【特有の電子音が室内に響く。】
心当たりを一つしかないその少女は、インターホンに目もくれず玄関へと駆けていく。
「は〜い」
「今晩は。お久しぶりです、ミミさん」
開いたドアの先に立っていたのは少女のよく知る人物、泉光子郎だった。
「あれ、光司郎くん背、縮んだ?」
「縮んでません。玄関の段差が高いんです」
「あはは…、ごめんごめん。と、兎に角上がってよ」
忌諱に触れてしまった事を、引きつった笑顔で中に招き入れて誤魔化す。
冷たい視線は依然と止まなかったが、背中を押すことで彼の目を見ないことにした。
「でも、本当に良かったんですか?」
「いいのいいの。気にしないで。はいこちらへ」
「うわぁ…」
案内された先はリビングらしい。広い空間に品よく佇む家具達は明らかに高価そうな身なりをしていたが決して派手ではなく、むしろ控えめにあることで己の存在を際だてている。
開け放たれた窓からは手入れの行き届いた芝生と赤みが濃くなってきた空が覗き、吹き込んでくる風は純白のカーテンを靡かせた。
「すごいでしょ?私も見て一発で気に入っちゃったんだ。」
「残念ですね、ミミさんのご両親も。こんな時に仕事が入るだなんて…」
「まぁ、仕方ないわよ。パパ達も肩を落としてたわ。はい、これは部屋の鍵。階段はさっき見たでしょ?」
「あ、はい。じゃあちょっと荷物だけ置いてきますね」
ミミから鍵を受け取った光子郎は早歩きで廊下を歩いていく。それを見送ってからミミはガラス板のテーブルに腰掛けた。
元をたどれば、太刀川家が夏休みに合わせて日本への帰国を企てたことが全ての発端だろうか。
避暑地の中でも特に人気の高かった高級貸別荘を押さえ、飛行機の手配を済ませ、着実に近づきつつある長期逆バカンスに胸を躍らせていたある日。それはちょうど別荘利用キャンセル時の返金がほとんど効かなくなった頃、死刑宣告という名の電話は訪れた。
泣く泣くキャンセルの連絡を入れようとしていた死刑囚二人を、日本の友達を誘ってみると説得したのは勿論ミミだ。
間近に迫った予定日に都合が付いてくれることを祈ってかつての仲間達に電話やメールを出した。そして晴れて出来上がったのが、今の状況というわけである。
「すごいですね、あの部屋。僕の部屋より広いですよ。」
本人には申し訳なかったが、真顔で驚く彼の姿はどうにも可笑しかった。噴き出してしまいそうなのを腹の底で押さえ込み、向かいの席にジュースの入ったグラスを置いて腰掛けることを促す。
「頂きます。」
言うやいなやグラスはほぼ逆さに立てられ、光子郎ののどを鳴らしながら体内へと流れていく。のど仏とともに波を打つ首は日差しを受けててらてらと光ってた。
「駅から割と迷っちゃいまして。重い荷物抱えて走り回ったんですよ。」
確かに一帯別荘地である場所だ。車で訪れることを前提とした道路は歩行者に対してあまり親切な構造をしていない。
それでも彼がチャイムを押したのは彼が当初予定していた時間よりも十分すぎただけ。しかも前もって連絡済みの上でだ。律儀と言えば律儀すぎる彼の性格は共にデジタルワールドを冒険した時、さらに言えば彼と初めて知り合った時から全く変わっていない。
「だから迎えに行くって言ったのに。」
「いえ、まさかここまでとは思っていなかったもので…」
後ろ頭を掻きながら光子郎は苦笑する。そんな彼を見てミミも微笑んだ。
「そう言えば、ほ・他の人たちはまだ来ていないんですか?」
まっすぐ見つめてくるミミからあからさまに目をそらして光子郎は言う。
「うん。今のところね。だから光司郎くんが一番乗り。」
「そうですか。皆さんいつ頃来られるって言っていました?」
「さぁ?待っていればそのうち来るわよ。」
「そんないい加減な…」
「あはは。さて、少し早いけど夕飯にしよっか。」
そう言ったミミは席を立ってカウンター付きのキッチンに入っていく。キッチンにはすでに大きな鍋が一つコンロの上に乗せてあり、食器もカウンターに全て用意されていた。
やや強引、と言うか違和感のある話の流れに少なからず疑問を感じたが、それもまた彼女特有のマイペースなのだろうと思って深くは考えないことに光子郎は決めた。
「あれ、ミミさんって料理できましたっけ?」
「失礼ね。昨日一日がかりで作ったとっておきのカレーなんだから。」
「それは楽しみですね。お味の自信は?」
「ふふ、見てなさい。料理本通りに作れば誰でも料理は作れるの。そしてミミ特製の隠し味は最高のハーモニーを奏でるんだから。」
レシピ通りに作ればそれなりの料理はできる。それは正論だ。しかし、そこに『特製』の『隠し味』を入れてしまってはもはやその理論は絶対のものではないのではないだろうか。
…運動もしていないのに避暑地の建物内で汗をかいてしまうのは一体何故だろう。
「そこのお皿とってくれる?二人分ね」
「あ、はい。どうぞ」
「ありがと。後冷蔵庫からサラダ出してくれるかな?上から二つめの大きなボウル」
元々用意する物なんて大した量もない。二人でかかれば準備と言えるほどの時間はかからなかった。二人分の少ない食器を空席のある広いテーブルに並べ、二人は向かい合うように先ほどと同じ席に着いた。
「あ、おいしいですね。」
「ちょっと、何よその意外そうな顔は。」
「ぃいえ、おいしいですよ。予想外にぃいッ!」
かかとで思いっきりつま先を踏まれた。スリッパ越しでも流石に耐えられるものではない。
「もう、一言多いのよ」
たった二人のにぎやかな食卓はその後しばらく続いたそうだ。
―間―
使った食器を先に片付け、二人っきりでリビングのソファーに座って未だ訪れない待ち人を待つ。
時計の短針いよいよ8の文字をまっすぐ指さした。
「流石に遅くありませんか?何時頃に来られるって言ってたんです?」
一度は流されてしまった質問をもう一度訪ねてみる。
「お昼の十一時半頃。みんなで集まってから来て、お昼はこっちで食べるって」
彼女から帰ってきた返事は非常に明確な答えであった。ただ一点を除いては…
「でも、まだ誰も来てないって…」
「そりゃそうよ。他のみんなが来るのは三日後だもん。」
「はい?」
彼女の言っていることには何の破綻もない。ミミが太一をはじめとするかつての仲間達を誘っていることは自分が誘いを受けたときに聞いた。当然だと思いこんでいたが、確かに彼女は他の人たちが同じ日に来るとは言っていなかった。
言葉の意味での理屈はしっかりと通っている。まぶたの重たい頭でもそれは何となく判った。
突然の誘いに上手く予定がつかない方がむしろ自然なのだ。ただ一つ腑に落ちないことがあるのなら、それは何故彼女が今まで誤解をあえて誤解のままにしておこうとしたのか。と言うことである。
「ねぇ、光司郎くん。そろそろ眠たくて仕方がないんじゃない?」
「え…」
そうか、ミミさんの姿がぼやけて何だか遠くに見えるのも、
先ほどからまぶたが重くてどうしても持ち上がらないのも、
それは…眠くて眠くて仕方がなかったからなんだ…
狭まっていく視界の隅。
ぼやけている世界の中で見つけた彼女は、不敵に笑っていた…