『きゃははは見て見てこーしろーくん!これ笑っちゃう」』  
 『うわっ……人のパソコンだと思って何見てんですか』  
 その日はゴールデンウィークだった。彼はいつも通りに部屋でパソコンを弄ってプログラムを組んだり増設を検討したりマシンの調整をしたりしていたのだが、ふと部品を新調しようと愛機を伴って秋葉原へ出ようとした。  
 駅の方向へてくてくと歩いている時、前方からなんだか見慣れぬ奇妙なものが歩いてきたのを、彼はただぼんやり見ていた。  
 …なんだあのピンクのチカチカするやつ…  
 太陽の光に小さな何かがキラキラ光っていたので彼はよく目を凝らしてみたが、人間というのは自分の先入観に抗うには意志の力が必要な生き物だった為、やっぱり彼にはそれがなんだかよくわからなかった。  
 もうちょっと近付いたら何か解るかもしれない。なに、秋葉原なんてそう急ぎの用事じゃない。彼は疑問に思ったことは何でも知りたがる癖があったので、少し駅の方角と外れた方へ向かうそのピンク色のヘンなものを追いかける事にした。  
 ピンク色のヘンなものは移動速度が遅かったので少しづつ追いついて、彼はそれが人間の女の子だというのが解った。後姿から見ると丁度自分と年のころは同じくらいだろうのに、髪の色はとんでもない。  
 きっと性質の悪い人間に違いない。こういう自己顕示欲が間違った方向に旺盛なタイプを彼は苦手だったし、あまり親しくした事もなかったのでそう結論付けて足を止め、彼は元来た道を戻ろうとした。  
 その時、なんと表現したものか……そう、虫の知らせとでもいうような違和感を覚えて何故かポケットを探った拍子にてんとう虫のキーホルダーが付いた家の鍵を落としてしまった。  
 家の鍵は金属独特の高い音を立てて地面を跳ね、彼の足元に落ちた。彼が拾い上げようと億劫そうにしゃがんだ瞬間、ビリビリと電撃に似た衝撃を覚える。  
 「あああーー!」  
 びくっと身体を震わして見上げたその先に、さっきのピンク色のヘンなものがばたばたとこちらへ走ってくるのが目に入ってきたと思ったら。  
 「なにしてんのこんな所でーっ!やーだ、久しぶりぃー!」  
 ピンク色のヘンなものは大声を上げて彼に駆け寄り、バシバシと彼の背負っているノートパソコンごと背中を叩いて笑った。  
 「……ぱ、パソコンが壊れます!やめてください!」  
 
 『だって東京のホテル、で検索したらこんなんばっかり出て来るんだもん』  
 『ラブホテルばっかり……一体何を探してるんですか』  
 確かにメールのやり取りをしていたはずだし、つい一昨日もメールが来ていてそれに返事をしたばかり。そのメールの内容にしたって学校がどうだとか友達がこうだとか、ありふれた話題が書かれていただけ。  
 なのにどうだろう。目の前には居るはずのないあて先の人が存在していた。  
 「な、な……なんで日本に」  
 「親戚の結婚式でママとパパの代理出席にかこつけて里帰りするーって……言わなかったっけ?」  
 「い、言ってません!一言も聞いてませんよ!なんですかそれ!」  
 あまりの事に彼は立ち上がることすら忘れ彼女を見上げたまま声を上げて、ようやく彼は見た事もないピンク色のヘンなものがミミ、という名前の元クラスメイトだということを知った。  
 「でもほら昨日の朝に出したメールまだこっちに届いてなだけかもよ。誤送されたとか」  
 「そんなわけ無いじゃないですか!」  
 「えー。わかんないよ。あるかもしれないじゃん、そゆこと」  
 気楽に笑うミミの声を聞きながら、彼は深い溜息をついてゆっくり立ち上がる。少し立ち眩みがしたのはきっと彼女のせいだと彼らしくもなく頭の中でヘンな八つ当たりをした。  
 「こーしろーくんは何やってんの……相変わらずパソコン背負っちゃって」  
 彼のトレードマークともいえるパイナップルのマークがついたノートパソコンに目をやりながらミミ。  
 「秋葉原に部品を買いに行こうかと思いまして。ミミさんこそこんな所でなにやってんですか」  
 彼は相変わらず、と笑われて多少眉を顰めたけれど、彼女にとっていつもの事なので然程気にしない。  
 「懐かしの我が街でも見て回ろうかと思ってさ。……使ってくれてるんだ、それ」  
 拾い上げたキーホルダーについているてんとう虫のプレートマスコットを目ざとく見つけたミミは、はにかむ様な声で嬉しそうに指差した。  
 「……ところどころメッキが剥げてますけどね」  
 目の前で銀色のてんとう虫をスイングさせる光子郎の顔がまるで誇らしげに見えたので、ミミは思わず吹き出しそうになったけれど光子郎はそんなことなどつゆ知らずにこにこと微笑んでいる。  
 「大事に机の中にしまってたら引っ叩いてるところだわ」  
 たった525円の空港の土産物屋で買ったマスコットが、光の具合でにやりと笑ったように見えた。  
 
 『このホテル。近くになんか面白いとこないかなーと思って』  
 『そういうときはホテルの名前、スペース入れて周辺施設、と検索するんですよ』  
 ちょうどそろそろ昼食でも、と思っていたミミは目黒の自分の宿泊しているホテルのバイキングランチに光子郎を誘った。光子郎の目的地は秋葉原だというのに、相変わらずのマイペースぶりだ。  
 「お金なら気にしないでいーのよ。パパからたっぷり巻き上げてきたから」  
 テーブルに着くなりぱくぱく食べるミミとは対照的に、物静かにパンケーキなどを突いている光子郎はなんだかおかしな気分だった。今まで居るはずがないと思っていた人間が突如現れて、自分の前でパンプキンサラダを食べているのだ。  
 これ、夢かな。  
 夢だったら覚めなきゃいいけど。  
 口に入れるパンケーキにつけてるバターの味も曖昧で、頭のどこかが痺れているみたいにちゃんと物が考えられない。だいたいこのホテルだってどうやって来たんだっけか、という事さえ思い出せない。  
 「そうだ、食べ終わったらパソコン貸してよ。私の部屋パソコンつなげられるみたいだけどいちいち借りなきゃいけないし、よくわかんないのよね」  
 光子郎は夢でもなんでもミミさんがいるならまあいいか、と取り合えず納得して、ええいいですよと返事をした。彼にとって「なんだかよく解らないこと」は簡単に手放したり出来る物ではないはずなのに。  
 「ああ、そういえば言い忘れてましたけど」  
 「なぁに?」  
 「お帰りなさい」  
 不意に何でもないような顔をして光子郎がそう言った。本人にとっても本当に何でもないことで、彼がどんなに親しい人にも礼儀を忘れないようにと教育されていていたからに過ぎないのだが、言われたミミは頬を染めてしばらく俯いてしまった。  
 そして本当に本当に小さな声で、やっとのこと囁くように精一杯の返事を返す。  
 「……うん……た、ただいま」  
 その様子を見ていた光子郎も、寝ぼけ眼だった人が急激に覚醒するかのようにそれを意識し、でもようやく意識が冴えてきたばかりでまとまらない頭の中が勝手に言った。  
 動悸ってのは、どうも感染するものらしい。  
 
 「せっかく帰ってきたのにたった二日しか居られないのよ。だから目一杯遊ぼうと思って」  
 「じゃあ早く出かけないといけませんね」  
 本当はそんなこと露ほども思っていないくせに、彼と来たら相手に合わせるのが上手な性格でわがままや自分勝手を相手に押し付けるのがひどく苦手だった。  
 「こーしろーくんはどこか興味あるとこない?ちょっとくらい付き合ってくれるでしょ」  
 「この近くだと寄生虫博物館がありますね。一度見てみたいと思ってるんですよ、世界最大と言われる8.8メートルのサナダムシの標本」  
 べしゃっとミミが机の上に突っ伏したのもつかの間、光子郎の襟首を引っつかんで大げさに揺さぶる。  
 「女の子と男の子がお出かけするのよ、そういうのを世間じゃデートっていうのよ、デートって!それを言うに事欠いて目的地が寄生虫の博物館!?何考えてんのよっ何をっ!」  
 「だ、だって、目黒の寄生虫博物館といえば有名なデートスポットですよ、入館料タダだし」  
 「そーゆー問題じゃないでしょうが!だいたいあそこ坂道多くて駅から遠いじゃないのっ!」  
 「よ、よく知ってますね」  
 「あーもー!私はアメリカくんだりからわざわざ飛行機で一年半ぶりに日本に帰ってきたのっ!わかる!?もっと他にあるでしょう見せるべきものが!」  
 「いやぁ、興味があるとこって訊くから……」  
 光子郎は後ろ頭を掻きながらパソコンを覗き込もうとぐっと身を乗り出した。視界の端でミミの髪がすっと離れたと思った時、不鮮明に脳裏に見覚えのある情景が浮かぶ。  
 それは夜の御台場小学校の校門の前という一風変わった風景だった。それが脳裏に浮かんだ瞬間、何かを忘れていることを思い出す。ただ不思議な事に、何を忘れているのかは解らない。  
 僕は忘れている。でも一体何を?それを何故今思い出した?目まぐるしく頭の中でその情景に適合する記憶を検索したけれど、どうしてもどうしても思い出せない。  
 「……なんだろう……」  
 思わず口に出してそう呟いた光子郎の怪訝な顔を見て、ミミは怒らしたかな、と見当違いな心配をしたけれど、彼女は口には出さなかった。  
 見上げる彼の首筋や横顔が見知らぬ人のように見えた。まだあどけない少年の顔だというのに自分に向けられていない真剣な表情はどこか精悍で、ミミはただじっとそれを見つめているのに忙しかったのだ。  
 
 ミミは厚底ブーツなんか履いてるから立っている時は気付かなかったが、椅子に座ると光子郎の身体に圧迫感があることにようやく気付いた。それはつまり身体が大きくなっているということだ。  
 彼女の知っている彼は、はっきり言って“どチビ”だった。頭一個分は容易に違ったし、手も足もまるで一つ下の学年の子と言ったって通るくらい小さかった。それが今は下手をしたら自分より大きくなっているかもしれない。  
 「こっこーしろーくん!」  
 「……はい?」  
 もう理解不能でないつもりでいる彼でも彼女の発想の突飛さには慣れない。  
 「ちょっと立って!ベッド横の壁!そこに立ってみて!」  
 「はぁ?」  
 自分では色々考えた上の道理的行動だけど解説を全部すっ飛ばして結論に直結する癖があるので唐突な印象を受けるだけ、とは彼女の弁。ただこの訳が出来るまでに光子郎は幾度となく彼女に行動の説明と理由を逐一訊ね回らなければならなかったが。  
 「いーから!ほら、立つ!背中ちゃんとべたってくっつけて。かかと上げちゃダメよ」  
 取るものも取らずにベッドに登ってミミは光子郎の頭の天辺の真後ろの壁に引っかき傷をつけた。がりがりと後ろ頭で立った音に光子郎は唖然とする。  
 「ミミさん靴のままベッドに上がるのは……ってちょっと何してるんです!」  
 当然彼女がそんなものに貸す耳をもっているはずもない。大急ぎでブーツを脱ぎ散らかして同じところに立って自分で頭の天辺に手を置いて同じように壁紙をガリガリ爪で引っかき、大急ぎで振り返ってその差を確認する。  
 「……こ、こんだけしか違わないなんて……!」  
 「あぁ、身長ですか。6年に入ってから結構伸びましね、僕」  
 光子郎が線と線の間に人差し指をあてがって、僕の人差し指の長さが今、大体6センチ弱です。第一間接のちょっと過ぎた辺りですからほぼ3センチくらいですかね、と分析をしたのをミミは遠くで聞いているような気持ちだった。  
 「まだ背ぇ伸びてるのよ、私」  
 「そのうち追い越すかもしれませんよ」  
 得意そうとも満足げとも取れる表情の光子郎を、恨めしそうに見上げたミミがわざとらしくベッドにダイブしてうわーんと泣き声を上げた。ミミちゃんがこーしろーくんに唯一勝てる身長が大ピンチー!  
 「一応これでも成長期の男なんですから」  
 
 ベッドに突っ伏して拗ねてしまったミミの傍らに座り、嬉しそうな困り顔で光子郎はふっとまた先ほどと同じ夜の御台場小学校の校門の前のヴィジョンを見た。今度はもう少し鮮明に、校門が閉まっている所まで思い出す。  
 「……なんだろう、何か思い出しそうな……思い出せないような……」  
 またぶつぶつと口の中で独りごちながら視線を細くし、光子郎は頭の中で記憶にフルスピード再検索をかけた。じわじわと思い出している。だけれどそれが一体何の意味があって何故急に思い出したのかが解らない。  
 「ね、さっきから何の話?」  
 くるっとミミが振り向いて彼の顔を覗き込んだ。サラサラと音も立てずにピンク色の髪が流れて、光子郎の鼻孔を香りがくすぐるように甘く漂う。  
 「こっ……これだ!」  
 やっと見つけた記憶のタグを引き寄せる。大きく胸に懐かしい香りを吸い込んで、ようやく彼は謎の記憶の封印をこじ開ける事に成功したのだ。  
 「これだこれだ、そう、これですよ、この匂い。ユリのシャンプー。これの匂いかぁ。なんだ、ミミさんの髪の香りだったんですね。道理で夜の小学校なんか思い出すわけだ」  
 あーよかったよかった。何を忘れてんのかと心配してたんですけどなーんだ……と、そこまで言ってしまってから、ようやく彼は自分が引き寄せて抱き潰しているものが記憶のタグという名の、ピンクのヘンなものだというのを思い出した。  
 「あの、苦しいんだけど」  
 その声にはっと我を取り戻して慌てて離れようと両腕を彼女から無理矢理引き剥がしたのが悪かったのだろう。妙な体勢から更に妙な力の抜き方をした当然の結実として、ベッドの端っこに座っていた彼は重心の拠り所を失い、そのままひっくりこけた。  
 鈍い音をさせて床の上に背中から落ちた光子郎を、恐る恐るミミがベッドの上から覗き込んで声をかける。  
 「だいじょーぶ?結構ヤな音したよ」  
 光子郎は大丈夫です、とは言えなかった。  
 何故なら物理的な衝撃と精神的な羞恥のショックで呼吸が出来なかったから。  
 代わりに吃音のような間の抜けた声が出た。  
 「ぅぐっ……」  
 ミミは低く唸る潰れたカエルの様な格好の光子郎を、かわいい、とノンキな感想を持ったりなんかしていた。  
 
 「ま、頭打ったんじゃなくて良かったわ」  
 「……すいません……」  
 自分の悪い癖を自覚したばかりの子供たちに自制を強要するのは酷というものなのかもしれない。そのうち何度も恥をかき、夜一人で押し殺した悲鳴を供にのたうつような後悔してから身に付いても決して遅くはないのだから。  
 けれど子供というのは…特に年頃の男の子という生き物は…絶対に恥など掻きたくないし、まして女の子の前で間抜けな事をしてしまうのは死と同等の嫌悪を感じる生き物なのだ。  
 何かに気を取られると周りのことが判らなくなるのはミミも同じだった。ようやく落ち着いて、壁紙の引っかき傷がどうかバレませんようにと壁に向かって手を合わせたりしている。  
 ベッドで横になり、うーとかあーとか小さく唸りながら光子郎が後悔と羞恥とそれからバツの悪さと戦っているのを見て、身勝手なお祈りを終えたミミが声をかけた。  
 「で、シャンプーの匂いがどうしたって?」  
 思考回路が一斉に切断され、目の前がホワイトノイズに覆われた光子郎が身動き一つ取らないで居ると、ミミはそれに被せるように矢継ぎ早に同種の質問を浴びせ掛ける。  
 「夜の小学校がどうしたって?何か忘れてたって何を忘れてたのかしら?ねえ教えて下さいませんこと泉センパイ」  
 うしししし、と意地悪な犬の笑い声を真似ながら彼女は光子郎のわき腹を何度か突いたけれど、うつ伏せになって物言わぬ貝になってしまった彼はぴくりとも反応をしない。  
 ……よぉーしイイ度胸だわ、みてなさい絶対に言わせてやるんだから……  
 すうっと息を吸い込んで、光子郎の横たわるベッドに体重をかけた。キリキリとか細い悲鳴を上げて軋んだスプリングの音に彼の身体が少し強張ったのをミミは見逃しはしない。  
 両腕を光子郎の腕の下に突き立ててそのまま上半身を預け、耳元でかすれるような声で囁く。  
 「こーしろーくんの、えっち」  
 ビリビリビリ。一片の電撃が彼の身体を貫いたと同時に、その言葉を紡いだ彼女の唇にも同種の閃光のような強烈極まりない衝撃がもたらされた。  
 悪寒とも戦慄とも取れる正体不明の背筋を走るショックは衝撃こそ一時のものだが、一瞬で終了するような種類のものではなく、これから先、永い間二人を翻弄し悩ませ続けることになる。  
 だが、感情の交通事故に遭った当の本人達はそんな事など知る由もない。  
 
 ごめんなさいごめんなさい。  
 でも、でも、でも。  
 こうしなきゃ息がどうにかなってしまいそうで。  
 彼は頭の中で言い訳じみた謝罪を何度も繰り返した。心臓が耳の傍にでもあるのかというほど自分の鼓動がうるさい。呼吸をするのも煩わしい。どこをどうしてそうなったのか、多分彼にも彼女にも解っていないだろう。  
 ただベッドの上で半身を捻って持ち上がっている光子郎の腕が、ミミの首を、肩を、片腕を、縛るように抱きしめている。ミミは一体自分に何が起こっているのか、やっぱり分かっていなかった。  
 「え、と、あの」  
 おずおず声を上げたのは思いのほか光子郎の力が強く、もしかして怒ったのかな、とまた心配になったからであり、抗議のつもりではなかった。というか抗議をするだけの違和感だとか拒否感だとかがまだ頭の中に沸いてこないのだ。  
 「ごめん、ちょっと、しばらくこうしてるけどいいですか?」  
 普段の彼ならばこうしていてもいいですか?と訊ねるだろうし、それ以前に事前許可をまず取るはずだ。ミミはそれをヘンなの、と思ったけれど声は出さずに少しだけ頷いてそれを許した。  
 本当は体勢がちょっと苦しいので一度離して貰った方がありがたかったけれど、光子郎の声が少し硬かったので何も言わないことにしておく。  
 目を閉じると遠い記憶にある光子郎の匂いがして、そういえばデジタルワールドで寒い時は湯たんぽ代わりにみんなでくっついて寝たっけ、とミミはあの世界を懐かしく思い出す。  
 寂しくなっちゃったのかな。私もよくあるわ、雨の日曜日とかにたまたま電話がかかってきたらものすごく余計に寂しくなっちゃう感じ。などとミミが母のように大らかな気持ちで光子郎を抱きしめ返したのが良くなかった。  
 高鳴る胸をやっとのことで抑えていたというのに、求め続けていたレスポンスが今まさに返ってきたのだ。これで勘違いしない中学一年生の男など存在しない。  
 容易くミミの身体が回転してベッドの上に押し倒されスプリングが大きく弾んだ。  
 だめだ、もうだめだ。  
 体中にまとわりつくような薄いユリの芳香が神経伝達を狂わしているかのよう。自分の指の先でやわらかく沈むシーツと毛布が少し冷たいというのに、彼は自分の体温の上昇に気づかない。  
 左腕に絡んでいるミミの右手がびくんと震えた。  
 
 「……こ、し…ろーくん」  
 今何が起こったのかわかっていない、今から何が起こるのかわからない、なんて言わせないぞと彼は視線を鋭くした。その目線を受けて彼女はぐっと言葉を詰まらせる。  
 「気の利いた台詞が出てきません」  
 「う…うん……」  
 「だからもうストレートに聞きます」  
 「は、はい」  
 「僕はミミさんが好きなんですけど、ミミさんは僕のことどう思ってますか」  
 がく、とミミは緊張で漲っていた全身の力が抜けるのがわかった。こ、ここまでしといて普通そこから出発するかー!?  
 「あーもう、好きよ好き好き大好きよーッ!」  
 「ぞんざいですね」  
 「当たり前よ!それがベッドに押し倒しといて一番先に聞くことなの?」  
 「一番知りたい重要なことですよ、僕にとって」  
 「もうメールでも電話でも何十回も言ってるじゃないよぉ。そんなに信用ないのかしら私」  
 「いいえ、ミミさんの口からちゃんと発音されているのを確認するのは初めてです」  
 二の句が継げない。表情の真剣さに圧倒されるよりも先に、その台詞から滲み出す呆れるほどの几帳面さに。  
 「……すきよ。光子郎くんが好き」  
 「こーしろーくん、て呼ばないんですね」  
 「まじめな時はね」  
 「でも間延びした甘ったるい呼び方も、僕は好きです」  
 影が近づいてくるのがわかって、ミミはまぶたを閉じる。瞼の向こう側でもまだ影は動いていて、ああ、今彼と心が通じているんだなと思った。そして同時に彼の心が解らないとも思う。なんとも頼りなく、なんとも心もとない変な気分。  
 どきどきしてるのになんだか気持ち悪い。  
 そうこう思い煩っている内に唇に光子郎の唇がぎこちなく重ねられた。軽く圧し掛かるような彼の体重を思い出した途端、今までふわふわしてた身体に感覚がよみがえって来る。  
 ああそうだ、これは「こわい」っていうんだわ。  
 
 こわい、こわい、光子郎くんがこわい。いつもと同じキスなのに一体何が怖いんだろう。  
 無意識のうちに身体がこわばっている彼女を思いやれるほど光子郎に余裕がない。目の前が眩んでしまったみたいに画像がぼんやりと歪んでいる。もしここが密室でなかったなら、もし彼が羞恥心に惑っていなかったら、もし彼女がベッドに近づかなければ……  
 何も起こらず、二人で太陽の下でいつも通り手をつないで散歩でもしたに違いない。  
 いつもより長い口づけ。震えている彼の手。いつもよりうるさい鼓動。痺れている自分の頭。  
 ……震えてる……こーしろーくんも怖いのかなぁ……  
 ミミはわからない彼の中に自分の知っている彼を見つけて、ほんの少しだけ安心した。知らない『泉光子郎』でなく自分の知っている『こーしろーくん』がちゃんといるんだ、と。  
 「触りたい?」  
 前触れもなくそう呟いたミミの意図を光子郎は掴みあぐねた。……ミミさんはいったい何を言っているんだろう?  
 しかしその疑問が答えに繋がるよりも早く、彼女の手に添えられるように彼の手が頬に触れてなめらかに滑った。  
 「あっ……!」  
 指に生まれる肌理細やかな少女の肌の感触は少年の理性を吹っ飛ばすなど容易くやってのけてしまった。明確な意思を持った光子郎の手が滑り落ちる前に首を過ぎ、襟元から服の中へ侵入してゆく。  
 冷たい手が胸の輪郭を辿ったところでミミが声を上げた。  
 「いたっ!」  
 ぎょっと驚いた光子郎が手をものすごい速さで引っ込め、真っ青な顔をしておろおろと訊ねる。  
 「だ、大丈夫ですか!ち、力いれてないんですけど」  
 光子郎があまりに慌てふためいて取り乱すので、ミミは少し笑ってしまう。  
 「服の上からゆっくりしてみて。ゆっくり、ね」  
 引っ込められて強張った手を引き出すようにミミは冷たい手を再び引き寄せる。少し深呼吸をしてから胸を覆うように光子郎の手が置かれた。  
 すごい、どきどきしてるのが分かる。手のひらから伝わる命のリズムは神秘的で神々しい反面、ひどく彼を落ち着かない気分にした。もっと近くで感じ取りたいという欲望がわいてくるのだ。  
 
 いいのかな、こんなことして。頭の中に響くアラームは頼りなくてひどく引っ込み思案だった。光子郎は警告音の弱々しさに気を配る暇もなく、細心の注意を払って心臓の鼓動に触れる。  
 「ドキドキしてますね」  
 「……こーしろーくんだって……」  
 持ち上がった暖かい手が彼の薄い胸板に添えられて滑った。長い睫毛が色っぽくそれを辿り、彼の唇を確かめるようにゆっくり持ち上げられ、すこし低い声が赤い頬から拡散していく。  
 「どきどきしてるじゃない」  
 ぎゅっと心臓が痛くなった。まるで心臓をつかまれたように身体中の力が抜ける。あわや寸でのところで倒れこむのを両腕を踏ん張って耐え抜いた。  
 「どうしたの?顔真っ赤になってるよ」  
 ミミさんがすっごくかわいいから悪いんです。顔とか、声とか、手の動きとか全部、いやらしいのが悪いんです!……などと言える度胸が光子郎にはない。けれど彼は意地悪を言うミミの唇をふさぐだけの度量はあった。  
 柔らかい胸に手を添えてへこんでは戻る弾力がとても面白い。指先の力ではなく手の平の力で触ればきっと分散されて痛くはないだろう、と打ち身を擦るかのように手の平を動かした。  
 いつの間にか冷たかったはずの彼の手が赤く熱を帯びている。血が活発に通う指は5本全てがバラバラに意思を持ち、それぞれが好きなところへと這い回ってそろりそろりと胸からわき腹、腰から太ももへと降りていった。  
 唇の中で断続的に、ぁん、とか、あぅ、とか短い呟きが弾けるのを面白がって熱心に繰り返しているうち、ミミが吐息の中でやっとという風情で彼の耳元に囁きを置く。  
 息がくすぐったいわ。  
 動悸が一層強くなった気がした。和みかけた衝動が目を覚ますように。  
 「ごめん止まらない」  
 無心にスカートの裾をたくし上げ、下着に触れた。彼の中の抗いがたい何かがそうせよと命令を下す。今まで意識することすら禁忌とされていたそれに自分が触れているというのに、まだ実感がない。確かめるように彼は何度も肌と下着の境界線を辿った。  
 彼女はそれがくすぐったくて恥かしくて、気持ちいいのか気持ちが悪いのかすら判らない。ただ熱をもったいつもと違う光子郎の手を、少し誇らしいと思った。  
 
 「ぅぁ…あっ!」  
 押し殺した悲鳴は離れたばかりの唇をまた呼び寄せて息を苦しくした。時おり舌や歯が相手の舌にぶつかって絡む度、言い表しようのない鈍く甘い衝撃が走る。  
 「ん、ん、ん……!こ、しろ……」  
 瞼がきちんと開かない。視界がぼんやり弛んでいて、風邪を引いているみたいだとミミは夢心地の中を彷徨う。だがその放浪も長くは続かなかった。  
 「………ちょ、ちょっ!ちょっとォ!」  
 えも言えぬ悪寒が走ってやっと彼女は下着の中に光子郎の指が進入をはじめたということを理解する。だがミミの抗議にも意思持つ光子郎の指は諦める様子など微塵もない。  
 「だ、だめよそんなのっ!やだやだーっこーしろーのばか!」  
 その手を何とか諌めようともがくミミの足が大きなモーションを始めた瞬間、光子郎の中指がぬめる泥濘に埋没した。  
 「ひゃぁっ!」  
 ビリビリ電気が走っているみたいだ。身体中が収縮してゆく。光子郎は意図せず触れてしまったというのに驚愕するより早くその感触の分析に走ってしまった。彼女の反応を試したのではなく、いつも通りの勤勉さで。  
 「……濡れてますね……すごく」  
 指にまとわりつく粘液と粘膜が興味深かったのだろう。何度か指の腹で擦ってみる。  
 「ばかーーー!ばかばかばかばか!やだもうばかぁ!」  
 触るだけなら事故で済むところを動かすなんてデリカシーのない事をした挙句、光子郎は感想まで述べた。  
 「こうなるのって、気持ちいからなんですよね」  
 「知らないわよばかっ!」  
 ばちん、と頬を張られた。当然だ。だがそれが予想済みだったのか、それとも感じなかったのか、光子郎は自分の頬をはたいた手を握り、僕がミミさんを気持ちよく出来るなんて嬉しい、と目を逸らさずに言った。  
 光子郎の言葉に、ミミは気が遠くなりそうなほどの震えを感じた。ああもう、なんて人かしら。  
 私もこーしろーくんに気持ちよくされるとうれしい。  
 そう言うはずだった。  
 だが何故かぽろっと涙が出た。  
 

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