また同じ夏が来る。  
 あの日、あの時と、同じ日付で同じ時間がやってくる。  
 みんなでもう使えなくなった切符をかざし、太陽を睨む、僕らの同窓会が。  
 
ワタシハアナタノガクセイフク  
 
 「えーっもう明日ですよ?」  
 『わかってるよぉ、でも中学最初の合宿を休むわけにはいかないだろ?』  
 「…じゃあ、中学生組は待たなくていいわけですね」  
 『ちゃんと時間には着くから心配すんなって』  
 受話器を置き、ぼくはカレンダーを破く。新しい月の紙はまだほとんど書き込みも無く、真っ白でキレイだった。ペンを持ち、1日に丸をつけてその下に書く。  
 約束の、日。  
 2年前の約束。来年も、再来年も、ずっと、ずっと、ここで会おう、おれ達が選ばれたあの日を忘れないように。そう太一さんが提案したあの日から、僕たちはわざとデジタルゲートの開いた場所を外して8人で集まる。  
 奇跡よ起きろと願いながら、本当は心の隅で奇跡なんか起きて欲しくないと思っている。デジモンに、命のパートナーに会いたいと願っているのに、怖いんだ。  
 願ってもゲートが開かないんじゃないか、と。  
 「どうしたの?……ああ、明日ね」  
 「…お母さん…」  
 「お弁当、作らなくちゃ」  
 いつの間にか廊下に居た母が、言葉少なげに微笑んでキッチンのほうへ戻っていった。カレンダーの前に佇んでいる僕を変に思っただろうか?  
 「……丈さんとミミさんにも電話、しないと……」  
 
 
 「遅いわねぇ、丈センパイ」  
 「夏期講習があるそうですから。タケルくんとヒカリちゃんは?」  
 「しらなーい。光子郎くんが昨日電話したんでしょ?」  
 「林間学校が終ったばっかりだから寝坊してるのかなぁ」  
 駅前のコンクリートブロックの上で待ちぼうけてもう20分になる。全員が集まるのに都合のいい集合場所を指定したはずなのに、一番遅れて来そうだったミミさんが一番乗りとはどういう風の吹き回しか。  
 「僕、電話入れてみますね。もう出てるとは思いますが」  
 「あの3人ピッチとかポケベルとか持ってないのぉ?」  
 「……無茶言わないでくださいよ……」  
 「じゃあ家に電話するしかないじゃん。ここ渋谷だよ?お台場から何分掛かると思ってんの。電話するだけ無駄無駄。あの3人あたしと違ってきっちりしてるから」  
 手首のブレスレットがシャラシャラ音を立てて腕まで落ちてきた。それは水色とオレンジのいかにも夏らしい色合いで木漏れ日にときどき光っている。  
 「そ、それはそうですが……」  
 「ちょっとぉ。ここは『そんな事ないよ』って言う所でしょー」  
 「え……あ、はぁ?」  
 「だから!ミミさんもしっかりしてますよってフォローするの!」  
 そっちかよ。僕は飽きれてもう一度同じところに腰をおろした。  
 「まったく、朴念仁は相変わらずなんだから」  
 ぷいっと頬杖をついた顔をそっぽにむけて、黙ってしまった。いつもなら突っかかってきて僕を叱ったりするのに。……ムリだよな、今日ばっかりは……  
 「……今日、みんなに言うんですか」  
 「――――――そうよ。こんな時じゃないとみんな集まれないじゃない」  
 憂鬱、という言葉を僕は知っている。多分その感情を誰よりよく知っているはずだ。だけど僕の隣で頬杖つきながら遠い眼をしてる純真の使徒には当てはまらないような気がした。  
 何故か。  
 
 
 僕がそれを知ったのは夏休みに入る直前、たまたま彼女の教室の前を通りかかった時だった。他のクラスは大掃除に東奔西走しているというのに、ミミさんのクラスはドアも窓も閉まったままで、何人かがガラス窓を覗き込んでいた。  
 ゴミ捨ての最中で両手が塞がっていた僕は、興味を持ったけれど今は掃除が先とゴミ捨て場に急いだ。空になったゴミ箱を持って教室の前に来た時には、ドアも窓も全部開いていて、教室の中には誰も居なかった。  
 ただ黒板に『太刀川ミミさん さようなら アメリカへ行っても 元気でね』という字が踊っていて、僕はそれを見ながらただ呆然と、掃除の終わりのチャイムが鳴るまで黒板の前に立っていた。  
 あの時磨りガラスの隙間から覗いていたら、あの夏みたいに泣いている彼女がいたんだろうか、と痺れた頭の隅で思いながら。  
 「あーあ、みんなをビックリさせるはずだったのにー。一人だけびっくりしないなんて」  
 「大丈夫ですよ、ちゃんとその時はビックリしますから」  
 「わざとビックリした顔されても面白くないもん」  
 ふーんだ、と彼女がまたそっぽを向く。ふわふわ髪がなびいて少しいい匂いがした。  
 「……遠いですね、アメリカ」  
 「まあね」  
 「クラス離れただけでも、遠い気がしましたから」  
 お台場小学校には3年生、5年生に上がる時にクラス替えがある。僕と彼女はトイレと階段を挟んで、更に二クラスも間にある一番遠い教室になっていた。クラス、という小学生には絶対の団結を気軽に飛び越えられるほど……少なくとも僕は器用な性格じゃなかった。  
 それから黙ってしまった彼女を、自分の台詞がなんだか意味深な気がして見上げる。  
 「だからえっとつまり、逆に言えば遠いと言うのは意識の問題であって実際の距離如何ではな」  
 「あたし一人ぼっち」  
 台詞を切られた。どうしようもない事実で。  
 「ち……ちがいますよ……僕らは8人でひとつなんです。たとえどんなに距離があったってそれは変わりません」  
 「光子郎くん、それ、本当に心から信じてる?」  
 「あ、当たり前じゃないですか」  
 言ってしまってから僕は少し後悔した。彼女の真正面からの質問に、目を見て答えられなかったから。  
 
 目を見て話せないのは心にやましいことがあるからだ。正解を僕は提示したはずなのに、胸を張れなかった。  
 全員が集まって思い出話をしたり近況を伝え合ったり、たった年に一度だけ勢揃いする日に、僕は上の空だった。たぶんどっかのタイミングでミミさんがアメリカに行くことを発表したりみんなでお別れの歌を歌ったり、そういうことがあったはずなんだけど、よく覚えてない。  
 本当に覚えてなくて、僕はなんだか自分が人でなしみたいに思えた。  
 自分の家に帰って自分の部屋の窓を開けて空を見上げる。遠い遠い星を目に映して考える。  
 あの空にデジタルワールドがあったあの時のことを。一度目は無理やり落とされて、二度目は願って昇っていった電子の国。夢から覚めたら、もう飛べない。  
 「テントモン……今の僕を見たら、笑いますか?」  
 最初は丈さん。次に空さんとヤマトさんと太一さん。そして今度はミミさん。  
 「ぼくもひとりぼっちだ」  
 心で繋がっている。デジタルワールドとも、7人の仲間とも。なのに今たまらなく心細いのは何故だろう。耐えられないほど人恋しいのはどうしてだろう。  
 自分だけぽつんと置いていかれたようで少し目の前が暗い。これから先毎日こんな風景の中で目を覚ますんだろうか。不安と危険が身近だったあの世界より、よっぽど安全で快適で馴染んだこの世界だというのに、何かに押しつぶされそうに胸が塞がる。  
 心が粟立つようにじっとしていられない。叫びたいのに言葉が出ない。苛立った衝動をどうしたらいいのか解らない。ただ僕はぼんやりと見慣れたまばら星を見上げて唇を結ぶ。  
 ああ、見知らぬ世界みたいだ。僕の知ってる空はこんなに暗くなかった。  
 『こーしろーはん』  
 僕は甘えてるんだ。お兄さんやお姉さん、テントモンやミミさんに。  
 『こーしろーは〜ん』  
 いつもそこに居ると安心してた罰が当たったんだ。  
 『こーしろーはーーん』  
 ぼくは最初からひとりだったのに。  
 『えーかげんにしなはれー!』  
 
 『なんですのん、イジケ電波がビリビリ出とりまっせ』  
 空耳ではないことにぎょっとして背後を振り向いた僕が見たのは、部屋を出て行く時に消したはずのデスクトップパソコンのモニターが鈍い光を放っている姿だった。  
 「……も、モ…チモン?」  
 駆け寄ると、画面にはピンク色のぷくぷくしたまるっこい生き物が映っている。  
 『おひさしぶりですなぁ、こーしろーはん』  
 「な、な……なんで!?」  
 『そんな事より見とくんなはれ、この可愛そうな姿。  
 こーしろーはんの心が萎れたせいで、わて幼年期に戻ってしまいましたがな。どないしてくれますのん』  
 「モチモン…モチモン…いたんですね、ちゃんと、いたんですね……!」  
 『わてはここにちゃんとおりますよってに、ま、そう泣かんと。……なんかあったんでっか?』  
 僕はチラチラとリアルタイムで更新されている三原色に、ともすればモニターに縋りつかんばかりの勢いで迫る。ぽたぽた落ちる雫がレンズやプリズムの役目を果たして、赤と緑と青に彼を分解した。  
 懐かしい声、耳に残るイントネーション、あの日と変わらぬ優しい言葉。僕のデジモン、僕の友達。  
 「嬉しいです、また会えて、ぼくは、ぼくは……」  
 そこから先は言葉にならない。とても言葉に出来ない。  
 不安が、寂しさが砕けて溶けていく。失われていた手足が戻ってきたようだ。薄暗い部屋に光が満ちるように、力が全身に行き渡るのに十分なほど湧いてくる。  
 そうだ、この感じ。この耳の後ろや後ろ頭が一斉にざわめくこの感じを忘れていたんだ。  
 『こーしろーはん、もう来年中学生でっしゃろ。ええお兄さんが泣いたらあきまへんがな』  
 「な…泣いてないよ!ないてない、泣いてないですよ、ほら」  
 ごしごしと目を擦って画面に顔を向ける。カメラの方に顔を向けないと意味が無い事が頭の隅から吹っ飛んでしまうほど一心に、何度も何度も涙を拭って目を擦った。その度にダムでも決壊したかのように水が溢れ出して、僕は大層こまってしまった。  
 いつぶりだろう、こんなに泣いたのは。  
 悲しくてでなく嬉しくて出てくる涙は、がまんの仕方を僕は知らない。  
 
 『ほうですかぁ、外国へねぇ』  
 うんうん、と前足(と呼ぶに相応しいのか僕はよくわからないが)を組んで何かに深く納得するかのようにピンク色の物体が頷きながら独特のインチキ関西弁で相槌を打った。  
 「いつかは離れてしまうものなんでしょうか、人と人とのつながりというものは」  
 ようやく落ち着いた僕は、まるでさっきのことなど無かったかのようにいつもの調子でディスプレイに話しかける。……といっても別にディスプレイに話しかけているのが日常なワケではない。念のため。  
 『……こーしろーはん、ミミはんのこと、どない思っとりますのん』  
 不意にモチモンはそんなことを言った。僕は変なことを聞くもんだと、返事をする。  
 「大切な友達ですよ。命を共にした盟友です」  
 『……相変わらずでんなぁ……』  
 困ったような呆れたような不思議な声を絞り出しながら、つぶらな瞳の上にしわが出来る。……ここが眉間なのか……  
 「人間そう簡単に変わったりはしませんよ。僕は相変わらず僕です」  
 『せやのうて……鈍感ちゅーか、トーヘンボクちゅーか。』  
 唐変朴――――そういえば、彼女も同じようなことを言っていた。なんでみんなで寄ってたかって僕を偏屈扱いするんですか。そんなにわからずやじゃないやい。  
 『気が利かないちゅーか、ニブイちゅーか、無頓着ちゅーか』  
 「モチモンはもしかして僕のことが嫌いですか」  
 ぶすったれた声で上目遣いの僕に、彼はあわてて前足(?)を振って否定の意を表した。  
 『まままさか、そそそそんなわけあらへんやないですか。冗談でんがな、じょーだん』  
 「イヤに真に迫ってましたけど」  
 『そんなことよりミミはんのことや!』  
 「話、そらしましたね?」  
 『本題!本題!』  
 バンバンと画面を叩きながらモチモンが必死の形相で話の先を促す。僕はそれを机の上にあごを乗せながらやる気のない姿勢で受け流していた。  
 「だから仲間ですってば。元クラスメイト?同級生?……ほかにどう言えというんです」  
 『わてが聞いてるのはそないなことやありまへん。一人の人間として!もっと言えば親しい人として!さらに突っ込んで女の子として!……どないおもっとりますのん』  
 「……ああ、そういう意味ですか」  
 ポンとひざを打つ僕の顔を見て、モチモンがあからさまに『あかん…このお人はホンマモンのあんぽんたんかもしらん……』というような顔をしたが、あえて突っ込まない。  
 「素敵な人だと思いますよ、ファンも多いみたいだし。僕みたいなトーヘンボクにも分け隔てなく話しかけてくれるやさしい人です」  
 『それだけでっか』  
 「それだけです」  
 『わてとこーしろーはんの仲やないですか。水臭い』  
 「君との友情は永遠ですよ、でも事実はひとつだけです」  
 『うそつきは地獄行きでっせ』  
 「嘘なんかついてません」  
 『強情』  
 「おせっかい」  
 『意固地』  
 「でしゃばり」  
 『みな知っとるのに片意地張ってもてもー……可愛いったらありゃせんわ』  
 「み、みな……って……」  
 『ラブレター、書いてはったやないですかミミはんに』  
 「うっ!」  
 確かに過ぎ去りし2年前、デジタルワールドでラブレターをパソコンでしたためていることを全員に見つかったり見つからなかったりしたが…  
 …そんなどーでもいいことをまだ覚えてた彼に嬉しいやら恥ずかしいやら情けないやら恐ろしいやら、なんと反応してよいものかわからずに固まるしかない。  
 『あの時は「お母さん」なんて言葉に騙されてやりましたけど、わてかて腐ってもデジモン。プログラムの意味はわからんでも、メモ帳の字ィ読むくらいなんてことない芸当なんでっせ』  
 「ずずず、ずるいじゃないですか!てゆーか犯罪ですよ!プライバシーの侵害です!」  
 『はい、こーしろーはんの負け』  
 「……は?」  
 『ちっちっち。わてもPCもこの世界では同じデジタル記号で構成されてたんでっせ。言わばCDとCDみたいなモンですがな。記録媒体同士がダイレクト進入なんかでけるわけあらへん……語るに落ちたとはこのことでんなぁ』  
 前足をジェームスボンド顔負けのダンディさで左右に振るモチモンを見て……やられた、と思った。  
 本当に君は困ったり挫けたり、弱気や不安に負けそうになったとき、ずっと僕のそばに居てのんびりいきましょう、気楽にやりましょうと励ましてくれたモチモンか?  
 「……ちょっと見ないうちに性格変わったんじゃないですか」  
 『こーしろーはんもすっかり捻くれて』  
 ぐぎぎ、と自分の唇から唸り声にも似た歯軋りが聞こえたような気がした。  
 『太一はんやヤマトはんが卒業するときにそないな気持ちになりはらへんかった。それが何よりの証拠やないですか。もっと素直になりなはれな』  
 「あーそうです、好きですよ!悪いですか!背が低くて友達いなくてパソコンしか能のない陰気な僕がミミさんを好きで悪いですか!別にいーじゃないか誰に迷惑かけてるわけでなし!  
 ミミさんだって能天気だしわがままだしそりゃちょっとは可愛いけど、パソコンの邪魔したり急に変なことしだしたり肝心なときにいなかったり」  
 『おんなじ人間やないか、と』  
 静かにモチモンが言った。それはだんだんテンションのあがって来ていた僕を停止させるのにじゅうぶんで、逆上に似た僕の感情が潮でも引くかのように治まってしまった。  
 『こーしろーはんのコンプレックスはよう存知とります。もちろんええとこも。  
 立ち止まって何にもせんと諦めるのが悔しいから、そないして怒ったりする。確かに太一はんみたいな勇気はないかもしれへんけど、こーしろーはんは強いお人や。わてよう知っとります。』  
 歯を食いしばる。力を抜いたら涙がこぼれてしまいそうだ。  
 『ミミはんはええお人ですわ。デジモンも人間も、悪いやつもええやつもみんなあるがまま受け入れてくれはる。そういう器の大きなお人や。なにも肩肘張って構えるようなことあらへんのでっせ。  
 さっき言わはったやないですか。好きで悪いかー、て。悪いこと、なんかありまっか』  
 軽々しい言葉で諭される。それが悔しいのに気の利いた反論ができない。陳腐な言い訳が頭をよぎるけれど、とてもモチモンにひけらかすような気にはなれなかった。  
 「……ない……はず、ないじゃないですか。僕は小学生で、何にもできない。ミミさんをもう廊下で見ることもできない、ぼくはただ見てるだけでよかったのに」  
 そうだ。僕は遠くから彼女を眺めているだけで満足だったし、幸福だった。時々思い出したかのように話し掛けられたりするのが何より嬉しかった。たったそれだけが楽しかった。この世界が嫌いな訳じゃない、でもあまり好きでもなかったから。  
 『ああ、なら何も心配あらへんやないですか。こっちにはミミはんの生体データなんか山ほど残ってますぅ、今のこーしろーはんなら幾らでも生成することができるはずや。いやー、よかったよかった。これで何にも問題ありまへんなぁ』  
 嬉しそうにはしゃぐディスプレイの中のモチモンがくるくる踊る。ミミはんが帰ってくる、と何処から引っ張り出したのか小学四年生の、ピンクのテンガロンハットを被った彼女の画像を画面いっぱいに表示させた。  
 『光子郎くん、だいすきよ』  
 『光子郎くん、だいすきよ』  
 『光子郎くん、だいすきよ』  
 唇がぎこちなく動いて、抑揚のない彼女の合成音声がリピート再生される。だいすきよ、だいすきよ、だいすきよ。  
 「や、やめ……」  
 『光子郎くん、だいすきよ』  
 「やめて…くださいよ」  
 『光子郎くん、だいすきよ』  
 「やめてって言ってるでしょう!」  
 『光子郎くん、だいすきよ』  
 「モチモン!いい加減にしないと怒りますよ!」  
 『光子郎くん、だいすきよ』  
 
 「やめてくださいよ!!」  
 ブツン。怒鳴り声に反応するようにモニターの電源が切れる。はっと気付いてマシンの電源ランプに目をやると、いつもの緑色は静まり返っていた。……付いてない。当たり前だ、付けた覚えがないんだから。  
 慌てて電源を入れてパソコンを立ち上げ、インターネットに接続してサーチエンジンを呼び出し、初めて指が止まった。一体何処を探せばいいんだろう。僕はネットワークという「デジタルワールド」にいるはずなのに、あの見慣れた美しい風景も懐かしい顔ぶれも見当たらない。  
 「……当たり前か……」  
 僕はもう選ばれし子供じゃない。現実世界の何処にでもいるパソコン少年でしかない。  
 脊椎反応のように画面を見ながらメールチェックをして、丈さんのメールを一通見つけた。  
 『光子郎へ 今日の様子がちょっとおかしかったけど、どうかしたか?何かあったら遠慮せずに相談しろよ。  
 それから、この前頼まれてた私立中学の資料を添付しておきます。あまり手広くは探せなかったけど、うちの学内は一応全部揃ってるはずなので何か不備があったらまたメールしてください。丈』  
 僕はそれに丁寧に返事を返して送信した。心配いらない、ありがとう、と。  
 そしてメールの送信が終了してダイアログが事務的に閉じた後、僕は笑ってしまった。  
 なんだ  
 バカみたい  
 僕は一人じゃないのに  
 ひねた真似して  
 構って欲しかったんじゃないか  
 モチモンに図星突かれて、丈さんに心配させて、なにやってんだか僕は。  
 キーボードに突っ伏して僕は溜息をついた。スピーカーからはピピピピピと鋭い警告音が流れていたけれど、不思議と煩わしさではなく心地よさを覚えている。  
 誰かにいい訳を踏み潰して欲しかったのか。なぁんだ、そーか。叱って欲しかったんだ。  
 「あの時はパソコンに夢中になって怒らせて、今度はいい訳に夢中になって周りを見てない……成長ないな、僕は」  
 ゆっくり起き上がって、もう一度メーラーを起動させた。  
 『太刀川ミミさんへ』  
 
 
 「珍しいわね、光子郎くんから会おうだなんて。一昨日様子が変だったからみんな心配してたのよ」  
 引越しの合間を縫ってわざわざ小学校まで来てくれたのは、やっぱり僕を心配してくれたのかな。だとしたら……嬉しいんだけど、情けない。  
 「その節は心配かけました。丈さんにも心配されちゃって」  
 大きくウエーブの掛かった彼女の長い髪が揺れる。おとといと同じ香りがしたことが何故か嬉しい。  
 「なんかぽかーんとした顔してたし、目ェ空飛んでたわよー。あたしがアメリカに行っちゃうのがそーんなに寂しいの?大丈夫よぉ、心配しなくたって、選ばれし子供たちはいつでも一心同体なんだから」  
 ぽん、と僕の肩に手を置いてまるでお姉さんのような口調で僕を慰めているらしかった。  
 「大丈夫、わかってます。これから寂しい時はちゃんと言うようにします。  
 だから悲しい時はミミさんも僕を頼っていいんですよ」  
 校門の前の電灯がジジジジ、と小さなスパークを繰り返している。風は無くて蒸し暑い、コンクリートが昼間の喧騒を焼き付けたまま夕暮れを反射する校舎に続いていた。  
 「…………ええ、もちろんそうするわ」  
 肩から手が離れる瞬間、細い指に力が入った事を見逃したりは出来なかった。  
 それでも彼女の表情は変わらずにいつものように微笑んでいる。その表情が僕にはなんだか泣いているようにも見えた。前に一度、こんなミミさんを見たような気がする。それがいつだったかは思い出せなかったけれど。  
 「ミミさんはパルモンにあれから会った事はありますか?」  
 「ないわ」  
 素っ気無く、でも無関心ではない彼女の声がする。いつもの子供っぽい彼女ではない、ミミさんの声が。  
 「実は一昨日、あれから家に帰った後に会ったんです。不思議なんですよ、パソコンの電源は付いてなかったのにモニターにはモチモンが映ったんです。  
 それで……叱られました。しっかりしろって。もうじき中学生でっしゃろって」  
 「……そう」  
 残念そうに、でも羨ましそうな彼女の声がする。いつもの純真な彼女ではない、ミミさんの声が。  
 「でも……すぐに消えちゃいました。さよならも言えずに、ふっと、言いたい事だけ言って」  
 僕は少しだけ彼女を見上げて話す。あの頃見上げたよりは少し、彼女に近付いている。  
 
 「笑っちゃいますよね、もう最高学年になってずいぶん経つのに……ぼくはまだ進化してない。それどころか、テントモンをまた退化させちゃってるんです。苦情が来ましたよ、うそつきは地獄行きでっせって」  
 移ろいゆく通いなれた校舎の表情が僕たちの知らない夜のものになる。長い長い夕暮れが終り、研ぎ澄まされたように鋭く伸びた影の輪郭が徐々にぼやけて消えてゆく。  
 「地獄に行くのはごめんです」  
 笑ってそう言った次の瞬間、不意に髪がなびく様に降って来た。何処のメーカーのシャンプーだろう、くすぐる様な甘い花の香り。頭の接続が掛け違い、思考が混乱する。  
 「あ…の…」  
 「あたしは地獄なんか信じない。あるのは天国だけよ」  
 肩に彼女の頭の重さが乗っている。首筋に絡まる長く細い髪から立ち上るむせ返りそうな花の匂い。周りには人っ子一人通らない。波の音だけが遠く近くに聞こえて、まるで夢見ごこち。  
 「あたしに懺悔するつもりで呼び出したの?残念ね、あたしは神父さまでも牧師様でもないわ。だから懺悔なんて聞いてあげない」  
 背中に伸びる手がミミさんの身体を抱きしめたいと、何度も悲鳴を上げた。見上げる首に巻きついている彼女の吐息と体温が正常な思考能力を蕩かしているみたいだと、他人事のように思った。  
 「ざ、懺悔というのは、罪を告白、するものですよ……僕が言いたいのは」  
 僕がしたいのは……なんだろう。好きだと言いたい。でもそれだけじゃないはずなんだ。あなたの力になりたい、ミミさんの心の中にいたい。そういうことを伝えたいのに、言葉が見つからない。  
 「光子郎くんが言いたいのは……?」  
 「……僕を」  
 「光子郎くんを?」  
 どうして欲しいんだろう?僕を好きだと言って欲しい?キスをして微笑んで欲しい?手を繋いで家まで送らせて欲しい?どれもそうだと言えるようで、どれも何かが違うような気がする。  
 気が焦って唇が乾く。喉がからからで舌が口の中のあちこちに引っ付いて取れない。頬の裏っかわにザラザラと刺々しい感触が生まれていた。それでも搾り出すように、かすれた低い声がやっとのことで出る。  
 短くてあっけない一言。  
 「忘れないで」  
 
 ぼくをわすれないで  
 それからずっと沈黙していたのは、頭を通らずに口から出た言葉の答えを待っていたんじゃない。ただ伝えられただけである種の満足を感じていたし、それについてのリアクションは究極的には必要でなかったのだと思う。  
 僕は一人で寂しかった。みんな一人だと寂しいんだ。  
 こんなにたくさんの人間がひしめいている世界で自分を一人ぼっちに出来るのは自分しかいない。自分を一人だと思うことが自分を寂しくするんだ。でも自分は一人じゃないと思うことは一人じゃ出来ないから……  
 するすると昇ってきた彼女の手が腕と胸を通過したかと思ったのが僕の最後のまともな記憶。  
 頬が温かい手で固定されて、口に見知らぬ味が広がった。レモンミントだろうか、シトラスミントだろうか。どっちにしても僕は普段口にしない味だから判断がつかない。  
 「ファーストキスはレモンの味、って本当になっちゃった」  
 呟くように彼女がもう一度僕に唇を重ねた。  
 薄く開いていた唇からぬるくて薄いレモンの味が進入してきて、やっと僕の心臓が早鐘を打つ。全身が石化したように指一本も自分の意思では動かせなかった。長い長い時間だった気もするし、ほんとたった一瞬だったような気もする。  
 頭の中には何故だとか、どうしてだとか、何が起こったんだだとか、ぐるぐるものすごいスピードで言葉が回っていた。目をかっと見開いて硬直しているのに何も目に入らない。息も出来ない。  
 伏せられていた睫毛がゆぅっくりと持ち上がるのと同じような緩慢な速度で、顔を押さえていた手の力が抜かれ、首筋に絡み付いてた長い髪がするすると流れるように落下してゆく。  
 僕は咄嗟に、本当にあとから考えればどうしてそんな事が出来たのか不思議だけれど、その時は体の動くままに彼女の温かな手を、頬から完全に離れてしまう前に握った。  
 パソコンをしている人間というのは大抵末端冷え性になってしまうもので、僕もその例に漏れず手先が冷たい。だからだろうか、ミミさんの手がとても熱く感じるのは。触れた途端燃えるようにビリビリ手が痺れる。  
 ぐっと爪先に力を込めて少し背伸びをした。  
 目を閉じて、少しでも長くこうしていたかった。  
 こうしていたかったんだ。  
 
 最初に思ったのは何だっただろう。  
 ああ、くちびるが離れてしまう。  
 ああ、繋いだ手が解かれてしまう。  
 彼女の体温が失われていってしまう。  
 切なそうに濡れた瞳に映る僕の顔こそ名残惜しそうで、頭の隅で滑稽だと誰かが笑った。  
 口の中がとろりとしている。食べた覚えのないレモンシトラスキャンディの味でいっぱいになって、なんとも形容しがたい不思議な感触だった。体温が急上昇するのにぼんやり考えが纏まらない。  
 「…くち、ちょっとカサついてる。リップ貸してあげるから塗りなよ」  
 言われてゆっくり自分の唇に触れた。人差し指でなぞってみても、乾いている所なんてどこにもない。それどころか彼女の唇に塗られていたリップと、溶けた飴のぬめりで光っているに違いなかった。  
 「いらない。ミミさんのが……ついたから」  
 ぬるつく自分の人差し指を親指と擦り合わせながら、夢見ごこちのままで今まさに僕の口をふさいでいた彼女の唇を見上げている。電灯の弱々しい光に照らされて鈍く輝くアーモンドの形をした唇。僕はそれから目を離せない。  
 それに気付いて顔を逸らした彼女の背中は、電灯の光を浴び損ねている所に深い陰影が出来ていた。  
 「――――――ど…どうして……」  
 ようやく強制終了させられた思考回路が復帰して、最初に出たのはそんな間の抜けた疑問で、それに対して与えられた回答も同じように茫漠としていてとても納得できる代物ではない。  
 「……なんとなく」  
 なんとなく二回もしたんですか、そう訊ねる権利は僕にあったはずだ。しかし押し黙る僕に与えられたのは質問権ではなく回答権だった。  
 「……じゃあ光子郎くんがしたのはどうして?」  
 「ど、どうしてって……」  
 自分の投げ掛けた問いを投げ返されて言いよどむ僕の方を振り向かずに彼女が背伸びをする。  
 「きもちよかったからでしょ?」  
 サラサラ音がするように彼女の髪が揺れた。弱々しい電灯のスパークの音や、小さな波の音がようやく耳に戻ってきたというのに。……僕の耳はまた音を失った。  
 
 違います。  
 さあ言え泉光子郎、なにをぼやっとしてるんだ。早く答えないとミミさんが勘違いしてしまう。ただでさえ彼女は感情的で早とちりなんだから。頭の中でいつもの僕がそう急かすのに、彼女の感触の残る唇は動かなかった。  
 思えば僕は言いたい事や訊きたい事を知らないフリするのが得意だった。我慢をしたり無関心を装うのは上手だと思っていた。でもそれは本当に上達したものなのかな?単に無表情で、何も無かっただけじゃないのか?  
 だから今何も言えないんじゃないのか?それともただ本当に気持ちよくて、ただそれだけで……  
 背中がざわざわする。嫌悪感と失意で胃の中がゆっくり逆巻いてるみたいだ。  
 「――――――やだった?」  
 「そんな……ことないけど……」  
 ならよかったわ。ぴんと背筋が伸びたような明るい声がして彼女の背中がすっとその場から離れた。  
 「……ファーストキスの人っていつまでも忘れないって言うじゃない。だから、光子郎くんを忘れないように」  
 ゆらゆら、ゆっくり揺れながら彼女の背が遠ざかる。  
 ミミさんはこの街から居なくなる。この小学校から居なくなる。この日本から居なくなる。僕の目の前から居なくなる。きっかり二週間と4日後、彼女の姿は忽然と消えてしまう。  
 『光子郎くんを忘れないように』  
 ……ああそうか、ミミさんにとって既に僕は過去の思い出なんだ。もう毎時更新されてゆく生きた僕は彼女の中には居ない。  
 それがひどく悲しくて、あっけらかんと現在を捨ててしまう彼女に腹立たしさを覚える。今ここで僕が生きている瞬間も彼女にとっては、離れ去ってゆく失う事を定められた記憶の一つでしかないのだと、染み渡る実感が頭の中で言葉になっていく。  
 今まで感じていた焦燥感の出所がようやく把握できた。彼女は更新される現在だけでなく、思い出して慈しむ過去を手に入れたのだ。  
 それを人は成長だとか変化だとかいう呼びやすい名を付けるだろう。歩み進んでゆくこととして歓迎するに違いない。  
 だからって――――――勝手に今目の前に居る僕を思い出の箱にしまい込むなんて!  
 
 「僕だって忘れませんよ!」  
 暴力衝動に似たどす黒い感情がざわめく身体中を、必死で押し留めて叫んでいた。遠ざかる背中に。  
 頭で考えるより早く手が、足が動く。  
 まるで僕が僕ではない。  
 「忘れないように!?冗談じゃない、そう簡単に思い出にされちゃたまりませんよ、幾らなんでも卑怯じゃないですか!」  
 そうだ、僕だってあんなことするなんてはじめてだったのに。むらむらと不条理に対する怒りが込み上げてくる。驚いて足を止めたミミさんが振り返るより先に手首を掴んだ。細くて温かい女の子の手首を。  
 「何故ここにあなたを呼んだか解ってないでしょう?一体何処へ行く気ですか、まだ僕の用事は終ってません」  
 「や…ちょっと、痛い!」  
 「こっちを向いてください!僕はここに居るんだ、思い出なんかにするな!」  
 「やぁだ……離してよ……」  
 「逃げないで僕の方を見て!悲しくて泣きたいくせに我慢なんてミミさんらしくないです!」  
 素直で良くも悪くも本音を隠さないあなたが無理矢理笑ったってそんなの変な顔です。ちっともきれいでも可愛くもない!僕は声を上げ続ける。紋章を光らせる力を忘れようと努力するなんて馬鹿げた事をする人に。  
 「こ、光子郎くん……こわい……!」  
 震える声にはっとしたけれど、恐怖を堪え、ともすれば飲み込みそうになる言葉を必死で唇の外側へ押し出すのは、たいそう骨が折れた。  
 「僕だって怖い!だけど、今言わなきゃミミさんは居なくなっちゃうじゃないか!  
 みんなの前で無理して笑って、平気よって陽気に振舞って、嘘ばっかり!最後かもしれないのに、隠し事したまま逃げるんですか!ミミさんが泣かないから僕が泣くしかないなんてそんなの……ずるい…じゃないか…」  
 ああ、めちゃくちゃだ。主語も述語もボロボロだし、論点もずれて発音も悪い。こんなの会話でもなんでもない。ただの独り言だ、ただの愚痴だ、ただのわがままだ。  
 狂ったように吹き荒れる頭の中の嵐の余波があふれるように、目頭が熱くなった。とっさに俯いた地面が大きくゆがむ。掴んでいる彼女の細い腕が微動だにしないことが不思議で、嬉しい。  
 こんなに自分のコントロールが利かない人間から逃げないで居てくれるなんて。  
 
 チケットをもらったのは偶然だったけど、チケットを持っていたのは偶然ではない。  
 お台場はデートスポットというか観光地の側面もある場所だけれど、居住している人間としてはそんなことを普段考えたりしない。だからパレットタウンの観覧車だって僕たちにとってはその辺にあるビルとなんら代わりがなかった。  
 「そういえば乗ったことなかったわ」  
 細い指が差す先にあった金銀にぎらぎら輝く大げさなわっかに、僕たちは乗ることにした。平日とはいえ夏休みの真っ最中。しかも夜景が冴えるこの時間帯の人ごみの凄さは想像を絶したけれど、僕たちは右手と左手をつないだまま、黙って列に並んだ。  
 何を言っても無駄なような気がしたし、何を言っても虚しいような気がした。なのに……いや、だからこそつないだ手を離すのが恐ろしかったのかもしれない。それは多分彼女も同じだったのだと思う。  
 20分だろうか、30分だろうか。もしかしたらもっとかもしれない。長い長い、沈黙。じっとり汗をかいて気持ち悪い手。いくら僕の手が彼女より多少冷たいとはいえ、放して拭いたいだろうに。  
 ゴンドラがゆっくりと空を目指して地上を離れていく。ぼく達は手を繋いでそれを見ていた。  
 「…お台場中学の制服、みんなと一緒に着たかったな…」  
 賑やかな空をぼんやり見上げながら独り言のようにミミさんが言う。  
 「同じ学校に行っても行かなくても、みんな一緒ですよ。丈さんは違う制服だけど同じ中学生だし」  
 「……あっちの学校にはね、制服なんてないの。それに丈センパイはお台場にいるじゃない、全然違うわよ」  
 それに反論しようと口を開きかけたタイミングで、係員にゴンドラに乗り込むよう促された。仕方なく口をつぐんでそれに従う。  
 ゴンドラの中はクーラーが寒いほど効いていて、手すりもベンチもキンと冷えていた。前の乗客はまさか16分間、ずっと立っていたのだろうか?  
 夜景はこれ見よがしに派手な瞬きを繰り返している。ぼくはなんだかそれが余所余所しく思えた。見慣れたレインボーブリッジも開発途中の空き地の闇も、よく知っているはずなのに。  
 「どうして観覧車に乗ろうと思ったんですか?」  
 訊ねる前に答えを知っているのはバレバレだろうな、と思った。それでも僕は訊ねなければいけない。指摘しなければいけない。暴かなければいけない。自分と、彼女を。  
 「愛すべきわが街を、あたしたちが守ったこの世界を、忘れないように」  
 
 忘れないように、忘れないように。一生懸命思い出を作っている。なんだかそれはひどく滑稽で不毛に思えた。  
 「記憶は手で水を掬うようなもので、留めておく事は不可能です。ほんの一掬い掌に残ったとしても体温でいつか蒸発して消えてしまいますからね。」  
 その言葉に握られていた手が緩み、ぼくがその手を離す。  
 「いつかこうやって、繋いでた手も離れます。それは仕方の無いことなんですよ。だって、ずっと一緒にいることは物理的に不可能じゃないですか。僕たちはそれぞれ違う人間なんですから」  
 薄暗いゴンドラの中に浮かぶ彼女の顔にヒドイ、と書いてある。  
 「分かってるわよっ!……だからこうやって別れを惜しんでるんじゃないの!感傷に浸ったっていいでしょ、もうあたしアメリカ行っちゃうんだから!」  
 少しヒステリー気味に僕を睨みつける彼女の目が少し潤んでいる。やっぱり無理してるんじゃないか。  
 「僕はここに居ます。ミミさんは一人ぼっちじゃありません」  
 冷たい手すりを握る彼女の手に自分の手を重ねた。汗にまみれて気持ち悪い、そのままの手を。  
 「ほら、こうやって手に触る事も手を繋いでたらできないでしょう。  
 僕はミミさんに触れたいです。手を離すのが寂しいのはみんな同じですよ、ミミさんだけが一人になるんじゃありません。僕たちはみんな一人だけど、一人ぼっちじゃない」  
 ぎゅっと手を握り返されて、指が絡んだ。汗ばんだ掌に熱い掌が押しつけられる。  
 「わかってる……でも、納得しなくないのよぅ……諦めるなんて出来ないのよぉ!」  
 「しなくていいです。物分かりのいいミミさんなんて演じなくていいです。いつもみたいに泣いてください。大声で行きたくないってわがまま言ってください。そしたら……そしたら、僕も、きみと一緒なら、わがまま言えるから」  
 僕らはふたりで抱き合って泣いた。  
 声を上げて泣いた。  
 さみしいよう、さみしいよう、離れたくないよう。  
 わがままを爆発させて、今まで溜めていた涙を全部流しきるような勢いで。  
 冷たいゴンドラの空気の中で、抱きしめていた相手の体温だけが生きている実感を思い出させてくれた。  
 僕はここにいる。彼女はここにいる。  
 
 「ブレザー姿の光子郎くん見たかったなー」  
 「そんなにいいものじゃないと思いますけど」  
 街灯だけが寒々とコンクリートブロックを照らしている。夜空は明るくて相変わらず星が見えなかったけれど、ビルに輝く明かりが散りばめられた星のようだった。僕たちは星の隙間を縫うように、家に帰る。  
 「あたしアメリカに行ったら絶対パソコン買ってもらうんだー。そしたら写真とか送ってよね」  
 「はい。アドレス、渡します。明日にでも」  
 僕たちはしっかり繋いでいる手をぶんぶん振り回しながら最後の会話を愉しむ。  
 「メールも書くけど、葉書とか手紙も書いてよね」  
 「いいですよ。写真も、送ります」  
 どんどん別れの三叉路に近付いて、僕たちの歩調が緩慢になっている。  
 「デジヴァイスもちゃんと持っていくからね」  
 「むこうに行ってなくさないで下さいね」  
 あと少しで着いてしまう。あの先にある階段を登っていく彼女、右に通路を抜けて行く僕。  
 「……あたしね、いまだから言うけど光子郎くんのこと、最初ちょっと苦手だった」  
 「奇遇ですね、僕もです」  
 「でも今はそんなことない。大好きだからね」  
 「――――――そういうのは、僕に言わせてくれないですか」  
 「ううん、ダメ。それは今度あたしが帰って来たときまで取ってて」  
 ユリの花が咲き零れるみたいないつもとは違う優しい笑顔で僕の頬に口付けをした。少し屈んで、ほんのかすれる様な。僕はその時初めて、彼女のシャンプーの香りの正体を知った。  
 「もう、行かなきゃ。みんな心配しちゃう」  
 背筋をピンと伸ばして勇ましく胸を張る彼女に、僕は言葉を掛ける。湿っぽくも名残惜しむでも、当然恨みがましくもない最後の言葉を。  
 「今まで起きた事が、これからの僕を作るんです。だからミミさんが僕のブレザーみたいなもんですよ」  
 彼女はくるりと大仰に回転しながら振り向いて笑い、階段を軽やかに駆け上がっていった。  
 「……ばいばい。またね!」  
 

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