私はこの場所に立っている。
今から私は、人として最低な形で、結論を出す事になるだろう。
何度も考えた。これで正しいのか。これで本当に救えるのか。
でも、どれだけ考えても、最後にはこの結論に辿り着いた。
不思議な事に、恐怖や罪悪感などは全く沸かなかった。
何度も両親の顔、妹の顔を思い出し、心の中で彼等に詫びた。ごめんなさい。ごめんなさい。
でも、彼等の顔は、すぐに後から浮かび上がってくる一人の男性への想いで打ち消され、霧消し、闇へと消えていった。
桐谷先生。
私が愛する人。私を愛してくれてる人。
私に彼を愛してると錯覚させてくれた人。
私を誰よりも必要としてくれた人。私が誰よりも必要とされたい人。
私を誰よりも傷つけた人。私が誰よりも傷つけて欲しいと願った人。私をこれから・・・・殺す人。
彼は悩んでいた。絵が描けない、と。彼の幼き日に脳裏に焼きついた、圧倒的な絶望。
それを描きたい。彼はそのために、私を追い込み、孤立させ、徹底的な絶望へと落とし込んだ。
しかし、私はそれを喜んで受け入れた。彼の為になるのならば、自ら進んで苦痛へと踏み込んだ。
私は、彼の記憶にある絶望は分からなかったが、彼の描こうとしている絶望が何なのかは、はっきりと分かっていた。
それを描く事で、彼は救われる。それを信じていた。
だけど。足りない。彼はそう言った。
描きたいものを満足に描けない、自分の才能の無さを責めた。
そんな事ないです。先生は、凄い人です。私は何度も繰り返した。しかし、彼は満足しなかった。
彼が満足するのは、彼の脳裏にある絶望を描けた時だけなのだろう。
その後、ふとしたきっかけで、彼が死を選ぼうとしてるのを知った。
彼は、私を傷つけた事を悔やんでいた。正確には、傷つけておきながら、絵ひとつも満足に描けなかった事を。
このままでは、彼は自責の念に駆られ、死を選んでしまうかもしれない。
私は決めた。彼の、暗い道を照らす光になろう、と。彼が絶望を描くのなら、私は彼の希望になろう、と。
そのためならば、私の命を喜んで捧げよう、と。それで彼は救われる。
うな垂れていた頭を上げ、空を眺める。
そこには、まるで天使の羽のように白く輝く柔らかい雲と、見る者を狂気に駆り立てるような、圧倒的に青い空が広がっていた。
下の方で、女生徒の悲鳴や、教師達の、馬鹿な事はやめるんだ、といった、お決まりの説得が聞こえる。
桐谷先生は、この光景をどこかでちゃんと見ていてくれているだろうか。
先生に、これから、私の命と引き換えに、見たこともないほどの、この世で唯一の絶望を捧げます。
先生。どうか、死なないで。必ず、絵を完成させて下さい。私は、奈落の底へと通じる一歩を踏み出そうとした。
その時だった。錆びた鉄製のドアが勢いよく開かれ、壁にぶつかる音とともに、悲痛な叫び声が背後から聞こえてきた。
「やめるんだ、チハル!」
ああ、そうだった。この人は、いつもそうだった。
自分の事など考えず、何よりもまず生徒の事を考える人。
この学校の大半の教師が、桐谷先生からの裏口入学斡旋を紹介されたため、事なかれ主義を掲げてる中、
一人愚直な正論を説き、色んな生徒を救ってきた人。
私の事を他の誰よりも大切に思い、私が危機に陥った時は、必ず傍にいて、助けてくれた人。
多分、私の事を・・・・愛してくれている人。
私は先生からの思いを受け入れられなかった。
受け入れてしまったら、そこで私の桐谷先生への思いが、解かれてしまうように思えたから。
私の桐谷先生への思いは間違っていると、断罪されてしまいそうで怖かったから。
でも、あの夜。桐谷先生の思いを知った夜。私は理解した。
やっぱり、私は桐谷先生の事を愛してる。
それは正しいとか間違っているとかではなくて、多分、私と桐谷先生との間でのみ通用する秘密みたいなもので、
間違っているとしても、私は桐谷先生と通じているのは分かっている。これだけはきっと真実。
私はこれから、この先生を裏切る事になってしまう。自殺は最低な人間のする事だと説いていた、先生。
悲しい事は、重石をつけて水の底へと沈めてしまえと言ってくれた、先生。
自分の命は、自分だけのものではなく、周りの人達みんなによって形作られていると教えてくれた、先生。
先生、先生、先生。
自然と涙が溢れてきて、私の靴の爪先を濡らす。でも。
私は、桐谷先生の心を救いたい。自分だけのものではないのならば、桐谷先生の為に使いたい。
それがきっと、桐谷先生、そして、私が救われる、たった一つの冴えたやり方だと思うから。
そう考えると、もう自然と涙は止まっていた。
私は絶望してこの方法を選んだ訳ではない。最も馬鹿なやり方なのは分かっているが、
私の心を満たしているのは、希望だ。その事を、先生と、妹だけには分かって欲しい。
いや、理解してくれとまでは言わない。ただ、知っていて欲しい。そう思い、数日前、先生に私の日記を渡しておいた。
そこには、私が何故こういう方法を選んだか、他人が読んだら支離滅裂かもしれないが、その心境を記しておいた。
ただし、日記の一部は破き、桐谷先生へ送っておいた。その部分だけは、桐谷先生と私だけが知っておけばいい事だと思ったからだ。
そして日記の最後の方には、妹へ向けて、メッセージを残しておいた。
先生。いつか妹が大きくなって、あの子が悩み、苦しんで、もし・・・・・私と同じような方法を採ろうとしていたら、
どうか、この日記を渡してあげて下さい。そして、必ず・・・・・助けてあげて下さい。
先生、これが私からの最期のお願いです。先生を裏切ってしまって、本当にごめんなさい。
でも、もう私は迷わない。
先生がもう一度叫ぶ。
「チハル!」
私は、微笑みを浮かべながら、ゆっくりと振り返る。
「・・・・・お兄ちゃん」
私が立っている、この場所で、全てが終わる。
私はこの場所に立っている。
あの日、お姉ちゃんが死んだ。
その事実は、まだ幼かった私の心にも、重く、暗い楔を打ち込んだ。
それは決して引き抜く事の出来ない、重い、重い、楔。
それは、まだ幼かった私の心を簡単に砕いてしまえるほど、強固で、圧倒的な現実だった。
私は、お姉ちゃんが死んだという事実を、お姉ちゃんから教えてもらった方法で、
無意識の内に、心の奥深くにしまい込み、蓋をした。しかし、お姉ちゃんが死んだ季節、つまり冬頃になると、
嫌がおうにも鮮烈な思い出として脳裏に蘇り、胸は疼き、頭は痛んだ。
頭では拒否しているのに、心では無理やりその頃の記憶を頭にねじ込んでくる。
だから、私は冬が嫌いだった。楽しい思い出はすぐに忘れてしまうのに、
悲しい思い出は、いつまで経っても忘れられないという事実を突きつけてくる、冬が。
私は今、お姉ちゃんが死を選んだ場所に立っている。
お姉ちゃんのお葬式は、もう今では断片としか思い出せないが、今でもはっきりと覚えている事がある。
お姉ちゃんと仲の良かった先生を、泣きながら殴っている、私の父。
その先生に、どうしてお姉ちゃんを救えなかったかを、無邪気に尋ねている、幼い私。
そして・・・・。
桐谷。アイツの顔は、決して忘れる事が出来なかった。
私に、色々と不可解な言動を吐き、何の感情も篭らない目で私を見つめ、こう言った。
「今度は君を描くよ」と。
あれから幾年かの月日が流れた。
私は成長するにつれ、まるで双子のようにお姉ちゃんに似てきた。
鏡の前に立つ度、胸が苦しくなるので、わざと髪型を変え、眼鏡をかけ、出来るだけお姉ちゃんの姿から離れようとした。
それでも、お風呂に入って鏡を見る時などは、毎回泣きそうになるのを堪えていた。
何人かの親友と呼べるような友達も出来た。
勉強も順調で、何一つ不安と思える要素は無かった。
ただ、決まって毎年冬には気分が悪くなった。
私の世界は、あの時から壊れたままだった。
中学三年生になった春。私は驚愕した。
相手は気付いていなかったが、かつてお姉ちゃんが「お兄ちゃん」と呼んでいた人が、私のクラスの担任として現れたからだ。
私の胸は高鳴り、鼓動は抑えきれないほど速くなり、頭に血が上り、呼吸が早くなった。
それは、再開出来た喜びであるとか、ましてや、恋などといった可愛らしい感情によるものでは無かった。
私の胸には、純粋な驚き、なぜお姉ちゃんを救えなかったのかという事へ対する憎しみ、悲しみ、
そういった感情に対する自己嫌悪、それに誘発されるようにして思い出す、あの冬の記憶、
そういったものが渦巻き、灰色の螺旋を成し、私の心を掻き乱した。
私は、極めて冷静に見えるように努め、動揺を悟られぬよう、自己紹介をした。
私は、この先生に対して、同じクラスの他の生徒達と比べて、
やや違った意味で、冷ややかな目で動向を注目していた。
お姉ちゃんが一番頼りにしていた先生。
なのに、一番大事なところでお姉ちゃんを救えなかった先生。
私は、表面上では真面目な委員長を演じつつも、本心では、どの程度なのか見極めようとしていた。
そして、そんな穿った考え方は、すぐに打ち砕かれる事となった。
着任して早々、引きこもって学校に来ようとしなかった桧山太陽君を登校させた。
他の先生はすでに諦めていて、顔をすぐには思い出せない先生すらいたというのに。
同様に、放火魔の疑いがかけられていた美咲も救った。
修学旅行では、不良どもに連れ去られた美咲を救い出し、
更には、警察に連れて行かれた銀平すらも、無実の罪を信じ続け、留置所から救い出した。
この修学旅行以来、あの厳しい学力至上主義で有名な高峰先生の態度が、
幾分、軟化したように見えるのも、あの先生のおかげだろうか。
その他にも、数え切れないほどの事件を解決し、その度にクラスの結束は高まり、
生徒達も先生への信頼を隠さないようになっていた。
信じられなかったのは、先生は事件に巻き込まれる度、自分のクビが飛びかねないような真似ばかりしていたという事だ。
初めは先生の行動を鬱陶しく思い、そうした事件が起こる度に、先生にクビをちらつかせていた教頭達も、次第に口を挟まなくなってきていた。
私は、最初の自分の態度を恥じた。この人は、本気で生徒の事を考え、生徒のために行動出来る人だ。
私も、気がつけばこの先生を完全に信頼していた。
しかし、先生への信頼が募るにつれて、それと比例して、ある疑問が、抑えようの無いほど大きくなっていった。
「何で、この先生は、お姉ちゃんを救えなかったのだろう」
それは、決して消える事なく、常に心で渦巻いていた疑問だった。
私は、冬、先生を連れ出した。父へのプレゼントを見て欲しい、という名目で。
もちろん、半分は本当だが、半分は、先生と話したい事があったからだ。
先生は、多分、私と同じで、お姉ちゃんの記憶を心の奥底に沈めてしまっている。そ
れも、私より、強く。
私は、これから起こす行動が、先生を傷つけるに違いないと考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
でも、私はもう心の疑問を抑えきれなくなっていた。
買い物自体は凄く楽しかった。途中でウチのクラスの生徒何人かに見つかり(銀平にも!)、その度に「デート?」と囃し立てられた。
必死に否定しつつも、どこかでその問いかけに心地よさを感じている自分がいるのを発見した時は、顔が真っ赤になった。
楽しいと感じられなかったのは、二回だけだ。一回は、最初に入るお店を選んでいた時。
そこで、私は、先生の悲しい記憶を、無理やり引き出してしまった。私は、こう言った。
「あの・・・先生、って呼ぶの、やっぱりおかしいですから、今日だけは・・・お兄ちゃん、って呼んでいいですか?」
あの時の先生の顔は忘れられない。
私は、こんな直接的な方法で先生の記憶を引きずり出そうとした、自分の軽率さを恥じた。
動揺を必死に隠そうとしつつも、閃光のように記憶がフラッシュバックしているのであろう、
それを隠し切れず、衝撃で膝が僅かに笑ってしまい、少しだけよろめきながら、曖昧に頷く、先生の顔。
本当に悪い事をしてしまった。
二回目は、夕暮れ時、土手で先生と話していた時。
この時は、先生だけではなく、私も悲しくなった。
先生と話している内に、段々とあの頃の記憶が蘇ってくる。
先生は、私の事を知らないだろうが、恐らく、思い出している光景は同じだろう。
太陽が地平線に沈んでいくのを、悲しげに見つめていた先生。
先生も、何年間も苦しんできた。私は、これ以上話すのをやめた。
こういう事は、もっとゆっくりと解決していかなくてはならない。学校を卒業してしまったら、先生と会える時間は減ってしまうだろうが、構わない。
先生も私も、完全に受け止められるようになるまで、膨大な時間がかかってしまうだろう。
でも、それからでも遅くない。その時こそ、二人でこの事実に向き合おう。
そう思い、私は腰を上げ、スカートについた草を払った。
しかし、そんな考えは、三学期に入ってから、一人の人物によって否定される。
私は、壇上に立ち、自分なりの芸術論を展開してる一人の男を、憎しみを込めた目で見つめていた。
桐谷。アイツがこの学校にやってきたのだ。
それからの事は、多くは語らないが、まるで悪夢のような時間が流れた。
美咲の桐谷に対する態度。高峰先生の失脚。得体の知れない真学受験会。
美咲の二度に及ぶ自殺未遂。桐谷の目的。約束。絵。お姉ちゃん。そして・・・・・。
私は今、お姉ちゃんと同じ姿で、お姉ちゃんと同じ場所に立っている。
下では生徒達が悲鳴を上げ、教師達が必死に説得している。
私は、そんな外野の声を無視し、今、美咲にメールを打っている。思いを残さないように。美咲には、幸せになってもらいたいから。
そして、ありったけの謝罪と、ありったけの感謝を込めて、送信した。これで、やり残した事は無い。
私は、大きく息を吸い込み、空を見上げた。たぶん、お姉ちゃんが見た空と同じ空だと思う。
白と、青。それ以外存在しない、悲しく思えるほど澄み切っている空。
私は深呼吸し、肺まで清めていると思えるほど鮮烈な空気を吸い込むと、
ゆっくりと吐き出し、横を向き、別の棟の校舎の屋上にいる、一人の男を眺める。
桐谷。ここからではその表情は定かではないが、恐らく、今から見れる光景に、目を輝かせているのだろう。
だが、怒りは無い。むしろ、私で終わらせる事が出来るという、妙な使命感と安堵感に包まれ、心地よいと思えるほどだった。
先生達が階段を駆け上ってくる音が聞こえる。
もう迷ってる暇は無い。私は息を止め、その一歩を踏み出そうとした。その時。
「ヒカル!」
私は思わず足を止め、振り返った。先生だ。
「やめるんだ!ヒカル!」
私は涙が込み上げてきそうになるのを堪えながら、先生に言う。
「もう疲れちゃった・・・。私で、終わりにするの・・・」
先生は、じっと私を見つめている。強迫観念とも思えるような、先生特有の、あの使命感と優しさに満ちた、目で。
「さよなら・・・・」
私は先生に背を向け、決意が揺るがないようにした。
すると、背後から、先生の何かを読み上げるような声が聞こえてくる。
一瞬、戸惑い、耳を傾けてみると、それは、何と、お姉ちゃんの日記だった。
私は驚き、先生の方へ振り返る。先生が手に持っているのは、間違いなくお姉ちゃんの日記で、
私はなぜ先生がそんなものを持っているのか分からなかったが、私は自然と先生の声に耳を傾けていた。
お姉ちゃんが私へと書き残したらしいメッセージを全部読み終わった時、先生は泣いていた。私も泣いていた。
私の心の中で、お姉ちゃんに対する、ありとあらゆる感情が生まれ、駆け巡り、衝突し、弾けた。
喜び、悲しみ、怒り、そういった言葉では表せないような、複雑だが単純な、暖かい気持ちが、
私の心を満たし、私の頬を自然と涙が伝っていた。
そんなの、お姉ちゃんに言われたくない。お姉ちゃんが言っても、全然説得力ない。
そう口に出すと、また涙が溢れた。
桐谷の方を向き、独り言のように呟く。
私は絶望なんかしていない。あんたの思い通りにはならない。
そう言うと、先生がフェンスを乗り越え、私の傍に降りてきた。
私は先生に抱きつき、先生の胸の中でまた泣いた。
先生は私を強く抱きしめ、何も言わずに、私の頭を撫でていた。
どこかで、お姉ちゃんの声がした気がした。
その後、とある事故で桐谷は入院した。
どうやら命に別状は無かったらしいが、その事に対して、安心感を抱いている自分がいるのに驚いた。
私と先生が御見舞いに行った時、桐谷は全部話した。
桐谷の子供の頃。事故で亡くなった、桐谷の姉。その事故から生まれた、表現衝動。
真学受験会との繋がり。お姉ちゃんとの出会い。そして、お姉ちゃんと桐谷は、多分愛し合っていた、という事。
私は、それらの話を、自分でも驚くほど冷静に聞いていた。
納得は出来ない。今でも桐谷の事は許せない。お姉ちゃんは、馬鹿だったと思う。
でも、それを責める事は出来なかった。お姉ちゃんと桐谷は、多分、方法が間違っていただけで、
二人の間には、嘘は無かったんだろう。そして、それは最も重要な事実なんだと思う。
先生も、穏やかな様子で桐谷の話に耳を傾けていた。
それからは、再び受験やら何やらで大忙しだった。
真学受験会は摘発され、この街から消えた。りん子先生を刺した犯人も捕まった。
美咲は、私に何度も泣きながら「ごめんね、ごめんね」と謝って、
その姿を見てると、こっちも泣けてくるほどだった。
高峰先生が、美咲の心を解きほぐしてあげたらしく、高峰先生にもしきりに感謝していた。
高峰先生も、もうすぐ職場に復帰出来るらしい。もう大丈夫だろう。
私は、何とかこのゴタゴタでの遅れを取り戻し、志望校に合格する事が出来た。
美咲も、太陽君と同じ高校に行けない事は気にしてたが、合格した。あの二人は、いつまでも繋がりは切れない気がする。
他のみんなも、試験の結果に一喜一憂したり、就職先での意気込みを見せたりしてた。そして・・・・・・・・。
卒業式からしばらく経った。私はサクラ中学の屋上で、空を見上げている。
お姉ちゃんがいなくなってから、私の世界は壊れたままだと思っていた。それは、もう決して修復出来ずに、
私の心に大きな傷を残したまま、絶望を抱え込んだまま、進むしかないんだと思っていた。
だけど、それは多分間違っていて、壊れたら、その壊れたという事実を受け止め、良い思い出も、悲しい思い出も、
全部抱え込んだまま、また作り直す事が出来るんだって、思った。
そして、それは、一人では決して出来ない事で、友達や、恋人や、家族や、そういった大事な人達と、
ゆっくりと作り上げていくものなんだな、という事を、この一年で、思い知らされた気がする。
そして、多分、それを希望と呼ぶんだろう。
それを成し遂げる為のきっかけっていうのは、人によって様々だろうけど、
私にとっては、それがたまたま先生だったという事だ。
下を見ると、もう他の学年も春休みに入ったせいか、教室や中庭に生徒の姿は無く、校庭で部活をしている生徒しか見られない。
私は、今から起こるであろう出来事に緊張していた。
今日、私は、先生を呼び出した。
私の中学生としての学生生活にも色々あったが、それらは全て起こるべくして起こった事だと思うし、
自分がそういった事件に巻き込まれたのも、全く悔いは無い。
ただ、一つだけ悔いがあるとすれば、それは、ある人に、伝えるべき事を、きちんと伝えていなかった事だ。
本当は卒業式に、面と向かって伝えるつもりだったのだが、その時はみんなが泣いたり笑ったり、
写真を撮ったりサインの寄せ書きを頼んだりで、とても伝えるような雰囲気では無かったし、
それ以後も、高校への入学の準備などで色々忙しくしていたので、今日まで時間が作れなかった。
生徒はもう春休みとはいえ、先生達はまだこれから新入生や、
新学年のクラスの編成の準備などで色々と忙しくしているので、まだ学校で作業をしている。
それは、代理で来たウチのクラスの先生といえども、例外ではない。
このまま私が高校に行きだしたら、先生とは滅多に会えなくなるかもしれないし、
そもそも、先生が違う学校に行ってしまったりしたら、二度と会えなくなってしまう可能性だってある。
電話で伝えるのなんて、余りにも情緒に欠ける。
だから、今日、伝えなくてはならない。絶対に。
私は気を落ち着かせる為に、深呼吸をする。
あの時とは違う。いくら空気を吸い込んでも、胸の昂ぶりは一向に収まらない。
それに、ちょっと肌寒くなってきた。春先とはいえ、まだ屋外の風は冷たい。
それでも、私はこの場所で先生に伝えなくてはならない。
先生が、絶望から私を解き放ってくれた、この場所で。
後ろのドアノブがガチャッと回り、驚きの余り思わず身体が飛び跳ねる。
もう心臓は破裂しそうなくらい鼓動を早め、喉はカラカラに渇き、手と足は小刻みに震えている。
ゆっくりと振り返ると、そこには先生がいた。
いつもと変わらない、優しい目で。
今から伝える事は、成功率が目に見えて低い。万が一にも成功しないかもしれない。
でも、私は伝えなくてはならない。悔いを残さない為に。
先生は、髪を下ろし、眼鏡を外している私を見て、こう言った。
「ヒカル?」
私はもう一度だけ深呼吸をし、手をギュッと握り、言う。
「・・・・・先生!」
私が立っている、この場所から、全てが始まる。