もう、ずいぶんと肌寒くなってきた。
私は北風が吹き始めた放課後の校門の前で、とある人を待っていた。
明日は私の誕生日、この日は3年前から毎年とある人と一緒にいる様になった。
といっても、毎回私が誘っているので無理矢理付き合わせてしまっている様な気がする。
まあ、いつも楽しそうにしているので、良しとしよう。
私が待っている間に、幾人もの学生服を着た生徒達が目の前を通り過ぎていく。
ここは私が中学3年間を過ごしたサクラ中学だ。待ち合わせ場所はいつもここにしている。
この学校の一生徒だった頃、この場所で、私はいきなり人生の山場を迎えてしまう様な出来事の当事者となった。
あの時の私は、何かに取り付かれていたかの様に、ある美術教師を憎んでいた。
憎しみで自分の心が支配され、蝕まれ、そして静かに壊れていく様は、周りから見てどんな様子なんだろう?
後から、その時の様子を聞かされてもなかなか思い出す事が出来なかった。
でも、今はそれでいいと思っている。
人を憎いという気持ちは、結局の所、何も生み出さないという事を教わったから。
大切だった人の気持ちを、理解する事が出来たから………。
その美術教師も、既にこのサクラ中を去り、どこか外国へ渡ったというのを耳にしている。
一時は交通事故に遭って重傷を負っていたが、どうやら何らかの後遺症が出たらしく、
その治療の為に、海外の病院へ入院しているのだそうだ。
そして、私はというと、現在は某進学高校へ進み、今は大学受験の追い込みの時期に入っている。
同級生は今頃勉強に四苦八苦しているだろう。
実を言うと、私も同じ様に忙しい。やはり教職を目指すには、それなりの所に入りたいと思うし、
私自身も努力を止めたら、今はもういない大切だった人に、きっと駄目出しされるに違いない。
「ヒカル! ちゃんと頑張りなさい!」って。
そんな事を思いながら待っていると、校舎の方から幾分だけ背の高い、ちょっと冴えない感じの、
けれど、その眼差しは吸い込まれそうな程活力に満ち溢れた「とある人」が歩いて来るのが見えた。
「………先生っ」!」
私は先生に声をかけると同時に、手を大きく振って自分が既に着ている事をアピールした。
先生はそれに気付くと全力疾走してきた。相変わらず元気のいい人だ。
「ヒカル、久しぶりだな。メガネが相変わらず似合ってるぞ、うんうん。ま、元気そうで良かったよ。」
「先生。そ・れ・は、私の台詞です!」
「はは、そうかそうか。よしよし。」
「もうっ………子供扱いしないで下さいよ。」
「よし、じゃ行こうか。」
私は先生と一緒に、先生の自宅へ並んで歩きながらそんな他愛も無い会話をしているうちに、
心から湧き上がる暖かく、癒される様な気持ちを感じ始めていた。
先生に会う時は、いつもこんな気持ちになる。
この人の持つ雰囲気みたいなものが、私をこんな気持ちにさせてくれているのだろうか。
けれど、今回は今までとは違う、何かしらの漠然とした不安もかすかに感じていた。
「ん? どうした? ヒカル」
「えっ……、あ、すみません。」
私は、その不安を打ち消すかの様に、話題を変えた。
「先生。そういえば車買ったそうなんですね、びっくりしましたよ〜?先生が車なんて……。
てっきり昔のカブを買い換えただけかと思いましたけど?」
「おいおいっ、ヒカル〜そりゃないだろう? 俺だって車買いたいって思っていたんだからなぁ。
まあ、中古車だけどな。ははっ」
「先生が新車を買ったなんていったら、それこそ地球滅亡の日ですよっ」
「おっ、言ったなこいつ〜〜、こらっ」
「はははっ、もう先生も歳なんじゃないですか〜? 走るの遅いですよっ」
とか何とか掛け合いながら、傍からみると妙なカップルが走って行く。
ああ、先生と初めてデートした時もこんな感じだった様な気がする。
あの時は、色々と心の内に秘めていた事があって、純粋にデートという訳にはいかなかったが。
確か、あの時から私は先生の事を、「お兄ちゃん」と呼ぶようになったと思う。
そう呼び始めた当初は、自分でいうのもなんだが、歳の差もあって凄く違和感があったのを覚えている。
でも私の大切だった人が先生をそう呼んで慕っていた事を知っているので、
今は先生と呼ぶよりもお兄ちゃんって呼んだ方が、自分としてはしっくりするような。
そんな事を考えていると、先生のアパートが見えてきた。その入り口前には、妙にピカピカのワゴン車が一台。
「……………………本当に買ったんですね。車。」
「言っただろう? まったく。ちなみに値段は聞かない様に。」
「別に聞きませんよ……。どうせ過走行車を安く買い叩いたんじゃないですか〜?」
「…………何故分かった?」
私は思わず吹き出してしまった。この人は相変わらずだ。素直で、正直で、真面目で純粋で……、
久々に会ったけど、何も変わっていない。
そんな人だからこそ、私は……。
「お〜い、早く乗らないと置いてくぞ〜?」
「…………。」
前言撤回。この人は素直じゃなくて鈍感で冴えなくて朴念じ(ry
ちなみに、今日は埼玉の奥地、秩父迄ドライブだ。何でも「俺取っておきの」夜景スポットがあるという。
この時間からそこへ行くのだから、帰りは深夜になるだろう。
その事は、私の母にはきちんと言ったのだが、「先生に『ヒカルを、宜しくお願いします。』とだけ伝えておいて。
折角会える機会なんだから、存分に楽しんでらっしゃい。」と母も心なしか嬉しそうだった。
母もこれまでの事で、先生の事を信頼しているのだろうが……。
まあ、今日は土曜日だから、先生も私も明日は休みなので、朝起きる事を考えずに気兼ねなく行けるのだけれど。
車は首都高から練馬インターを経て、関越自動車道をひたすら北に走り続けた。
子1時間走って、花園インターで下道に降りていくと、後は西へ向けてバイパスをひた走る。
途中、レストランで夕ご飯を食べて腹ごしらえをし、再び車に乗って走る。
また1時間位すると、辺りは急に田舎の様相を呈してきた。
車中では、お互いの最近の近況を話し合ったり、勉強についてのアドバイスとか、「金○先生」というゲー(ry
とか、色々と会話が弾んだ。先生も私も笑顔がこぼれた。
こういう和やかな雰囲気は久しぶりだから、時間が経つのもあっという間で、
いつの間にか車は目的地へと到着したようだ。
今は午後10時過ぎ。辺りは真っ暗だ。
ここはある峠の展望スポットだったのだが、昔程観光客が来ず、今では知る人ぞ知る所らしい。
私達が車から降り立った場所の向こうには、秩父市から小川町、遠くは川越市にかけての夜景が広がっている。
都内のお台場とか、レインボーブリッジとか、有名所の煌びやかで光溢れる所とは違い、
眼下の遥か遠方迄続く、道路の光や、その圧倒的な遠近感・スケール感の違いは、また一味違った趣がある。
どちらかと言えば、飛行機に乗った時の風景に近いと言えば良いのだろうか?
廻りには私達以外、誰の姿も無く、恐ろしい位の静けさを保っている。
私達もここに来てからは、暫くその夜景に見入っていた。
峠道のこういった展望場所から夜景を見るという経験が無かった私は、本当に感動した。
先生が言うには、冬の時期が近づくと空気が澄んで特に綺麗に見えるという。
だから、敢えてこの少し肌寒い時期の秩父へ私を連れてきた、と。
すこしの間黙ってその光景に見入っていた私だが、ここへ来て
最初に先生と再会した時に感じた不安感が、湧き上がるのを感じていた。
それは、私が以前、自分の卒業式後に、サクラ中学の屋上で先生に向かって告白した事だった。
あの時、私は先生に対する想いを包み隠さず、全てぶつけた………つもりだった。
その想いを伝えた後、先生は真面目な顔をして、黙って私を抱きしめてくれた……。
私は抱きしめられた時に、感極まって泣いてしまっていた。
生涯初めてだった、本気の告白。
他人から見れば、歳の差あり過ぎるだろうとか、あんな冴えない感じの青年なのにとか、
色々突っ込みたい所もあると思う。
私だって、自分が他人の立場であれば、そう言って突っ込んでいたと容易に想像がつく。
だけど………、その時の私は、まるで魔法にかかってしまったかの様に、先生に恋をしていた。
まるで、私の親友の様に。
そんな私の気持ちを、先生は受け止めてくれた……、そう思っていた。
しかし、次に先生の口から発せられた言葉に、私は驚きを隠せなかった。
「今の俺では、駄目だ。」
「えっ?」
「それに、今のお前でも……駄目だと、思う。」
「先生…何…言ってるんですか?」
先生は身体を離して私の肩を掴み、あの吸い込まれるような目線を私の目に合わせて続けた。
「俺も……お前の事は生徒として好きだし、守ってやりたい気持ちもある。
だが、それはあの出来事を通してだからじゃないのか?
お前が俺の事を想うのは嬉しい。だけどそれは流されての事じゃないのか?
ヒカル、お前は自信を持って言えるのか?」
「先生………。」
「実はな、怖いんだよ……俺は。お前がチハルと同じ様に、ここのフェンスを越えて端に立っているのを見た時、
血の気が引く様な思いだった。大切な人を、また、俺は亡くしてしまうんじゃないかって、直感した。」
「………。」
「結果として、お前をチハルと同じ目に遭わせてしまった事を、今でも後悔しているんだ。」
「先生………、先生が後悔する事なんてな…」
「違うんだっ!」
先生は私が慰めようとするのを遮って怒鳴った。それは、しかし、先生自身に対する怒りにも見えた。
「俺がもっとしっかりしていれば……、あの時もっと良く行動出来ていれば、お前を…、
いやお前だけじゃない、今回の事件に巻き込まれた人達を、少しでも助ける事が出来たんじゃないか?
思い上がりかもしれない、ただの自己満足かもしれない。
でも、それでも、俺はこういう性分なんだよ……。」
先生は自嘲気味に苦笑して、私から目を逸らした。
「だから…、俺はもっと自分自身を成長したいんだ。」
「………。」
「教師として、人間として、まだまだあの方にたどり着くには力不足だ。
だから…、今はまだ、お前の気持ちに応えてやる事が出来ない。」
「先生……。」
「そしてな……、お前も、成長して欲しいんだ。何でもいい、自分なりの方法で成長していって欲しい。
勝手な言い分だって事は百も承知だ。告白してきてくれた人間に対して何言ってんだろな、と思う。
でも、これがっ、俺の……偽らざる気持ちだ…。」
私はそれでもあがいた。
「でも…、それはいつの事になるんですか? そんな答えが見えない事。」
「………、お前が高校3年になった時、その時にまた話し合おうか。俺もお前の思いは真摯に受け止めたいしな。」
「……先生……、……分かりました。」
私が肩を落として俯くと、先生は掴んでいる肩をより強く握り締めて、私の顔を見た。
「ヒカル、お前は賢い子だ。俺なんかよりずっとな、そんなお前にこの一年間ずっと助けられていたんだ。
本当に感謝している。今すぐ結論を出す必要なんかないだろう? まだ、俺達には、未来があるんだからな。」
私は顔を上げた。先生の目と視線が絡み合う。笑顔があった。
「先生………、はいっ!」