こんな事はもはや無駄だと知っているのに、二人はせずには居られない。
もっと正確に表現するならば、二人でここに居る為にしなければいけなかったとも言える。
狭いホテル、外は暗闇。出てゆく宛てもない光子郎を放り出すことなどミミには出来なかったし、静かな一室にたった一人ミミを置いてゆくことなど、光子郎には考えられなかったから。
部屋の薄暗い明かりの具合でそう見えるのだろうか?短い光子郎の指がキーボードの上で細かく動くようにミミの首筋に添えられた。彼女はそれを咎めることなく、顎をその指の上で滑らせる。
いつもの合図。
ちぐはぐなぐらい雰囲気に似合わない。
ミミの頬にはまだ涙の跡が残っていた。光子郎の全身にはまだかすかな震えが消えないままだ。
二人は心底相手を恐ろしく思っていたのに、身体がいつもの通りの手順で相手の悦ぶ場所を探り当て、そこをいとおしげに撫でるので、まるで自分達が機械仕掛けかプログラムにでもなってしまったような気がした。
キスをする。唇には一片の力も篭っておらず、熱が灯り、水を湛えるかのように潤んでいる。
いつものように。
ミミは瞼が熱くなってくるのを必死で我慢して光子郎の後ろ頭をぎゅっと抱きしめ、光子郎は投げ出したくなりそうなミミの背中を情熱的にまさぐり、震えを誤魔化した。
一番最初に彼女の肌に触れた時の震えとは違う。あの時の胸の痛みはちくちくと酷かったけれど、幸せだった。濃い空気は熱くとろとろと身体中に纏わり付いたけれど、暖かな湯に浸かっているようで心地良かった。
『怖い』
触れるのが怖い。自分を曝すのが怖い。一緒に居るのが怖い。
自分を少しも偽れず、光子郎はただ恐怖した。素直に、何の用意もなく、気構えも出来ず、ただ恐ろしさに身を縮めるしかなかったのだ。なのに自分の身体はいつも通りにミミの肌を摩り、唇は気を抜くと愛しいと囁こうとする。
『怖い!』
何か喋ることが出来ればよかった。自分が彼の唯一の言葉という武器を封じてしまったことを刻一刻と過ぎてゆく時間に思い知らされ、その恐怖と後悔にミミは肩がわなわなと震えていた。
両肩に手が触れる。手が両肩に触れられる。互いに電気に触れたかのようにびくりと痙攣した。
それでも二人は何の声も上げない。
その様子に、耐えているかのようだとそれぞれが他人事のような感想を持つ。
律儀に興奮する自分の身体がおかしかったが、いつものように楽しいとは思えないのだ。喉はからからに渇いているのに舌にはたっぷり唾液が滴っていて、心臓もどきどきと早い鼓動を打った。
ミミではなく、他の誰かを抱いているような気がした。中指をいつものようにそっと濡れた茂みの先に沿わせても熱いぬかるみに埋めても、泥濘の音は寒々しく空虚な気分しかしない。義務のような。
視線の先にくねりながら声をあげる彼女が居ても、それがガラスでも挟んでいるかのような距離を感じるのは、一度もミミが目を合わさないから。……かと言って仮にミミが光子郎の顔をしっかりと見据えていたなら、彼は視線を逸らしただろう。
不自由や不都合が無い程、身体を合わせる準備は二人とも整っている。
だが、光子郎は執拗にミミの身体を弄くり、自分の性器には触れないようにしていた。ミミはミミで、自分の身体を投げ出すように好きに触らせ、光子郎の身体に自分から触れないように身を硬くしている。
――――――本当は、したくないんでしょう?
そう尋ねられたならどんなにか気が楽になったろう。
……なみだ出ちゃう……
ミミはそれでも涙を食いしばる。流してしまったら最後、自分の強がりの全てを悟られてしまうような気がして。
悟られてしまったら、今度こそ軽蔑されるような気がして。……軽蔑してしまいそうな気がして。
眉間にしわを寄せ、薄く仕舞い込まれた唇は固く、それでもつんと上を向いた彼女の胸の先端。いつもと違う張り詰めた肌に異常な興奮を感じるのに、どこか頭の中に霧がかっていて楽しくない。光子郎はその違和感を何とか振り払わんが為、息を止めてミミの身体に押し入った。
いつもどおりのぬる付く彼女の身体の内側なのに、ちっとも心地よく思えない。ふわふわ空中に漂ってるみたいに頼りなく、不愉快な車酔いに似た嫌悪感すら覚える。
仲間内では聡明な役目をいつもこなしていた光子郎にもしばらくその原因がつかめない。簡単で単純な、その理由が。
足を上げて 唇を這わせ 指を埋め込み 肌を擦る。
いつもと同じように。
粘りつく手の平を頬で拭い、左腕に舌が滑り、脇腹と臍を擽った。
いつもと少し違って。
視線を合わせないミミの顔を舐める光子郎、悟られぬように光子郎の身体を見つめ続けるミミ。
キスをする彼女の唇に力が篭っていて、光子郎は違和感の原因にやっと思い至った。
だが彼にはそれを言葉に出来るだけに力は最早残っておらず、真夏というのに凍る吐息となってすぐ霧散した。
鉛のように重い身体が弾んでいる。静かな部屋。とても静かで、酷くうるさい。
でもお互い何も言わず、荒い呼吸だけが蔓延している。
惨めったらしい、とミミが思っている。意地汚いな、と光子郎が思っている。伝えぬまま、ぼんやりと。
「……寝よっか……」
「――――――はい」
『……ごめんね。』
そう一言残して光子郎が朝薄暗いうちに部屋を出、ミミは予定を繰り上げて09:02の便で機上の人となった。
ミミは腫れぼったい瞼を持て余しつつも、雲を眼下に捉えながら罪悪感とは違う感情を持ち、何故か涙が出ないことを不思議には思わない。
日本で最後に聞いた彼のセリフが全てを物語っているような気がする。
「簡単な言葉……。」
キスをして欲しかった。抱きしめて欲しかった。身体を愛して欲しかった。解り合うために。
だけどその一方でミミには光子郎の行動の理由がなんとなく予想が付いていたことを知らぬ振りは出来ない。
「……あたしはテントモンにはなれないのよ、光子郎くん」
彼は寂しいのだ。いつもいつも寂しいのだ。たまらなく孤独で物足りなくて、飢えている。どこかふわふわと漂っていた彼を何とか地に下ろしたのはテントモンであり、彼はその影を引きずりながらいつでも「再び失う事」を恐れている。
だからミミに執着する。だからミミに固執する。だからミミを放さない。
「―――――――あたしに言ったじゃない、パルモンと離れても何も失くしたりしないって……自分で言ってたじゃない。」
言い聞かせていたのだろうか。自分自身に。ミミは窓に映った眉を顰めつつも泣きもしない自分の顔を哂う。
こんな日がなんとなく、来る様な気がしていた。こんな日が来ないように懸命だった。なのに今この事態に自分はこんなにも平静なのは、初めから知っていたからじゃないのだろうか。
この恋がうまくいかない事を。
「あの時ポケットに詰め込んでアメリカに連れ去ってれば…………ううん、きっと……」
愛してる。愛してるわ、離れても。
愛してる。愛してるわ、心から。
祈るようにミミが頭の中で数度唱え、ゆっくり長い溜息と共に全身の力を抜いた。
マンションのエントランスで目ざとくミミを見つけたマイケルが駆けて来て声を掛ける。
「やあ、休暇は有意義だった?」
「……まぁね」
ミミの素っ気無い言葉と表情の隅に、マイケルが違和感を覚えるようになるのはもう少し先、そして彼が自分の行為の先にこの態度があることを知るのは……それよりもっと先になる。
「連絡してくれれば空港まで迎えに行ったのに」
キャスターつきの旅行鞄を緩く握っていた手を制してひょいと持ち上げたマイケルの顔を、ミミは力なく一瞥して「マイケルは旅行楽しかったみたいねぇ」とまたぼんやりした目でどこでもないどこかを見た。
「写真も一杯撮ってきたよ。みせっこじゃ負けないぐらい」
「……どーでもいいけどなんであんたがうちのマンションに居るのよ。まさか前で張り込んでいたんじゃないでしょうね?」
じろり、と大きな帽子をちょっとだけ持ち上げてミミが気楽そうなマイケルを睨む。
「あはははーミミちょっと自意識過剰ー。このマンションのおばさん家に寄った帰り。おばさん科学雑誌の記者やってるからさ、昇級試験ギリギリだったサイエンスの点数稼ぎに自由研究でもやろうと思ってネタを貰いに来たんだ」
ミミもやらない?そう言ってマイケルは左手に抱えてた科学系と思わしき古雑誌の束を見せた。
「結構流し読みしてるだけでも面白いよ。例えば……『人の唾液からモルヒネの数倍の鎮痛作用を持つ物質発見さる!その新ペプチドをOpiorphin(オピオルフィン)と命名』とか」
すらずらムズカシそうな説明文を読み上げながらマイケルが旅行鞄と古雑誌の束を物ともせずに軽やかに歩いている。
ミミは多分光子郎くんだったら間違いなく旅行鞄は引きずってるだろうなぁ、とぼんやり考えて、ハッとかぶりを振った。
「ねっねえねえ!つまりそれってどういうこと?」
「だからさ……んーと、傷を舐めたりするのって実はとっても理に叶ってるって解ったんだよ。唾液って殺菌効果もあるし」
「でもさ、モルヒネって麻薬でしょ?それよりキツーイ薬がいっつも口の中にあるのって……」
頭の中を空っぽにしながら思いついた言葉だけをミミが喋る。なのに頭がついていかない。
「……唾液ってダウン系なんだ」
「――――――そう言う考え方もあるね」
ねえ、うちに来て一緒に自由研究やらない?共同研究ってことにしてさ。ミミの突飛な発想って面白いと思う。マイケルがはしゃぎながらそんなことを言うので、ミミは呆れながら言った。
「フラフラ紛らわせて夢うつつのあたしから痛みを取り上げる薬なんて要らないわ。苦痛も腐心もあたしのものだもの」
「?……そりゃ乱用すれば何だって悪いさ。要は用法容量の問題。現に僕たちは唾液ジャンキーじゃないだろ?」
マイケルがやはりのん気そうに笑いながら先を歩いた。もうすぐエレベーターホールだ。
……あたしの方がジャンキーなのかしら……
殴られた後のように痺れるミミの頭のどこかが、勝手にそんなことを言った。