしようと想像したことさえなかった。虐待はしても陵辱はしない、という訳だ。  
 「別にそういうのが嫌いな訳じゃないんだけどなー。むしろ好きだし。何で今までヤっちゃわなかったんだろ。不思議だわー」  
 呟くエトナの脳裏に、不意に一号の顔が浮かんだ。だが、それはお仕置きに怯える顔や泣き顔ではなく、のほほんとした笑顔だった。  
 「気に入らないわね」  
 何故か、エトナの胸に苛立ちが生まれた。  
 「そういやあいつ、少しも嫌がらずにアタシの命令聞くのよねー。頼んでもいないのにお茶淹れたりお菓子作ったりするし。その上おい  
しいし。いや、それはいいんだけど」  
 しかも、そういうときの一号はとても嬉しそうな顔をしているのだった。  
 エトナの機嫌を取ろうとか、そういう意図ではない。純粋に、エトナのために何かするのが嬉しいらしいのだ。  
 「アタシのことあんまり怖がってないんじゃない、あの子?」  
 ますます気に入らない、とエトナは舌打ちした。  
 これは、正しい悪魔の姿ではないと思う。悪魔とその弟子……いや、奴隷の関係は、純粋な恐怖によって支配されているべきだ。  
 「ちょっと、締め付けが足りなかったかな」  
 エトナは軽く唇を舐めた。  
 「まあいいわ。これからはもっといじめて犯して、アタシを心底から恐れつつも体は離れたがらない、そういう関係を……」  
 あれこれと想像しながら曲がり角を曲がったとき、エトナは不意に足を止めた。  
 
 廊下の真ん中に、数人の悪魔が固まっていた。  
 「また誰か盛ってんのかしら。さすがにそろそろ飽きて……」  
 エトナは呟きかけて口を閉じた。小さな弱弱しい泣き声が聞こえてきたからだ。  
 「痛い、痛い……」  
 「きゃははは、聞いた皆、痛いってよ?」  
 同時に、他の人間のけたたましい笑い声も聞こえてくる。  
 どうもリンチの現場に出くわしたらしい。折角だからと、エトナは少し近づいてその様子を覗き込んだ。  
 数人の悪魔に、一人の少女悪魔が囲まれていた。皆、こちらには気付いていない様子である。  
 取り囲んでいるほうは、いかにも意地が悪そうな、言い換えれば悪魔らしい顔つきの女悪魔を中心とした一団だ。リーダーらしき女悪魔以外は、何と言うか頭の悪そうな男の悪魔ばかりである。  
 囲まれているのは、見るからに気弱そうな顔をした少女だった。ボロボロの服を着ていて、顔も薄汚れているところを見るに、日常的にいじめられているらしかった。ご丁寧に首輪までつけられている。その痛々しい姿に記憶の一部が刺激され、エトナは反射的に顔をしかめた。  
 (……ま、力のない悪魔がああなるのは当然のことよね。別に間違ったこっちゃないわ)  
 エトナが胸の中で呟いている間にも、リンチは続いていた。  
 「さーて、散歩に行きましょうかレトナちゃん? ワンちゃんみたいなその格好、皆に見てもらいましょうね」  
 少女の首輪に繋がる太い鎖をジャラジャラ鳴らしながら、リーダーらしい女悪魔が言った。  
 レトナという名前らしい少女は、怯えた目で女を見上げ、か細い声で言う。  
 「どうして……」  
 「なに?」  
 「どうして、こんなこと」  
 周囲の悪魔達が一斉に笑い声を上げた。  
 「ははははは、聞いた皆、どうしてだってよ」  
 「どうしてってアンタ、そりゃほらあれよ」  
 「まあとりあえず笑っときなさいよあはははは」  
 深い理由はないらしい。レトナは困惑した目で、リーダー格の女悪魔を見た。  
 「ヴィーナさん……」  
 ヴィーナという名らしい女悪魔は、怯えるレトナを見て、何故か薄らと頬を赤くした。少し気まずそうに咳払いをして、目をそらす。  
 「今更聞くこともないでしょ。アンタいじめるのなんていつものことじゃん」  
 そうだそうだ、と周囲もヴィーナの言葉に賛同する。レトナは俯き、かろうじて聞き取れるぐらいの小さな声で言った。  
 「……でも、今まではこんなこと……バケツの水かけたり、私の部屋にゾンビの首置いたりするだけだったのに……」  
 要するに、今日になって急にいじめがひどくなったらしい。確かに、嫌がらせから犬プレイとは凄まじい飛躍である。  
 それを聞いて、ヴィーナは鼻息も荒く叫び始めた。  
 「ど、どうでもいいでしょそんなことは! それともなに、アンタあたしに文句があるっての、ええ!?」  
 エトナの目から見れば取り乱しすぎて滑稽なぐらいだったが、それでもレトナには恐ろしかったらしく、彼女は怯えた様子で身を縮めてしまった。  
 それを見て、ヴィーナは満足げに鼻を鳴らしつつ、ますます顔を赤くした。よく耳を澄ますと微妙に息が荒くなっているのも分かる。  
 (これはひょっとして)  
 とエトナが勘ぐり始めたその時、不意にヴィーナの仲間が歩み出て、レトナの前で屈み込んだ。  
 その男の悪魔は、レトナの顎を掴んで顔を上げさせた。  
 「へぇ、意外に可愛い顔してんじゃん、お前」  
 感心したような声。それを聞いたヴィーナのこめかみに青筋が一つ立ったのを、エトナは見逃さなかった。  
 「なぁヴィーナ、こいつ処女なんだろ」  
 「マジかよ!」  
 周囲の悪魔達も色めき立つ。ヴィーナの顔が引きつった。  
 
 「てっきりヴィーナが犯しちまったもんかと」  
 「いーや、こいつの怯えた様子、間違いないね。生娘だよ」  
 何の抵抗もなく快楽を受け入れる悪魔にとって、処女というのは非常に貴重な存在なのだ。  
 男たちがレトナを見る目に卑しい色が混じり始めたのも無理らしからぬことである。  
 彼らはそれまでと違い、舐めるような視線でレトナを眺め始めた。  
 「ちょっと肉付きが薄いな」  
 「っつーか骨ばっかじゃねぇかこいつ」  
 「まあいいじゃねぇか穴があれば」  
 「はは、ちげぇねぇ」  
 「よし、前はお前らにやるからケツの穴は俺に寄越せ」  
 「変態野郎め。まあいいさ、その代わり処女は俺がもらうぜ」  
 「おい、ずりぃぞテメェ」  
 好き勝手に騒ぎ立てる男達の声を聞いて、レトナはますます怯え、目に涙まで浮かべ始めた。  
 一方のヴィーナは、しばし無言で体を震わせていたが、その内に我慢ができなくなったらしい。突然、  
 「黙りなさいあんた達!」  
 と叫び、男達を唖然とさせた。それから、一度咳払いして言った。  
 「何か勘違いしてない? その子の初めてのお相手は、このアタシよ」  
 「は!? 何だよそれ」  
 「横暴だぞ!」  
 突然の宣言に、男達からブーイングが上がったが、ヴィーナが一睨みすると皆黙った。  
 ヴィーナはレトナに歩み寄り、屈みこんで少女の顔を覗き込んだ。  
 「……という訳だから、覚悟しておいてね? 痛くしないからなんて言わないわよ。むしろできる限り痛くして、あなたの悲鳴をたっぷり聞かせてもらうつもりだから、そのつもりでね」  
 「っつーかよヴィーナ」  
 後ろから、男たちの一人が声をかけた。  
 「まさか手とかバイブとかでヤっちまうのか?」  
 「馬鹿なこと言わないでよ」  
 少し怒った口調で、ヴィーナが言った。  
 「そんな勿体無いことする訳ないでしょ」  
 「いや、だってお前女じゃん。チンコついてねぇじゃん」  
 「そうだぜヴィーナ。やっぱり俺が」  
 「どうでもいいから、ケツの穴は俺にくれよ、な?」  
 「おいテメェ、何一人占めしようとしてんだコラ」  
 「あ、そうか、いっそ数人がかりで一斉につっこめば」  
 「なぁ、ケツの穴……」  
 がやがやと騒ぎ始める男達の前で、ヴィーナは悠然と微笑んだ。  
 「ふふん、分かってないわねあんた達」  
 意味が分からない様子で、男達は首を傾げた。その彼らに講釈垂れるように、ヴィーナは人差し指を立ててみせる。  
 「ないものは生やせばいいのよ」  
 単刀直入な言葉に、男達はどよめいた。  
 「そんな馬鹿な」  
 「どっかのエロ同人じゃあるまいし。違う言語体系で喋らなきゃいけなくなるぞ」  
 「目を覚ませ、お前が言ってることはファンタジーだ」  
 「それがそうでもないのよね。ここは魔界、そういう魔法だってあるのよ」  
 自慢げに大きな胸を張るヴィーナ。男達が生唾を飲み込んだ。  
 「マニアックだ……この上もなくマニアックだ」  
 「っつーかいいのか、明らかにネタ被ってるぞ」  
 「だからさ、とりあえず俺にケツの穴をくれれば」  
 「さすがは淫売の名を欲しいままにするヴィーナだな」  
 「俺たちにはできねぇことを平然とやってのける」  
 「そこにシビれるアコガレるぅ!」  
 「分かったよ。俺も男だ。だがケツの穴は……」  
 一通りざわめきが収まったあとで、ヴィーナはまたレトナに向き直った。  
 
 「……ま、そういう訳だから。あ、アタシだって初めてじゃないんだから、気持ちよくはしてあげるわよ」  
 あからさまに顔を上気させながら、そんなことを言っている。  
 最初は単なるサドかと思ったが、どうやら違ったらしい、とエトナは心の中でため息を吐いた。  
 (……間違いなくレズだわこいつ)  
 要するに、好きな子をいじめてしまう心理らしい。  
 何だ馬鹿らしい、とエトナは呆れた。しかし、実際に被害を受けるレトナにとってはたまったものではないだろう。  
 見ると、彼女はこの後の自分の運命を想像したものか、顔を覆って泣き出していた。  
 「どうして、どうして……」  
 か細い、弱弱しい泣き声が聞こえてくる。どうして、と。  
 ヴィーナは一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに気を取り直した様子で喋りだした。  
 「仕方ないじゃん、アンタ弱いんだし。弱い奴が強い奴に従う。これ自然っつーか魔界の摂理でしょ」  
 否定する者はいなかった。エトナも心の中で肯定した。  
 「まー、大丈夫だって、確かに最初は痛いし苦しいと思うけどさ、アンタがアタシの、その……ド、ドレイになればさ、弱いままでもやっていけるって」  
 ヴィーナは夢中で喋っているし、周りの男達もニヤニヤ笑いながらそれを眺めている。  
 だから、傍観しているエトナに気付いたのは、その時不意に顔を上げたレトナしかいなかった。  
 しまった、と思ったときにはもう遅い。レトナは懇願するような視線でこちらを見ていた。  
 泣きはらした赤い瞳、恐怖に歪んだ表情、薄汚れた顔。  
 レトナの全てが、エトナに助けを求めていた。  
 どこかで見た光景だ、とエトナは思った。  
 いや、見た訳ではない。しかし、同じことだろう。  
 (弱い奴は、強い奴に従うのが当然のあり方、か)  
 その通りだと思う。しかし、  
 「ねぇちょっと、あんた達?」  
 気付けば、エトナは声をかけていた。  
 ヴィーナと男達が一斉に振り返る。  
 「な、何だお前」  
 「いつの間に」  
 「気配もさせずに近づくとは、余程の凄腕に違いない」  
 「ケツ」  
 「ちょっと、何よアンタ?」  
 気の強そうなつり目に敵愾心を浮かべ、ヴィーナがエトナに近寄ってきた。  
 しかし、そんなものに怯むエトナではない。逆に冷めた目で相手を見返してやった。  
 「何って、通りすがりだけど」  
 「通りすがりが何の用よ? ぶっちゃけ邪魔なんだけど」  
 ヴィーナが金色の瞳で睨みつけてくる。やたらと大きな胸を押さえつけるように腕を組んで。  
 (……こいつムカつく)  
 理由が一つ増えたな、と思いながら、エトナは笑った。  
 「用、ね。ホントは用なんかないんだけど」  
 「じゃあさっさとどっか行きなさいよ」  
 「いちいちうっさいなー。言われなくても行くっての。その前に、その子連れてくけどね」  
 エトナはそう言って、レトナを指差した。レトナの顔に驚きと喜びが広がり、ヴィーナの顔が露骨に引きつった。  
 「……そう。そういうこと。やっぱりそうなのね?」  
 ヴィーナの瞳に怒りの炎が燃え上がった。予想どおりの反応だ、とエトナはげんなりした。  
 
 「あー、あのさ、多分誤解してると思うんだけど」  
 「言い訳は無用よ!」  
 エトナの言葉を遮り、ヴィーナが怒声を張り上げる。  
 「ふふん、まさかこんなにも早くライバルが現れるとはね」  
 「いや、だからさ」  
 「でも残念、この子はもう既にこのアタシのものなのよ!」  
 ビシッとレトナを指差すヴィーナ。レトナが小さく首を振るのを視界の隅に収めながら、エトナはため息を吐いた。  
 「……何言っても無駄か」  
 「当然! いいあんた、どこの誰だか知らないけど、よく聞きなさいよ」  
 ヴィーナは頬を赤らめながら、身振り手振りを交えて語り始めた。  
 「アタシはね、この子が魔王城に来てからずっと目をつけてきたの。  
  粉かけてたっていうの、こういうの? とにかく、そういうことなのよ。  
  だから、この子の丸くてぱっちりしたお目目も、汚れてるけど実はぷにぷにのほっぺたも、  
  膨らみなんか一切ない胸も、ちっちゃくて可愛いお尻も、  
  もちろんまだ男を知らない……その、アソコも! 全部アタシの物なの。誰にも渡すもんですか!」  
 ヴィーナは真っ赤な顔で、拳まで固めて気合たっぷりに宣言した。が、  
 「いや、っつーか鼻血出てるってアンタ」  
 「ぐむ!? う、うるさいわね」  
 ヴィーナは鼻血を拭きつつ数歩下がると、エトナを指差して男たちに命令した。  
 「アンタたち、適当にやっちゃって! その後はどうしてくれちゃってもいいわ!」  
 それこそ適当すぎる指示である。が、男達には絶大な効果をもたらした。  
 「うっひょー、マジかよ!?」  
 「いいかお前ら、全員で山分けだぞ」  
 「しかし何でこうロリばっか」  
 「贅沢すんなよな」  
 「ケ」  
 好き勝手に叫びながら、男達が突っ込んでくる。  
 「……誰もアタシのこと知らないのかね」  
 一応軍団長なんだけどなー、と心の中でむくれつつ、エトナは迫り来る男達に向かって一歩踏み出した。  
 言動などから想像はついていたものの、男達の動きは直線的で、非常に単純だった。性欲のままに暴走している趣きすらある。   
 「くたばりな」  
 エトナは小さく呟き、一番先頭にいた男の腹部に掌打を喰らわせた。効果があったことを確かめるまでもなく、次の相手へ。  
 どうやって倒すか、などと考える必要もない。ほとんど機械的に、蹴りや拳を繰り出していく。  
 数秒後には、男達は全員気絶して床に倒れていた。  
 あまりの展開の速さに、口と目を全開にして呆然としているヴィーナを見て、エトナは肩をすくめた。  
 「……ちょっとお粗末すぎない? どうせ従えるならもうちょっと強い奴にしなって」  
 「くっ……なかなかやるわね! いいわ、次はアタシが」  
 「悪いけど、あんまり暇ないのよ」  
 ヴィーナの言葉を遮って、エトナは駆けた。相手に反応する隙も与えず、腹部に拳打をぶち込む。  
 ヴィーナは一瞬息を詰まらせ、それから白目を剥いてゆっくりと床に滑り落ちた。  
 「……思ってたより力入ってたかも」  
 まあ多分あの馬鹿でかい胸のせいだろうな、と舌打ちして、エトナは周囲を見回した。  
 死屍累々というほど数は多くないが、数人の悪魔が廊下の真ん中でのびている光景はなかなか見物である。  
 
 「あ、あの」  
 不意に後ろから声をかけられ、エトナは振り返った。  
 「……ああ、そういえばいたんだっけ、アンタ」  
 小柄な少女悪魔……レトナが、弱気な赤い瞳でこちらを見つめていた。  
 無関心を装ったエトナの言葉に、レトナは一瞬怯んだように見えたが、すぐに大きく深呼吸して、頭を下げた。  
 「ありが」  
 「ねぇアンタ」  
 お礼を言いかけたレトナの言葉を遮って、エトナが声をかける。  
 「情けなくないの?」  
 「え……」  
 レトナが目を見開いた。そんなことを言われるとは予想もしていなかったらしい。エトナは尚も問う。  
 「情けなくないのかって聞いたの。こんな奴らにやられっぱなしでさ」  
 レトナは周囲に倒れている悪魔達を見回し、うつむいた。  
 「でも」  
 「魔界じゃ生きていけないよ、そんなんじゃ。ま、アンタの生き死になんかどうだっていいけど」  
 淡々とした調子で、エトナは言った。レトナは何も言い返さず、ただうつむいてばかりいる。  
 そのおどおどした態度が、エトナの心に激しい苛立ちを呼び起こした。  
 「あのね」  
 エトナはさらに口を開いた。  
 「悪魔ってのはね、強くなくちゃいけないのよ。分かる? 強い奴が弱い奴を支配する。当たり前のことでしょ?  
  だから、悪魔は強くなくちゃいけないの。それがあるべき姿なの。そこいくと、アンタはどう?」  
 まるで自分に言い聞かせているような口調だと気付き、エトナは舌打ちを漏らした。  
 目の前の、薄汚れた弱弱しい少女を見ていると、心の奥底からどうしようもない苛立ちが湧き上がってくるのを抑えられないのだ。  
 その上、彼女は赤い髪と赤い瞳を持っていた。背格好だって小柄な子供のそれである。  
 似すぎている、と思う。だが、何に似すぎているのかは考えたくもなかった。  
 エトナは踵を返して去りかけ、一度だけ立ち止まり、後ろを振り返った。  
 倒れ伏す悪魔達の真ん中で、小さな少女が一人、体を震わせながらうつむいて立ち尽くしている。  
 「……悪魔は、強くなくちゃいけないのよ」  
 誰にも負けないように、何も奪われないように。  
 「弱くなんかない。あたしは弱くない。誰にも邪魔されず、自由と快楽を追い求める、誰よりも強い、悪魔の中の悪魔。それがアタシ」  
 一人呟き、エトナは自分の部屋を目指して速足で歩き始めた。  
 早く、部屋に残っている一号を嬲ってやらなければならない。それこそ、悪魔のあるべき姿なのだから。  
 (そうよ、アタシは奪う側、虐げる側。誰にも奪われない、誰にも虐げられない……!)  
 何故か額に滲む汗を無視して、エトナはさらに足を速めた。  
 一瞬だけ心に浮かんだ、まるで何かから逃げているようだという疑念を、振り払おうとするかのように。  
 
 
 エトナが去り、一人部屋に残された一号は、部屋の隅に座り込んだまま一心に祈っていた。  
 固く瞳を閉じ、ただエトナの姿を思い浮かべながら、ひたすら無心に祈りを捧げる。  
 「神よ、どうかエトナ様をご無事で返してくださいますよう……」  
 祈りの言葉を呟きながら、ふと、自分がごく自然に、当然のように主の無事を願っていることに気付いて、一号は驚いた。  
 自分はひどい扱いを受けているはずだ、と思う。  
 どうしようもないクズとして作られ、毎日そのことを嘲笑われ、弟子とは名ばかりでロクに鍛えてももらえず、  
 お仕置きと称しては死ぬほどひどい目に遭わされる。傷の治療もおざなりだし、ボロボロになった服すら変えてもらえないみすぼらしい格好で、  
 主の機嫌がいつ変わるか、自分がいつまた虐待されるのかと怯えるばかりの毎日。  
 それでも、エトナを恐れる気持ちこそあれ、恨みの感情が自分の心の片隅にもないことに、一号は今、改めて気付かされたのだった。  
 どうしてなのかは、自分にも分からない。それが天使という生き物の愚かなまでの優しさなのか、それとも、単にエトナに逆らえないように、心まで作られてでもいるのか。  
 そんなことを考えたとき、一号の脳裏をエトナの横顔が過ぎった。  
 高慢で気まぐれで厚顔無恥で嗜虐的な、悪魔の少女の横顔。  
 だが一号は、その奥に何か違うものがあるような気がしてならなかった。  
 ひょっとしたら、それこそ自分がエトナの身を案じてばかりいる原因なのではないか、と考えたそのとき、  
 「ただいまー」  
 気楽な声が聞こえてきて、一号ははっと顔を上げた。部屋の入り口の方を見ると、そこにはいつもと変わらぬ姿のエトナが立っている。  
 「エトナ様!」  
 一号はエトナに駆け寄ろうとした。エトナは、いつものように気楽に笑っているように見える。  
 だが、その瞳の奥に危険な何かを見た気がして、一号は反射的に立ち止まってしまった。エトナはそれを見て首を傾げ、  
 「どったの?」  
 「あ、いえ」  
 一号は慌てて首を振り、恐る恐る主の顔を盗み見た。いつもと変わらぬ気楽な笑顔である。  
 (……気のせい?)  
 内心首を傾げながらも、一号は気を取り直した。  
 「良かった、ご無事だったのですね。城内は今まさに混沌のるつぼ、エトナ様の身に何かあったらと考えると私は……」  
 「一号」  
 一言。エトナの口から出たその言葉は、無機質で平坦ながらどこか空恐ろしい響きを含んでいた。  
 一号は、一瞬背筋に走った悪寒を無理に抑えながら、  
 「はい、何ですかエトナさ……」  
 「服、脱ぎな」  
 「え?」  
 思わず聞き返してしまってから、一号はエトナの顔を凝視した。  
 エトナは笑っている。だが、冗談を言っているときの目でないことはすぐ分かった。  
 
 それでも、一号は咄嗟に反応することができなかった。エトナが「冗談よ、冗談」と言ってくれることを期待して、恐る恐る口を開く。  
 「あの……」  
 「聞こえなかった? おっかしーなー、耳まで役立たずに作った覚えはないんだけど?」  
 くすくす笑うエトナ。一号もつられて、ぎこちなく笑おうとした瞬間、  
 「脱げっつってんのよ!」  
 突然叫んだエトナが、一号の腹部を容赦なく蹴り飛ばした。  
 「……ッ!」  
 息を詰まらせ、その場に膝をつく一号。  
 激しく咳き込む一号の髪を掴み、エトナは無理矢理彼女の顔を自分に向かせた。その顔に、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。  
 「ねえ一号ちゃん? まさか、忠実な下僕であるあんたが、私にもう一度同じことを言わせるなんてことはないわよねぇ?」  
 一号は困惑して、感情の読めない主の瞳を見つめる。しかし、そこには遠慮も容赦も浮かんではいなかった。  
 「……ですが」  
 「口答えするな」  
 再び、エトナの足が一号を蹴り飛ばす。  
 手加減というものが一切感じられないその一撃で、一号は無様に床を転がり、壁に打ち付けられた。  
 一号は咳き込みながら、エトナを見た。エトナは一号に向かってゆっくりと歩み寄りながら、楽しそうに言った。  
 「あれー? おっかしーなー、さっき一号ちゃん言ってなかったっけ? あたしのためなら何でもするってさー」  
 その言葉に、一号の体がびくりと震えた。エトナはその様子をにこやかに見下ろしながら、  
 「それとも、あれ嘘だったのかなー? あたしショックだわ、可愛い天使の一号ちゃんにだまされるなんて。  
  そういうのってどうなの、一号ちゃん。悪魔よりも性質悪いんじゃないの、ねえ清らかな天使の一号ちゃん?」  
 嫌味ったらしい口調で、エトナは言葉を重ねた。一号は、明らかに自分をいたぶるのを楽しんでいる様子のエトナの顔を見ながら、  
主が望んでいることを必死に考えた。結局答えは出なかったが、少なくとも自分に拒否権がないことだけは明白だった。  
 仕方なく、一号は頷いた。口から出る声は、先の見えない恐怖に震えていた。  
 「分かりました」  
 エトナの唇がにやりと吊上がる。  
 「そう? ふふふ、いい子ねー一号ちゃん。それでこそ天使の一号ちゃんだわ。大丈夫だって、痛いのは最初だけだから」  
 心底楽しそうにケタケタと笑いながら、エトナは反対側の壁際のタンスに近寄った。  
 そのまま引き出しを開けてごそごそやりだした師の背中に、一号は恐る恐る問いかける。  
 「あの、エトナ様」  
 「なーに?」  
 「服を脱ぐのはよろしいのですが、一体何を……」  
 エトナが無茶な命令をするのはいつものことだが、さすがに服を脱げと言われたのは初めてである。  
 「やだなーもー、何言ってんの殿下じゃあるまいし。裸ですることったら決まってんじゃない」  
 気楽に言いながら振り返ったエトナの右手に握られている物を見て、一号は「ひっ」と息を詰まらせた。  
 男性器を模った玩具。それはいわゆるバイブレーターというやつだった。エトナの小さな右手に似合わぬ、巨大なサイズである。  
 「いやー、人間界にはいろいろ面白い玩具があるわよねー」  
 「エ、エトナ様、それは一体……」  
 「あれ、一号ちゃんってばこういうの知らないの?」  
 エトナはにやにやしながら首を傾げる。その手がバイブの表面を艶かしく撫でているのを見て、一号は息を飲む。  
 「い、いえ、そういう訳では……」  
 一号とてエトナの弟子であり、天使ながらも悪魔の中に身を置いて生活している身である。  
 一応貞操は守っているものの、ラハールのように性的な知識を一切持ち合わせていないという訳ではなかった。  
 だから、今エトナの手に握られている玩具が、どういった用途で使用される物品かということも、もちろん知っている、が。  
 「あの、まさか、それを……」  
 「そ、一号ちゃんのアソコにレッツご挿入ってな訳よ」  
 楽しげに言うエトナ。その瞳が妖しい光を放っているのを見て、一号はたまらずに声を上げた。  
 「む、無理です!」  
 「何が?」  
 「そ、そんな大きいの、入るわけ……」  
 エトナの持つバイブは、彼女の手には納まりきらないほどの巨大なサイズだった。  
 しかも表面にはごつごつとした無数の突起がある。  
 まだ一度も異物を受け入れていない一号の膣に収まりきらないであろうことは明らかだった。  
 
 しかし、エトナは怯える一号の顔になめるような視線を向け、ますます笑みを深くした。  
 「何言ってんの、一号ちゃん」  
 「え……」  
 「入るわけない、じゃないの」  
 エトナの目が細くなった。  
 「入るように、改造するの。分かる?」  
 「か、かい……?」  
 意味がよく飲み込めずに困惑する一号に近づきながら、エトナはケラケラと意地悪く嘲笑った。  
 「あんたってホントバカよねぇ。そういうとこ可愛いって思うこともあるけど、正直今はうざったいわ」  
 「も、申し訳ありま……!?」  
 一号が謝罪と共に慌てて頭を下げかけたその瞬間、エトナは素早く弟子の服に手をかけ、遠慮も躊躇もなしにその布地を引き裂いた。  
 薄汚れた布が細切れになって宙を舞い、その下に隠されていた一号の裸身が露わになる。  
 一号は反射的に両手で胸を覆い隠し、弱弱しい悲鳴を上げた。  
 そんな一号を見下ろし、エトナはおかしそうに笑う。  
 「あはははは、そんなに恥ずかしがることないじゃない、女同士なんだしさー」  
 「い、いえ、あの、でも」  
 「大体、あんたアタシの所有物でしょ? 何度も言わせないでほしいんだけど?」  
 「それは……だけど……」  
 一号は口ごもった。見上げた主の瞳に、小動物を弄ぶ子供のような光が宿る。  
 幼い顔に似合わぬ妖艶な笑みを浮かべ、エトナは一号の顔の高さに合わせるように床に膝をついた。  
 「ね、一号ちゃん」  
 「は、はい……!?」  
 一号が返事をした瞬間、エトナは弟子の後頭部に右手を伸ばして頭を押さえつけた。  
 咄嗟のことに反応できない一号に、エトナは素早く顔を近づける。  
 そして、今だ誰も触れたことのない、無垢な子供の瑞々しさを保つ見習い天使の唇を、己の唇で覆い隠した。  
 目を見開いた一号が、塞がれた口で何かを言いかけた途端、その咥内にエトナの舌が素早く侵入した。  
 エトナの舌が一号の舌に絡みつき、蹂躙するように咥内を蠢動する。  
 生まれて初めて味わう強烈な刺激。一号の背筋に電撃が走った。その感覚の正体が分からず、一号は怯えて目を閉じた。  
 しかしエトナは容赦なく一号の咥内を舐めつくす。舌と舌を絡ませ、涎を舐め取り、また自分の体液を一号の咥内に送り込む。  
 一号はある種の快楽を伴う息苦しさを覚えた。頭に熱が上ってきて、意識が遠ざかる。薄く開いた視界が、滲む涙でぼやけた。  
 そこまで来て、エトナはようやく一号の体を解放した。しかし、不快感か快感かの判断すらつかぬ強烈な刺激のためか、  
 あるいは何か魔術的なものを施されでもしたのか、一号の体からは完全に力が抜けていた。  
 生気を失った体がゆっくりと後ろに傾ぐ。一号は、背後にあったベッドにもたれかかる形になった。  
 全身が痺れているようで指一本満足に動かせず、荒い呼吸が零れる口からはうまく言葉が出ない。  
 そうしている内に、主の赤い髪がぼやけた視界に入ってきた。続いて、妖しく光る相貌と、犬歯を覗かせる口元が。  
 エトナは唇の周りの唾を手の平で拭い取り、そのまま一号の胸に手を伸ばしてきた。  
 むき出しになった柔らかな膨らみに、エトナの手がそっと触れた。一号の唇の隙間から、熱い吐息がこぼれる。  
 弟子の反応に満足げに微笑みながら、エトナは一号とベッドの隙間に潜り込み、興奮の熱を帯びた見習い天使の体を、後ろからそっと抱きしめた。  
 
 「エ、エトナ様ぁ……」  
 「黙ってなさいって。すぐにもっと気持ちよくしてあげる」  
 耳元で息を吹きかけるように、エトナは囁く。全身にかすかな震えが走り、一号は自分の体が驚くほど敏感になっているのを知った。  
 しかし、冷静に考えている暇はなかった。一号の体を抱きしめていたエトナの両手が、汚れを知らぬ体をゆっくりと這い回り始めたのだ。  
 エトナの指先が腰や胸に触れるたびに、一号の背筋を快楽の波が駆け上がった。  
 一号はたまらず声を上げた。しかし、それが苦痛故の悲鳴か、それとも快楽故の嬌声かは本人にも分からなかった。  
 そんな一号の煩悶などお構いなしに、エトナは弟子の乳房を手で包み込んだ。満足げな表情で柔らかな膨らみを揉み、ふと眉をひそめる。  
 「一号ちゃん……なんかさぁ、おっぱいでっかくなってない?」  
 ストレートすぎる表現。同時にその部分を弄くられながら言われたものだから、一号は羞恥のあまり声を出すことすらできない。  
 「どうなの、ねぇ?」  
 「そ、そんな、こと……」  
 「ない訳ないでしょー。これでもあたしあんたの創造主様なんだからさー。作った弟子の体のサイズぐらい把握してるっつーの」  
 からかうように言いながら、エトナは指先で一号の乳首をつまんだ。混濁した意識の一点に、また強い刺激が走る。  
 「あれー、どうしたのかなー一号ちゃん。ここのところずいぶん堅くなっちゃってるけど?」  
 止めてください、と言ったつもりだったが、実際に一号の口から出たのは熱っぽい吐息と小さな喘ぎ声だけだった。  
 エトナが後ろから首を伸ばしてきて、一号の顎の辺りに舌を這わせた。  
 半開きになった口から垂れ流しになっていた涎を、ねっとりとした舌使いで舐め取ったのだ。  
 「ふふ、おいし……」  
 妖艶な響きを持った声が、小さく囁きかける。一号は、暴力的に襲い掛かる快楽の波に何とか抗おうとした。  
 しかし、そんな彼女の抵抗をあざ笑うかのように、後ろから伸びてきたエトナの右手が、一号の股の間にするりと滑り込んだ。  
 一号は小さな悲鳴を上げた。両足を閉じてエトナの右手を阻もうとしたが、  
 「ほらほら、抵抗しないの」  
 一号の首筋に舌を這わせ、同時に左手で乳房を愛撫しながら、たしなめるようにエトナが言った。  
 一瞬、一号の体から力が抜けた。その隙を逃さず、エトナの右手が素早く動く。  
 「捕まえた」  
 エトナが悪戯っぽく囁くと同時、一号の秘部に何かが触れた。確認せずとも分かる。エトナの指先だ。それは、ぞっとするほど冷たかった。  
 (……違う)  
 一号は思い直した。エトナの指先が冷たいのではなく、自分の体が熱くなりすぎているのだ、と。  
 そして同時に自覚する。体の芯が激しく疼いて、理性では抑えきれないほど、体が何かを求めているということに。  
 「エトナ様……」  
 自分でも分かるぐらいに切なげでか細い声が、激しい吐息に混じって一号の口内をかすかに震わせた。背後のエトナが、かすかに笑う気配。  
 「やっと正直になったわね、一号ちゃん……大丈夫、全部あたしに任せてくれれば、魔界だけにしかない天国を見せてあげる」  
 エトナの声は、つい安心してしまうような優しい響きすら持っていた。その裏にある魔性に気付かない一号ではない。  
 しかし、抵抗する気が全く起きてこない。  
 それどころか、エトナの成すがまま、思う存分体を弄られたいという欲望が、一号の全身を支配しているようですらあった。  
 
 「いい子ね一号ちゃん。とっても可愛いわ」  
 含み笑いのようなエトナの声と共に、師の指先が一号の膣内に侵入してきた。  
 エトナは淫靡な笑みを浮かべながら、一度自分の指を引き抜き、見せ付けるように一号の鼻先に持ってきた。  
 「ほら見て一号ちゃん。凄くよく濡れてる」  
 エトナが中指と人差し指を動かしてみせると、二本の指の間に小さな橋が架かった。ぬらりとした光を放つ、愛液の橋。  
 「ね、一号ちゃん。これなぁに? あたしに教えて、一号ちゃん」  
 「そ、それは……」  
 「うん」  
 「わたしの、わたしの……」  
 口ごもる一号を楽しそうに眺めながら、エトナは愛液で濡れた指先を、自分の口に持っていった。  
 そのままそれを唇で覆い、一号に見せ付けるように口の中で蠢かしてみせる。  
 「とってもおいしいわ、一号ちゃんの……ほら一号ちゃん、お口開けて」  
 一号は一瞬戸惑ったが、結局抵抗できずに、小さく口を開いた。するとそこに、エトナが優しく指を差し入れてきた。  
 「いい子よ。ほら、舌で舐めて、隅々まで味わってね……」  
 「ん……」  
 エトナの指示に従うように、一号はこっくりと頷き、エトナの指に舌を絡ませた。  
 実際どんな味なのか判断できるほどの冷静さは、もはや意識のどこにも残っていない。  
 しかし、自分の愛液とエトナの唾液が混じりあった液体を舐め取っていると思うと、それだけで否応なしに興奮は高まった。  
 一号は夢中でエトナの指先にしゃぶりついた。それによって生まれる湿っぽい音が、さらなる興奮を掻き立てる。  
 「……可愛いわ一号ちゃん。生まれたての赤ちゃんみたい」  
 それこそ赤子に問いかけるように言いながら、エトナは不意に指を引き抜いた。  
 一号の唇からエトナの指先まで、ぬらぬらした液体の橋が伸びていく。  
 よほど一号が名残惜しい顔をしていたらしい、エトナは自分の指を舌先で舐めながら、おかしそうに笑った。  
 「そんな顔しないの。これからもっといいことしてあげるからね」  
 囁きかけながら、エトナは一号に顔を近づけた。一号も拒むことなくエトナを受け入れる。  
 二人の唇が、互いを求め合うように重なった。エトナがそのまま突き出してきた舌に、一号は自らの舌を絡みつかせた。  
 互いの舌裏を這いうねり、咥内を蹂躙する。そんなことを続けている内に、一号は自分の中に何か異物が侵入してきた感覚を覚えた。  
 「ん……!」  
 目を開けると、それこそ互いの息を吸い合えるほどの至近距離に、妖しい光を放つエトナの瞳があった。  
 その輝きが、「大丈夫、心配しないで全部あたしに任せて」と一号に語りかけてきていた。  
 麻酔のようなそのメッセージに従い、一号はゆっくりと瞼を閉じた。  
 体の一切の力を抜き、ただ自分の咥内と膣内が、他人の舌と指に犯されていくのを感じとる。  
 それは、理性という一本の柱が、ゆっくりと侵され、成すすべもなく溶かされてゆく様だった。  
 一号という天使を構成している理性と本能、二つの部分が溶け合い、混ざり合い、快楽という名の大海の一滴になってしまうような感覚。  
 ある一種の幸福ですらあるそれに、一号は酔いしれ、完全に意識を手放しかけた。  
 しかし、一号の全身が快楽の海に沈み込む寸前、それを引っ張り上げる何かがあった。  
 それは一号の胸の奥にある、主の身を案じていたあの感情だった。  
 また、一号の体と触れ合うエトナの体から、少しずつ流れ込んでくる何かでもあった。  
 それら名状しがたい何かが、快楽の波に対抗し、押し戻そうとしている。  
 理性と本能のせめぎあいではない。感情と快楽の、あるいは想いと本能とのぶつかり合いだった。  
 二つの大きな流れに翻弄される一号の意識は、いつしか部屋を、城を、魔界を離れ、どこか遠いところへ飛ばされていた。  
 
 
 ふと気付けば全てが消え去り、一号は荒れ狂う嵐の真ん中で、一人立ち尽くしていた。  
 「ここは?」  
 戸惑いながら、しかし一号は違和感や恐怖、あるいは焦燥を感じていなかった。  
 真夜中に見る夢のように、この状況を当然のものとして受け入れている。  
 ふと、誰かの声を聞いたような気がして、一号は吹き荒れる嵐の向こうに目を凝らした。  
 確かに聞こえる。吹き荒れる雨と激しい風の向こうで、誰かが泣いている。  
 そう、誰かの泣き叫ぶ声が聞こえるのだ。  
 切なげで苦しげで、胸を痛ませる泣き声。  
 その声を聞くだけで、涙が止まらなくなった。どこかで、聞いたことのある声だと思った。  
 暴力的な嵐の中、木の葉のように頼りない体で、一号は一歩踏み出した。  
 雨は弾丸のように体を削り、風は小さな意思すら吹き飛ばそうとするかのように、より一層激しく吹き荒れる。  
 一号は歯を食いしばり、ひたすら声のする方向へ向かって足を動かした。  
 何故か、その小さなか細い声を聞いているだけで、体の奥底から不思議な力が湧いてくるような気がしていた。  
 「誰、あなたは誰?」  
 問いかけようと口を開く度に、雨粒が唇を削り、風は声を封じようとより一層吹き荒れる。  
 それでも、一号は口を開いた。全てを拒み、吹き飛ばそうとする嵐に負けじと、あらんばかりの声を張り上げた。  
 「あなたは誰!? 何故そんなに悲しそうに、寂しそうに泣いているの!?」  
 声が嵐を貫いた。その一瞬、一号は確かに風雨のカーテンの向こうを垣間見た。  
 少女がいた。嵐の真ん中で、蹲って顔を覆っている。  
 涙に濡れた瞳、傷つき汚れた両手、そして、赤い髪。  
 赤い髪の、少女。  
 「エトッ……!」  
 風雨の向こうに少女の姿が掻き消える。一号は必死に誰かの名前を叫んだ。  
 しかし、その声は届かない。聞こえるのは少女の泣き声だけ。  
 一号の存在になど気付きもしないように、少女はただ泣き続けている。  
 あの小さな少女を抱きしめてやりたかった。震える体を優しく包み込み、怖がることなどないんだよ、と言ってやりたかった。  
 しかし、吹き荒れる嵐がそれを許さない。どんなに踏ん張ろうとしても、一号の体は徐々に風に押し戻されていく。  
 ついに一号は風に吹き飛ばされ、少女の泣き声もまた、嵐の向こうに消え去ってしまったのだった。  
 
 再び気付いたとき、一号はまた、先ほどまでと全く同じ体勢でエトナに抱かれていた。  
 嵐は去り、あるのはただ自分の口内を舐り、膣に指を差し入れているエトナだけだ。  
 しかし、エトナがどんなに一号の体を弄んでも、先ほどまでの熱に浮かされたような興奮はもうやってこなかった。  
 代わりに、先ほどまで燃えるように熱かった体が、今では雨に打たれたように冷たい。そして心は静かだった。  
 一号はエトナの唇から、自らの唇を離した。  
 「一号ちゃん?」  
 目の前のエトナが、怪訝な顔をしてこちらを見ていた。一号の膣を弄っていた指先も引き抜かれている。  
 「エトナ様……」  
 一号は息も絶え絶えに呟いた。ひどく、汗を掻いている。しかしどちらも、エトナの激しい行為のせいではなかった。  
 何故か、視界が滲んだ。後から後から涙が溢れ出して、堪えようとしても勝手に頬を滑り落ちていった。  
 「ちょ、どうしたのよ一号ちゃん。大丈夫、何も怖がることなんてないって」  
 一号の突然の変わりように、さすがのエトナも少し動揺しているようであった。  
 一号は少し体を前にずらし、背後のエトナに向き直った。そして、師の相貌を真っ直ぐに見つめながら、頭を下げる。  
 「エトナ様、どうかこのようなことはお止めください」  
 「……どういう意味?」  
 エトナの顔が不快に染まった。一号は自分を睨むエトナの視線を真っ向から受け止めながら、首を横に振った。  
 「わたしにも分かりません。ですが、このようなことをしても、エトナ様のお心は……!」  
 そこまで言ったところで、一号はエトナに頬を張り飛ばされた。  
 「エト……」  
 口を開きかけた一号の体を、エトナが蹴り飛ばす。手加減など一切ない、全力の一撃。  
 「ホンットに……!」  
 床を転がって壁に打ち付けられた一号の耳に、エトナの苛立った声が聞こえてきた。  
 「ホンットに面倒くさいねアンタは! アンタはアタシの所有物なんだから口答えするんじゃないって、何べん言ったら分かるの!?」  
 苛立ちどころか完全に怒気を孕んだ声で叫びながら、エトナはヒステリックに一号を蹴りつける。何度も、何度も、何度も、何度も。  
 その度に、一号の体に鈍い痛みが走った。しかし、同時に、何か言いようのない感情が心の奥で膨れ上がるのが、一号には分かった。  
 一号の体を蹴りつけていたエトナの動きが、不意に止まった。全身が痛みに悲鳴を上げるのを聞きながら、一号はエトナを見上げた。  
 心臓も肺も容赦なく蹴られたせいで、もはや虫の息と言ってもいい。しかし、エトナの呼吸もまた荒い。  
 少なくとも一号の目には、今のエトナが完全に余裕を失っているように見えた。  
 エトナは一つ大きく息を吐いたあと、ようやく落ち着きを取り戻したように、微笑んでみせた。  
 
 「どう、これで分かったでしょ。素直にアタシに従ってれば、こんな風に痛い目に遭わずに済むのよ」  
 その声は、内容とは裏腹にかすかに震えていた。よく見れば、微笑むエトナの瞳には、焦りのようなものが見える。  
 いや、それは恐怖だった。息も絶え絶えの一号を見下ろすエトナの瞳の奥に、隠しきれない恐怖が浮かんでいるのだ。  
 何故だろう、と一号は考える。痛みに朦朧とする頭では、うまく考えが回らない。  
 ただ、このままではいけないという想いだけが、胸の奥からどんどん溢れ出してくるのだった。  
 一号は全身に残った力をかき集めた。震える手で体を支え、エトナの前に両膝を突く。  
 それを見たエトナは、一瞬満足げな笑みを浮かべかけた。  
 しかし、土下座のような体勢を作った一号が、それでも真っ直ぐにエトナを見上げたとき、彼女の顔から完全に笑みが消え去った。  
 「エトナ様、どうかお止めください」  
 口を開く度に意識が吹き飛びそうになる。それでも一号は声を絞り出した。血の代わりに言葉を吐き出すように、ありったけの力を込めて。  
 「このようなことをしても、何の意味もありません」  
 エトナの表情が歪み始めた。  
 一号にとっては、初めて見る表情だ。  
 ひたすら陽気で嗜虐的で、ただ自らの快楽だけを追い求める女の、心の奥に潜んでいるもの。  
 嵐の向こう側、何もかもを拒絶し、悲しげに泣き叫んでいた少女。  
 その瞬間、一号は、自分がどうしてもエトナを恨めなかった理由が分かった気がした。  
 「大丈夫」  
 自然に声が出た。霞む視界の中で、エトナが目を見開く。  
 「大丈夫ですよ、エトナ様。怖がらなくても、大丈夫です」  
 何を言っているのか、自分でもよく分からない。ただ湧き上がる感情のままに、言葉を絞り出す。  
 「私は、味方です」  
 エトナが悲鳴を上げた。  
 「私は、エトナ様の味方です。どこにいても、何をされても、いつもエトナ様のおそばで、あなたを」  
 そこまでだった。訳の分からないことを叫んだエトナが、必死に喋り続けていた一号の体を蹴り飛ばした。  
 視界が一瞬闇に沈み、忘れかけていた痛みが全身を苛む。それでも口を開こうとした一号を、さらなる激痛が襲った。  
 「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ……!」  
 エトナの声が聞こえてくる。憎悪と恐怖に塗り固められた叫び。だが、一号には泣き声にしか聞こえなかった。  
 (エトナ様……)  
 口を開いても声が出ない。怯えるエトナに、言葉を届けることができない。  
 悲しかった。どうしようもない悲しみで、目頭が熱くなった。  
 血と涙が混じり合って、自分の頬を汚していく。ただただ無力感に包まれたまま、一号の意識は闇に沈んでいった。  
 
 
 一号が意識を失ったことを確認しても、エトナは弟子の体を蹴りつけるのを止めなかった。  
 止めれば、一号が体を起こし、またあの異様なまでに澄んだ瞳で自分を見つめてくるのではないかと、  
 あの底知れぬ優しさを内包した声で自分に語りかけてくるのではないかと、恐怖していた。  
 何かを恐れ、怯える心の命ずるまま、ただひたすらに力を失った一号の体を蹴り続ける。  
 だが、その内体力の限界が来た。エトナは膝に両手を突き、荒い呼吸を吐き出した。  
 当然だが、一号はぴくりとも動かない。意識を失い、うつ伏せになったままだった。  
 死んでしまったのか、とエトナは疑い、また自分の心が恐怖に震えるのを知った。  
 「ちくしょう……!」  
 全身の至る所から冷たい嫌な汗が噴出し、凶行に熱くなった体を芯まで凍えさせた。  
 後頭部の辺りから、じわりじわりと鈍痛が襲ってくる。エトナは頭を抱えた。  
 良くない、と思う。これはあれの兆候だ。あの声たちが甦る兆候だ。  
 止めろ、止めろと頭の中で念じる。しかし鈍痛はさらにひどくなり、ついにはあの声たちが頭の中で響き渡り始めた。  
 けたたましい笑い声を上げる女の声。無数の嘲笑に取り囲まれ、どこにも逃げることが出来ない。  
 吐き気と眩暈が同時に襲い掛かる。それに頭痛が重なり、エトナは気持悪さをこらえきれずにその場にへたり込んだ。  
 「止めろ、止めろ、止めろ、止めろ」  
 呟く。何度も、何度も。しかし嘲笑は止まないばかりか、さらに大きくなってエトナを責め苛んだ。  
 全身を這いずる悪寒に、エトナは歯を食いしばって耐えた。そして、ある人物の顔を必死に思い浮かべた。  
 先代魔王、クリチェフスコイ。悪魔に似合わぬ優しさと寛容さを併せ持った、魔王の中の魔王。  
 (大丈夫)  
 包み込むような落ち着いた声が、嘲笑以上の大きさで頭の中に響き渡る。  
 (大丈夫ですよ。私は、あなたの味方です)  
 その声を繰り返し繰り返し、何度も思い出す内に、エトナの心は次第に落ち着いてきた。  
 (私はあなたの味方です。どこにいても、何をされても)  
 吐き気と眩暈と鈍痛が消え去り、悪寒も徐々に引いていく。代わりに、胸が暖かい何かで満たされた。  
 いつものことだ、と思う。  
 いつも、嘲笑が自分を責め苛む度に、エトナはクリチェフスコイの声を思い出してきた。  
 自分に語りかける魔王の声が、嘲笑をかき消してくれるのだ。  
 エトナの口元に小さな微笑みが生まれる。しかし、それも長くは持たなかった。  
 (どこにいても、何をされても、いつもエトナ様のそばで、あなたを)  
 クリチェフスコイの声に、一号の声が重なる。エトナはぎゅっと目を瞑り、激しく首を振ってその声を頭から追い出そうとした。  
 「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ……!」  
 自分だけの天使を足蹴にし、いじめ抜いたらどんなに気持ちいいか。  
 ただそれだけを考えて作り出した、どうしようもないクズの見習い天使。  
 外見だけは絶世の美貌を誇る天使である彼女を、エトナはずっと嬲り続けてきた。  
 お仕置きと称して意味もなく虐待し、屈辱的な言葉を吐かせる度に、エトナは快感に打ち震えてきた。  
 しかし同時に、激しい苛立ちも感じていたのである。  
 どんなに痛めつけても、一号の瞳に自分に対する憎悪が浮かんでこないからだった。  
 気まぐれにとんでもない命令を下す主に対する恐怖や怯えこそあれ、恨みの念がない弟子の瞳。  
 あの澄み切った瞳を見るたび、どうしようもなく、エトナの心は苛立つのだ。  
 (そんなに怖がらなくても、大丈夫です)  
 「……違う」  
 気付けば、そんな呟きが口から零れていた。  
 
 「アタシは怖がってなんかいない。アタシは弱くなんかない。  
  誰も恐れず、他者に恐怖を与え、弄ることに喜びと快感を感じる女、それがアタシよ……そうでしょう、エトナ」  
 早口で、自分に言い聞かせるように呟く。しかし、その声が震えるのを、自分で抑えることができなかった。  
 そして、不意に気付いた。何故自分がこれほどまでに一号に、あのどうしようもないクズ天使に苛立つのか。  
 彼女が、自分の弱さを浮き彫りにするからだ。快楽的で傍若無人な悪魔の女という虚勢を剥がし、本当の自分を外にさらけ出そうとするからだ。  
 あの、懐かしい温かさに、体の芯まで包まれていたいと思っている自分を。  
 だが、それを認める訳にはいかなかった。  
 弱かった自分、他者の圧力に怯えるだけだった自分とは、もう決別したのだ。  
 今の自分は誰よりも強く狡猾な魔界の女。  
 クリチェフスコイに助けられた頃の、虫けらのような生き物ではないのだ。  
 「そうよ、アタシ、アタシは……」  
 壊してしまおう。不意に、そう思った。  
 壊してしまえばいい。あの瞳、あの声、あの優しさが今の自分を壊そうとするなら、逆に、それらを壊してしまえばいい。  
 一号の存在を徹底的に壊してしまえば、自分は今の、強い悪魔の女のままでいられる。  
 エトナは立ち上がり、瀕死の状態の一号を見下ろした。出来るだけ冷たい表情になるようにと、心の中で念じながら。  
 想像する。自分の前に血まみれで横たわる無力な天使を、思う存分痛めつける様を。  
 恐ろしいほどに冷酷な微笑を浮かべながら、苦痛にのた打ち回る一号を眺める自分の姿を。  
 手足をもいで動けなくしてやろう。生意気なことを言ってこちらを動揺させるなら、舌を引っこ抜いてやる。  
 いらないことを聞くなら、耳だって引きちぎる。あの瞳が自分を苛立たせるなら、抉り出してぐちゃぐちゃに潰してもいい。  
 その上で、犯してやる。手足を失いどこにも逃げ出せない一号の、全身の穴という穴を犯し、その無様な姿を晒し者にしてやる。  
 いつかのように溶岩に突き落としたっていいし、今度はオークの群れに放り込んだっていい。それでいて、殺してはやらない。  
 生き物の死を遅らせ、苦痛を倍増させる魔法など、魔界にはいくらでも存在する。そして苦しむ一号を見て、腹を抱えて大笑いしてやるのだ。  
 だが、そのような姿になってもなお、想像の中の一号は微笑んでいた。  
 エトナは歯噛みした。苛立ちに地団太を踏み、頭をかきむしる。  
 (そんなに怖がらなくても、大丈夫です)  
 一号の声が、頭から離れない。くらくらした。  
 どうすれば、その言葉を否定することができるのか、エトナがそればかり考えていたそのとき、  
 「まあ、ずいぶんとひどいことをなさっているんですね、エトナさん」  
 突然耳に届いた声に、エトナははっと顔を上げた。  
 いつの間にか部屋の入り口が開いて、そこに一人の少女が立っていた。  
 柔らかい金色の髪に、大きな青いリボン。フロンだった。  
 
 「……ああ、フロンちゃん」  
 落ち着け、と心の中で念じながら、エトナは無理やりいつもの気楽な笑みを顔に浮かべた。  
 「何か用? 悪いけど、見てのとおり取り込み中だからさー、後にしてくんない?」  
 少し固くなったが、概ねいつもどおりの自分の声を出すことができた。  
 一号に対する虐待は常日頃のことだから、治療ぐらいはするだろうが、フロンならそれ以上事情を聞こうとはしないだろう。  
 エトナはそう予想していた。だが、事態は思ったとおりには展開しなかった。  
 フロンは微笑を浮かべたままじっとエトナの顔を見つめ、かすかに首を振った。  
 「いけませんねぇ、エトナさん」  
 少し、予想の範囲内から外れた台詞。エトナは眉をひそめた。  
 「愛が足りないですよ」  
 彼女の視線を追っていくと、床に倒れ伏している一号に行き当たった。  
 ああ、要するに一号に対する扱いを非難しているのか、と判断し、エトナは唇を吊り上げた。  
 「悪いけど、一号はアタシの弟子なの。だから、この子のことに関してフロンちゃんの指図は受けないよ」  
 しかしフロンは静かに首を振った。口元に微笑をはりつけたまま。  
 「違いますよ」  
 「違う? 何を……」  
 言いかけて、エトナはふと違和感を覚えた。  
 先ほどまでは内心の動揺を悟られまいと必死だったせいで、気付かなかった。  
 フロンの笑顔が、いつもとは違う色を帯びていることに。  
 (……なに、これ)  
 不意に不気味さを覚えた。気付くと、無意識の内に一歩身を引いている自分がいる。  
 異様な状況だった。ただ微笑を浮かべて立っているだけの相手に、底知れぬ何かを感じている。  
 何だ。こいつは何だ。  
 背中にじっとりと汗が滲む。長い時を戦い抜いてきた戦士としての勘が、エトナの頭の中で警報信号を鳴らしていた。  
 「……あんた、誰?」  
 「はい?」  
 のんびりとした動作で、フロンが首を傾げる。それから、おかしそうに笑った。  
 「どうしたんですかエトナさん。私ですよ、フロンです」  
 確かに、外見はそうだ。声色も口調も仕草も、いつもと別段変わりない。  
 だというのに、この違和感は何なのだろう。微笑むフロンを前に、どうしても警戒心を解くことができない。  
 まるで、外見がフロンのまま、中身だけが全く別の、何か訳の分からない物に変わってしまったような、そんな感覚。  
 エトナが緊張に身を強張らせている間も、フロンはただ穏やかな、しかし不気味な微笑を浮かべていた。  
 
 「あのですね、今日はお二人に用事があってきたんですよ」  
 「二人? アタシと……一号?」  
 「はい。ですけど、一号さんは動けないようですので……」  
 一度言葉を切って、フロンはにっこりと笑った。笑ったはずなのに、その顔は何故か無表情のように見えた。  
 「エトナさんだけご招待しますね」  
 「招待……? どこに?」  
 「はい。えーと……あれ」  
 と、フロンは不意に何かに気付いた様子で、恥ずかしげに舌を出した。  
 その動作がまた、自然なようでいてどこかギクシャクしたものに見えて、エトナは吐き気すら覚えた。  
 「ごめんなさい、何て言ったらいいのか、よく分かんないです」  
 「何よそれ」  
 「ええとですね、とりあえず説明させていただきますと、エトナさんに愛について学んで頂こうかと」  
 「あい?」  
 エトナは顔をしかめた。  
 フロンが愛愛うるさいのはいつものことだが、学んでいただく、などと言ってきたのは初めてだった。  
 「何言ってんのフロンちゃん」  
 「ああ、でも本当に残念ですねー。一号さんがいないとなると……」  
 フロンの唇が大きく吊りあがる。エトナの背筋に悪寒が走った。  
 「私が、Sの役をやらなくちゃいけなくなりますね」  
 エトナは、ようやく違和感の正体に気がついた。  
 それは、矛盾だった。  
 笑っているようでいて無表情にしか見えない顔、自然なようでいてこの上なくギクシャクしている動作、感情豊かなのに無機質な声音。  
 今のフロンは、そんな無数の矛盾を内包しているのだった。  
 このどこまでも穏やかな表情のまま、どこまでも残酷なことをやってのけるだろうと想像させる、そんな矛盾だ。  
 「仕方ないですねー。私、こういうのって初めてだから緊張しちゃいます。ちょっと助手さんを呼んでもいいですか?」  
 訳の分からないことを喋り続けるフロンの挙動一つ一つに意識を集中したまま、エトナはゆっくり慎重に、後ろに下がった。  
 壁際まで後退し、そこに槍がかけてあるのを確認する。  
 好機は一瞬。それを逃せば、この訳の分からない存在を退けるチャンスは、永遠に失われてしまう。  
 エトナは全身の表面を蛇が這いずっているかのような、不快な緊張感を感じながら、小さく深呼吸した。  
 「じゃ、呼んできますから、少し待っててくださいねー」  
 そう言って、フロンがくるりと踵を返した瞬間、エトナはこの上もなく素早く動いた。  
 壁から槍を取って両手で構え、足に力を込めて一気に飛び出す。穂先が狙うはフロンの心臓ただ一点。  
 始まりから終わりに至るまで、全てが完璧だった。  
 エトナがこれまで繰り出してきた攻撃の中で、最も完成されていた一撃だったと言っても過言ではない。  
 だというのに。  
 
 「……うそ」  
 エトナは呆然と呟いた。  
 全精力をかけて突き出した槍が、空中で静止していた。  
 いや、静止したのではない。受け止められたのだ。  
 フロンの背中と槍の穂先の間に出現した、目に見えない障壁のようなものによって。  
 そんな馬鹿な、と思う。  
 確かに、フロンは現在の魔王軍の中では、最強の戦闘能力を有すると言ってもいい。  
 だが、それはあくまでも純粋な力だけを見たときの話だ。フロンには、殺気に対する敏感さが著しく欠けていたのである。  
 だからこそ奇襲をかければ確実に仕留められると踏んだのだし、仮に魔法障壁を張られたとしても、槍という武器の性質上、  
 一点突破に全てをかければ必ず突き破れると計算していたのである。  
 しかし、現実にエトナの槍は受け止められていた。  
 呆然とするエトナの前で、フロンはゆっくりと振り向いた。  
 エトナは、自分の口から小さな悲鳴が漏れるのを抑えることができなかった。  
 こちらに振り向いたフロンの横顔は、それ程までに恐ろしい笑顔を浮かべていたのだ。  
 「あらあら、ダメですよエトナさん」  
 あの、無表情にしか見えない笑みを顔にはりつけたまま、フロンが困ったように言う。  
 「Sの役は私なんですから、エトナさんは攻撃しちゃダメなんです」  
 逃げなければと思うのに、見えない力で拘束されたように、体が動かない。  
 「エトナさんはMなんです。女王と奴隷で言えば奴隷の方なんですよ? だから、女王様に逆らっちゃいけないんです」  
 そのくせ、吹雪の中に放り出されたかのように、全身はぶるぶると震えていた。  
 「そんな悪いことをした奴隷がどうなるか、エトナさんならご存知ですよね?」  
 にっこりと、満面の笑みを顔に浮かべたまま、フロンが完全にエトナに向き直った。  
 「お仕置きしてあげます」  
 口調だけはどこまでも可愛らしくフロンが言った瞬間、彼女の背中から巨大な何かが膨れ上がった。  
 エトナは絶叫した。手の中の槍も心の中のプライドも放り出し、ありったけの力を込めて悲鳴を上げた。  
 自分がその時何を言っていたのかは、後になっても思い出せなかった。  
 その日の彼女の記憶は、ここで途切れている。  
 
 そうして全てが消え去り、辺りには不気味なまでの静寂が訪れた。  
 部屋に残されたのは、血まみれの一号と、主の手を離れて無力に転がるエトナの槍だけであった。  
 

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