腐れ谷の要石をくぐった彼女は、その場に座り込んだ。後悔と同等の悲しみが彼女を覆い、泣き崩れた。  
どれくらい経ったか分からなくなった時、彼女は立ち上がる。だが、歩みは谷奥に進むものではなかった。  
“私は、汚れてしまった。もう、取り戻せない…。だったら、汚れた物を捨てればいい。こんな物…”  
彼女はただ、前に進んだ。足場が無くなり前へ進む事が出来なくとも、前へと進んだ。その体は、目の前の谷底へと落ちていく。  
だが、死ねぬ体。楔に繋ぎ留められたその身は、要石へと戻されていた。それでも彼女は歩みを止めない。  
死ねぬ体と知りながらも、腐れ落ちた物が流れ落ちる谷底へと身を投げ続けた。彼女の思考は後悔の渦に飲まれ、止まっていた。  
その意をただ、前方へと進む体が従うだけであった。  
彼女の止まった思考を再び戻したのは、その意に従い続けた体が止まった時だった。  
何かが引っかかったように後方へ引き戻され、つんのめる。何が引っかかったのかと、後方へ視線を戻した時だった。  
「ブラムド…」  
いつもブラムドを背中に背負う時に使用していた紐がほどけ、要石を繋ぎ留める剣の柄に引っかかっていた。  
それが、彼女の体を前方に進めぬようにしていた。彼女の思考は、急激に戻ってくる。  
手放したはずであった、ブラムド。何故か、彼女の身に戻ってきていた。  
確かに彼女は自決用の短刀を握っていた。だが、蒸発する際に手放した気もする。その時、無意識にブラムドを握っていたのか。  
手放したとしても、彼女はブラムドを投げ捨てたわけではなかった。ただ、足元に置いただけ。  
そして何処を探しても、あるはずの短刀が無かった。  
だが、それがどうして彼女の手にあるか戻ってきたのか、その事実よりも、彼女はブラムドの存在そのものが有り難かった。  
彼女は手放したブラムドを、抱きしめる。そして、枯れかけた涙が再び溢れた。  
「私はあなたを殺したのに、あなたは私を助けてくれるんだね」  
その悲しみは、励ましとなる。彼女自身の思い込みかもしれないが、有り得ない存在に自身の境遇が重なったのだろうか。  
勘違いでもいい。偶然でもいい。それが、奇跡であることに違いは無いのだ。  
「ありがとう、ガルさん。アストラエアさん」  
二人に対しての罪悪感も、同時に戻ってくる。たとえ己が朽ち果てたとしても、それは拭えぬものなのだ。  
 
「私はデモンズスレイヤー。それを忘れたら、いけない」  
彼女は立ち上がる。そして、前方ではなく斜め前を上に登る板へと視線を移した。  
「必ず、お姉さんに伝える。そうよ。そのために此処に来たんだから!!」  
と、固く誓った。  
「っと、ちょっと待ってよ?えっと、ヴィンランドの紋章?だっけ。あれ、どこやったっけ!丸い銀貨みたいな奴!!」  
同時に彼女らしさも取り戻したようだ。腰にぶら下げていた荷物は背中に回っていたが、中身は変わらずあった。  
彼女は心底安堵した。そして彼女の歩みは今度こそ、谷奥へと進んだ。  
 
「さすがにこの格好はダメよねぇ…」  
歩みを進めてすぐ彼女は自身の姿を再度確かめ、ため息を大きく吐いた。下着は上も下も剥ぎ取られて無くなっていた。  
彼女は一度ぼろ布の服を脱いだ。それだけで、全裸である。ぼろ布の服は服とは呼べぬほど引き裂かれていた。  
だが、一枚の布としてはかなりの大きさを保っていたので、それを体に巻きつけ、とりあえず胸と股下だけは隠した。  
「膝上20cmの超ミニスカートと思えば、どおってこと無いわよ」  
と、いったものの、すこしでも身を屈めさせば、尻丸出しになるくらいだ。  
「うん。大丈夫大丈夫。此処の人たちは、アストラエア様一筋だもん。私の貧尻なんて、見向きもしないわ」  
彼女が言うように、目の前の者たちは彼女の命を奪おうと襲って来た。彼女は軽快にブラムドを振るっては奥に進んだ。  
「アストラエアさんが、超美人でよかった〜。もし少しでも私の方が上だったら、こうはいかなかったかも?ってねー!」  
ブラムドに叩き伏せられ、ソウルの抜け殻となった巨大腐敗人を見て、彼女はそう言った。  
「こんな格好でも、皆私に見向きもしないんだもん」  
と、言った直後、大きく笑う。  
「逆に迫られたら絶対アウトでしょ!無理だって!まだ、さっきの真ん中分けヘヤーの親父の方がマシ!つうか、よくよく思い  
出したら、あのオヤジもそこそこイケメンじゃない?な〜んてね!あはははは!!!」  
大声で笑ってはいるが、涙は零れ落ちる。だが、その涙におぼれる事はなかった。もう、進むべき前を見ているのだから。  
 
「あ〜、あの青。肝心な、姉さんの居場所を教えてくれてないじゃん。腐れ谷って迷うんだよ」  
しばらく谷奥を進んでいた彼女は、ようやく重大事項を思い出した。でも、この格好である。今更神殿に戻ることもできない。  
彼女は仕方なく、しらみつぶしに谷をさまよった。道中、透き通る大剣と黄金色の槍を見つけたが、一向に女性は見えない。  
「そうだ。物売りのおばさんに聞いてみようかな」  
彼女はさらに、谷奥へと進んで行った。  
 
「おや、ずいぶんな腐れ谷スタイルじゃないかい」  
彼女を見つけた物売りの女性が、皮肉ったか正直にか、そう言って彼女を見上げていた。  
ちょうど新しい物を仕入れた所なのだろう。僅かではなるが、女性の周りに荷物が置いてあった。  
「そうそう、あんた。あの胸クソ悪い女を退治してくれたんだって?有り難いねぇ。ようやく此処も活気を取り戻せそうだよ」  
女性の言う胸クソ悪い女という単語は、彼女はできる限りの冷静さで、何とか聞き逃した。  
それができたのも、女性が言った活気という一言。それだけじゃない。有り難い。確かに女性はそう言ったのだ。  
それは、自身が取った行動が、初めて誰かに認められた瞬間だろうか。彼女は、活気を取り戻すのが何よりもうれしく思った。  
「この子のためにも、た〜んまりソウル持ってきてくれたんだろうねぇ?」  
さっそく女性は、彼女への礼も早々に荷物を並べ始めた。その時彼女に、ふと疑問が湧く。  
「そう言えばおばさん。この子って、誰?」  
女性が時折この子と言っていた子。今までは先に進む事で気に留めていなかったが、今となって気になった。  
「なんだい。さっきから、そこで寝ているだろう?」  
彼女は指差す女性の指先に、視線を移した。そこには、決して子供とは言えない、否、正確に人とは言えないモノが、あった。  
「この子は病気がちでねぇ。だから、たくさんのソウルが必要なんだよ」  
女性の指先の方へと、彼女は視線だけでなくその身も近づけた。それが何か確かめるために。  
そこには、自分より年上の、女性が横たわっていた。彼女は、声を上げそうになったが、必死に両手で口を押さえた。  
口を押さえた分、小さくなった声でささやく。  
 
「死んでる…」  
その声は、他には聞こえないほどに小さい。だが、彼女にとってそれは悲しみとは違う感情を抱かせた。  
その遺体は、おそらくは母であろう女性がソウルを捧げ続けた甲斐あってか、今まで見てきた遺体のどれよりも、綺麗であった。  
「綺麗な人だね」  
彼女は横たわる女性の頬に触れながら、言った。  
「そうだろう、そうだろう?私の若い頃に似て、美人なんだよぉ」  
女性の声色は、この上ないくらいに上機嫌になった。  
「あんたは、分かる人だねぇ。あの胸クソ悪い女よりもよっぽどあんたの方が聖女だよ。まったく、あの女には参ったものさ」  
女性はここぞとばかりに、聖女への憎み口を言ったが、彼女にはその言葉はもう悪いものとは受けとられなかった。  
それだけじゃない。女性がしている事が、彼女にとってプラスになることではなかとさえ、感じたのだ。  
「おばさん。この子、絶対元気になるよね!」  
彼女は女性を真剣に見つめた。女性はその意までは汲み取れないだろう。  
「当たり前さ。あんたが、た〜んまりソウルをくれたらねぇ?」  
そこは商売人である。女性は手のひらを彼女に差し出して、そう言った。彼女は女性の手を握る。  
「元気になったら絶対教えてね!お友達になりたいの!」  
彼女は、真剣だった。彼女には、一筋の光すら見えたのだ。死体が生き返るなど有り得ない。だがもし、それが有り得たなら。  
そう思うだけでも、彼女は今までの自身の不遇など、吹き飛んでしまうだろう。それは、希望にすら感じた。  
「そうかい!そりゃ、大歓迎だよ。でも、この子があんたの腐れ谷スタイル真似しなきゃ、いいけどねぇ。あははは!」  
そう答えた女性は、本当にうれしそうに笑った。彼女は女性の笑顔を見て、涙がこみ上げる衝動に駆られた。  
だが、押さえ込む。女性のうれしそうな笑顔の妨げになりそうだからだ。  
彼女は一度大きく息を吐いて心を落ち着かせると、女性の周りにある荷物を見た。  
「じゃあ、せっかくなので!何か貰おうかな」  
彼女の明るい声に女性は、さっそくとばかりに荷物を広げた。その中に、今彼女にとって必要な逸品があった。  
 
「コレ!!コレ欲しい!!」  
それは、ハードレーザーブーツ。ブーツではあるが、腰から下を大きく覆って下半身全体を保護する形になっている。  
彼女は早速はいてみた。すっぽりと入る。少し大きめではあったが、所々にあるベルトのような物で多少の調整ができた。  
「それだけかい?もっとあるよ」  
と、自慢げに見せた女性の手にはチェーンメイルがある。それと同じくチェーンヘルムもあった。  
「う〜ん、欲しいところだけど…。懐がねぇ…」  
彼女は申し訳なさそうに言った。それもそうである。今まで溜め込んでいたソウルは、自身の血痕と供に嵐に残して来たのだ。  
それだけでない。もし、彼女が腐れ谷をくまなく歩いていなかったら、レーザーブーツでさえ、買えなかったかもしれない。  
「ケッ。この子の友達だって?貧乏人には用は無いよ!帰んな!」  
女性の口調はいつもどおりに戻ったが、彼女にはそれが女性の普通なのだろうと受け取れた。彼女は笑いながら、衣服を整えた。  
再びぼろ布を脱ぎ、上半身に巻き直す。下半身が隠せた分布に余裕ができ、上下ともすっかり隠せるようになった。  
「おいおい、あんた。いくら腐れ谷だからって、女の子がそうそう裸になるもんじゃないよ?もう、あの女はいないんだよ?」  
彼女の姿があまりに貧相だったからだろうか、不憫にも見えたのだろうか。女性が、彼女を気遣うような言葉を言った。  
「そうだ。あんた、此処に来る途中に出会った、金持ちな女から防具の一つでも貰ったらどうだね」  
「金持ちの女性?」  
彼女は驚いて、女性に問う。女性はふんと鼻を鳴らして、言った。  
「店の場所移動をしようとした時だったよ。金色の鎧を着た女が、あの胸クソ悪い女とイカを探しに来たんだよ。何でも、あの  
二人を止めに来たとかなんとか。でもあんたが知らないってなら、金ぴかの鎧が重過ぎて、橋から落っこちたんじゃないかねぇ」  
そう聞いた直後、彼女は踵を返していた。  
「ありがとう!おばさん!!」  
そして一度だけ振り返り、お礼を言うと、すぐさま元来た場所へと走り出した。  
「今度は、たんまりソウル、持っておいでよ!!」  
女性の声に、彼女は手だけ振って答えた。  
 
“此処に来るには、細い板橋を通って来たんだった。鎧を着ていたなら、あんな細い板橋から足を滑らす事だってあり得る!”  
彼女は早足に向かう。細い板橋の所まで来た時、彼女は板橋に沿って沼地を歩み出した。  
彼女は精一杯走った。だが沼地である。中々早くは行けないもどかしさの中、目の前にロウソクの灯火ほどの明かりが見えた。  
彼女は闇雲に走るのは良くないと思い、一度明るい所まで行き進路を確認しようと、その明かりの下へと近づいた。  
近づくにつれ、ロウソク以外にも何かが揺らめくような明かりがあるのに気付いた。それは、鈍い金色に輝く鎧であった。  
歩みを進める中、彼女の中で葛藤が始まる。言うべきか、言わぬべきか。答えは決まっているのにだ。  
それでも彼女は、金色の鎧を目の前に映した。だが、言い出せないでいた。  
女性の方から、話しかけてきた。女性の名は、セレン・ヴィンランド。青が言ったとおり、ガル・ヴィンランドの姉であった。  
二人を探しているという事であったが、彼女が震える手で握っていた丸い小さな銀貨を見るなり、その存在を彼女に問うた。  
彼女は言葉につまったが、一つ一つ言った。事実を、述べた。自身が、聖女と彼女の弟を手にかけた事を。  
本来なら、当然のごとく彼女の罪を攻める言葉を、言われたであろう。だが、セレンが言った言葉は違っていた。  
それは、彼女を気遣うようにも聞き取れた。それだけでない。純粋すぎた、二人。そして、自身の弟には不肖とさえ、言った。  
セレンがそう言うにあたった経緯こそ知る事はできぬが、彼女には解せなかった。どうしても、聞き入れ難かった。  
そう、まるで『殺されても仕方ない』とまで、言っているようにも彼女には捉えられたのだ。  
「不肖なんかじゃ、ないわ!」  
彼女はとっさに、そう言った。どうしても、納得がいかなかったのだ。彼女は背負っていたブラムドを、セレンに見せた。  
「この武器、見てよ!こんなに大きな武器を振り回せる相手が、私みたいな貧相な、しかも女よ!貧弱な女に負けると思う?!」  
本来なら、姉が叫ぶはずの言葉であったかもしれない。それでも、彼女は言った。言わずには、いられなかった。  
「私、デーモンと戦ってきたの。どのデーモンも、私を逃がすような事しなかったわ。でも、ガルさんは違ったの。全く、動か  
なかった。聖女もガルさんが死んだって分かったら、自害したわ。もし本気で戦っていたら、きっと。私は此処に居ない」  
彼女はブラムドを足元に置き、セレンを抱きしめた。そして震える声でささやく。  
「本当に、ごめんなさい。本当は、戦いたくなかった…」  
セレンは、抱きしめられた彼女の背に両腕を回した。  
 
「確かにあなたは、弟を殺したかもしれません。ですが、同時に私を。不肖の姉を救ったのです」  
セレンは、回した腕を彼女の両肩に持って行くと、そっと己から離す。  
「謝るのは、私の方なのです。弟を止める事ができなかった。全ては、そこが原因。だからどうか、前を向いてください」  
そして流れ落ちる涙を払わずに、彼女に笑顔を湛えた。その優しい笑顔が、彼女の救いとなるであろう。  
「コレを。せめてもの、お礼です」  
セレンは彼女に指輪を渡した。彼女は、受け取る。奇跡を使わない彼女には必要ないだろうが、それは大切な宝物となるだろう。  
 
 
 
谷の要石の前で立ち尽くすオストラヴァを、兵糧を受け取り自身の定位置に戻ろうとしたビヨールが見つけた。  
普段なら通路に腰掛けているはずの彼だが、今はただ、石碑の前で立ち尽くしていたのだ。何があったのかと声をかけようと  
したが、彼の体が震えているのが見えた。それを見たビヨールは声をかけず、ゆっくりとオストラヴァに近づいた。  
「強く、なりたい…。彼女を…救えるくらい…に、つよく…」  
震える声で小さく繰り返す彼に、ビヨールは何かがあったと察した。オストラヴァの言葉から、彼女の身に何かあったであろう  
事も、想像するに容易い。だが立ち尽くすオストラヴァの姿を見るからに、その事実を詮索せぬ方が良いと悟った。  
それでも、そのまま放っておけるほど、ビヨールは無神経ではいられなかった。  
「強くなりたいのなら、まずは己を鍛える事から始めてはどうかな」  
ビヨールはオストラヴァに声をかけ、剣を抜いた。オストラヴァは、はっと我に返ったようにビヨールに向き直った。  
直後、ビヨールはオストラヴァに剣を振り上げた。だが、振り上げただけで振り下ろしはしない。  
「少々手荒いが、わしでよければ手合わせいたそう」  
オストラヴァは、ビヨールの言葉に大きくうなずき、ビヨールが振り上げた剣に向かって自身の剣を合わせて言った。  
「よろしく、お願いします」  
その後しばらくの間、楔の神殿に硬い金属音が鳴り響いた。  
 
 
 

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