魔界最下層――ヴァルバトーゼ邸。
屋敷の主人の部屋に面する廊下に4つの影がある。
半分は居候のフーカとデスコだ。
姉妹は床を蹴り、足を止めることなく屋敷の外へと一目散に駆けて行く。
それは空気を切り裂き、ただ前へと疾走する動きだ。
反対に、もう半分の影に動きは無い。
しかし、視線は彼女たち――自分たちよりもはるかに若い子どもたちの背に向けられている。
その目は見つめている、というよりは見守っていると言ったほうが適切かもしれない。
特に残された一人である女性の顔には、慈愛に満ちた表情が浮かんでいた。
それが生来の本質であり、ゆえに彼女は人間から天使へと成り得たのだ。
暫時の時間を持って遠ざかっていく足音が完全に消える。
廊下には天使と吸血鬼とだけが取り残されていた。
静寂。
さきほどとは打って変わった雰囲気に、アルティナは目線を宙にさまよわせる。
するとヴァルバトーゼが彼女に近づき、アルティナが抱えるマントを手に取った。
どうするのだろうというアルティナの視線の先、彼は無言のまま彼女の肩にマントをかける。
彼女は一瞬きょとんとしたが肩にかかるマントにそっと手を触れ、
楽しげに、そして嬉しそうに言う。
「おそろいですわね」
「いっいきなり何を言い出すんだ!?」
「あら、わたくしはおそろいだと言っただけですわ」
「……お前、天使になって性格悪くなってないか」
「まあ!」
心外だと言わんばかりにぷんすか頬を膨らますアルティナ。
上目遣いに睨み上げるとさすがの閣下もたじたじであった。
「どうしました? もしかして今になって血を吸いたくなりましたか?」
ヴァルバトーゼは気を取り直し、天使の申し出を鼻で一蹴すると、
「そのことについてはすでに確認したはずだぞ! これまで通り
お前を怖がらせるまで血を吸わないとな!」
バッとマントをひるがえらせて威風堂々と告げる。
約束という名の絆を。
自分たちの始まりを。
そんな彼にアルティナはやれやれと吐息した。
「ほんとに強情なんですから……」
呆れたように呟き、アルティナは彼の部屋での出来事を思い返した。
ヴァルバトーゼが先の戦いで恐怖の大王に捕らわれ、彼を失うことに恐怖した。
彼女はそのことを理由に自分の血を吸うよう申し出たのだが、
彼は吸血は生殖と同義であるとかわけのわからないことを言い出して、
そのまま情事を行おうとしたのだ。
アルティナとしてはそのことに関して拒否するつもりは毛頭もなかったが、
彼にとっては計算外だったらしい。
すぐに行為をやめたのである。
どうやら彼にしてみれば自分を怖がらせるための演技だったようだ。
フーカが聞けば「乙女心を弄ぶな!」と怒気に満ちた声を上げそうな話である。
「フフ」
薄く笑い、アルティナは自身の首筋にある行為の証に指を伸ばす。
ヒールで消すという案もあったが、そんな野暮なことをするほど彼女は無粋ではない。
何より――そんなもったいないことできるはずがない。
「フフフ」
そんな発想に伴う照れを隠すように彼女は再度笑うと、
後ろで手を組み、スキップをするように跳ねて彼の横に立った。
漆黒のマントを羽織った二人。
昔――人間だったころ、こんな風に彼と並び立ったことがある。
沈み行く夕陽を言葉を交わすことなく二人でただ眺めていた。
その時のことを彼女は懐かしく思い、そして愛おしく想う。
吸血鬼と人間。
吸血鬼と天使。
時は移ろい、様々なものが変わっていった。
自分は人間ではなくなり、天使になった。
彼は自分との約束を守り、魔力を失った。
けれどその果てに、かけがえのないものを得た。
400年の時間の先に、ささやかな幸福を得た。
自分と彼の約束が果たされたとき、二人を結びつけるものが
約束以上のもっと純粋な何かであってほしいと想う。
それは願い。
願えることが幸せ。
そんな幸せ。
漏れていく笑みに気づいたのか、ヴァルバトーゼが呆れた顔で言う。
「……天使というのは頭の中が年中お花畑なのか?」
「その発言はフロン様に対して失礼ですわ」
「やっぱり天使になって性格悪くなってるぞ!?」
まったく何を言ってるのだろうこの吸血鬼は。
首を傾げ、彼の言葉を受け流す。
――と、アルティナはふと思ったことを素直に口にした。
「でも、こういうのって何かいいですよね」
「何がだ?」
「おそろいのマントを着て、子どもたちの背中を見送って、まるで――」
彼女は口元をほころばせる。
それは400年前から変わらず、そしてこれからも変わることのない笑みだ。
天使は笑った。
「わたくしたち、吸血鬼の夫婦みたい」
Fin