「単刀直入に言わせてもらうと、魔界で愛を連呼するのをやめろ」  
「嫌です」  
 室内にこれでもかというほどの険悪なムードが漂う。  
 しばし睨み合ったのち、ため息とともに視線を逸らしたのはラハールのほうだった。  
 なんとなく、ガッツポーズのフロン。  
 そんなフロンの挙動にもう一度ため息をつきなおすと、  
「…別に、不快だからという理由だけでやめろと言ってるのではないぞ」  
 と、一冊の分厚い辞書をフロンに差し出す。  
「…なんですか、これ」  
「魔界の広辞苑だ、『愛』のところを見ろ」  
「え」  
 愛と聞き、慌ててページをめくるフロン。  
 数ページめくった先に現われたのはまごう事なき『愛』の項目。  
(ああ、大天使様、やはり魔界にも愛はあったのです、信じてきて良かった…)  
「おい、こら、フロン、ちゃんと内容を読め」  
 感動のあまり翼を広げ50センチほど浮き上がる愛マニアを冷めた目で見つめながらラハールが言う。  
「ええ、はいはい、なんでも読みますよー」  
 満面の笑顔を浮かべ、上機嫌で『愛』の項目に目を通す。  
 笑顔が、凍った。  
 
   
愛【あい】<<猥語>>  
 
男女間の肉体上の欲望。肉欲。性欲。色欲。  
 
 
 凍った笑顔がみるみるうちに赤く染まり、  
「…ん…ん…んーまッッッっ!?」  
 絶叫とともに頭上で蒸気が吹き上がる。まるでヤカンの如く。  
 対象的に、冷めた目の――いや、憐憫の視線をフロンに向けるラハールは大きくため息を一つ。  
「…魔界で愛を連呼するなど、オレさまの服着てスラム街でファックミーと連呼するようなものだぞ」  
 性に対して無知だった天界生活時代は今は昔、魔界で毎夜のようにエトナから貸し出される多数の  
レディースコミックはフロンの知識を大幅に偏った方向へ進めていたのである。  
 よって。  
 鼻血。  
 
 空に舞う己の血を眺めつつ、フロンの脳裏にはありし日の大天使との会話が浮かんだのだった。  
 
『大天使様、悪魔にも愛はあるのでしょうか』  
『難しい質問だねフロン』  
『そう、なんですか…?』  
『そもそも価値観が違う彼等にとって、愛という言葉が天界と同一の意味を持たないかもしれないからね』  
『え、えと、よくわかりません』  
『曲解されて、身体を要求されたりするかもしれないというだよ』  
『肉体労働…ですか?』  
『いや、違――』  
『たとえ誰であろうと、求められているのなら精一杯ご奉仕したいと思います!!』  
『―――あはは、フロンはもうちょっといろんな勉強が必要みたいだね』  
『だ…大天使様!?』  
   
 …あのとき、大天使様も鼻血を流されてたっけ、今のわたしと同じように。  
 その時のわたしにはわからなかったけど、今のわたしにはわかります。  
 どれだけわたしが無知だったか。  
 …  
 ……  
 ………泣きそうです。  
 
「…と、ともかく魔界で愛を連呼するのをやめろ、いいな?」  
 突然流血するフロンに驚きつつもラハールは告げる。  
「…嫌です」  
「…な、なに!?」  
 予想しない答えに驚くラハール。  
「お、オマエなぁ… もし高レベルのヤツらが猥語に発情でもして襲われたらオレさまでも止められんぞ?」   
「かまいません」  
 脅しにかかるラハールに、決意の眼差しでフロン。  
「それで例え、誰かに襲われてえっちなことをされようとも」  
 その決意は今も昔と変わらずに。  
「たとえ誰であろうと、求められているのなら精一杯ご奉仕したいと思います!!」  
 顔を赤く染めながらも、瞳に決意の炎を燃やし、叫ぶのだった。  
 気高きかなその天使の魂。  
 それだけに方向性を540°ほど間違っているのが惜しまれるところである。  
 
 あまりに言動に暫く固まっていたラハール、まだ混乱した思考でやっと言葉を捻りだす。  
「……じ、じゃあ」  
「はい?」   
「…い、今ここでオレさまがオマエを襲っても、て、抵抗はしないのだな…?」  
「え」  
 
 再度、ヤカンの如く、その顔は赤に染まり、  
 
「――ん、ん、んーーーーーーーまっっっ!!??」  
   
 高音の驚きの声もヤカンの如くのフロンだった。  
 
ばくばくと高鳴る互いの心音。鼓動に誘われるようにどちらからともなく唇を寄せる。  
 鼻息が恥ずかしくて息を止める。相手を直視できなくて目を閉じる。  
   
 唇が触れ合う。  
 
 触れるだけのフレンチ・キス。  
 だけど二人の心臓は今にも張り裂けそうなほど激しく打ち鳴らされる。  
 ラハールはフロンを抱きしめた。フロンも驚きに身を固くするが、やがてその体重を預ける。  
 伝わる温もりに、何故だか『愛』という単語が思い出されて。  
 二人はずっとキスを続ける。この瞬間が永遠に続けとばかりに。  
 
 呼吸を止めて2分。  
 
「――っあああ!?」  
「――ぶはーっ!!」  
 
 よくがんばったが限界が来た。  
 お互いが背を向け合って呼吸を荒げる。  
 互いに思う。 おかしい。   
 キスというものは自分の読んだ本ではもっとこう、エロチックなものではなかったのか。  
 焦る。やり方が間違っているのか? 焦る。それとも順番が?  
 胸の鼓動が焦りを、焦りが胸の鼓動を加速させる。これ以上の過ちは心臓に悪すぎる。   
 
 早く、早く最後までやってしまわなくては。  
   
 ゆえに、次の瞬間には全裸で、いろんなモノをかっとばして本番に挑む二人がいたのである。  
 だが、だがしかし。  
 
「…あ」  
「……あんまり…濡れて…ないですね…」  
 おもわず顔を見合わせる二人。  
 
 男は百戦錬磨のジゴロしかでてこないレディースコミック専門のフロン。  
 熟れた肢体を持て余す熟女系のエロを激しく好むマザコンぎみ魔王様。  
 
 触れただけで濡れ濡れというファンタジーな世界の知識しかない二人にその壁は厚く。  
「と、とりあえず…ちょっとだけ挿れる…ぞ?」  
「はっ…はいっ!!」  
 
 
「ねぇ、ゴードン?」  
「んー? どーしたジェニファー?」  
「今、悲鳴みたいな声がかすかに聞こえたような気がしたんだけど――」  
「いーや、このゴードンイヤーには何も聞こえなかったぞHAHAHAHAHAー!」  
「――気のせいだったのかしら?」  
 高笑いするゴードンを放置してジェニファーは呟いた。  
 
 
 魔王と天使の闘いは終り。  
 後に残ったのは天使の苦痛の貌に己が息子を萎えさせた経験不足に落ち込む魔王と。  
 まだ残る痛みにシーツを噛み締めながらも耐えられなかった経験不足に落ち込む天使の敗者二人。  
 だがその二組の瞳には炎が燃え。  
 来るべき再戦に向けて己が牙を磨く決意を固めるのだった。  
 
 後日。  
 練武3で連れ添ってレベル上げに勤しむ二人の姿があった。  
 全力で間違った方向へ努力しているのに気付くのは、それからしばらくしてからのことだったのである。  
<終>  
 

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