Schluss(シュルス)!  
 神田が白い喉に噛み付くと、その歯の下で薄い皮膚が震えた。  
「……今、何て言った?」  
 聞いた事のない単語に意地悪く彼は訊き返す。共通語の英語でも、彼の母語の日本語でも未知の単語なら、それは彼女の母語の中にあると分かった上で。  
 内心は酷く混乱しているのにおくびにも出さず、額にかかるブルネットを掻き上げてやる。  
 どうしてこんな陰気で鈍臭い、自分の身もろくろく守れない女に、こんな事を仕掛けようと思ったのか。いやそもそも、何故彼女が気になって頭から離れない?  
「なあ」  
 答えない頬を擽ってやる。Stop it、と小さな声で、ミランダは言い直した。  
「やめて」  
「お前の意見は聞かない」  
 この女の力が気になったのは事実だ。だが、そこから先は? どうして興味が持続した?  
 湧き出す疑問を振り切るように冷淡な文句を優しげに宣言して、彼は尼の着るような野暮ったいドレスの前を広げた。  
 開けたそばから掻き合わせてしまう彼女の手を両方纏めて拘束し、ベッドの上に柔らかく引き倒して、相応しいと思える言葉を耳に吹き入れる。  
『――好きだ』  
 Ich liebe dich. 一番単純な愛の言葉。  
 口に出して初めて、ああこいつに惚れているんだと自覚したのと同時に、相手の血色の悪い頬が一気に染まった。  
「卑怯よ……!」  
 ミランダがこちらを睨んでくる。  
 これが例えばリナリー辺りだったら気圧されるかも分からない。しかし相手は涙目で、不安定な体勢のミランダだった。  
 つまりは全然、怖くない。  
「からかっているんでしょう。やめて、お願い」  
「からかう?」  
「年が違いすぎるわ、七つもよ、」  
「俺は気にしない」  
「やめ……ひ、あ、あぁ」  
 三回目を言い切る前に耳朶を食む。渦巻きを舐り、唾液の音を響かせれば、炒った豆のようにがくがくと体が跳ねた。  
 触れるたびに何らかの顕著な反応がある事が愉快で、耳から喉へ、頚動脈を辿るように唇や鼻先で触れていく。もう一度、今度は舌も触れさせてねっとりと噛む。  
 
「Bitte(ビッテ)、」  
 なだらかな周辺に中心だけ歪に膨れた両の掌で、彼女はこちらの頬を包む。お願い、と一番基本的な単語だけで、哀願してくる。  
 戯れに彼女の母語を教わっていたさっきまでとはあまりにかけ離れていて、想像もつかなかった。  
 誰が止めるか、と心中で嘯く。こんなに鼻にかかる声で、こんなに崩れた片言で、それで止まる男がいるというなら教えて貰いたいものだ。  
 コルセットの紐の結び目を解いて、ぐいと力任せに引いて一気に外せば悲鳴が上がる。  
「……細いな」  
 昔ながらのロングドレスを着る女は大概この下着を着けている。細い胴が良いとされるからきつく圧迫して、その結果血の道の病が増えるというわけだ。  
 だけれど目の前の彼女は、そうする必要がないんじゃないかと思われる程痩せている。どこもかしこも肉が薄くて、身じろぐ拍子に肋骨さえ見えた。  
「ひっ!」  
 脇腹をなぞり上げると、なおさら脂肪の薄さが分かる。脂肪どころか筋肉さえろくに付いていないんじゃないかと疑ってしまう程だ。  
「ちゃんと食ってんのか?」  
 思わず心配になって問うが、ミランダはただ首を横に振った。いやいやと頭の揺れる度に、波打つ髪がシーツをぱたりぱたりと力なく打った。  
「放して……」  
「嫌だ」  
 神田は即座に答える。二十を過ぎているのに欠食児童のような体つきに罪悪感を覚えないでもないが、彼女を抱きたいという欲求を抑えられるほど自分は出来た人間ではない。  
 血色の悪い、だが驚くほど白い露になった半身を改めて見下ろす。乳房の先の蕾は下に流れる血の色をそのまま反映した薄紅で、そんな所まで子供のようだった。  
 一度邪魔な髪を背中に払ってから、その頸に顔を埋める。男の自分では有り得ない、どこか甘い肌の匂いが快い。  
「く、んぁ……うっ」  
 一度舐めて湿らせた唇で、はぐらかすように触れた。脂肪が薄いという事は凹凸に乏しいという事だ。丸いとは言えないささやかな膨らみは彼の手に呆気なく収まる。  
 ゆるゆると舐めずり、あるいは撫で、時たま指先で引っかくようにして。たまに飾りを掠めると、目を瞑り歯を食いしばって耐える様子を見せるのが面白かった。  
「ふ、あっ!?」  
 頓狂な声が飛んだのは、いつの間にか下りていた髪の筋が彼女の肌に掛かったからだ。大きく口の開いたその隙を見逃さず、彼は頂を尖らせた舌で突いた。  
「ああーっ!」  
 
 どこか控えていた喘ぎが大きな悲鳴に変わる。急な動きにつれてつっと首筋を伝い落ちた汗の匂いが、いつの間にか濃密な甘いものに変質していた。  
 嬉しい反面驚いたが、声が大きかった事に一番混乱したのは当の彼女らしく、ぱっと両手で口を覆ってしまった。つい笑ってしまうと、ミランダはそっぽを向いた。  
 それならもっと、声を出さずにいられないようにしてやろうではないか、とばかりに、水音を立てて左右の蕾を重点的に攻め立ててやる。くぐもった声がオクターブ上になるまで時間はかからない。  
「いや、それ、やめてえ……」  
 薄い乳房を胴の中心に寄せるように捏ねると細い抗議があったけれど、神田はそれを無視した。薄紅が恐ろしく濃くなっている。充血しているのだ。  
 キスを一つ最後にして、顔を下にずらす。腹の上に点々と唾液を残したキスを送り、臍の辺りに鼻先を埋めた。その間も手は膨らみの上に置いたままで。  
 くすぐったさに声が漏れたら手を動かす。恥ずかしさに黙ってしまったら口付ける。それを繰り返して至った先に、悲鳴が上がった。  
「……いや!」  
 この期に及んで、彼女の口からはまだ否定しか出てこない。  
 腹の辺りに筒のようになって留まっているドレスは無視して、一つ息を吐く。まだ履いたままになっていたブーツを片足ずつ丁寧に脱がす。  
「もうやめて、お願い……こんな事、間違ってる」  
「間違い?」  
 神田はふと手を止めた。止めて、ベッドの上から起き上がる気力も無くした相手の顔を覗き込む。  
 星の形に膨れた痕の残る両手で、彼女は自身の顔を覆ってしまっていた。頬から波打つ髪へと消えていく二本の涙の筋に、彼は絶句する。  
「どうして? どうして、私なの? 私がこんなだから安売りするんだと思っているの?」  
 本格的な嗚咽が始まる。何も着けていない肩が震え出して、そうしたのは自分なのに酷く哀れに思えた。  
「ミランダ?」  
「好きな人と、するものでしょう? あなたは、あなたの好きな人とするべきよ、私とじゃ、ない」  
「ミランダ」  
 掌に手を掛けると強い力で拒まれて、仕方なく額に掛かる髪の一筋を取った。早口に言いたい事を吐き出した唇は今引き結ばれて、しゃくりあげるのを必死に堪えている。  
「ミランダ」  
 上気した白い肌は冷え始めていたのでシーツを掛けてやる。神田はしばらく柔らかいブルネットを弄んだ。指が額に触れる度に大袈裟なほど相手は震えた。  
 
 それを彼は痛ましいと思う。一体どこで掛け違ってしまったのだろう。  
「一つ訊くが」  
 彼はもう一度、両掌に手を掛けた。今度はこちらも力を込めて隠す繊手を引き剥がし、顔の左右に縫いとめた。  
「お前は、俺を好きか?」  
「……嫌いよ。こんな事するユウ君なんか、嫌い」  
 彼女は目を瞑っていた。泣き濡れた声はか細く一瞬遅れている。  
「好きな相手とするもんだから俺はこうしてるんだがな」  
「うそ」  
「嘘なもんか」  
「うそよ……」  
 嘘じゃない、と冷たい唇に、触れるだけのキスを寄越す。そう言えば初めてのキスだ。頭に血が上っていて、すっぱりと念頭に無かった。  
「お前がどうでも、俺はお前が好きだからこうした。それだけだ」  
「うそ……」  
 そろそろと瞼が開いた。薄い美しい色の瞳だ。こちらをおずおずと見上げるそれに応えて、彼は無言で髪を撫でる。  
 拘束する力を弱めていけば、先に解いた右手が上がる。細い指が壊れ物に触れるように、何度も躊躇いながら神田の頬に触れた。  
「嘘じゃないの?」  
「……」  
「……信じていいの?」  
 答えず髪を梳き続ければ、お願いと答えを強請られた。口を開きかけて閉じると、もう一方の手も伸びてきた。やはり冷たい両手で、再び彼女はこちらの頬を包む。  
「……お願い、答えてちょうだい、私があなたを好きでいいのかどうか」  
 教えて。  
「……もう言ったろ」  
「もう一度」  
 照れ隠しの答えは即座に否定されて、間近に顔を近付ければ、今度は臆する事無くミランダも見返してくる。  
『お前が、好きだ』  
『……私も』  
 直後の口付けではお互い頬が熱くて、顔が溶けるかと思うほどだった。  
 
 
 

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