ある魔界に一匹の悪魔がいました。
悪魔は天性の盗みの腕でみるみるのし上がり、いつしか強盗団の頭領になりました。
そんな彼がいつものように魔界を徘徊していると、一人の子供が目に付きました。
彼はいつものように気まぐれに子供を攫うか殺すかしようと子供に近づきます。
しかし、彼は知らなかったのです。
その子供が自称・『ちょうまおうのらはーるさま』だということを。
彼は見事なまでの返り討ちにあい、極悪非道の人生を歩んでいたために
この世の理に従いプリニーに転生させられてしまいました。
そんな彼を見て、子分たちはスタコラサッサと彼を置いて行ってしまいました。
広大な魔界に一人、取り残された彼。
「これからどうするッスか…」
ついつい弱気な発言をしてしまいます。
そんな彼に近づく影がひとつ。
「あのぅ…」
「!?」
呆然としていた彼はいきなり背後でした声に内心ビビりながら振り返ります。
そこには、気弱げにたつ一人の魔法使いの格好をした少女が立っていました。
「はぁん!? 誰だお前、ッス!」
彼は自分の発言を誰かに聞かれてしまったのではないかという気恥ずかしさと
自分より弱そうな外見の少女だったという安心感からついチンピラ口調で尋ねます。
魔法使いの少女は彼の大声に萎縮したようすでビクビクとした様子で喋り出しました。
「あの…、わ、わたし、赤ちゃんの時にあなたに攫われて…」
一瞬、何のことかよくわからなかった彼ですが、おぼろげな記憶がよみがえってきました。
「(あぁ、そんなこともあったッスかねぇ…)」
確かに、彼の記憶は、かの少女の幼かったころを覚えているような気がしないでもありません。
そんな少女がこんなところで何をしているのでしょう。
「で、お前、何なんスか? 俺をあざ笑いにでも来たんスか?」
彼は自嘲気味に尋ねます。
「い、いえ…、あのわたしも取り残されて、しまって……」
「……へぇ、そうッスか」
なんだかマヌケな返答ですが、それ以外に答えようがありません。
なにしろ自分も取り残された身なのですから。
「ま、よかったんじゃねえッスか? 晴れて自由になれたんスから」
などと言いながら、彼は彼女が速く何処かに消えてくれないかなと考えます。
子供に喧嘩を売った挙句返り討ちにあい、プリニーなんかにされてしまった今の自分を、
記憶がおぼろげとはいえ、かつての身内に晒したくはなかったのです。
「さ、面白いものが見れてよかったッスね。さっさと何処へとなり行くがいいッス」
彼は少女に向かってシッシと手を振ります。
しかし、彼女はその場から動こうとしません。
彼は少女に背を向け、彼女が立ち去るのを待ちます。
しばらくそのまま時間が流れます。
少女は一向に立ち去る気配を見せません。
いいかげん少女の存在がうっとおしくなった彼は、もう一度彼女のほうを振り返り言います。
「何ッスか? 正直、消えてほしいんだがッス」
少女は伏せていた顔をパッと上げ、意を決したように彼に言い放ちます。
「あの! い、行くあてが無いんでしたら、わたしと一緒に……、一緒に生活しませんか?!」
「はぁ?」
『何を言ってるんだコイツは』という表情を作ろうとしましたが、プリニーなのでうまくいきません。
少女は畳み掛けるように喋ります。
「えっと! プリニーになったということは何処かに行って奉仕活動をしなければならないと
いうことでありまして、じゅ、重労働しないといけないみたいな、で、で、あの、ええっと、
つまりわたしが雇うという形にすれば、そんなに重労働させませんし、か、顔見知りだから
あなたも安心して働けたりなんかしちゃったしなんかして……、ダメです、か?」
はじめは勢いのよかった彼女も、だんだん口調が弱くなり、最後のほうは消え入るような声になってしまいました。
彼は呆気にとられ、何もいえません。
二人の間を気まずい沈黙が流れます。
そして彼は、ハタと思いつきます。
「(あぁ。もしかしてコイツは…、自分を攫って人生をめちゃくちゃにした俺をこきつかって
密かに楽しみたいんスね。復讐ってやつッスか)」
なにしろ悪事ばかり働いてきた彼です。
世の中を穿った目で見ることしか知りません。
だから当然の如く。
「お前の手には乗らないッス」
彼女の打診を蹴りました。
少女はものすごく驚いた顔をして、彼との距離をつめます。
「ど、どうしてですか!? 二人とも丸儲けのいい考えだと思ったんですけど…」
「…俺に復讐したい気持ちも分からなくもないッス。でも、お前の計略には乗らないッスよ」
彼女の言った『丸儲け』の意味が分かりませんでしたが、それはとりあえず放っておきました。
少女は怪訝な顔で彼を見ます。
「ふくしゅう……? けいりゃく……? どういう意味ですか? わたしは――」
「いい加減うるさいッス。俺は一人でやっていくッス。消えるッスよ」
彼は冷たく言い放ちます。
一瞬、少女はひどく傷ついた顔をしましたが、一拍おいて、決然とした表情で彼に詰め寄ります。
「いいえ! いやです!」
「はぁ?」
「わたしと一緒に生活するというまで、テコでも核でも動きません!」
「はぁ!?」
そして、彼女は真剣なまなざしで彼の顔を睨みつけるように見つめます。
少女とプリニーのにらめっこは、そのまましばらくして、彼がうんざりし、顔を背けるまで続きました。
「じゃあ、もういいッス。俺が移動するッスよ」
彼はそのまま少女に背を向け、歩き始めました。
すると、さも当然のように、後ろから足音がついてきます。
彼は前を向いたまま、怒鳴ります。
「ついてくるなッス!」
「イヤです!」
「イヤです、じゃないッス! ついてくるなったら、ついてくるなッス!」
「う〜!」
少女はベソをかいたような声でうなります。そして、そのままの声で叫びます。
「イヤですイヤですイヤです! あなたがわたしと一緒に生活するって言うまで、
ず〜と、ずぅ〜とついていきます!」
彼もとうとう頭にきました。
「じゃ、もう勝手にするッス!」
「うぅ〜、か、勝手にします!」
こうして、プリニーと少女は町まで黙りこくって足を進めました。
町でプリニーの職探しが始まります。
しかし、色よい返事はもらえません。
どこの屋敷の主人も口をそろえて彼に言います。
「最近、人間界が人口増加でプリニーの手は余ってるんだよ。悪いけど、他を当たってくれ」
最初の一軒、二軒は彼もくじけませんでしたが、それがやがて増えていくうちに、彼のやる気がうせてきました。
もともと、悪事で身を立てていた彼です。
まともな労働をしなければならない自分の身が恨めしく思えてきました。
それに屋敷でも仕事を断られるごとに後ろから聞こえてくる
「わたしと一緒に生活するんでしたら三食昼寝つきですよ〜」やら
「わたしと一緒に生活するんでしたら賃金もそれなりに出しますよ〜」
だのといった声がうっとおしくて仕方ありません。
おまけにおなかも減ってきました。
手持ちはまったくありません。
ついでに、やる気もまったくなくなりました。
そしてとうとう
「わたしと一緒に生活するんでしたら、あそこの定食屋でご馳走しますよ〜」
その一言で、彼のプライドは陥落しました。
「うぅ…、分かった、分かったッスよ」
彼の言葉を聞いた彼女は、目を輝かせます。
「えっ! ということは…!」
「一緒に生活、するッスかぁ…」
絶望的な彼の声色とは対照的に、彼女の表情が華やぎます。
「わたしと一緒に暮らすんですね…! うぅ…」
彼女は顔を伏せてうなります。
「? どうしたッスか?」
再び顔を上げた彼女は、目から大粒の涙を流し出しました。
彼はギョッとします。
「な、な、なにを泣いてるんスか!? わけわかんねぇッス」
「うわ〜ん! うわ〜ん! だって、いっしょに、ヒグ、せ、せいかつ! うわ〜ん!!」
「あぁ、もうウザいッス! ハッ! 周囲の注目の的に! な、泣き止むッスよ! ホラ!」
「うわ〜ん! うわ〜ん!」
結局、彼女が泣き止むまでしばらくの時間が必要でした。
彼は彼女のことを放って置こうとしてどこかへ行こうとします。
が、少女は大声で泣きながらついてきます。
彼はしょうがなく、建物と建物の間の路地裏に彼女を誘導しました。
そして、その人気の無い場所で彼女が泣き止むのを待った彼。
ようやく落ち着いてきたのか、少女は泣き止みだしました。
そして、彼女はおもむろにポケットからちり紙を取り出すと、ちーん、と鼻をかみ、
ゴミ箱にそれを捨てます。
「で、いい加減、泣き止んだッスか?」
「はいぃ〜…。す、すみません。突然泣き出したりして」
「(全くッス。いい迷惑だったッス)」
と言いたい彼でしたが、また泣かれると面倒だったったので口には出しません。
代わりに口をついたのはこんな台詞。
「……で、お前、先立つものは持っているんスか?」
「さきだつもの?」
「金、金ッス。俺を雇うつもりなんだったら必要ッスよ」
そう言いながら彼女が本当にお金を持っているのか不安になってきました。
何しろ、彼と同じように仲間に取り残された彼女です。
彼と同様、無一文でも不思議ではありません。
しかし、彼の言葉を聞いた彼女は、いかにも得意げな顔をします。
「ふふ。だぁ〜いじょうぶです。ちゃ〜んとここにそれ相応の――」
彼女は懐から何かを取り出します。
「――って、あれ? あっ! いつのまに!」
少女が取り出した何かを目にも留まらない速さで彼はスっていました。
少女は動揺し、彼に泣きつきます。
「か、返してください! それはわたしが子供のころからコツコツとためたお小遣い…」
プリニーが天性の盗みの能力でスったもの。
それは古式ゆかしいガマ口の財布でした。
彼は少女の泣き言など一切気にせず、中身を確かめます。
そして気づきます。
「お前……、コレ」
「な、何ですか?」
「穴、開いてるッスよ……」
少女の表情が固まります。
「…………またまたぁ。そんなハズは――」
「見てみるッス。ほら」
彼は彼女に財布を手渡します。
彼女は動揺のために微かに震えながらそれを受け取ります。そして中身をのぞいて
「あ」
そう呟いた彼女の目からまたも大粒の涙が流れ出しました。
「――で。落ち着いたッスか?」
「……うぅ、すみません。何度も」
大通りの定食屋の片隅、座敷席。
いつまでも泣き止まない少女に手を焼いた彼は、ガマ口に僅かに残った金で定食屋に行くことを提案し、強引に彼女を連れて行きました。
彼は定食屋で、一番安い『すうどん』を二つ注文。
最初は食事に手をつけなかった彼女ですが、彼が放った「のびるぞ」という一言に
反応し、ノロノロと食べだしました。
そして、食べ終わるころには、お腹が落ち着いたからか、彼女はヒグヒグ言いながらも
どうにか泣き止んだのでした。
「さて、これからどうするッスかね。このすうどんで手持ちも無くなったッスし」
「あうぅ。ど、どうしましょう」
沈黙が重く二人にのしかかります。
その沈黙を嫌うように、少女は話し出します。
「そ、そう言えば、今度はわたしを置いていこうとしませんでしたね。あ、あの、うれし――」
「勘違いするなッス」
ほほを心持赤くしながら言う彼女の言葉を、彼は冷たく遮ります。
「え?」
「俺はただ単に、お前に飯をたかっただけッス。お前のことを考えたわけじゃないッス」
それは彼の本心でした。
実際、彼女のお金を再度スって、そのまま逃げることも考えましたし、プリニーの足では素早く逃げられない現実がなければそうしていたでしょう。
「そ、そうですか…」
少女は残念そうに俯きます。
しかし、すぐに顔を上げ、彼に向き直ります。
「それでも、わたしを置いて行かなかったのは事実ですし、わたしはそれがうれしかったんです
だからありがとうございました、って言わせてください」
「………………」
「ありがとうございました」
真剣な眼差しでそういう彼女に彼は絶句します。
ですが、年端も行かない少女に絶句させられた現実を認めたくない彼は、無理やり言葉を紡ぎます。
「へっ、馬鹿みたいッスよ。お前」
「そうですか? ……ん〜、そうですか」
そして無理やりに彼は話題をそらします。
「そんなことより、これからどうするかッス」
「あうぅ、ど、どうしましょうね?」
再び、沈黙が流れます。
二人の耳に、定食屋の人々が発する威勢のよい声が聞こえます。
そんな中、おもむろに彼は食事をしながら考えていたことを口にします。
「俺はまた、盗みでもして生計を立てるッスか。それが一番手っ取り早いッス」
彼のその言葉に彼女は目をむいて反論します。
「ダ、ダメですよ! そんなことしてたらいつまでたってもプリニーのままですよ!」
「………………」
そうなのです。
あくまでプリニーとして奉仕活動をしなければ、いつまでも赤い月には行けません。
しかし、彼にはそれ以外の方法は思いつきませんでした。
そのたった一つの方法を否定された彼は、機嫌を害し、ややぶっきらぼうに少女に言います。
「じゃ、どうするッスか。どこもプリニーの手は余ってるッスし、お前は一文無しッスし」
「……わたし、考えたんですけど、いいですか?」
「なにをッス?」
少女は決然とした眼で彼を見て、そして言います。
「わたし、働きます」
「はぁ」
「そして働いて頂けるお金で、あなたを雇います」
「はぁ!? イヤっすよ! そんな主夫みたいなマネは! だいたいなんでいつまでも
お前と一緒にいなくちゃならな――」
結局、彼女の案が採用されました。
最初は猛反発していた彼でしたが、定食屋を出た後に働き口を探しては断られるうちに
心が折れたようです。
こうして魔法使いの少女とプリニーの奇妙な同居生活は始まりました。
二人は魔界のボロアパートの一室を借り、そこで毎日、朝を迎えます。
「おはようございます。ムニャムニャ…、おとうさん」
「さっさと飯を食うッス。……あと、『おとうさん』って呼ぶなッス。『親分』と呼ぶッス」
「えへへ。スミマセン、親分♪ ふふ」
少女は彼の作った手料理を食べ、朝早くから働きに出ます。
ちなみに魔法使いの手は何処も足りないようで彼女の働き口はすぐに見つかりました。
でも、彼は彼女が何処で何をしているのか知りません。
少女もなぜか、自分の働き口について口を割りません。
いつまでも。
彼は自分に給料が振り込まれれば後はどうでもいいので、深くは追求しません。
少女が働きに出た後、彼は掃除やら買い物やらの家事にいそしみます。
最初はものすごく雑な仕事ぶりでしたが、やっているうちにだんだんと楽しくなってきた彼は
いまでは立派な主夫の仕事ぶりを発揮しています。
ですが、彼はそんな自分を自覚するごとに、たいそうな自己嫌悪に陥ります。
なにしろプリニーになる前は札付きのワルだったのですから、それも当然です。
そうこうしている内に、昼を適当に済ませ、夜ご飯の支度をします。
そして夕方と夜の境目あたりに少女が帰ってきて、お風呂を済ませた後、二人でご飯を食べます。
初めのころはわざと先にご飯を済ませていた彼ですが、彼女が駄々をこねるので、
しょうがなく一緒に食べるようになり、いまでは当然のようにそれをするようになりました。
そして、TVを適当に流して、そして二人で後片付けをし、そして一緒の時間に就寝します
(もちろん寝床は別ですが)。
少女のたまの休暇には二人で何処かに出かけたりもします。
たいていの場合、少女がねだり、うんざりした彼がつき合わされるという形でしたが。
そんな毎日を、平凡に、平坦に続けます。
彼の脳裏に、ふと疑問が浮かぶことがあります。
「(どうして、こいつは俺と生活することにあんなに拘ったんスかね?)」
やはり彼の穿ったとおり、復讐のためだったのでしょうか。
でも、一緒に生活している少女の態度を見ているとそれも違うような気がします。
「(っていうか、今までの態度、全部演技だとしたらたいした役者っす……)」
ではどういう理由で彼に拘ったのでしょう。
彼には皆目見当がつきません。
「(ま、今は安定して金がもらえればそれでいいッス、かねぇ)」
もともと、物事には拘らない気質の彼です。
そうやっていつまでも彼はその疑問に答えを見出せませんでした。
……そのときは。
それは少女とプリニーが一緒の生活を始めて幾月かたったある日のこと。
プリニーはいつものように家事をこなし、いつものように日が暮れます。
しかし、いつもの時間に少女は帰ってきません。
彼はおとなしく彼女の帰りを待ちます。
……一時間が経過しました。
「(まぁ、仕事が遅くなるってこともあるんスかねぇ)」
……二時間が経過しました。
「(はぁ、腹減ったッス。先に食うッスか? でもあとがうるさいかも――)」
……四時間が経過しました
「(さすがにおかしいッス。でも――)」
いいかげん心配になってきた彼。
しかし少女の奉公先を知らない彼には打つ手がありません。
とりあえず彼は家を出て近所を探してみます。
暗くなった住宅街は何処までも静かで、道行くものは彼しかいません。
「(まさかアイツ、強盗だかなんだかにあったんじゃ…ッス)」
彼の頭の中に強盗に襲われる少女の姿が浮かびます。
彼はそれを必死に振り払おうとします。
しかし、暗闇の中から生まれたネガティブな想像は彼から離れません。
それどころかビジョンは悪いほうへ、より悪いほうへ向かっていきます。
歩き出して数十分。
彼は歩みを止めます。
すると静謐な夜の空気が彼を包み、静寂が耳に痛いほどこだまします。
彼は大きく息を吸い、そして、これ以上ないほど吐き出しました。
そして方向転換。
来た道を引き返していきます。
「(そうッス。なんでこの俺が、アイツなんかの心配をしなきゃならないんスか)」
彼はごく自然に少女を心配している事にだんだん腹が立ってきたのです。
「(だいたいアイツが強引に誘ったから一緒に生活しているだけの仲ッス。心配なんて必要ないッス)」
彼はだんだんと歩調を速めます。
徒歩は競歩に、競歩はやがて疾走に変わります。
「(どうせ家に帰ったら、鍵を持ってないから玄関に締め出されて半ベソかいてる
アイツがいるに決まってるッス。速く帰らないと泣かれてうるさいッスね)」
プリニーはいつしか全力で住宅街を走っていました。
少女の泣き顔を玄関先で拝まなければならないだろうという予想、否、願望をもって。
しかし、たどり着いた彼を待っていたのは、人気の無いボロアパートの愛想の無い玄関だけでした。
翌日。
結局、日の光が再び顔を出す時間になっても帰ってこなかった少女。
昨夜、複雑な表情で夕飯を一人で平らげ床に就いた彼。
少女の分の夕食はラップして冷蔵庫の中に入れることを忘れません。
そして朝、あまり眠れなかった彼は、いつもより早い時間に起きだすと、一応少女の寝床を確認します。
彼女の寝床には、冷たいままの布団が一つあるだけでした。
冷蔵庫の中を見て、彼女の分の夕食が手付かずのままあるのを確認し、彼は軽く嘆息します。
まるで火が消えたような部屋の中。
それでも、日々の雑事を彼はこなさなくてはなりません。
彼は無心でそれらの家事を処理します。
そしてハタと気づきます。
「(そうッス。もしかしてアイツ『イイヒト』でもできてソイツのところにいるんじゃ…)」
そう考えるのは彼女が危険な目にあっていないと信じたいからでしょうか。
それでも彼には、その思考が一番しっくりくるような気がします。
「(なんだッス。そんなことッスか…。)」
なんとなく頭の中に能天気な彼女の顔が浮かびます。
それは幾月かの時間を一緒に生活した贔屓目にもただただ単純に『かわいらしい』と
感じられる、魅力的な容姿でした。
「(そうッスよねぇ。アイツも年頃の娘ッス。浮いた話の一つや二つあっても――)」
そこまで考えた彼の胸になんだか空しさのようなものと焼き付くような感覚が湧いてきます。
まるで娘が遠くに行くような感覚と妻が誰かに取られてしまったような感覚が同時に
襲い掛かってきたような奇妙な感情です(彼には娘がいたことも、妻を娶ったことも
ありませんが)。
彼は掃除機を取り落とし、胸を押さえます。
そして大きな声で笑い出しました。
それは虚しく、熱く、それでいて安堵したような複雑で猥雑な笑いでした。
彼は近所迷惑を考えることなくゲラゲラと笑います。
可笑しくて、可笑しくて。
苛苛して、苛苛して。
安心して、安心して。
彼はのどがいい加減痛むのではないかと思うほど、笑い続けました。
そんな彼の笑いを止めたのは、息切れでも隣人の苦情でもありませんでした。
突如、部屋の中に大音量の異音が木霊します。
部屋の中に投げ込まれた何かによって、窓ガラスが盛大な音を立て、粉々に砕け散ったのです。
それはあまりにも突然のことで、彼は驚き、身動き一つ取れません。
そして、いつしか静かな空気が部屋の中を制圧します。
しばらく呆然としていた彼は、ようやく自分を取り戻し、恐る恐る部屋の中に投げ込まれた
何かを、ガラスを踏まないように慎重に移動しながら見に行きます。
「……もしかして爆弾ッスか? いや、単なるイタズラ…ッスかね?」
割れて飛び散ったガラスの中心に鎮座していたソレは拳大の大きさの丸い何かでした。
彼は心底ビビりながらそれを取り上げます。
よく見るとそれは、紙に包まれた石のようです。
彼はガラスに気をつけて丁寧に石から紙を取り除きます。
石のほうはどこにでもあるようなありきたりなただの石です。
彼は紙のほうをよく見てみます。
そこには丁寧な文字が書かれていました。
『オメーの大切なモノは預かった。返して欲しくば、×××区△△番地の廃倉庫まで来い』
「俺の大切なモノ……ッスか? 金のことッスかねぇ?」
そういいながらも彼は手持ちの金の確認などしません。
この文が指し示しているものが分かっているからです。
この紙に書かれた丁寧な文字。
彼には見覚えがあったのです。
それは間違いなく、昨日からいなくなっているあの少女の字。
たぶん彼女を攫った何者かが、彼女に書かせたに違いありません。
それはたぶん証拠。
かの少女を拉致しているんだぞ、という証明のつもりなのでしょう。
「…………さあて、どうするッスかねぇ」
強盗団の頭領だったころの勘が『これは罠だ』と告げています。
彼をおびき出すための罠。
……しかし、どういうことなのでしょう。
かつてはたしかに強盗団の頭領で、札付きのワルだった彼です。
でも、いまでは少女の稼ぎに糧を依存する単なる薄給の一プリニーに過ぎません。
そんな彼をおびき出してどうしようというのでしょう?
「………………………」
彼は目を瞑り沈思します。
冷静にあくまでも主観を入れないように。
「………………チッ。どうにもうまく――」
しかし、少女の能天気な顔が脳裏に浮かびうまくいきません。
「(ハッ! 俺も落ちぶれたもんッスね。たかだかこの程度の事態で……)」
彼はもう一度、文面に目を落とします。
『――大切なモノは――』
「……大切なモノ、ねぇ…ッス。……フン」
彼にとってたしかに少女の稼ぎは大切なものです。
そして少女自体は――。
「……はぁ〜あ、馬鹿馬鹿しいッスね。いいかげん」
彼は考えるのに飽きたように手の中にある石と紙を投げ捨てます。
そして、ガラス片が飛び散る部屋に背を向け、玄関へと歩き出しました。
出した答えは非合理的なもの。
それでも彼は一歩を踏み出しました。
『大切なモノ』を取り返しに。