Have on idea of before  
 
 髪がきれいだな、と思った。  
 
 「きゃ」  
 驚いた顔をして、レイが後ろ頭を抑えながら振り向いた。  
 「な、なに?」  
 太一は一瞬何が起こったのか理解できずに伸びた自分の左腕を見ていたが、どうもその左手がレイの神を撫でていたらしい事に気付き、慌てて手を引っ込めて愛想笑いをする。  
 「いっいや!髪が…じゃなくて…髪に……そう、髪にごみが!」  
 もう取れたから大丈夫!大丈夫!大げさにおどけながら太一がレイに前を向くように促した。それに素直に従うレイの座る車椅子の背についているハンドルを改めて握りなおし、ほっと溜息をついて太一はまた歩き出す。  
 「レイちゃん、寒くない?」  
 「ううん、へーきだよ」  
 小さな声が返ってきて、太一は少しだけ眉をしかめた。車椅子を押す手を片手にし、器用に右手で自分のマフラーを解いてゆく。  
 「じゃあさ、悪いんだけどコレ持っててよ。おれ暑くてさ」  
 覗き込むと見える襟足が寒々しくて、少し目のやり場に困っていたことも手伝ったのか、太一がやや強引なしぐさでレイの首にマフラーを巻いた。  
 「……ごめんね、重いでしょう?」  
 「ううん、へーきだよ」  
 さっきのレイのセリフをそのまま真似る太一の言葉に、レイは破顔一笑する。  
 公園の木々はすっかり葉を落とし、しんと静まり返る空からはちらほらと白いものでも落ちてきそうな雰囲気だ。  
 太一はこんな日に散歩に誘うなんてデリカシーがなかったかな、と弱音を吐いたところを出掛けのネオに笑われたのが少し気恥ずかしくて、少し早足で車椅子を押して出かけた。  
 こうやって二人で出かけるのは、太一にとってはまだ少し勇気が必要だった。いつ訪ねてもレイは快く応じてくれたし、一緒に居れば笑顔を絶やすことはなかったけれど、それでも太一にとってレイの家に行くのにはそれ相応の勇気が要ったのだ。  
 「ゼロくん、元気?」  
 「あ、ああ。もちろん!今もちゃんと持ってるよ。」  
 「また行きたいな、デジタルワールド」  
 忍び笑いみたいな声でレイが言った。  
 太一はそれを歯痒いような、悲しいような、言い表せぬ不思議な気持ちで聞いていた。何故か返事をするのがためらわれた太一は、じっと黙って車椅子を押し続ける。  
 
 レイは太一の元気で諦めない性格が好きだった。実際、くじけがちな自分を何度も立ち直らせてくれ、困って助けを呼んだ時は飛んできてくれる事が嬉しかった。  
 だが、時々それが憂鬱に思える事もある。  
 言うことを聞かない自分の身体を忌まわしく思うのと同じように、どんな事があっても希望と共にある眩しいまでに力強い太一の性格を妬ましく思うのだ。  
 もちろんそんなことを太一に打ち明けた事はない。心配して落ち込むのが目に見えているから。  
 「足、治るよ。大丈夫。一緒にリハビリしてるじゃん。ちょっとづつ良くなってる。」  
 「……うん。太一くんがあたしより頑張るから、負けてらんないの」  
 微笑むと、彼がほっとした顔で笑うのがレイは本当に嬉しいのに少し辛かった。  
 デジタルワールドでは自由に走れた足も、現実世界では役立たずに戻る。レイ自身はそれに特にショックは受けなかった。これが自分の現実なのだと誰より知っていたから。  
 だが、太一は違う。  
 飛び跳ねるレイが≪普通≫だった太一には、それが絶望に映るのだろう。デジタルワールドに居た頃よりもずっと、過保護になってしまった。  
 そして、希望の話を言って聞かせる。脊椎が傷付いている自分に、良くなる、という夢を。  
 「――――――ねえ、太一くん」  
 「ん?」  
 「やっぱりちょっと、寒くなってきちゃった。家、かえろ?」  
 「……そっか。ごめんね、無理言って連れ出して」  
 「ううん、いいの!あたしが散歩行きたいって言ったんだもん。  
 っていうかね!違うの。ほんとはね、家でクッキー作ったからそれ一緒に食べようと思ったの。それでね、ちょっと寒いとこに居たら熱いココアがもっとおいしくなるかなぁって!あ、でも散歩もしたかったの!本当よ!」  
 車椅子の上でくるくる表情を変えながら両手をジタバタさせるレイに、太一が笑った。  
 「なんかレイちゃん、オモチャみたい。」  
 「……ぶー。なによそれぇ」  
 「スイッチ押すと暴れるくまのオモチャみたいにかーいいってことー」  
 いひひひひー。変な笑い声を上げた太一がぐん、と音がしそうなほど速く車椅子を押した。  
 「やだ!暴れてないわよ!」  
 「うそうそ、大暴れだーい!」  
 レイの髪がふわっと持ち上がった拍子に花のような香りがするのを確かめた太一は、歓声を上げるレイの乗る車椅子を押すスピードを更に上げた。  
 
 「ココアね、最初ちょっとだけお湯を入れて、スプーンで練るのよ」  
 よーく練ったら美味しくなるから、よろしくね。平たく形を整えたクッキー生地をオーブンに仕舞い込み、レイがリビングソファに座る太一に指示をする。  
 「さー頼んだわよオーブンちゃん」  
 赤いオーブンのドアの前で一心にお祈りをするレイの姿を鏡越しに見て、太一がニヤケる自分の顔を抑えきれないままマグカップの中身を掻き混ぜる。  
 「おばさんも食べていけば良かったのになぁ」  
 「ねぇ。図書館なんかいつ行ったっていいのに」  
 「あ、でも……もしかして慌てて逃げたんだったりして?」  
 「ひっどーい!これでもね、クッキーは何度も作ってるんだから!」  
 「だからこそ、だったりしてー」  
 太一が人の悪そうな顔で声を上げて笑うものだから、レイはぷくっと膨れて、食べてみて泣いて謝っても知らないからっ!と、そっぽを向いた。  
 「うそうそ!期待してるよーん」  
 マグカップから甘い香り。オーブンから香ばしい香り。そしてレイの家の香り。  
 太一はなんだか嬉しくなってきて、窓の外を不意に見上げた。  
 「うわっセーフ。レイちゃん見て、雪!初雪!」  
 「えっほんと?」  
 きこきこ音を鳴らしながら、レイの車椅子が太一の隣に並んだ。窓の外にゆっくり降り落ちる白い小さな綿毛が、足下の町に降ってゆく。  
 「うわー、寒いハズだわ」  
 うきうきしながら窓にべったり張り付いている太一を見て、レイはなんだか子犬のようだな、と思った。口に出したら怒るかもしれないので、内心に留めておく。  
 「おばさんとかネオとか、大丈夫かな」  
 心配を口にしながらも顔には外に出て飛び跳ねたい、と書いてある太一の横顔を見て、レイは笑顔を少し落っことしたような気分になった。  
 『わたしの足が普通なら一緒に外で走り回れるのに……』  
 そこまで思って、いけないいけない、と頭を振った。気温のせいね、どうも考え方が寒い方に行っちゃうわ。レイはいまだに窓に顔をくっつけんばかりの太一に気付かれない様、小さく深呼吸をする。  
 息を整えた頃、背中でオーブンのベルが鳴った。  
 「おっ!オーブンちゃんのお仕事が完了したわね。じゃあ雪見クッキーと洒落込みましょうか!  
 さてぇ、太一くんのお仕事ぶりが問われる番よー」  
 
 出窓に置いていた花瓶やぬいぐるみや写真立てを全部下ろして、フローリングにクッションと毛布を置いて、お盆には太一が練った甘いココアとレイの作った少しほろ苦いクッキー。  
 窓に雪。  
 電気は消してしまって、薄暗くもぼんやり明るい部屋。  
 お喋りさえ勿体無いような空気の中で、二人は黙って降る雪を見ていた。  
 見上げる曇天は所々に日の指すヘンテコな具合で、天然のスポットライトに光る屋根屋根はもう随分白く輝いている。  
 「すげーなー、映画みたい」  
 太一がほうっと感嘆の溜息をつきながら、さっきベタ褒めしたちょっと硬いクッキーを齧る。  
 「すごいねぇ」  
 レイはその横顔をちょっとだけ見て、相槌を打った。  
 部屋は少しだけ寒い。レイが羽織っている毛布は暖かだったけれど、ジャケットを脱いだ太一のトレーナー姿は肌寒そうだ。  
 『くしゃみでもしてくれたら、毛布に入ってって言えるのに』  
 なんてことを考えながらレイが窓をぼんやり眺めていると、隣でなにやらごそごそ音がする。  
 「うーん、ちょっと寒いかなー?」  
 えへへー。愛想笑いをしながら嫌も応もなく、太一がレイの毛布の端を引っ張っていた。  
 「あっごめん、気付かなくて……この毛布、使っ」  
 レイが最後まで喋り終わる前に肩から下ろした毛布がもう一度彼女の肩に掛かる。太一の手と共に。  
 しばし呆気に取られていたレイだったが、なんともいえない溜息をついて太一の胸に頭を預けた。  
 「ぬくーい」  
 その様子に満足げに声を上げた太一が毛布ごとレイの肩を抱く。  
 しんしんと雪は降り続いていて、相変わらず空は輝いたり暗がりだったりするけれど、二人は小さな苛立ちやつまらない懸案が解けるような気がして。  
 どちらともなく毛布の下で手を握り合う。不安がゆっくり崩れてゆく。  
 「レイ、ちゃん」  
 「……ん。」  
 短い返事と、短い沈黙。いつの間にか絡み合った指と指に熱が篭っている。  
 「――――――クッキーとココアの味しかしないね」  
 笑ったレイの顔に太一がもう一度キスをした。  
 「いや?」  
 眉を下げて尋ねる太一の子犬のような表情がレイの保護欲と嗜虐欲を程よく揺さぶる。  
 「いや…………じゃ、ない」  
 その返事を聞いた太一がこの世のものとは思えないほどいい笑顔をしたのは、言うまでもない。  
 
 髪がきれいだな、と思った。  
 たったそれだけのことを伝えるのが、こんなにも難しいものか。  
 手をつないで唇をふさいでもまだ何か足りないような気分だと太一は思った。あの頃、デジタルワールドでゼロと駆け巡った世界では知らなかった感情。苦しくて不安なのにどこか嬉しくてくすぐったいみたいな。  
 太一が迷い残るのろまな手つきでレイの手首を掴んだ頃、レイは太一がずるいと独り言をつぶやいていた。もちろん、頭の中でだが。  
 『ずるいずるい。あんな顔してあんなこと言われたら……イヤって言えないじゃん』  
 もどかしく緩慢な太一の体温が自分の胸に埋もれているのは嫌な気分じゃない。もちろんカテゴリは≪嬉しい!≫に決まっている。だが、レイはいつもの太一では考えられないほど臆病に自分に触れる彼の態度が気に食わないのも事実だった。  
 『……流されてるなぁ……』  
 「あっ」  
 頭の中の冷静さとは裏腹に、温かい太一の指がカットソーの中を滑ってゆくのが気持ちよかった。  
 もう三度目なんだなとレイは過去の情事を思い出す。頬が不意に倍くらい染まった気がした。  
 『やだわ、あたしってエッチなのかしら』  
 ニットのカーデガンが肩から引き剥がされるのを待っている自分の無責任さが怖くて、レイが太一の耳元で囁いたのは彼女の勇気が本物だと言う証明だろう。  
 「ね、あたしも太一くんの身体触っていい?」  
 ぎょっとしたのは太一の方で、声を上げる間もなくトレーナーの裾からレイの少し冷えた手が差し込まれるのを身を硬くして感じている。  
 「んんっ……れ、レイちゃん……今日はダイタン……」  
 ぞわぞわ猛る太一の中の激しさが一層勢いを増す一方で、ブレーキが同じくらい掛かる。前も、その前も、そうだった。大切な一言と一緒に衝動を飲み込んでしまう。  
 太一にはその理由が解っている。だけれども、それをレイに悟らせるわけにはいかない。優しくて機微に敏感なレイに要らぬ気苦労を掛けたくなかった。  
 「……ふぇっ……あ…ああ……っ」  
 声が聞こえるのは嬉しい。悦んでいる声を聞くのは恥ずかしいけれど、誇らしくもある。  
 「あっあっ……やぁ……!」  
 首筋を舐める。太一の髪に鼻が触れて、あのなんとも言いがたい心地よい香りが胸いっぱいに広がるのが、指先が潤う柔らかさの中に絡み取られるよりも満ち足りるなんて言ったら怒るだろうか。  
 夢心地の太一は赤く染まったレイの顎を額で上げて、頬を滑るように舌を這わせて唇を重ねた。  
 その味は幸せで、どこか少し哀しかった。  
 
 怖いなんてもう思わない。レイはそう信じている。自分で動かせない足を太一が容易く持ち上げる事でさえ  
恐ろしくない。感覚の無い足、感覚の無い肌、感覚の無い自分。それをレイは受け入れた。  
 『大丈夫、よくなるよ』  
 レイは知っている。良くなる事なんかないのだと。それでいいと納得させてくれた父や母、そして兄に煩わ  
しさというものを感じた事がない。それは自分と同じように、現実を受け入れた仲間だからだ。  
 『少しづつ良くなってる、がんばろう』  
 太一は知らない。レイのリハビリが足の機能を取り戻す為のものでなく、身体機能の低下を防ぐ為の運動だ  
ということを。  
 レイは心優しい太一を自分の現実に巻き込むべきか否かずっと迷っていた。事実を明かし、失望と自己嫌悪  
に囚われるだろう彼を想像するだけで辛かった。何度兄に太一との関係を告げて打開策を請おうかと思ったか  
知れない。  
 だが、レイはそれをしなかった。  
 「……きもち、い?」  
 「うん……もっとして……ぇ」  
 熱を孕む太一の指が自分の中をいとおしげに踊る。ズキドキ跳ねる鼓動の先には必ず太一の鼓動。  
 「た、いちくん」  
 「……な、に?」  
 「すき」  
 次の言葉は要らない、と宣言するようにレイは太一の唇に自分の唇を重ねる。痛い。痛い。胸が痛い。  
 息が出来ない。太一はぎゅっと目を閉じてまるで祈りでも捧げるようにそのキスを受けた。息なんて出来な  
くていい。彼女が居る、それだけで何も怖くない。  
 軽くて細いレイの足を緊張の面持ちを残したまま、太一がゆっくり開かせた。薄暗い部屋の冷たい空気がふ  
わっと動くのがわかる。  
 「レイちゃん、いいにおいする」  
 細く白い太股に唾液の伸びるまま、照りの残る唇を乗せた。温かい太一の唇とぬめる舌が触れ、レイは思わ  
ずはしたなくも艶っぽい叫び声を上げてしまうところだった。  
 「……ばかっ!」  
 思わず太一のつんつん髪ごと、太股を伝ってこちらへ滑ってくる舌を止めた。  
 「なんで?きもちくない?」  
 「だって……そんなの、やらしー……!」  
 レイの頬と同じように耳が赤く染まった。迷いなく自分を見つめている太一には照れなどどこにも見当たら  
なかった。ただ一心にレイの太股に舌を這わしている。  
 その表情がとても男性的で、なのにどこか献身的だったのだ。  
 
 「おれ、レイちゃんの為ならなんでもする。試しにめーれーしてよ。全部きくから」  
 ドキドキする。急に何を言い出すのかと混乱する反面、鼓動にあわせて太一の指が埋まっているそこがせつなく猛っていた。  
 「あっ……!」  
 緩慢な動きなのにもう取り戻せない苛立ちが二人の頭を支配している。一体何が動いているのか、一体何が元に戻らないのか、わからなくて不安だから自分達はこうしているのだろうか。  
 「……指を……」  
 「指を?」  
 紅く震える亀裂が蠢く。ゆっくり呼吸をするように、蕩ける湯気を吐き出すように。  
 「動かし……て…ぇ…」  
 カッと太一の耳が染まる。レイの鳴き声にも似た懇願が思いのほか濡れていたからだろうか、レイが自分を求めていることに深い悦びと優越を感じたからだろうか。  
 トレーナーの肩の部分をぎゅっと掴む白い指が桃色に染まり、太一に力一杯掴まっているその姿は、いつか見たどのレイでもなかった。太一だけのレイだった。  
 「あぅ、ぃ、ぃ、ぃ…く…っ!」  
 熱っぽく執拗に動かされる太一の指が、ぎこちなさも手伝って、ひどくはしたない音を立てている。部屋はしんと静まり返っているのに、その音とレイの抑えた艶声だけが太一の耳につく。  
 薄闇に匂い立つようなレイの姿態が、艶めかしく投げ出されている。あられもない姿のレイが薄く痙攣をして悩ましく太一の名を鳴いたのが限界だった。  
 「……たい、ち……!」  
 胸にぎゅっと抱いて絶頂を迎えるレイを諌める太一の心臓も、痛いほど胸を叩いている。  
 「あっあっ……ダメ……ぎゅってしたら……またいっちゃうぅ……」  
 ひくひく小さく動くレイの襟足に太一は舌を這わした。うっすら汗ばむ肌は暖かくて、少し涙の味がしている。  
 ぬるぬる粘液に塗れた太一の右手がまだしつこくも責め立てるので、レイは太一の乱れぬ呼吸をその舌で封じた。ずいぶんネバつく自分の唾液が、熱で煮詰まっているんじゃないかとばかな事を思いながら。  
 「ん……」  
 「前よか早くない?……そんなにきもちいかった?」  
 「もう!ばかっ」  
 「それともおれ上達してんのかなー」  
 にひひ。太一が悪戯っぽい笑顔で忍び笑いをしながら、ふやけた右手の人差し指を舌で掬った。  
 「……レイちゃんの味がする」  
 
 太一の目はいつも笑っている方がらしいと思う。鋭くて睨むみたいな怖い顔はキライだ。だからレイは真剣で真面目な太一を本当はあまり好きでない。カッコイイとは思うけど、笑ってる方がずっと素敵だと思う。  
 『でもこういう時に笑ってって言うのはちょっと違う気がする』  
 自分の身体の上に降る太一の香り、吐息、重さ。そのどれもいとおしいのにレイは太一の顔が真剣であれば真剣であるほど、目を逸らしてしまう。顔を直視できない。恥かしいのとは違う感情で。  
 「レイちゃん、こっち向いて」  
 太一はそれを見通したようにレイに声をかけた。囁くように、慎重に。  
 耳元で踊る熱と振動。レイは思わず強く目を閉じる。  
 「おれのことこわい?」  
 「……ちがう、とおもうけど……わからない」  
 瞼はまだ開かないで、レイが小さく答えた。声が少し憂鬱に揺れている。  
 「おれ、レイちゃんの嫌がることしない。なんでも言うこと聞く。  
 だからめーれーして。わかんないんだ、君のこと。  
 だから教えて。黙ったまま笑ったりしないでさ……何でも言えよ……」  
 だめだ、笑え、笑えよ俺!太一が自分の震える声を必死に叱咤するのとは裏腹に、彼の目は渋く閉ざされていた。目に映る脅えたように見える表情のレイを直視するのが辛かったのだろう。  
 それを見たレイは短く途切れそうになる自分の呼吸を用心深く整えて、両手を伸ばし……  
 「ひゃあぁぁ!?」  
 途端に太一が目を白黒せわしなく動かして叫んだ。レイはしてやったりといった表情でにんまり笑う。  
 「耳に指突っ込んだくらいで、太一くんったらビ〜ンカーン」  
 ゾクゾク総毛立つ背筋も収まらない太一が両手を耳に当て、大仰に声をあげてしまった事に今更ながら慌てる間もなく、レイの唇が太一の上唇に触れた。  
 そしてゆっくり滑り落ちるように、下唇にも。  
 全身を幸福で浸されるようなレイの愛撫はいやらしさがなく、太一はうっとりとその甘美に飲まれてしまう。  
 「ね、急に耳に指が入ってきたらビックリするでしょ。怖くないけど、ビックリするわよね。  
 これってそれと同じだと思うの。  
 いつかビックリしなくなるまでは、やっぱりビックリし続けちゃう。  
 だからね、ビックリしなくなるまで、待ってね。私がビックリしても……怖がらないでね」  
 離した唇がまた重なり合って、太一は目を閉じた。レイの言葉にうん、と短く応えて、たくさんしようね、と続けた。  
 レイは温かい太一のはだけた肩につかまり、私も怖がるのやめよう、と思った。  
 怖がってばかりでは前に進めない。踏み出す足は動かないけど、私には手も口も身体もある。  
 太一が逃げないで可愛がってくれる、この自分自身が。  
 
 ぴんと仰け反って張り詰めるレイの服が巻きついた身体からところどころ零れる肌が鈍い光を反射していた。毛布の上に胡坐を掻くようにして座っている太一の腰の上で何度も跳ね上がるレイは必死にしがみつくようにして小さく声をあげる。  
 「やっ!……あっあっあぁ…ぁー!」  
 「はぁっ!はっ……はぁはぁはぁ……」  
 「やだ、やだ……やだぁ……!」  
 「なにが、なにがいや?」  
 「や、やあぁあぁぁ……!ああぁー」  
 ひっくり返ってめちゃくちゃな発声のわりには、レイの目はずっと太一を見据えているし、その顔は艶やかに笑っている。いや、という言葉の意味深さを示すように。  
 「もう、いくのが、いや?」  
 太一が笑って一層高く腰を突き上げた拍子に、レイの言葉とも悲鳴ともつかない声が途切れた。  
 「〜〜〜ィ……っ!!」  
 瘧病みのように痙攣を続け、吃音ともしゃっくりとも取れるような空気の出入りの音をさせながら、レイが太一の腕の中で何かを振りほどこうとするかのように身悶えた。  
 太一は首が締まりながらも、それより強く収縮するレイの身体に同調するように、人口の皮膜一枚隔てて思いの丈を吐き出す。  
 「……スゲ……レイ、ちゃん……すげぇ…いっぱい出ちゃった……」  
 息が出来ないから気の利いた一言がいえないわけではない。  
 胸がジーンとうるさい。  
 暴れ狂う全身を駆け巡っている血の大騒ぎとは違う、深くて切ない、そういう煩わしさ。  
 胸がこんなに震えているのに、何か足りないような気がする。  
 身体がこんなに喜びに戦慄いているのに、何か欠けているような気がする。  
 二人はそれを無意識に手探り、二人同時に探し当てる。  
 太一の指と  
 レイの指が  
 お互いの手を探り当て、どちらともなく触れ、絡み、強く握り締められた。  
 互いの首筋に顔を埋めて深呼吸をして、二人同時に声をあげて笑った。  
 嬉しくて、おかしくて、笑い転げた。  
 服も髪もぐちゃぐちゃで、おまけに下半身は未だに繋がったままで、それは結構な間抜けぶりだったけれど、そのとんちんかんさも可笑しくて可笑しくて、二人は笑った。  
 おなかが痛い。喉が枯れる。頭がおかしくなりそう。そう言って二人は笑い続けた。  
 涙が出るほど笑った二人の手は  
 しっかり握ったままだった。  
 
 「わたしね!これやりたいの!」  
 レイがモニターを誇らしげに指して、電子レンジで作った蒸しタオルで首筋を拭く太一に見せた。  
 「うわスゲー!……スゲーけどこれ、あぶねーよ!怪我しないの?」  
 モニターの中で跳ね回る“バックフリップ”(後方宙返り)や“ヒールフリップ”を決める『車椅子に乗った』少年達を熱っぽく見つめるレイに水を差すようで居心地は悪かったが、太一が口を挟んだ。  
 「怪我しないように練習するんじゃない。」  
 「……でもこれ、一回でも失敗したら車椅子の重みで首の骨折らねーか?死んじゃうよ」  
 「そんなのスキーでもスケボーでも一緒でしょ?プールとかトランポリンとかで練習してから地面でやるの。……太一くんもお兄ちゃんと同じこと言うのね。」  
 「実の兄と同じくらいレイちゃんを大切に思ってると言って欲しいなー」  
 ふん、と鼻を鳴らして太一がレイの車椅子に肘をかけてもたれた。  
 「――――大切にしてくれるのと、仕舞い込むのとは違うと思うわ」  
 少し強い口調でレイが反論した。その目はまっすぐにモニターに映る数々の車椅子トリックを見ている。  
 「太一くん、わたしのこといつもどっかカワイソウって思ってる。  
 私ちっともカワイソウなんかじゃないわ。足が動かないだけよ、たったそれだけなの。  
 優しい家族が居るし、頼りになるお兄ちゃんもいる。心強い友達も、デジタルワールドで結ばれた仲間だって居るわ。なにより太一くんが側にいるじゃない。  
 勉強して大学だって行きたいし、いつかは太一くんともっと長くお付き合いしたい。  
 色々やりたいことの一つなの。何にも不自由なんてないわ。……ないのよ」  
 意志の強そうな目はモニターの光を受けて輝いていて、そこにはちっとも悲壮感はなく、だからと言って楽観的に構えている様子もない。  
 「すごいな。  
 レイちゃん……なんかスゴい。  
 おれなんかまだ自分の言葉を上手く言えなくて、単語探して詰まるけど……レイちゃんをかわいそうだって思ったことなんかないよ。  
 なんか置いてかれそうな気がして、しがみ付いてるだけなんだと思う。……おれカッコ悪いなぁ……」  
 眉尻を下げ、低い声をめいっぱい絞りきるくらいにして、太一がやっとのことで言った。  
 「ばかねっ!」  
 ばん!とレイの手が太一の背中を叩いた。  
 「太一くんの一人や二人、どこへだって連れてってあげるわよ!わたしが!」  
 そんな辛気臭い顔してちゃゼロくんが怒るわよっ!レイの弾んだ声と同時に、もう一発太一の背にレイの平手がとんだ。  
 「……三人だったら、1000%だ」  
 「そうね!ますます無敵だわ!」  
 太一は笑うレイを見ながら、今もしキスをしたら、さっきみたいな哀しい味はきっとしないな、と思った。  
 

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