ヒトシ……花邑ネオンが自身の不正を公に公表してからも、ヨシノへのゴシップや嫌がらせの類は一行に止む事はなかった。
始めは「全員ブッ飛ばしてやる!!」と意気がっていたマサルもトーマの説得があってか、どうにか今のところ彼が新聞記者を殴ったという報告は出ていない。
今日もまた任務を終え、ヨシノを送り届ける。担当だったマサルはデジヴァイスへとアグモンを戻した。いつもならグズってなかなか入らないアグモンだったが、今日はすんなりと言う事を聞き、デジヴァイスの中で寝こけてしまった。
妙に大人しいアグモンに違和感を覚えながら、マサルはヨシノを連れ指令室を後にした。
都内某所にあるDATS本部から、地下鉄で30分程でヨシノの家には着く。
ヨシノの住む高層マンションは駅からほど近く、マサルは大概マンションのエントランスまで見送ってから、別方向の自宅へと帰るのだった。
「じゃ、またな!」
今日も同じように帰路へ戻るマサルをヨシノは呼び止めた。
「お茶でも飲んでいきなさいよ。ここからだとけっこう家遠いんだし。」
言われてマサルは時計に目を向ける。
時刻はいつもより幾分か早く、また自身も任務で疲れた体を休めたい気持ちもあり、マサルはヨシノの後をついて行った。
「うっひゃ〜!!意外にお前んち広いんだな♪」
「意外は余計よ。」
子供のように――実際子供だが――はしゃぐマサルをたしなめながら、ヨシノは来客用のカップを手にとる。
「あっ今日コーヒーしか無いや…それでもいい?」
「んぁ?あ……あぁ。大丈夫!大丈夫…」
生返事を返して、今度は耳の長いぬいぐるみの口を引っ張ってはしゃぐマサル。
だが、部屋の装飾に気をとられて、彼は気付いていなかった。
自分のコップの底に垂らされた粘質の液体の事に。
・・・・・・ニガい。
目の前の褐色水に対するマサルの率直な感想はそれだった。
どうやら、ヨシノの入れたコーヒーは偉く値のはる高級ブランドのものだったらしく、やれキリキリマイだの、やれコロッケ屋だのと長ったらしい名前を、またこれも長々と隣人は解説する。
しかし、人と言う生き物は興味の無いものへの集中力は無いに等しいもので。
マサルは堪えきれなくなった欠伸を誤魔化すために、再度カップの中のものを口にした。
本来なら最高級品の薫りと酸味も、今のマサルにとっては猫に小判。豚に真珠。
いや、まだ小判や真珠の方が、苦くないだけマシだろうか。
こんな事なら牛乳の方がよかったろうかと思い、マサルは慌てて否定する。
ただでさえ年下だとバカにされてるのに、コーヒーも飲めないなんて知られるのは漢の面子にかかわる。
わざわざ飲めないコーヒーを頼んだのはこのためだった。
苦味に耐えるのにもヨシノの長話にも飽きてきたマサルは、意を決して褐色水を飲み下した。
先ほどチクチクと喉を傷めていた苦味が、今度は本性をもって攻撃してくる。
本来ならそれはコーヒー特有のものとは別質のものだったのだが、話題を反らそうと四苦八苦するマサルには分かるはずがなかった。
きっかけは些細だった。
もしかしたら、たわいのない会話の合間で彼女が言った「話がある」との一言で。
もしかしたら、空気を察して彼が口を噤んだその瞬間。
あるいは・・・それよりも前に。
だから、それは些細で。聞き逃しそうになった。
「私…ヒトシと寝たの。」
□□□
マサルがその意味を分かるまでに、一呼吸。二呼吸。三度目に息を吸って、やっと単語が出てきた。
寝るということが本来の意味ではないことくらい、いくらマサルでも分かっていた。
ただそれは、保健の授業で習ったときに友達と一緒にからかって、「さいてー!!」とか「ジェラシーがない」と顔を赤くした女子に怒られる。それくらいのものだった。
つまりは、それくらい現実味のないものだった。
まして目の前の勝気な少女からそれを連想するのは、マサルの選択肢に乏しい手段を用いては無理だった。