to remenber  
 
 彼がパソコンに向かう時、私は居なくなる。居なくなるっていうか、消える。  
 必死でキーボードを操作しながら同時に二つも三つも画面見て挙句にマウスでクリッククリック。頭がヘンにならないのかしらね。私なんかやっと両手でキーを打てるようになったってのに。  
 カチカチカタカタ鋭い音が響く。時々小さく口の中で何がつぶやいているけれど、その内容は私には計り知れない難しいことばっかりでちっとも解らないし、興味が無い。  
 「ねぇー、パソコンで難しい事ばっか考えてて頭痛くならなーい?……もう終わりにしようよー」  
 ヒカリちゃんとタケルくんは未だにパソコンに噛り付いてる光子郎くんにあきれて、全員に連絡を付けるついでにテイルモンとパタモンを連れて飲み物を買いに外へ出て行った。  
 「まだです。クラモンをデリートするのが現実不可能なら、せめて一度開いてしまったデジタルゲートを閉じなければいつまた出てくるか解りません。所詮は応急処置ですが出来ることは全部しておきたいんです」  
 なによ、返事する時くらいこっち見なさいよーっ……と怒る気力も失せた。疲れてるくせに、こうと決めたら絶対にてこでも動かない頑固なのは嫌と言うほどよーく知っていたから。  
 「それさっきも聞いたぁ。あと何時何分何秒に終わるか知りたいのー」  
 「京くんが無制限にポートやらゲートやらなんやら全開にしてくれたもんで、一つ一つ手動でロックしているわけですから……とりあえず今の所はなんとも……」  
 カタカタカタカタ。迷いのないキータッチの音が早くなったり遅くなったり。  
 私はキーボードを取っ払ったデスクに顔を伏してその音を聞いている。緊張から解き放たれた頭に心地よく響く無機質なリズムは、まるでピアノの演奏みたいに淀みなく続く。  
 私はあのパソコンの中には居ないのに、こんなに傍に居るのに、まだちゃんと話してさえないのに。  
 腹立たしい反面、いつもと変わらない彼の態度に少しだけ安心する。まだ彼は彼のままだった。変わらず、あの時のままの光子郎くんの元に、懐かしの我が祖国に、思い出の我が故郷に……私は居るのだ。  
 「そう言えば、この後ってどうするんですか?」  
 珍しく彼から話題を振ってきたけれど、顔は相変わらずパソコンに向いたままペットボトルを傾けている。  
 「……私ラブホテルのお風呂って好きじゃないのよねー」  
 ぶぴ。口に含んでいたウーロン茶が噴出した。ギリギリでモニターにもキーボードにも掛からずに済んだようで、その代わりを全部引き受けたカーペットはべっしょり濡れている。  
 
 「げほっげほげほげほげほ」  
 赤い髪が苦しそうに咳き込んで机の陰に頭を落とす。  
 「うゥー!きちゃなーい。なにやってんのよォ泉センパーイ」  
 うえー、と眉を顰めて身を仰け反らせ、私は大げさに顔をゆがめた。  
 「ななななにを言うんですかいきなりっ!こ、こっここ、が、学校ですよ!」  
 ペットボトルのウーロン茶というのは、いや、缶入りでもそうなんだけど、鼻に入るとものすごく痛い。吹き出るのを押さえようと無意識に口の中で逆流させたのが鼻に入ったら、これでもかというほど痛いんだろう。  
 「泉センパイ、鼻水出てるよ」  
 「だっ誰のせいだと思ってるんですか!」  
 ちり紙で鼻をかんだり涙をふいたりよだれを拭ったりして必死に体裁を整えている彼の傍に立ち、床に零れたウーロン茶の染みを机の陰に掛けてあった雑巾で覆ってぎゅうぎゅうと足で踏んづける。  
 これは彼。きっと見立てて踏みつけられる理由も解らない、ニブいあなた。  
 「だーって。泉センパイがこの後どうしますーって訊くからさー。お風呂入りたいなーと思ったけど、まさか泉センパイをおばさん家に連れて行くわけにはいかないじゃない。そしたら必然的にラブホかなーって」  
 「飛躍しすぎです!……だいたい、なんですかその“イズミセンパイ”ってのは」  
 あ、ようやく顔、見たわね。もう一押し。  
 「京ちゃんにそう呼ばれてニコニコ嬉しそうな顔してたから」  
 私はぷいっとそっぽを向いた。その場を去ろうという素振りもなく、腕組したまま彼のそばで雑巾をグリグリ踏んづけている。解るかしら、大ヒントよ。  
 「……じゃ、京くんにもみんなと同じように光子郎さんと呼んでもらうようにします」  
 思わずハッと驚いた顔を跳ね上げてしまう。首から下がっている星のペンダントが大きく揺れてささやかな音を立てた。そ知らぬ顔をして平気の態度を崩さずにいた彼の唇の端がにっと持ち上がる。  
 「――――――嘘ですよ」  
 椅子の小さなタイヤが小さな音を立てながら転がっていった。立ち上がった彼の目線と等しく自分の視線があることに驚きを覚えたのはいつだったか、もう実はよく思い出せない。  
 キャスター椅子がどこかにぶつかった軽い音を聞きながら、ミミさんもやきもち焼くんですねと彼は笑った。  
 
 「なによ、それ」  
 「ぼくばっかり好きで、ぼくばっかりやきもきしてて、ぼくばっかり片想いなんだと思ってました」  
 言われて自分の頬がぽっと染まったのがわかる。それを見てはじめて自分が結構恥ずかしいことを言ったことに気が付いたのか、同じように彼の顔が赤くなった。  
 外はまだ暗闇がそこここに残っていて、気温も少し肌寒い。朝の光が弱々しく校庭を照らしているけれど、まだ夜の匂いがしていたのが…少なくとも私の…スイッチを入れたのかもしれない。  
 「……ヒカリちゃんたち、帰ってきちゃうよ」  
 熱っぽい声でかすれる様に、目を少し彼の顔から逸らして囁いた。頬が染まった彼には触れず、でも彼から離れないそんな位置で囁く。どっかの映画であったわ、こんなシチュエーション。  
 彼が急に顔を伏せ、キャスター椅子の無くなった机の下にしゃがみこんで手招きをする。おいで、おいでと。不審で突飛な行動に机の下を覗き込んで訊ねる。彼は無言で顔を伏せたまま手招きを繰り返した。  
 「な、何よ急に……おなかでも痛いの?」  
 私の体がすっぽり机の影に入ってしまう。薄暗い闇の中に小さく縮こまりながら招く手がすうっと溶けて、思わずもう一歩踏み込んだのが間違いだった。  
 「――――――痛いのは胸です。どきどきして止まらない」  
 もうあのころの声じゃない。一言一言のすべてに私を惑わして痺れさせる毒を抱えている。闇から伸びた手が私を抱きしめて捕らえた。一瞬強張った自分の身体が、まるでオーブンの中でチーズが蕩けるようにゆっくり体重を預ける。  
 「……治してあげよっか」  
 圧し掛かるように押し倒し、脇の下と胸に温かい手をついて彼を見下ろしている私の顔は今どんなのだろう。長いまつげも鈍く光る唇も、さらさら流れる大きくカールした髪も、どれもこれも自信があるわ。  
 「是非」  
 穏やかな速度で合わされた唇がぬるぬると何度も角度を変え、深さを変え、彼を侵食する。ゾクゾクと熱に浮かされた背筋が甘く痛み、頭痛に似た血液のめぐりがこれが夢でないことを私に教えた。  
 「…………こーしろーの、えっち」  
 唇を離して笑った顔を出来る限り挑発的に飾ったつもりだけれど、赤く染まっていてひどくいやらしい、と思う。  
 もしそれを光子郎くんが口に出したら、きっと私怒鳴りつけてたわ。  
 
 「あれ、光子郎さんとミミさんは?」  
 男の子の声がして正気に戻った私が、慌てて折った腕を伸ばそうと力を込めようとしたのがまさかあらかじめ解っていたのかしら。阻止され抱き潰すようにもう一度彼が腕に力を込めた。  
 もしあのころ、あの頃なら、腕の長さだって身長だってもちろん力だって、負けはしなかったはず。振りほどいて抜け出すのなんか簡単だったに違いない。  
 「ドア開けっ放しでどこいったんだろう」  
 耳を当てている胸に打たれる規則正しい鼓動の早さは、いつか触れた時と似ている。ガラガラと引き戸が閉まる音を最後まで聞いてようやく痛いほど締められていた腕から力が抜けた。  
 「……タケルくんに悪いことしましたね」  
 耳のすぐ傍で彼の声が聞こえる。それがゾクゾクと背筋に電気を走らせるというのに、靄掛かった頭だか胸だかはなんだかすうっと冷めてしまった。  
 「もういいでしょ、離して」  
 「やです」  
 「や…やですって……」  
 「だから離すのが嫌だってことです」  
 「あのねぇ、ここ学校なんじゃなかったの」  
 「でも嫌です」  
 「――――――デジタルゲート、ほったらかしにしてらんないんでしょ?」  
 「……もしかして、妬いてます?」  
 「ふん、パソコンになら妬き飽きちゃったわよーだ」  
 力が抜けた腕から立ち上がるのは容易かった。闇のはびこる机の下から抜け出して私は髪をかき上げる。背中でため息をつきながら彼が立ち上がる気配がしたから、そっとその場を離れて元居たパソコンの机に着く。  
 「20分です。今から20分で全部閉じて見せます。そしたら」  
 同じように席に戻り、視線も厳しくモニターを睨みながら彼はすこしだけ言いよどんだ後、小さな声で言った。  
 「……ミミさんの気に入るお風呂に行きましょう」  
 大きなデスクトップパソコンの陰で顔が見えない。……変わってないんだから、パソコンを盾にする癖。  
 
 
 ひどく寒くてほの暗い、自由の利かない水の中に沈んでゆく夢を見た。  
 その場所は静かでなにもなく、絶えず揺らめいていて考えがまとまらない。ただ寂しくて形のない不安が渦を巻いている、そういう場所の底にじわじわと沈んでゆく夢。  
 それは後からデジモンが見せた世界だったと聞いたけれど、私はそれが荒唐無稽な現実でない世界だとは到底思えなかった。どんどん子供に戻ってゆく自分の手、あんなに長くてスマートだったかわいい足が短くなってゆく。  
 “幸せだったあの頃に戻りたい”  
 そう願ったデジモンがその後どうなったのか、私は怖くて聞けなかった。  
 「バスタオル、ここに出……ミミさん……居ますよね?」  
 バスルームのドアの向こうにいっそう深い人影が横切ったのを視界の端に認めたけれど、それに返事は返さない。  
 「電気消えてますけど、つけましょうか」  
 おずおずとバスルームの中に篭って低く響く声が湯面を振るわせる。  
 「……返事をしてください。電気、つけますよ」  
 お湯がぬるくなっているのか、湯面から突き出している首筋にぞくぞくと寒気が走った。まるであの時みたいだと頭のどこかが勝手に思う。  
 生まれて初めてキスをしたのは小学校の校門の前。  
 最初のキスは意地悪だった。モチモンに会った事を自慢するように話す彼が憎らしかった。もう二度と開かないはずの扉の向こうから僕を心配してきてくれたんだよとはしゃぐ彼。悔しくて羨ましくて、腹立たしかった。  
 一人でアメリカに行かなきゃならない私じゃなくて、どうしてあなたばかり。  
 だからファーストキスを奪ってやった。ざまぁみろ、これで私のことが忘れられなくなるわ。これで今日の事を思い出す度にモチモンの事を思い出さなきゃならない。ざまぁみろ、ざまぁみろ、ざまぁみろ。  
 ぱちんと音がして明かりが灯った。湯面にランタンの形を模した照明がきらきら光を放つ姿が映っている。その隣には睨んで可愛げのない自分の顔も。  
 ミミちゃんどうしたの、いやな顔して。頭の中でそう声を掛けたけれど、もちろん湯面に映る私は何も答えない。  
 「ばかね、そんな顔したらこーしろーくんが怖がっちゃうじゃない」  
 湯面に映る私は唇だけぱくぱくと動かして何かを言う。  
 その時、バスルームのドアがゆっくりと開いた。  
 
 「あの……ミミさん…湯あたりでも起こしました?」  
 ちらりと視線を走らせると、背中を向けた赤い髪が扉の隙間から少しだけ覗いている。  
 「なんか気分悪いの、湯船から立てない」  
 「もう、長湯してるからですよ」  
 「引っ張り出して。お願い」  
 「ひ…引っ張り……って……」  
 彼が何かを述べつく暇もなく私はゆっくり湯の中に顔を沈めた。じわじわぬるい湯が頬を登っているような錯覚は、いつも忘れてしまう眠りに落ちてゆく最後の記憶のよう。  
 ずぶずぶ埋没して、ぬるい湯の中で息が出来ない。花びらが舞うように昇っていく気泡がふっと影に飲み込まれて見えなくなったと思ったら、ものすごい力で引っ張り上げられた。  
 「なにバカやってんですか!」  
 怖い顔で怒鳴られても、まだ頭の奥が低く静かに痺れて煩わしい。  
 「せっかく着替えたのに……ほら、自分で立ってくださいよ。小さな子じゃないんですから」  
 軽々と持ち上げられた自分の身体は、彼と同じ身長だった。目線のすぐ下にあったつんつん頭はもうどこにもない。赤い髪はきれいに整えられて短くなっている。  
 私はそれがなんだか無性に悲しくて寂しくて、引っ張り上げられた腕にしがみ付いて泣いた。  
 「ちょ、ちょっと……!」  
 ぽたぽた滴る冷めた湯が彼の肌触りがいいパジャマに吸い込まれて歪んだ斑点をつくる。髪の先から流れた水滴はまるで涙のようで、私はますますわけもわからず悲しくなる。  
 会う度に身長が伸びて、会う度に触れられる力が強くなって、会う度に私の知らないあなたが居るの。  
 ある日突然、私の見知らぬ泉光子郎になっているかもしれない。  
 「何がそんなに悲しいんですか」  
 「わかんない」  
 「嫌な事でもあったとか」  
 「わかんない」  
 「……とにかく上がりましょう。二人とも風邪引きます」  
 
 バスタオルでもみくちゃにされて服を着せられ、髪をドライヤーで無造作に乾かされた。拾ってきた犬みたいだ。  
 ときどき声をかけながら様子を窺われて髪を櫛でとかされ、私はそれでも身体に力が入らない。借りた彼のパジャマの袖や袂がだぶついていて、尚更気分が落ち込む。  
 「帰国していきなり徹夜ですからね、疲れが出たんですよ。さっき両親から電話があって、帰ってくるのは明日の昼過ぎになるそうです。ディアボロモンのおかげと言っては不謹慎ですけど」  
 ドライヤーのコードをくるくる巻き取り、バスタオルを大雑把に畳みながら部屋を出てゆく。隣の部屋でごそごそと音がして彼が戻ってきた。  
 「ゆっくり寝て、起きたら元気になりますよ。ミミさんはこの部屋で寝てください、ぼく両親の部屋で寝ますから」  
 ドアの向こう側に立って廊下の向かい側の部屋を指差したのだろう、少し身体を回転させようとした仕草が癇に障って、私は思わず声を上げた。  
 「なにそれ!せっかく一晩一緒に居られる滅多にないチャンスなのになんでそんな意地悪ゆーのよ!」  
 「い、いじわるって……いや、だって疲れてるんでしょう?」  
 驚いた顔をして彼が回転させかけた身体をドアの隙間から滑り込ませる。  
 「疲れてるわよ、だから一緒に居たいんじゃないの!どうしてわかんないのよ!」  
 「だ、だって……一緒に居たらもっと疲れるじゃないですかっ!」  
 ドアを閉める事も忘れて同じようなレベルで、でも少し顔をそむけて彼が声を上げた。  
 「ひっどーい!こーしろーくんは私と居ると疲れるっていうの!?」  
 「……ある意味凄く疲れます。そばに居るのに触れられないのは拷問に近いですから」  
 ぱたん、と軽い音がして彼の後ろ手でドアが閉まる。  
 「…………私に触りたいの?」  
 「だって、こうして二人きりなの半年以上ぶりだから」  
 ドアの前から彼は動かない。相変わらず私の顔を見ない。  
 「どうしたい?」  
 「甘えたいです。抱きしめたいです。思う存分ミミさんに触りたい」  
 「……イヤだって言ったら?」  
 「…………悲しい……」  
 
 重苦しいようやく搾り出し低い声で、そう唸られた。俯けられていた顔がぐっと上を向いて、自分で分からない盲点も何もかもを居抜くようにしっかりとした迷いのない視線が向けられる。  
 「どれくらい?」  
 それは見た事もない彼の顔で、恐ろしくさえあったけれど……逸らしたり出来なかった理由は恐怖ではないと思う。  
 「胸が裂けそうなくらい。涙が出るくらい。世界が終るくらい、かなしい」  
 私はベッドの下から動かない。立ち上がりもしない。小さく呟く彼に歩み寄る事もしない。  
 「……私、夏が来るたびに思い出すの。自分の影で消えてしまう小さな影とか、頭一個分下にあった頭とか。  
 でもこんなに大きくなってしまって、力だって、足の速さだって、もう敵わない。あんなに小さくて頑固でしょうがない子だったのに、目の前に私の知らない“泉光子郎くん”が居るの」  
 春先と言えど、夜はそれなりに冷える。ぬるいお湯の中にずっと浸かっていた私の身体には尚更寒さがしみた。  
 「じき中2の男ですからね、背も伸びますよそりゃ」  
 彼が済まなさそうに身を縮めて見せたのは皮肉だったのかもしれない。お世辞にもスポーツマンとは言えないけれど、ひ弱で頼りない印象は持てない身体は記憶にある彼よりずっと凛々しいのだ。  
 「いつの間にか同じ身長になってて……いつの間にか追い抜かされて……やだな。  
 力も強くなって勉強もして……それが当たり前だしそれが自然なのよね。……でも嫌。寂しいじゃない、みんなでいつまでも一緒に居たいわ」  
 “幸せだったあの頃に帰りたい”“喪なわれた時間を取り戻したい”こんな理不尽な願い事を叶えてくれる神さまが居ないことは、そう願う人間なら誰でも知っている。  
 「……やっとミミさんに身長が追いついて、ミミさんが振り払っても逃がさないように出来る力がついて、ぼくは嬉しいですけどね」  
 手が大きくなる。首筋が逞しくなる。どんどん身体が変わっていく。私の知らないあなたになる。  
 「キスをするのに女の子に屈んでもらわなきゃいけないなんて、ぼくは嫌です」  
 「お風呂から人間の身体を引き上げるくらい強くなっちゃった“泉光子郎くん”なんて私嫌いよ」  
 きっぱりとした声にきっぱりと言い返す。寒々とした蛍光灯の光がじりじりと肌を焼いているような気がした。  
 たった2、3メートルしか離れていないはずなのに、どんなに手を伸ばしても彼にたどり着かないのではないだろうかという錯覚に陥るくらい遠くに感じる。息遣いの聞こえてくるほどの距離だと言うのに彼の何も見えない。  
 
 黙っていた彼が意を決したように私の目を見据えて口を開いたのは、それからしばらく経った頃だった。  
 「ミミさんは知らないかもしれませんけど、ぼくは小学4年生の夏休みまでほとんど友達と呼べる人が居ませんでした。もちろんサッカークラブの時もです。  
 無意識に人と関わるのを避けて、結果パソコンにはまったり、こんな喋り方になったんだと思います。  
 パソコンに向かってるぼくにミミさんは難しい事を色々考えてると言ってたけど、本当は違うんです。考えたくない事とか人と関わる痛いことや苦しいことを考えなくて済む。ずっとディスプレイの向こう側に逃げてただけなんだ。」  
 少し言葉に詰まりながらも、迷いのない瞳は真摯で思いつめている。  
 「知ってますか?敬語というのは一度頭の中で文章を作ってからじゃないと喋れないんですよ。感情とか自分の考えを出さないようにブレーキをかけるからこんな喋り方になる。丁寧でも行儀がいいんでもなんでもないんだ」  
 微かに、でも確実に増えてゆく彼の言葉に宿る熱が私の心を捉えて話さない。  
 「あの頃のぼくは誰かと一緒に居る痛いことや苦しいことより、一人で居る寂しい事の方がマシだと思ってました。寂しい事は一人で紛らわしたり耐えたり出来るし、誰にも迷惑をかけないから。だから一人で居た方がいい、そしたら頭の中のことを全部決着がつけられると。  
 でもその考え方をミミさんが壊したんだ。痛いことや苦しいことは一人で治せても、寂しいことは一人じゃ治せない、色々考えるより動いてみなきゃ解らないことがある、知りたいなら怖がらずに触れてみればいい」  
 ぼくを変えたのはミミさんなんですよ。彼はそう言った。私の目を見据えて、彼の言葉で。  
 「ミミさんに触れる力が変わっても、触れる手はぼくの手です。どうか怖がらないでください。可能な限り、許可を取ってから触れるようにしますから」  
 一歩、光子郎くんの足が歩みを始めた。ゆっくりした動きは怖がる動物に近付く飼育員のようで、なんだか心外だった。  
 「ぼくは触れたいんです、ミミさんの…全てに」  
 カーペットに膝をついてそのまま私の足から4センチだけ離れた膝を動かさず、彼はそっと手を伸ばす。  
 「背が伸びたぼくが嫌ですか?力が強くなったぼくが嫌ですか?ミミさんの知らないぼくが嫌ですか?  
 ぼくは髪を切ったミミさんも好きです。英語で怒鳴るミミさんも好きです。ぼくの知らないミミさんに会うのが楽しみです。  
 ぼくたちは日本とアメリカで別々の時間を暮らしているけど、同じように中学2年生になるんです。」  
 伸ばされた手は慎重に私の手のすぐ傍に下ろされ、待っている。  
 「パルモンだってそうです。みんな同じ時間を暮らしてるんです。誰も置いてけぼりになったりしません。」  
 
 彼の手が私の手を待っている。私の手が動くのを待っている。でも私の手は動いてくれない。……どうしても。  
 「一年前の事件覚えてる?アメリカのデジモンが私たちを捕まえたじゃない。  
 あのデジモンの気持ち……今なら…ううん、あの頃も分かってた気がする。  
 パルモンに会いたくて、でも自分のデジヴァイスじゃもう会えなくて。デジタルワールドに自分は必要ないんだって思ったら悲しかった。  
 こーしろーくんはテントモンに会えなくて寂しい?」  
 「当たり前ですよ。何度もパソコンにデジヴァイスを翳しました。ゲートを探して何度も徹夜しました」  
 ふっとはにかんだ光子郎くんの顔は何処かしら照れていて、それなのに意志ははっきりと見て取れる。  
 「私きっと選ばれし子供じゃなくなっちゃったんだわ。純真の紋章だってもう光らない。  
 大人になんてなりたくないって思った時から、お台場から離れる事になったあの時から……もう私何も救えないんだわ。大人だけが思うのよ、大人になりたくないなんて……」  
 「それは違います」  
 光子郎くん必殺の断定形が部屋に響いた。  
 「この世界は救えなくとも、ぼくの世界を救ってくれたのはミミさんです。人間を一人救うのは地球を救うのと同じくらい難しいんですよ。……まあ、ミミさんは救うだけじゃなくていろいろ無理難題も持って来てくれますが……」  
 笑いながら頬を掻き、それでもぼくはあなたが居てくれて良かったと思ってます、と締めくくる。  
 「私のこーしろーくんはもういないのね……私が“光子郎くん”のミミになっちゃったんだわ」  
 強い意志を持つ彼が眩しくて羨ましくて、泣けてきた。もう彼に私の助けは必要ないのだ。私を引っ張りあげられるくらい、私を叱れるくらい、彼は強くなったのだという事がうんざりするほど理解させられたから。  
 「“光子郎くん”、私をおいてかないで」  
 自分でも何を言ってるのかよく解らない。でも、ただ自分が取り残されている事はわかる。ままならない自分の心が疎ましくて情けなくて、涙が溢れて止まらない。たまらないほど恥かしくてやめたいのに止まらない。  
 動かない私の手にちょっと冷たい手が添えられる。それに驚いて涙でドロドロになっているだろう最悪の顔をふと上げた。そこには困り果てて眉を下げた光子郎くんの顔がある。  
 その顔はぎこちなく唇を動かして、照れくさそうに微笑んだ。  
 「ぼくのものにならなくていい。だけどぼくのこと忘れないで」  
 「ぼくは他のなんにも一番じゃないけど、ミミさんを好きなのはぼくが一番のはずです……今現在」  
 あ、いや、もちろんご両親を入れたら3番目だとは思いますが、その、なんというか、ミミさんを女性として……口ごもりながら頬を赤くして光子郎くんが必死に小さな声で訴えている。  
 「こ、こんなことを言う資格はまだ無いのかも知れませんが、敢えて、敢えて言いますと……」  
 ……あ、愛しているんだと思います。  
 小さな、でも曇りのない彼の、声。  
 「もっもちろん!これは別に相互的要求を押し付けようとしてるのではなく、ミミさんを拘束しようとかそういう意図があって言ったんでもありません。  
 ……世界中の誰からも見放されたと思ったっていい。ただ、忘れないで欲しいだけです。例え君がぼくを嫌いになったって、ぼくは君を絶対に見捨てたりしないってことを。」  
 彼はそう言ってしばらく黙った。私は動けず、ただ涙を拭うだけ。  
 「身体に触れてもいいですか?」  
 「……うん」  
 短く返事をしたら、涙で熱に浮かされた頬に冷たい彼の指先が滑った。  
 「抱きしめてもいいですか?」  
 「うん」  
 涙はまだ流れている。でも嬉しくて、なのに悲しくて、光子郎くんの肩が私の腕にぶつかって抱き止められて、それはなんだか随分久しぶりなような気がして……胸が詰まる。  
 やっと、やっと。  
 帰ってきたんだと実感がわいた。自分の居るべき場所に、自分の居たい場所に。  
 ぐりぐりと顔を押し付ける彼の首筋は懐かしくてくすぐったいのに落ち着くいい匂いがして、また涙が出てきた。  
 抱きしめる腕の強さと抱きしめられる腕の強さが、私の欠けた部分に吸い込まれるようにぴたりとはまって修復していく。寂しくて壊れかけていた私を。  
 ……とか、一人で浸ってたら唐突になんだか急き立っているような光子郎くんの声がした。  
 「キスをしていいですか?」  
 ……このばか。  
 
 「いっ……ちいち訊かなくていいわよっ」  
 くっと顎を引いて離れる私の唇を追いかける彼の唇が、ひどく男っぽくて心臓が跳ねた。  
 「了解を取ってからじゃないと触らない約束ですから」  
 浅く、子犬が舐めるように舌を滑らせるしぐさが余裕たっぷりに思えて少し癪だった。  
 「パジャマ脱がせていいですか?」  
 「……な、なに言ってんのよ!」  
 相変わらずデリカシーもへったくれもない台詞。私は慌てて力の抜けていた全身に危険信号を送る。  
 「じゃあパジャマをずらしていいですか?」  
 力を込めて光子郎くんの腕から逃げようと足掻くのに、それが無駄なことだと知りたくないのか、それとも本当は逃げたくないのか、まともに力が出ない。  
 「嫌ですか、いいですか返事をしてください」  
 「いやよっイ・ヤ!」  
 「じゃあパジャマの上から触っていいですか」  
 彼の低く研ぎ澄まされた声が空気を震わせる。その振動で頭の奥がしびれておかしくなる。  
 「いいんですか、悪いんですか返事をしてください」  
 「いやよ……だめっ!」  
 必死で絞り出す悲鳴がちっとも緊迫感がなくって自己嫌悪より先に出たみっともない声が期待に震えている。  
 「じゃあ自分で脱いでください。これ以上は譲歩出来かねます」  
 「なんなのそれー!」  
 「泣いてるミミさんを見て欲情してしまいました。責任を取ってください」  
 「真顔でなに言ってるのよバカッ!あっやっ触っちゃだめー!」  
 「最初に了解をとってますよ、身体に触れてもいいと」  
 「だって、あっ……そんなんじゃ…やっ!ばかばかばか!きらい!こーしろーなんかきらい!」  
 「パジャマを脱がせる許可が降りなかったのは残念ですがこういうのもいいかもしれません」  
 「や、だ…きらい…もう、離してぇ…よぉ……」  
 「イヤです。却下します。聞き入れられません」  
 
 光子郎くんの右手の中指は緩急つけて執拗に私のビキニラインを擦る。何度も何度も、まるで嘲笑うかのように蕩けるようなストローク。  
 「あっあぅっ…あっ触っちゃいやぁァ……」  
 「そうですか?その割に逃げませんね。両手が自由なんですから押し返してください。そしたら離せますよ」  
 「ああ…っ!………っ…むりよぉ、ちから、ぬけちゃう…もん………」  
 「ミミさんの言葉は難しいです。“イヤ”が“いい”で“嫌い”が“もっと”みたいですね。  
 ところでパジャマの中に手を入れてもいいですか?」  
 「いや!だめー!禁止禁止禁止ー!」  
 「いいんですね。じゃあお邪魔します」  
 「聞けーっ!イヤっつってるでしょーが!」  
 「分かってますよ。だから“いい”んでしょう」  
 「違うっ!禁止!だめ!ノーセンキューよっ!」  
 「だったら逃げてください。力づくでぼくを殴って離れてください。じゃないと止まりません」  
 冗談めかした言葉尻とは全然違う黒目がちの瞳が深く沈んでいた。  
 「でっ出来る訳ないでしょそんな事!」  
 慌てて伏せた視線を追いかけるように、彼のひずむ語調が先細りに消えてゆく。  
 「本当に嫌だったらやめます。でも自分で止める事が出来ないんです。だからぼくから逃げてください。」  
 彼が覆い被さっていた身体を引き剥がし、背を向けた。  
 ……んもう、相変わらず面倒な男だなぁ……  
 私はベッドから起き上がり、手櫛で髪を梳かしてパジャマを調え、もう一度ベッドに仰向けに倒れると、スプリングがぎしぎしと軋む。  
 「……み、ミミさ……」  
 背中越しに引きつるうめき声を上げたおバカさんに大サービス。  
 「“嫌い”して“イヤ”よ」  
 まるで叱られた子供が母親の顔色を伺うかのような慎重さでのろのろ振り向いた光子郎くんの顔は、困ったような嬉しいような、とってもムツカシイ表情をしていた。  
 

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