「しっかし驚いたさー」  
 
黙々と蕎麦を啜る神田の横で、頬杖をついてしげしげとラビが見つめる。  
「…ジロジロ見てんじゃねぇ。ブッタ斬るぞ」  
目線をそちらに向けもせずに静かに告げる声は、普段よりも高音で女声なのが自分でも腹立たしい。  
「いやいやホント。最初に見た時はドコの美人かと思―」  
 
チャキ、と澄んだ音が聞こえた瞬間ラビの脳内で電気信号が送られ、コンマ一秒後にはラビの身体は神田の刀を白刃取りしていた。  
 
「ち…」  
標的を仕留め損ない神田が小さく舌打ちする。  
「いいい…今…本気で俺を殺る気だったさ…ユウ…?」  
カタカタと震えるラビ。神田をからかうのは日常茶飯事だったが、本当に斬られそうになったのは今回が初めてだった。  
「今度くだらねぇ事抜かしやがったら……叩き斬る」  
いやに静かな声音が余計にラビには恐ろしい。これ以上の軽口は命に関わると本能が警告してくる。  
「は…は〜い…」  
ムスリとしたまま六幻を収めると神田は再び蕎麦を食し始めた。  
 
(ひぇ〜ご機嫌ななめさー。やっぱり治療薬が遅れてる所為かね?)  
一生は勘弁だが、期間限定で女の身体になれるなんて男にしたらむしろ夢が膨らむ。  
だが、当の神田にそれらの詳細を聞くのは死地に赴くにも等しい愚挙であった。  
 
薬の効能はいずれ切れるし、そうなれば完成薬を待たずとも神田の身体は元に戻る、というのが科学班の現在の見解らしい。  
自分ならば、それまでの間、滅多に得られない経験を充分に楽しむのになぁ、とラビは思わずにいられない。  
最も、女装を嬉々と楽しむ神田は、それはそれで恐怖を誘うものがあるけれど。  
 
遠くからブックマンが手招きしているのに気付いてラビが立ち上がる。  
「じゃあ行くわユウ。土産買ってくるから」  
「…任務か」  
「んにゃ、お使いみたいなもんかな。日帰りだし危険はないって」  
友人が心配しないよう鷹揚にラビは笑う。が。  
「危険はない、か。そいつは残念だ」  
クスリともしないで呟く神田の横顔は、とても冗談を云ってるようには見えなかった。  
「……な、なんか、いつもより破壊力があるさ…」  
 
胸を押さえ、悲しげに眉尻を下げて去っていく友人の背中を、神田は温度のない顔のままで見送った。  
「フン……使いで死んだら大笑いしてやるよ」  
 
届かない筈の彼なりの友情を、いつもたった一人の少女だけには間が悪く目撃されてしまう。  
 
「クス…素直じゃないんだね神田?」  
「……うるせえ」  
憮然とする顔に見られる仄かな照れは、神の目を持たなければ見抜くのは不可能だろう。  
そんな偉業を易々とこなす数少ない人間の内の一人が、自分の横に立って日溜まりの様な笑顔を向けていた。  
コムイが教団に来るまでは決して見る事のなかったリナリーの本当の笑顔は、神田ですら天使のようだと思ってしまう。  
だが無条件に誰にでも降り注ぐ微笑は、彼女を憎からず想っている者にとっては、やや切ないものがあるのだった。  
すい、と食べかけの蕎麦に視線を戻し、神田は思っているのと真逆の事をリナリーに吐いてのけた。  
「へらへら見てんじゃねぇ、気持ち悪ィ。飯食わねえならとっとと行きやがれ。気が散んだよ」  
 
知らぬ者が見たら振り返らずに居られない人目を引く美貌で、いつものきつい表情と、いつもの男口調で毒づく神田。  
無論目の前の美少女に効果はなく、少女は一層口元を綻ばせるだけだった。  
「うん、私はさっきサンドイッチ食べたから。ふふ、もう見ないね」  
 
かたんと神田の隣の椅子に座り、持ってきたリンゴジュースを飲むリナリー。  
(って、行かないのかよ…)  
神田は何となく横目でリナリーを注視する。端から見たらガンをつけている様にしか見えないのは、さておく。  
 
「……」  
自然と、ストローをくわえるリナリーの柔らかそうな唇に神田の目が吸い寄せられた。  
あの時教団の長い廊下でたった一度だけ触れた唇。  
あのキスの理由をリナリーは何故だか聞いてこない。  
挨拶で相手の唇に触れる慣習は神田の出身圏内にはないのだが。  
 
「?飲みたいの?神田」  
視線に気付いたリナリーが神田にストローを寄越してくる。無論今し方自分が口にしていた物だ。  
 
「……誰が飲むか」  
すげなくあしらい不機嫌を露にする神田。  
「リンゴジュース嫌い?…私、汚くしてないよ?」  
 
嚥下しようとしていた蕎麦が逆流しそうになって、神田の涼しげな顔が珍しく崩れる。  
「な!馬鹿かテメェは…?俺は……!」  
「ど…どうしたの?神田?」  
急な怒声に訳が分からずたじろぐリナリーに、神田は何処へ憤りをぶつけてよいのか分からない。  
 
「チッ!」  
やや無理矢理に蕎麦を完食し、ガタンッと椅子が倒れんばかりの勢いで立ち上がる。  
周囲の視線を一斉に浴びたが、眼光で黙らせるのも億劫な神田は、無言のまま服の裾を翻し食堂を出て行った。  
「…待って、神田!」  
半瞬遅れて、リナリーは様子のおかしい神田の後を追った。  
 
「神田…!ねえ、待って……神田っ」  
 
返事は返ってこない。女性化しても、身長とリーチのある神田の歩みはリナリーの小走りに相当する。  
息を弾ませて付いてくるリナリーに神田はようやく歩調を弛めた。  
「ついてくんじゃねぇ」  
「ついていくよ…神田変だもの」  
「別に普通だ」  
「嘘」  
前に回り込まれて神田の眉が跳ねる。食い下がるリナリーの一途な瞳は苦手だ。  
 
いつからこの友人兼、家族兼、幼馴染みの少女に過ぎた思い入れを抱く様になったのだろう。  
たかが一時女の身体になっただけで、こんなにも苦痛を思い知る。  
自分の変身をあっさり受け入れるリナリーをこんなにも許せなく思う。  
自分を心配する瞳がこんなにも愛しく、こんなにも居心地が悪い。  
 
「テメェは何で…あんな風に楽しそうに笑える」  
「え?」  
お前がもし男になんかなったら俺には一生の死活問題だというのに。  
「人の気も知らないで無神経なんだよ」  
お前さえ居なければ、こんななり位…胸クソ悪くとも堪えられた筈なのに。  
 
「神、田…?」  
「仲良く女友達になれるとでも思ったのかよ?馬鹿みてえにベタベタしやがって…舐めんじゃねえ」  
もはや神田は止まらない。本当に伝えたいのは、こんな事じゃないと分かっているのに。  
 
「聞いて…神田!」  
リナリーに服を掴まれ神田は眉を顰めた。  
「…神田は誰であっても神田だよ…?私はそう思ってる…それじゃ駄目なの?…舐めてなんか絶対ない。そんなに…神田は私が…」  
嫌いなの、と目で聞かれて神田は憤死寸前だった。  
 
この馬鹿野郎は。ありえない勘違いしてんじゃねえ。  
 
普通ならリナリーの今の言葉が何より個を認める一番嬉しい承認なのだろう。  
それでも神田の感情としては、リナリーにだけは今の自分など受け入れて欲しくないのだ。  
 
「嬉しくねえんだよ」  
「え」  
ダン、とリナリーの横に両手をつく。壁と神田に身体を挟まれ、リナリーは神田の腕の檻に閉じ込められる形になった。  
女の神田より更に一回り小さなリナリーの身体に、改めて神田は彼女が華奢だと知った。  
「神田…」  
「身体が女だろうが関係ねえ。テメェが一緒に居るのは男なんだよ。お前の隣にいる時俺はいつだって…」  
長い睫毛の下から、彼以上に長い睫毛のリナリーの瞳を神田が見下ろす。  
いつもは物怖じせず真直ぐ見つめてくるリナリーの大きな瞳が困った様に逸らされ足元を泳いだ。  
「今は女だが…ガキになろうが老いぼれになろうが、中身の俺はいつだってテメェに惚れてんだ……分かったか」  
「………!」  
 
静まり返った通路は自分の吐息と鼓動が聞こえてきそうだ、と二人共が思っていた。  
下を向いていたリナリーが静かに顔をあげる。  
「神田…ごめん…。手、どけて…?」  
 
内心で打撃を受ける神田だったが、表面上は幸か不幸か涼しい顔のままだった。  
「……悪い」  
神田はゆっくり腕を下ろしリナリーから後退する。そんな神田を見やりながらリナリーは困り顔で呟いた。  
「そういうの…女の子は恥ずかしいから」  
「……あ?」  
「だから…」  
「っ?」  
グイッと自分より背の高い神田の身体を壁に押し付け両手で囲う。  
神田の身体はリナリーの狭い腕の中で自然と気を付けの姿勢になった。  
自分の置かれている状況に神田の眉が吊り上がる。  
 
「おい…何の真似だ」  
「こういう事…男の子にされると女の子は恥ずかしいんだよ?」  
「……?」  
リナリーの意図が今ひとつ神田には良く分からない。少女の頬が少し赤らんだ様に見えた。  
「もう。だから…神田は私にとって男の子って事…!女の子にこうされたって、きっと平気と思うから…」  
何とも間の抜けた顔になる神田をリナリーは手を壁についたまま睨む。  
「だから、もうしちゃ駄目だからね?」  
コムイ辺りなら悲鳴をあげそうな可憐な表情だったが、感想で云えば神田が抱いた気持ちも然程変わらない。  
 
「…テメェこそ何してくれてんだ」  
「おあいこでしょ?」  
リナリーの顔は先刻より赤い。  
「手ぇ、どけろ」  
「……嫌」  
「んだと?」  
「どけたら…怒るでしょ…?」  
「…たりめーだッ」  
リナリーの脇から背中に手を回し、そのままきつく身体を抱き締めた。  
「っ!」長身の相手に抱えられるように抱擁され、少女の軽い身体が僅かに浮いた。  
「ちょ…?」  
神田は喋らない。リナリーは神田の肩に顎を乗せて遠慮がちに彼の首に手を添えて身を任せた。  
「ね…神田」  
「まだ黙ってろ」  
しばしの間の後。  
「…神田の胸…私より大きいね」  
抱き合ったままポソとリナリーが呟くと、神田のこめかみにピシッと青筋が走った。  
「テメ…張り倒されてえのか?」  
「女の子には大事なコトなんだけど…」  
「黙れ」  
首根っ子を押さえられ、顔を上向かされたリナリーに真上から降る様なキスが下りてくる。  
「か…」  
先日とは違う荒々しい口づけは息が出来ない程にリナリーの唇を吸い、口腔に割り入った舌は攣りそうな程リナリーの舌と絡み合った。  
 
「んんっ…ふっ…?」  
 
場所をすっかり忘れた貪る様なキスに、リナリーがポカポカと神田の肩を叩いた。  
「……何だ」  
「何だ、じゃないよっ…ここ廊下なんだけど…」  
少々立腹気味のリナリーをそれ以上ムスッとした神田が見やる。  
「場所が関係あるのかよ。お前の俺への気持ちは…?」  
女にしては大きな手がリナリーの髪をくしゃっと包んで引き寄せる。  
「もう…拗ねないの神田」とリナリーも神田の頭を撫でてやった。  
「……拗ねてねぇボケ」  
大柄の美女が小柄の美少女に大人しく頭を撫でられているのは一種不思議な光景だった。  
「ここじゃ駄目なら…何処ならいい…?」  
神田の艶を帯びた低い声と真剣な眼差しにリナリーは頬を染めた。  
「今の声…地声ぽかったね。びっくりしちゃった」  
「…おいテメェ、やっぱり俺を女と思っていやがるだろ」  
「だって…」  
「だってじゃねえ」  
団服の上から回された神田の手がリナリーの身体を妖しく滑る。  
「ちょっと…神田…」  
細くくびれた腰を流れる様に滑り降りた手は、ヒップで止まって柔らかく撫で上げてきた。  
「んっ、やだ…神田の痴漢」  
「ッ…誰が痴漢だ!」  
怒った唇が近づいてきてキスされそうになり、リナリーが赤い顔を背ける。  
「バッ…だからココ廊下だってばっ」  
 
廊下じゃなければ良いのだな、と神田が解釈をしても無理はない。  
「チッ。来い、俺の部屋行くぞ」  
勝手に決めてリナリーの手を引きスタスタ歩き出す。  
「男子寮はまずいと思うけど」  
云われて、はた、と思い留まる。そういえば、そんな理由でリナリーの部屋に泊まる様になったのだった。  
その事にこそ異議を唱える者も少なくなかったが、罪なリナリーは理由を聞く事もせず笑顔で却下したのだった。  
女体化男が自分じゃなかったら、その場で血の雨を降らせたかも知れないなどと神田が思ったのは秘密だ。  
リナリーの手を握ったまま険しい顔で立ち尽くす神田だったが、その手を引く様に今度はリナリーが歩き出した。  
「…おい」  
「私達の部屋に…行こ?」  
「……!」  
あっさり攻守が逆転し、神田は不貞た様に前髪を掻き上げた。  
 
 

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